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なすところをしらざればなりFOR I KNOW NOT WHAT I DO 

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その横顔を見つめてしまう

   ↑  2010/04/30 (金)  カテゴリー: 未分類

その横顔を見つめてしまう ~A Profile~ 完全版その横顔を見つめてしまう ~A Profile~ 完全版
(2006/03/24)
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これもまた感想書いてなかったので、少し。

というか、なんという主人公……!

非常に出来が良いんですけど、尋常じゃないほど主人公にムカつきます。が、主人公がこういう奴じゃないとそもそも「このお話」が成り立たないので、そこを否定できる筈がない。

タイトルはある意味では事後、つまり作中は「その横顔を見つめて”いない”」。そんな主人公が「その横顔を見つめる」までのお話。主人公くんは、実質「自分が思っているソレ」しか見つめていないわけです。ちゃんと見ていない。たとえば、自分が知らない――知りたくない――ソイツの一面の憶測話なんかは驚異的に拒絶するし、自分が知らないソイツの一面なんかは考えもしない。もちろんライターさんは分かりきって書かれているでしょう。美桜シナリオなんかは決定的ですね。「美桜を信じる」という選択肢を選び続けるのが正解で、主人公くんも根拠を通り越して一心不乱に美桜を信じ続けているわけですが、しかしそれは、もはや美桜を信じているんじゃなくて、「自分の中の美桜」を信じているだけじゃねーか、と。しかしその横顔をやがて見つめる立場の主人公くんに出来る最大限のことがそれなのだろう、と折り合いつけざるをえません。
自分の中だけで常に終わっている。彼女たちが「いつもと違う一面」を見せると、主人公くんが「こいつは誰なんだ」と言ってしまうほど。驚異的に見ていない。自分の中の”彼女”しか見ていない。横顔も何顔もまったく見ていない。そんな彼にヒロインたちが「私を見て」と訴えかけて、そして彼もその横顔を見つめる―――とかそんな感じ。

元は同人ゲームですが、そういう瑕疵を消し去った上で良い出来のお話を作れた後の「G線」とかと比べると、これはこれでやっぱり同人っぽいのかもしれません。

(記事編集) http://nasutoko.blog83.fc2.com/blog-entry-89.html

2010/04/30 | Comment (0) | Trackback (0) | HOME | ↑ ページ先頭へ |

アンバークォーツ

   ↑  2010/04/29 (木)  カテゴリー: 未分類

アンバークォーツ 初回版アンバークォーツ 初回版
(2009/01/23)
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感想書いてなかったので、軽く。

「尿」です。

以上です。

尿!尿! 以上です。


しかしプレイから時間がたった今の自分の記憶に一番残っているのが「尿」とはナニゴト……。以下ネタバレですが、

お話は、「象徴的な借りは必ず返さなくてはならない」とでも言った感じで。7年前の記憶にフタをする、7年前の自分を切り離す、そうやって生きてきたけれど、そうやって”生き続けることはできない”―――少なくとも、それを見据えなくては、前に進むことはできない。
しかしまあ、隠喩でも比喩でも精神世界でもなく、「本当に7年前の自分が(今の自分とは別の存在として)現実世界に出現して今の自分とバトルする」、というのがこのゲームのスタンスであり、センスでもあるのでしょう、良くも悪くも。それに代表されるように、ある意味真っ直ぐというか、直接的なんですね。たとえば、通常エロシーンにおけるエロ表現(フェチ描写)の一つでしかない「尿」だって、キャラクターの性格・アイデンティティー的なものに多少なりとも絡ませて描いている。KOTYエロゲ版で多少話題になった、あの謎センスとかもそうですね。良くも悪くも衒いがない。バトルものなのに、中二臭がまったくしないことなんかも、その辺に当てはまるでしょう。衒いがない・虚飾が無い(あるいは真っ直ぐなソレしかない)ぶん等身大だから、中二臭がしない。
この辺のストレートっぷり。これは評価が分かれるところかもしれませんが、奇を衒ってない分一本調子ではあるんだけど、逆に一点集中による「過剰」が生み出されてもいるでしょう。本来エロシーンにおいて、過剰が故にフェティズムに回収されるべき「尿」が、キャラクターに回収されている=つまり過剰ではない、なんかは象徴的でして、逆に「尿」を作品内に回収しきってしまうという過剰が存在している。ただし、回収先は全て「作品そのもの」に向かっています。だからまあ、これほどエロいのに魅力のない尿というのも珍しい話であって。この辺は面白いのですが、しかしそういったゲームなので、合う人にはすごく合うけど、合わない人には全然合わないんじゃないかなーとも思えたりします。

(記事編集) http://nasutoko.blog83.fc2.com/blog-entry-88.html

2010/04/29 | Comment (0) | Trackback (0) | HOME | ↑ ページ先頭へ |

月は東に日は西に――カラの玉座に王は立つ(その1)

   ↑  2010/03/26 (金)  カテゴリー: 未分類

月は東に日は西に ~Operation Sanctuary~ 通常版月は東に日は西に ~Operation Sanctuary~ 通常版
(2003/09/26)
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『月は東に日は西に』、ちょっと前にクリアー。オーガストのゲームをやるのは初めてだったんですが、たしかにこれは人気が出るのも頷ける良さでした。

「月は東に日は西に」というのは、字面どおりに読めば「夕暮れ」ですね。その「夕暮れ」に対し、直截的に言及している数少ない(唯一かも)本編でのセリフ。
美琴 「わたしがいた世界では、夕暮れは怖いものだったの」
直樹 「怖い?」
美琴 「次々と人が死んでいくのを、毎日見ていると……」
美琴 「わたしは、また明日太陽が見られるのかなって不安になってたっけ」
美琴 「……これが、太陽も見納めなんじゃないかって」
暗いことや悲しいこと、不安なことも、「Operation Sanctuary」――それぞれの聖域を見つけていくことで、変わっていく。そんな感じで非常に良く出来ていましたね。どのお話も、永遠の別れ(になるかも)という障壁がラストに入っていて、しかしそれに立ち向かい乗り越えるという作戦を経て、その聖域に至る――そもそも、そこに向き合う強さを持てるイマそのものが、既に、聖域である。

とかなんとか。いやすみません、久しぶりにブログ書くので文章全然書けない。

今作の共通パートはちょっと特徴的でして(といっても、2010年の今から見たらそう思える、なのかもしれませんが)。非常に場面移動・場所移動が多くて、しかも速いんですね。そしてそれに伴う選択肢も非常に多い(個別ルートに入るまでに50回くらいは選択肢があるのではないでしょうか)。つまり、「どこへ行く?」などを選択肢で選ばされて、その先には誰かしらのヒロインが居て、そこでちょっと会話を交わした後にはまたすぐ教室なりの他の場所に移り、そしてまた選択肢により場面が変わっていったりする。ここで重要なのは、その「多さ」と、1シークエンスの(時間の)「速さ」、そして言い方は悪いですが、「中身の非重要性」です。
まずは選択肢の多さと、それに伴う――いや、選択肢関係なしにもばんばん起こるのですが――場所と場面の移動。まさに「東奔西走」というキャッチフレーズどおりというか、とにかくあっちこっちに”忙しなく”動き回ります。自分のクラス、カフェテリア、園芸部、保健室、料理部、お昼はさらに屋上なんかも。で、それに対応して各ヒロインが居るわけですねー……ついで重要なのは、決して各ヒロインが単体(ひとり)とは限らないということ。カフェテリアに向かえば、茉莉が居ることが多いのは当たり前ですけど、しかし天文部関係もカフェテリアがメインだし、ちひろや唯先生や恭子先生なんかもそれなりの頻度で登場する。そしてそれが、ひとりではなく複数――つまり、茉莉とちひろ、美琴と保奈美、など複数人がそこに居たり現われたりするということ。一人しかいない場合と複数人絡む場合、割合的には五分五分に近いのではないでしょうか。それらが、選択肢無しでも起こりますが、主に選択肢アリで、主人公がそこに導かれたり(=プレイヤーが主人公をそこに導いたり)します。
で、それらのシークエンス自体は、基本的にコンパクトに纏められています。つまり「速い」ということ。数クリックで終わるってほど速いわけではありませんが、起承転結付けた話が毎回展開されるほどに長いわけではない(勿論そういうのもありますが)。基本的には、次から次へと場所を選んで(=場面を選んで)、そこでヒロインたちをちょっと見て会話して、また次の場所(場面)を選んで……という流れ。
そこで展開される話は、感動でも小話でもなく、また最初の方を抜かすと、後半までは伏線らしい伏線が殆どなく(※ネタを知らなきゃ(最初のプレイでは)気づかないくらいの薄い伏線)、つまり言葉悪いですが中身が無いくらいの、物語においてそこまで重要ではなく、ただヒロインたちと(ヒロインたちが)お喋りするだけのような、そんな中身。よくオーガストのお話に対して「眠くなる」「睡眠導入」とか云われてますが、ぶっちゃけ、物語・あらすじを見るためなら飛ばしても十分なくらいのシークエンスが多いんですね。だけど、飛ばす気になれない。そこが凄いのですが、それはまたおいおいに回すとして。

で、これって実は『To Heart』(初代)と似てると思いました。場所を選ばせる選択肢が、ゲーム内日付において毎日のように現われて(To Heartではマップ形式でしたが)、そこには対応するヒロインがいて、そこで話が展開されるけど、そこでの話の内容自体は重要ではない、重要なモノではない。むしろ重要なのはその存在である。
――あと、これは唐突ですけど、『あずまんが大王』って『To Heart』に似てませんか?
高橋:そうですね。方法論は似ていると思います。四コマってシチュエーションだけを描いているわけですよね。『To Heart』は基本的にシチュエーションの連続ですから。だから『To Heart』をやるにあたっては四コマが一番良かったと思います。アンソロジーの四コマはどれも良い感じですし。『あずまんが大王』はちょっと悔しい(笑)。あれは『To Heart』でやりたかったことでもありますから。
――『To Heart』の最良の部分はこれなのかと。
高橋:四コマが一番『To Heart』を表現しやすかったと思います。
――コンパクトに表現できているからですか?
高橋:スパッと読めるのが良いんです。『To Heart』なんて本来後を引きずるようなものじゃないんですよ。四コマくらいで、その瞬間がおもしろいものを目指していたわけですから。『To Heart』本編中のどこから読んでもおもしろい、それだけのものでしかないです。あとはキャラクターで突っ走った。まさに『あずまんが』と同じだと思いますけど。
http://www.tinami.com/x/interview/04/page6.html
『To Heart』に対して、作者さん自身が「四コママンガ的だ」と仰っておられましたが、『はにはに』の共通パートも、形は違えどまさにそのような感じ。「四コママンガ」と同じ様に、四コマで一区切りが(とりあえず)付くようなショートエピソード――いや、四コママンガと同じく、エピソードというほど物語的ではなく、引用文でも仰ってるような「シチュエーションの連続」的であって、それが大量に存在している。それへのアクセスは選択肢による移動であり、つまり場所―時間(シチュエーション=出来事)がそれにより区切られ、ゆるい署名が為されている。そのシークエンスの中身自体も、四コママンガと同じく、大半が物語的にさほど重要ではないものばかり――たとえば1個2個飛ばしてしまっても(選択肢選び損なっても)、まるで問題なく物語を理解できる。

つまり、これはこれで『To Heart』の正当後継だな、とか思うワケです。物語的重要性をさほど帯びないシークエンスを、選択制にして大量に用意し、それを参照しながら進んでいく――個別ルートへと入っていく。そして四コママンガと同じく、『To Heart』と同じく、その”物語的に重要ではない”大量のシークエンスこそが「面白い」というカタチ。なぜそれが「面白くなるのか」というと、上述の引用文でも示されているように、
 四コマくらいで、その瞬間がおもしろいものを目指していたわけですから。『To Heart』本編中のどこから読んでもおもしろい、それだけのものでしかないです。あとはキャラクターで突っ走った
キャラクターが非常に良いから。らき☆すただってけいおんだってひだまりスケッチだってそうであり、To Heartだって(はにはにと近い時期に発売されてTo Heartの形式を踏襲している)ダ・カーポだってそうである。

『はにはに』に関しては、作り手が各ヒロインの魅力をホントによく分かっているなぁという感触を受けました。だからこそ突っ走れるほどの魅力をキャラクターに与えきれたのではないだろうか。感触なんで、なんとも書きづらいのですが、だいたいどのヒロインも、最後まで初期(※最初にあらず)の印象どおりなんですね。もちろん多少のプラスアルファ・マイナスアルファは施されるし、出自とか秘めた想いみたいなのも明かされるのだけれど、そのことにより印象が決定的には変わらない。彼女たちの出自が明らかになれば、たとえば美琴の明るさに、彼女が以前に居たところでの暗さの翳を読むことができるし、たとえばちひろの消極性に、彼女が「そうなってしまった」ほどのこれまでの経験の重みを読み取ること・感じ取ることもできるけれども、そこに魅力の軸足は置かれない。……と書いてみたんですが、この辺はすげー個人差ありそうなんで何とも言えないぽいっすね。

そのようなヒロインたちを、先にも書いたように、ひとつのシークエンスに「複数人」で存在させている。ある場所に行ったらあるヒロイン”だけが”いる、というワケではなく、誰々と誰々、さらに他の誰々、といったように複数人いる(※もちろん必ずしもそうではないけど)。ヒロイン同士の関係性が存在していて、それがちゃんと踏まえられていて(※みんながみんな仲の良い友達というワケではなく、ただのクラスメイトレベルとか、知り合いレベルの関係(もちろん可変)、そんな関係性をきちんと踏まえている)、しかもちゃんと描かれている。この辺は他の『To Heart』踏襲ゲーとは少し一線を画すのではないでしょうか。こうして複数人存在させることによって、世界やネタの広がりもさることながら、彼女たちそれぞれの差異が露になり、しかも魅力が十全に描かれているわけですから、それがより強調されるわけです。プレイヤーの視線が彼女らを相対化することによって。だからキャラクターで突っ走れる。

エロゲにおける「日常」というのは、それこそ「To Heart=四コママンガ」よろしくに、ある意味日常系四コママンガにおける「日常」と相同的でないかと思うのですが、『はにはに』の共通パートはこの流れが上手く踏まえられてるのではないでしょうか。ひとつひとつのエピソードにおいては、僅かな例外を伴いつつも、ほとんどの場合において、物語重要性をあまり持たない。(物語的には)1エピソード飛ばしても問題ないし、連載1回分飛ばしても問題ない場合が多いし、あろうことか単行本を1巻読まずに2巻から読み始めても物によっては結構大丈夫だったりする。対し『はにはに』も――『To Heart』に対し高橋龍也さん自身が仰ってるのと同じく――本編中のどこから読んでも面白い、その瞬間が面白いものである、シチュエーションの連続である。たとえば本編に日付表示とかあるけど、これほとんど意味を持ってないんですよね。特定時期の定期イベント(体育祭とか)除くと――それだって細かい日付は恣意的なんだけど――何日だろうと同じじゃん、だってシークエンス自体が「今日が何日だろうと変わりないから」、という。最初期と個別と一部のシークエンスを除けば、シークエンス群はそれまでを無理に踏まえていない。もちろん、そうではない(前々に立てたフラグが重大に作用する)シークエンスもあり、そしてこの形式だからこそ、それがより際立つのですが、しかし基本的には交換可能性が高いシークエンスで出来ている(※その基本をぶち壊すからこそ、”そうではない”(=個別に向かう=恋愛的な)エピソードは、非日常性を帯び強度を持つ)。基本的には、時間・場所に強く、人物・シチュエーション・出来事に弱く、交換可能性がある。それは逆に言えば、どこから読んでも面白い・その瞬間が面白いということです。だから、ぶっちゃけ物語的にはスキップ使っても何も問題ないような話が延々と続くけれども、僕としてはとてもスキップする気にはなれなかったのです。その原動力はシチュエーション自体、またそれの連鎖に牽引されつつ、最大のものとしては当然キャラクターとなるワケです。そこが優れていれば、もはや言う事もないくらい、完璧。

(……で、こうやって書いてたら、『To Heart』系として今最も進化してるのは『シュガスパ』だよな、つうか『シュガスパ』ってそういうゲームとして読めるんだな、ってことに気づいたのですがー(※「”ここでいう”四コママンガ的」という観点からすると)。それはまた別のお話、別の進化ということで、とりあえず他のオーガスト作品も幾つか買ってあるので、のちほどプレイして、また続きを(話を広げられたらw)、ということで)

(記事編集) http://nasutoko.blog83.fc2.com/blog-entry-87.html

2010/03/26 | Comment (0) | Trackback (0) | HOME | ↑ ページ先頭へ |

「白光のヴァルーシア」について

   ↑  2010/03/12 (金)  カテゴリー: 未分類

白光のヴァルーシア ~What a beautiful hopes~白光のヴァルーシア ~What a beautiful hopes~
(2009/11/20)
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このシリーズの感想を書こうとすると、いつもこうなるかもしれません。当然のように書くことがない。というか、書かない方がよっぽど良い。ボクの書きたい感想は、感想というよりは作品解釈的な面が大きいかなぁと思っている(自分で言うとアホだなw)のですが、まあしかしそれだと書くことがない。と、いうか。書かない方が明らかに良い。この作品のテキストに意味のない文章など存在しない。いや、本当に存在しないのかどうか分かりませんが、少なくとも「存在しない」と思ってしまうぐらいに、全ての文に意味が潜在/顕在している。基本的には隠喩とハイパーリンクだらけです。換喩ですら同質であろう。だから、この作品を解釈として文章に卸すなんて持っての他でしょう――もちろん、数万字かけるのなら、ある程度可能かもしれませんが。少なくとも。他の言葉に換言して。作品の価値を高められるなんてとても思えない。ああけれど、換言という纏める作業によって、作品の価値は引き出せないけれど、自分の中のという括り付きでの作品の価値になら、アプローチできるかもしれない。

と、ここまで書いて気づいたけどコレただの言い訳文じゃねえか。ということで、しょっぱいことしか書けないけど、まあそれでも何か書きたいので、なんか書きます。そんなこんなで、以下ネタバレです




what a beatiful hope. その正体は「無限に広げられること」とか、そんな感じかなぁと思いました。「無限」の一言でもいいかもしません。や、ここでいう「無限」とは、有限だけど数え切れない・果てまで辿り着けないので実質無限、という意味でもありまして(つまりどちらでもいいんです。それを視るのも・歩くのも、全てひとなのですから、ひとにとって無限であればいいだけのこと)。
ひとはそれを何と呼ぶだろう。
時に、真の<<盟約>>と呼ぶこともあるか。
時に、こころ、愛と呼ぶこともあるか。
そして、それにはおおよそ、
かたちがなくて――
「無いもの」というのが一大重要物であって、かたちがない、つまり実体が無いというものですね。<<盟約>>もホラーも神も恐怖も、言わずもがなソレである、実体が無い。
また、ルナが夢見で拝聴する言葉たちも、同じく「無いもの」を求めて訊ねている。「あなたの心を疼かせる、最たるもの」それは声・言葉・心。「あなたの心を・物語を阻むもの」それは罪・後悔。「あなたが進むための糧・あなたの心を輝かせるもの」それは願い。
それらは実体が無いものです。実体無き<<盟約>>に砂漠の人々は縛られ、実体無き「神」に西亭やヒルドたちは囚われ、実体無き「ホラー」に民は害され人は道を阻まれ、実体無き「恐怖」に捕らわれると人は発症し、死ぬ。そう例えばある種のフィクサーであるトート(トト)でさえ、人と繋がらなければ存在できない実体無きものと語られていました。
人々を縛るものたち。それは実体が無いもの。だけど、だからこそ、心を縛ることが出来る。それらが人々の何を縛っていたかというと、「心」です。心の縛りが、身体の縛りにも繋がる。口は<<盟約>>を破る言葉を発してしまうこともあるし、神は肉体にどんな罰も実際にはお与えにならないし、恐怖症は身体を奪うが恐怖そのものは(心以外の)何も奪わない。仮にも、喩えるならば、という保留付きで受肉を果たしたホラーは人の実体を侵し殺しますが、それは単純な殴る・刺す・穿つといった物理的剥奪にあらず……というかメカニズムがよく分からないので何とも言えないのですが、「迷宮のホラーの王」が、人の心をこそ殺すものだったことが、その象徴ではないでしょうか。
同時に、人々を進ませないもの、あるいは進ませるもの、それもまた実体の無いものである。 「あなたの声を聞きました。あなたの心を聞きました。あなたの物語は、きっと紡がれていく」 「あなたの罪を聞きました。あなたの後悔を聞きました。あなたの物語を、阻むものが何かを」 「あなたの物語は紡がれるでしょう。きっと、阻まれることなく。きっと、迷ったとしても」 。それぞれ、声・心を聞いた後と、罪・後悔を聞いた後と、願いを聞いた後の返答。翻れば。「きっと、物語を紡いでいく」――きっとと云うように、確実ではないけれど、物語を紡いでいくことになるであろうもの、つまり原動力。それが心であり、声であり。それは実体無いものである。「物語を阻むもの」――罪を聞き、後悔を聞き、そう語るのだから、それは当然、阻むものとは当然、罪・後悔のことであり。それは実体無いものである。「物語は紡がれるでしょう」――阻むものを乗り越えて、迷っても辿り着ける、指標・導きとなるもの。それは願い。それは実体無いものである。
声・心も、罪・後悔も、願いも、全て実体無く、ひとの心や精神の中にあるもの。それが物語――つまるところ人の歩みの、原動力になったり、阻むものになったり、指標や導きになったりする。

人は実体の無いものに心を縛られて、それにより自身の肉体までも縛って、そもそも心もまた実体が無いのですが、それがまた自身の肉体までも縛って。そして物語をも阻む。人が歩む道すらも阻む。しかしその実体無いものは、物語を進めるものでもある。人が歩く原動力であり、道標でもある。

その実体無いものの対極として、「手」があります。シリーズ共通のモチーフでしょうか。手をつなぐ、手を伸ばす、手をさしのべる。
「手」というものは、自身の肉体の最果てでもあります。自分の肉体の末端であって、自分の体はそこまでしかないわけですが、同時に、その手で掴んだり取ったりできるわけです。――つまり、最果て・限界点でありながら、「それ以上」に繋がる入り口でもあるわけですね。
手を伸ばせば、自分の果てに届くし、届いた先(の誰か)は、それまでの「自分の果て」を、無くしてくれる、広げてくれる。「無限に」広がっていく。
もちろんそれは相互的です。自分が寂しいからと手を繋げば、自分の寂しさだけでなく、繋がれた相手の寂しさも掬い上げられるでしょう。助けたいからと手を伸ばせば、誰かを助けることによって、その事実によって、自分も助けられるでしょう。これもまた、「無限に」広がっていくことができる。

――では、そもそも、「なんで手をさしのべるか」というと。その元となっているものは、原動力は、「心」である。まあ当然といえば当然ですよね。反射や習慣以外で身体を動かすものは何かといえば、感情や想いや気分や欲望や欲求や願望やらといった、心や精神である。見えないもの――実体の無いものが、身体を動かすわけです。作中では、願い・それに応える<<願い>>が、特にクローズアップされていたでしょう。

心をもとに歩み始め、しかし自身の心・実体無いものにそれが阻まれ、しかし、実体ある「手」がそれを乗り越えていく――けれどそもそも。その「手」を差し出すは「心」より。心が身体を止めて、心が身体を動かす。人は自分の心に、あるいは砂漠の女王が云うように「ひとりではない・繋がっている」故に生じる実体無いもの(社会(<<盟約>>)や、恐怖(誰かを失う怖れ))に縛られる、けれども、それを乗り越えるのは実体ある「手」であり、そもそもそこで手が動くのは実体無い心(願い)からであって、さらに言えば、そもそも人が歩み始めたのだって「心」があったから――心が、物語を紡ぎ始め、願いが、物語を導くように――であり、それらは無限に広がっている。無限に繋がっている。
さらに、それが、「一人ではない」としたら――手をのばし、手をさしのべて、手を繋ぎ、一人ではなかったと/なくなったとしたら。それは本当に無限に繋がって・広がっていくのではないでしょうか。


そんなこんなで what a beatiful hope. これはある種のおとぎ話みたいに理想的で、虚構的で、あるいは、いや正しくは夢みたいなもので、むしろボクらが見ている現実はヒルドの言うとおりに視えてしまっていて。
【ヒルド】 望むことはすべて叶わない。すべて、すべて、絶対に叶わない。
【ヒルド】 でもね? どうか姫さま、ご安心なさって?
【ヒルド】 世界というのはそういうものなの。神はいない。願いは届かない。誰も助けてはくれない。
だからね、ラストの部分とか、納得は出来るし了解はするけど、夢だなぁと、ボクは切り離されてしまった。いや、その、ザハカが「愛だと。――莫迦な」とのたまった時、ボクもまた「莫迦な」って感じではありましたよ。それが美しい希望なのか、莫迦な、それじゃ現実で手に入れる/届くのが困難すぎるし億劫すぎるじゃねえか、と。いや途中からこうなりそうな気はしてましたけどね。ただこれが並大抵の物語だったら、ラストで愛だの希望だので大団円的な空気を醸し出されたら、莫迦などころかプゲラとなっていたかもしれませんが、しかしそれとは全然違う、諦念の莫迦なを思わせたところは流石と言ったところでした。つうか素晴らしい。凄い。こんだけ遠くに視させるだなんて。本当に美しい希望で、美しすぎる希望だからこそ、逆にこの世のどこにもありえないと、あっさりと、ぶっちぎられるほど。
ヒルドだって、もしも炎に包まれる前に、誰かが彼女に手をさしのべていたら、結果は変わっていたワケで――こんな台詞は彼女の中に存在しえなかったワケで。神さまは助けてくれない。誰も助けてくれない。――筈だけど。たとえば炎に包まれる前に、もしも誰かが、手を差し伸べてくれてたら。そうはならない筈であって。まあこれ以上は語るに落ちるので(現状でも十分落ちてますけど)、以下略ということで、終わらせていただきましょう。

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2010/03/12 | Comment (2) | Trackback (0) | HOME | ↑ ページ先頭へ |

skysphere「翼をください」について

   ↑  2010/03/05 (金)  カテゴリー: 未分類

翼をください 初回限定版翼をください 初回限定版
(2010/02/26)
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とりあえずネタバレなしで語ると、良くなかったですけど良かったです。 ←なんじゃそりゃ、と思われるかもしれませんが、いやホントにそうとしか言いようがありません。キャラの可愛さや魅力なんかはもの凄く素晴らしいレベル、テキストは非常に高品質な出来、演出・画面やインターフェイスのレイアウト・音楽などは全体的に気合入っていてかなりの好印象、シナリオはちょっと微妙っちゃ微妙だけど十分許容範囲、けれど、なんだか、なんだろ……。好きなんだけど、あまり高評価はできないというか、他人にオススメしづらいかもなぁというか。でも好きですw
好きにはなれると思う。てゆうかプレイした人、みんなコレ好きになったんじゃねw? 全体的に丁寧というか気合入っているのが分かる作りですし、キャラクターの魅力みたいなもののレベルがもの凄く高い。ぶっちゃけこれ、言っても詮無いというか、それを言っちゃおしまいよ的なこと言うけど、これ、萌えゲーにしてれば超ウルトラ大成功だったかもしれないですよね。いや、ホント言っても詮無えな。特徴的な「口癖」があるというほどでもないのに、声優さんの声の演技+テキストが、キャラの「口調」をしっかりと確立している。そういうのを基点に、キャラが日常に生きている(いわゆる日常描写的なるものが秀逸だからということでもありますが)。最近のゲームだと『星空のメモリア』なんかと近いかなぁと思います。テキストの日常描写が非常に濃ゆいというか、人によっては冗長と受け取られてしまうほど丁寧なんだけど、そこを愛せるのならば、これは好きにならざるを得ない、という点とかも。

お話自体は、喩えるならば、「リトルバスターズの真逆」です。ネタバレないように抽象的に言うと、いわゆる「母性のディストピア」ですね。つうかあまりに直訳ってくらいまんまで、ある種失笑してしまうほど。いや直訳すぎて別物になっている、と言った方が正しいかもしれません。現実的にはそうでも、象徴的にはそうでないわけですから(少なくとも主人公である彼にとっては)。そこで取られた手法は、リトルバスターズの真逆でした。しかしそれでは敵わない。しかしそれでは叶わない。その牢獄は我われを殺さないが、生かしはしない。救うためには、歩むためには、翼が欲しいのだ。その解決点は”他者”、そして(喩えるならば)”現実”にある。これもやはり、リトルバスターズの真逆であると、喩えられるでしょう。

そんなわけで、以下ネタバレ。
あ、その前にひとつ、忘れないようにメモしておくと、本作には女装男子が出てくる(http://skysphere.jp/product/tsubasa/character08.html)んですけど、これが「リアル女装男子」(=KABAちゃんとかIKKOみたいなの)で、本当に驚きました。普通に見ると、フツーにキモいw いや慣れてくるとこれはこれで愛着が湧くのですが、しかしフラグ的なものを匂わされると途端にキモくなるんですw 誰得。やはり女装男子は非実在青少年に限るというか、非実在青少年だからこそ女装男子なのだな、ということが確信できました。女装男子(男の娘)というのはですね、現実には「絶対に」存在してないんですよ。現実に存在した時点で別物になるか、よく出来ているけどいつか化けの皮が剥がれるフェイクになるのです。でまあ、プレイすればわかると思いますが、『翼をください』において非実在青少年的女装男子が出てきたら作品台無しになるくらいぶち壊しなので、二階堂がアレな点に関しては別にアリだな、というか寧ろ、本作だからこそわざわざ萌えない女装男子を用意したのかな、って邪推できるほどでした。
あともういっちょメモっておくと、16:9がこんだけ生かされているCGは珍しいです。つまりあの探偵部の部室のこと。あの、端っこにストンと雛子が座り、そこ以外が大きな余白=余剰となるあのCG!! マジこれは、4:3じゃ絶対不可能です。だって余白=余剰(※余白は常に余剰というワケではないですが、この部室に関しては余剰と読んで間違いない)がこんな風に生まれないですもん! あるいは、特に夜バージョンの方とか、主体を逆転させれば、端にちょこんと座る雛子の方を余白・余剰、というかある種の「しみ(「大使たち」のアレのような)」と視ることもできるでしょう。これだって4:3じゃ物理的に(画面サイズという物理的に)不可能というか難易度高すぎてまずエロゲじゃお目にかかれない! これはねー、ちょっと久しぶりに(むしろはじめてかも)、CGだけでウルトラ興奮させられました。必見です。
a_tubasa047.jpgあとついでに言っておくと、オープニングムービーはネタバレなので見ないほうがいいです(笑)。公式サイトですら結構危険……!

ということで、以下本編ネタバレ

(記事編集) http://nasutoko.blog83.fc2.com/blog-entry-85.html

2010/03/05 | Comment (0) | Trackback (0) | HOME | ↑ ページ先頭へ |