このページの記事目次 (カテゴリー: 未分類)
- ASaProject「アッチむいて恋」感想 [2010/05/17]
- 某ビーツ!其の七迄の雑感的なるもの [2010/05/15]
- 「色に出でにけり わが恋は」 雑感 [2010/05/02]
- Clover Point [2010/05/02]
- WHITE ALBUM2 -introductory chapter-に関する覚え書き [2010/04/30]
total 14 pages 次のページ →
ようこそ、ラストパラダイスへ!
アッチむいて恋 初回版
(2010/04/30)
Windows
商品詳細を見る
ということで、なんだろ、すっごく面白いけど「えっ……」という感じも残らざるを得ないという説が私の中でこの世の春を謳歌しているのですが、要するにライターさん二人いらっしゃるんだけどあまりにも違いすぎてるよねこれ、という話であって、そして違うのは作風のみならず面白さにおいても、という話です。うぎゃー。しかしこれは二重生活の暗喩としての二重ライターなのです。ライターさんの違いが中身の違いと相同していて、ライター変わればシナリオもがらりと変わろうが雰囲気も流れも異なろうが、しかしどちらもひとつの「アチ恋」であり、どっちかだけ向いて恋(プレイ/評価)しようとする態度に対する強い批評性なのです。そう、ボクたちもまた、作中の彼がヒロインたちの二重の両面に出くわしたように(そして作中のヒロインが真恵と浩介という主人公の二重の両面に出くわしたように)、ゲーム自体が持つ二つの顔=二重の顔に面している。そこにおいて我われもまた、真恵(マエ)のように前(マエ)を向いて挑まなくてはならない。そう考えると心臓にグサリとくる威力を持ってますね! いやこのゲームは、このように(?)色々と上手いというか丁寧というか凝ってると思うんです。
とりあえず体験版はタダで出来る上に死ぬほど面白いから全員やればいいと思うよ!
あと、バッドエンド(誰ともくっつかないエンド)も、まあ20クリックくらいで終わるようなものなんですけど、何気に笑ったので気が向いたら期待せずに(期待してしまうと逆に面白くないと思う)プレイしてみるといいかと思うよ!
女装主人公と男の娘主人公の決定的な差と、相対的な所作
「女装主人公モノ」というのは、今やひとつのジャンルとして確立されているくらい「ひとつのパターン(形式)」でもあるのですが、本作は公式サイトなどでも謳っているように「二重生活」という点で他の女装主人公モノとは異なるものになっています。寮生活では女の子(女装)として、学園生活では男の子として生きていき、他のキャラクターと接していく。つまり、主人公が物語中のほとんどにおいて「ずっと女装」しているような一般的な形式と異なるということです。これがなかなかに特徴的。
本作は「女装少年」だけど「男の娘」ではないですよね。女装少年と男の娘の最大の違いは何かといえば、前者は「女装している(だけ)」であり、後者は「それ以外の(以上の)何か」であるということ。断言調で書いてしまっていますが、しかしこの点についてのみは断言してもよろしいのではないでしょうか(勿論、これ以上細かくしていく点においてはこんな簡素な予断は許されないのですが)。たとえば女装少年というのは、ボクだろうがあなただろうがあいつだろうがそいつだろうが、”女装さえすれば”なれます。女装してれば女装少年である。青年だったら女装青年で、オッサンだったら女装オッサンだろう。しかし男の娘というのは、女装しただけではなれない。それについてボクは、ざっくばらんに言えば、自身の「女の子性(=男の娘性)」が現実化しているのが男の娘であると――言い換えれば、(対象を)女の子性で微分すると現実化される表象が男の娘であると――考えてるのですが、しかしアチ恋の主人公においてはそんな面は一切といっていいくらいにありません。平たく言えば、彼(真恵)は女の子のフリをしているだけであり、しかもその動機は寮生活における必要から生じているものというだけであり、つまりぜんぜん女の子性が無いわけです。たとえば真恵は、誰も見ていないところや、正体を知っている人の前でもしっかり女の子である、なんてことは殆どしてないわけですね。話し言葉は男の子のそれだし、自分が思う自分自身というのも当然男の子のそれであった。それは浩介で居るときだと、言わずもがななくらい「さらに」ですね。浩介で居るときに、ついつい女の子言葉になったり、ついつい女の子な行動取ってしまうなんてことは殆どないのです。
つまり彼は、女装しているのは確かだけど、「どれだけそれ以上か」と言えば、首を傾げざるを得ない――男の娘との決定的な差が(断裂が)そこに存在している。女装男子というのは、女装してなきゃただの男子なわけですけど、「男の娘」というのは、女装してなくても、一度足りとて女装したことなくても、そんな気を少しも見せなくとも、「男の娘」なわけです(たとえばロイブーの彰男化計画とかがまさにそうで)。外装により男の娘化するわけではない。自らが内に持つ自身の「男の娘性」で持って男の娘になるのが「男の娘」であるのです(――が、もちろん外装というのも重要な部分です。幻想により「男の娘」だと分化される存在ですから、幻想を這わせるだけの外装を有していなければそれは大きな欠如である)。
つまり彼は男の娘ではない、男性である――が、ただの男性ではなく、女装している男性でもある、が、しかし表象としては・ないし社会性(生活)としては男性/女性(男の娘)が常に交錯し入り乱れている/入れ替わり続けている。
二重生活はこのように、どちらにも纏まりきれない宙吊り感を生み出しているのですが、さらに周りのサブキャラがそれを補填しているのが、非常に丁寧な作りで素晴らしいと思いました。つまり、主人公がガチの女装でもガチの男の娘でもないからこそ、サブキャラに「ガチ女装・ガチ男の娘=杏樹」が存在していて、主人公が女装していてもホモってわけではないからこそ、サブキャラに「ガチホモ(っぽいやつ)=慎吾」が存在している。サブキャラが主人公の代わりに「極端」を担うことによって、主人公のポジションが相対的に「男の子でもある女装少年」に収まりきれているのです。サブキャラは主人公を映す鏡である(もちろん、同じ部分/違う部分の両方を認識させ主人公のポジション/存在を理解させるという意味での鏡面)。彼らがあんなんだからこそ、主人公の位置も、どちらにも纏まりきれない宙吊りのままでも存立し続けられている。さらに言えば、(その内実は乙女的部分も多いけれど)表面においては男っぽい女性であるお鈴さん、かなりぶっ飛んだキャラである理事長というサブキャラも存在していて、多方面に至れり尽くせりなんですよ。男の娘になりすぎないように調整できる鏡が用意されてたり(たとえば杏樹に比べれば彼は全然男の娘ではない)、かといって男性の暴力性を所有しすぎないように調整できる鏡が用意されている(たとえばお鈴さんに比べれば彼の暴力性は薄い)、といった具合に。物語前半はおかしな二重生活を楽しく描きながら、物語後半は、女装(真恵)から普通(浩介)へとシフトしていく――浩介として収束していく(あるいは浩介と真恵が統合されていく)というシナリオだからこそ必要である、主人公は「浩介であり真恵である(しかし「浩介」が先立つ)」という大事な前提を、こういう極端な鏡像を用意することによっても保持できている。普通にプレイしていて今が女装してるんだか女装してないんだか分からなくなるくらいのテキスト表徴(そして真恵・浩介立ち絵の非存在)であるのが本作の主人公における「女装」の扱いなのですが、それほどに強い、女装時‐非女装時の地続き感を、テキストや物語は勿論、設定面においてもこのようにフォローしている。よく考えられてるというか、考えられすぎてるくらいマジ素晴らしいと思います。いやこのゲームのこういう設定性は熱いですよ。というかね、仕事がめっちゃ細かくてなんかすげー好きです。
以下ネタバレで個別シナリオについてかるくかんそう
たぶん、朱ちー・優由・共通の方と、かぐや・ルナ・美奈子(あと共通における彼女たちのお話)の方でライターが別だと思われるのですが、しかしボクは美奈子→ルナ→かぐちんという順番でプレイしたのでビックリしました。いや共通と全然違うじゃんという印象でw。個別に入るとギャグが無くなるのは、序盤はギャグキャラとして描かれていた=存在していた彼女たちが、ギャグキャラからギャグを取った存在キャラ=人間になったからだ!とか思ってしまってたんだけど朱ちーとかプレイしたらそんなことなかったぜ、といったお話です。つまり二重性を感じてしまうくらい結構異なる色合いを見せるのですが、それこそが二重性を標榜する本作に相応しい形式でもあるのでしょう。
ルナちーシナリオ。妹として見る・女の子として見る、という二項からのはじまりというか、その二項が生まれるところからはじまるということですね。今までは妹としてしか見ていない(アッチしか向いていない)というところから、女の子として見るというもうひとつのアッチを――もう一つの方向を生まれさせる恋愛話。過去エピソードが効いています。「向こうに上手い饅頭屋があるよ」といって引っ張っててくれる、それが新しい家族・新しい環境に向き合うことに恐怖していたルナの心をやさしく包んでくれていた( 「私、あの時のこと、ものすごく感謝してるんだよ?」「……もし、あの言葉がなかったら…」「当時の私…幼い頃の私はきっと、現実と向き合うことなんてできずに、心を閉ざしていたはずだから…」 )。視界は一面しかないのではなく、違う方向もある。ひとつの面だけを見ていると辛くてきつくて折れてしまうかもしれないけど(この現実だけを見てたら心を閉ざしていたかもしれないけど)、違う面を見ながらだと、かえって上手くいったりする(饅頭屋に行こうなんて、まるで別の方向へ向かうやさしさが、かえって現実に向き合う強さになっている)。
かぐちん。浩介「ちゃんと向き合ってくださいよ。服とも、先輩自身とも…」。浩介を遠ざけて、服を燃やしちゃった後のセリフですが、えっとそんな感じで。自分に向き合いなさい、そっち向き合いなさい、そこから恋ははじまるのです。とかなんとか。ごめんあんま書くことないかも(ぇ
そして美奈子。 「もずく、みたいな、あなた~」 という即興の恋の歌(優由が恋してるんだって言った時の反応でみんなが即興で作った歌)は意外と深いのかもしれませんね。ミーナはもずくをよく食べてまして、それは味とかも好きなんでしょうけど、ダイエットとしての意味合いも有していた。体重を減らして、新しい自分――輝いてる自分、理想的な自分……そういった自分に向かうための(つまりダイエットを成功するための)ミーナの味方がもずくなわけで、そして「恋」というのも、新しい自分――輝いてる自分、理想的な自分……そういった自分に、出くわさせてくれるものでもある(恋する女の子は輝いているとか綺麗とかよく言うよね的ニュアンスで)。ということで、ギャグとして出てきたこの即興の歌ですが、何気にミーナ自身のことを示しているのかなぁとか思いました。以上。シナリオの話は、なんかその、機会があったら! 「花火、終わっちゃうよ……?」はおしゃれすぎてキュンと来ましたね。神なんじゃないか。というか少女マンガなんじゃないか。個人的にはエロゲにおけるキュンと来た告白シーンベスト3に入ります。
優由シナリオ。ここでラブレターが繋がるのか!という衝撃。ところどころに入るアイキャッチにおいて、SD優由がラブレターを握っておりましたが、あと共通序盤で「先輩にラブレター書くぜ」と意気込んでおりましたが、それがここに繋がってくるとは! あの日から優由はずっとラブレターを書いてたのですね。もちろん実際には書いていないですけど、彼女の心情としては。どかんとぶつかるように想いを伝える――というか、どかんとぶつかりすぎて複雑骨折している(訳:直球すぎるが故に「先輩今日Hしましょー」とか言っちゃう→半ばギャグと化す)から、だから、真に想いを伝えるには、文字として、想いを言葉や身体ではなく、文章というひとつ迂回したところに込めて、込めに込めて、そして送り届ける。キュンときました。個人的にはエロゲにおけるキュンと来た告白シーンベスト5に入ります。
女装バレがかなりくだらないというか、アホらしい(と書くと言い過ぎかもしんないですけど)うっかりミスから生じてしまうんですが、てゆうか「アチ恋」における女装バレは大抵そうなのですが、だからこそ深刻にならないのが素晴らしいと思うんですよね(※除く美奈子シナリオ)。
重い・シリアスな経緯があって女装バレるのであれば、真相を知った彼女たちも、そこから紡がれる物語も、重くシリアスであって然るべきかもしれないけれど、しかし軽く・くだらないくらいの経緯でバレるのであれば、それに対する処置も必然的に「軽く」なる。優由シナリオにおいては、かなり軽くバレてしまったが故に、深刻に陥ることなく、「両方大好きだから」とあっさり纏まる(その優由の気持ち自体がちゃんとしたものですが、物語的に女装バレを引っ張って深刻にしたりはしない)。
これはつまり、相応した報いがある、という思想です。AにはAの、BにはBの報いがある。たとえば、罪が重ければその分罰も重い、軽度なミスなら起こる被害もその分軽度である、といったのと同じくらいで、軽くバレたのならばその分軽く帰結に至る。軽い帰結に至る。このバランス感覚が重要だと思うのです。つまり、朱ちーシナリオが顕著ですが、浩介は悪意や害意で女装したのではないのだから、女装がバレた後の帰結にも悪意や害意は無い。最終的に女子寮が(女子寮のみんなが)温かく迎えてくれるのはそういう観念の基ですね。悪意や害意を持っていたわけじゃないのだから、悪意や害意を持っていない報いが相応しいのである。AにはAが対応し、BにはBが対応する。その二重性はもちろん、(二重の意味で)本作の全体に通じるものであるでしょう。
あと八つの乙女さんシナリオは、ラストが、ファイナル乙女「奥義すっとぼけ」なのもいいですね、というか凄いですね。最後まで貫いてるけど、でもそこに何の問題も感じないでしょう。たとえば普通のエロゲによくあるトラウマ解消・問題解消みたいなのを何も試みてないのに、何の問題も感じない(※いや実際は女らしくなる→運命の人と出会う→結ばれるという優由の昇華が行われているのですけど)。むしろラストでそういった問題が生じているくらい。けど、だからこそ、最後を問題――メテオちゃんが抱えること――で締めてしまえているのです。なに、描かれなくたって、メテオの望みがすてきな感じに叶うのなんて明白だし、真恵の女装バレちゃったけど、なんとかなるのなんて明白じゃないですか、ここまで読んできたんだから分かるでしょ、とでも言わんばかりの、この最後! 恐れ入るほど素晴らしいですね。
それでは朱ちーのお話。 ト ラ ウ マ が 完 璧 に ギャグ! これは吹きました。まさかトラウマが完璧にギャグだったとは!しかも、ゲーム中の音楽もちゃんとギャグになってるんですよね。知らぬは(真面目なトラウマだと思っているのは)朱ちーばかりのみ……。そして、AにはAの報いがあるように、ギャグだと分かってからは、引っ張ったり深刻になったりすることはない。子供でもやらないようなギャグのようなトラウマから脱却して、ちゃんとこっち(浩介)を向くようになるのですね。朱ちゃん(あかちゃん)というあだ名はさすがで、そのまんま「あかちゃん」の隠喩でもあった。そう、真恵が前=方向としてのマエであるように、そういう隠喩的所作もまた溢れているんですよね。たとえば朱ちーシナリオでの女装バレって、ババ抜きしてたら女の子(優由)に組み伏せられて落書きが見つかる、というところからバレるのですが、ちゃんと、ババ抜き=ジョーカーというヤバイものを持たないようにするゲーム(しかも真恵が負ける)、落書き=表面に残った痕跡により、表面的に擬態しているという女装がバレる、という仕組みになっています。なんでババ抜きなのか、なんで落書きなのかに、ちゃんと理由がある(もしくは、隠喩的に機能できている)。こういうところまで手の届いた細かさがまた素晴らしいと思います。てゆうかボクはこの感想で素晴らしい言い過ぎですが、いやマジで素晴らしかったのですこのゲーム。
そしてラストは、普段と女装、浩介と真恵、本当と嘘――つまり二重生活の二重性、それが統合される――ひとつのものとして認められる、という流れでした。喩えるなら「真恵の人生だって、本物だったはずだろ!」ということです。
「俺の中で、あの寮は」自分でやったものは自分で引き受けるという、二重性に対する真摯な所作。二重的だから、どっちかが嘘でどっちかが本当(どっちかを嘘に出来てどっちかを本当にできる)、と単純には落とせない、だってどっちも本当にあったことなんだから。だから一つに統合される。ここ、みんな何かしら勘違いしてた、というのが面白いですよね。真恵が都会に帰るとか、性転換するとか、宇宙とか、そういう勘違いをしてて、だからこそみんなここまで必死になったという面もある。要するに、みんな本当のことを見てなくて、実は「アッチ」向いてたわけです。でもそのお陰で、自分たちの真恵=浩介に対する想いに気づけたし・素直になれたし、また勘違いのはじまりから決まったことでも、自分たちで引き受ける。本作を象徴するような一コマでもあり、また本作を纏めるような一コマでもあったのではないでしょうか。ちゃんとギャグでもあるし、そして温かいものでもある、という点においても。
「あの寮のみんなは」
「もう俺の、鳴海浩介の人生に、入ってしまってます」
さあそしてラスト。メテオちゃんマジ流星、ことメーたんシナリオです。いやーこれはすごい隠しシナリオでした。なんせボクらの脳内に隠されているんだから! PCをそっと落とし、目を閉じて、メーたんの御身を心に思い描く……そうすればはじまるでしょう、伝説のメテオシナリオが。そう、メテオちゃんシナリオに辿り着くには、ボクらは「アッチ」を向かなくてはならないのです。これぞまさにアッチむいて恋。お後がよろしく、ねーよ。いやもう自分にしては珍しく(むしろ初めてかも)ファンディスク欲しくなるくらいにメテオちゃんマジメテオなので、えーとファンディスクお願いします。
(記事編集) http://nasutoko.blog83.fc2.com/blog-entry-94.html
2010/05/17 | Comment (2) | Trackback (0) | HOME | ↑ ページ先頭へ |それはさておき、いずれにせよ、神秘性というものは考えられなければならない。検索を避けぬいて隠すという先に神秘性が宿るわけです。隠して隠れて隠されぬいた先の神秘性を利用してはじめて勝利に至れる。かつてドイツの学者さんが、神に辿り着く為の絶対条件としてパンツ脱ぐことを提唱されていましたが、真の神ではなく偽の機械神を欲している我われは故に逆の方策を採用すべきなのです。憎悪の空から何もこねーよ!が現実なのだ。そこで「あれ、もしかして憎悪足りないとか?」なんて方向に進んじゃったら、真の神に辿り着けるかもしんないけど道中辛すぎて死ぬのだ。神を召喚するに満ち足りるほどの憎悪で空を埋める――真に憎悪の空足らんとするならば、必然それだけの憎悪に出会わなければならず、そんなの死ぬほど大変だろあとめんどくせえ、という話である。しかもそれ実現しても大抵の場合はお決まりのように神は来ないわけデスシー。ならば我われは偽神を欲する。そしてその方策はただひとつ。秘密主義による偽の神秘性だ、というわけなのです。まあ全部嘘ですけど。
いい加減話を戻そうか。まあいずれにせよ隠すとか見えなくするとか重要なわけです。ぶっちゃければヤツに読ませるテキストは1バイトもねえ!というだけの話なんですけど、そいつを神秘のベールで包むのが我われの仕事なわけで。考えてみれば、ボクたちはほら、たとえば木曜洋画劇場をつければ波止場で怪しい男たちがアタッシュケースに入った例のブツを取引している場面だったり、日曜洋画劇場をつければ港町で怪しい男たちがアタッシュケースに入った例のブツを取引している場面だったりする世代なわけです。アタッシュケースというベールに包まれることによって、ただのブツが、神秘的な色合いを帯びれるわけです。あれも所謂マクガフィンみたいなものですね。マクガフィンというのは、まあ覇王ググル先生にでも聞いてくださいというところですが、しかしよくマクガフィンとは「どうでもいいもの」と説明されるけど、本当にどうでもいいというわけではない。というか、「どうでもいいということが知れてしまったらいけない」。よくジジェクが対象aとしてのマクガフィン、という物言いをしますが、つまりそういうことですね。対象aとは幻想(を投影する)カーテンである。別にブツの中身が大金だろうが伝説の宝石だろうが国家機密だろうが開発中の新兵器だろうが、なんでも構わないわけで、極端な話そんなたいそうなものじゃなくてお菓子とかおもちゃとかでも構わないわけです。が、お菓子とかおもちゃとかそういうものだと知ってしまっていたら、それはマクガフィンになりえないわけで(お菓子やおもちゃを巡って争ったらコメディだ)、そしてどうでもいい=なんでもいいものなんですけど、どうでもいい=なんでもいいということが知れてもマクガフィンになりえないわけです(どうでもいい=なんでもいいものを巡って争ったらB級だ)。つまり、その正体は何でもいいんですけど、けれど大切なものである・重要なものである、という幻想を確信持って抱ける、そういう対象がマクガフィンなわけです。これは朱鷺戸沙耶せんせーにおける「秘宝」も同じですよね。沙耶シナリオにおける秘宝もまた、ある種のマクガフィンである。生物兵器でもタイムマシンでも、あるいは他の何かかんけーない物事でも、秘宝の正体は何でもよかったんだけど、”追い求めるだけのものである”必然がそこには必要であった。別に何でもいい、ってものを必死に追い求めるとか物語とかまあ普通に考えて奇手だよね、というのはドクサ的にまあそーだね感が溢れるであろう。しかし逆に、何でもいいと思えるくらいに正体が定かならず、そして正体が重要ではないのがマクガフィンであり、対象aなわけです。むしろ定かってしまってはそうはならない。なにか――”そのもの以上のなにか”である(抱ける)必要がある。まあ沙耶ちんの話は置いときましょう。というかボクは油断すると沙耶ちんの話しかしない。いやむしろ沙耶ちんの話だけしてようか。まあ嘘ですけど。それはともかく、YURIっぺにおける、あるいはエービーにおける「神」という存在も、今のところは、たとえば沙耶における秘宝と同様、対象aとしてのマクガフィンとして扱われていることに異論はあるまい――――
ということで、あのバンドやったり野球やったり麻婆豆腐食ったり釣りしたりするアニメのお話ですよ!いやーしかし一つのアニメ内で、バンドやって野球やって麻婆豆腐食って釣りして、あとなんか銃をバンバン撃ったり剣をじゃきじゃきハンドソニックしたり、催眠術だったり麦藁帽子だったりする、こんな盛りだくさんなアニメはかつてあったでしょうか。いや無い。惜しむらくは盛りだくさん性が――というか物語の(展開の)スピードが、まるで位相に存在する点でしょうか。毎週のように「ゲームでやったほうがいい」という感想を拝見するように、たしかにゲームでやった方が映えるような脚本であり、それは咎であるかもしんないすけど、いくらゲームっぽい脚本だとはいえ、動く映像としてのアニメを見た直後に「ゲームでやったほうがいい(しかもアクションとかFPSとかじゃない、紙芝居と揶揄されるノベルゲーム!)」なんて言われてしまうような映像であることも咎であるんでしょう。たとえばコードギアスなんかはもっと超速ですけど、コンテ演出面も超速にすることによってバランスを取れていたわけですが(早くて多いカット切り替え、さらにアップの多用とかね!押井守が近景・中景・後景の使い分けを、それぞれ物語においてどこに比重が置かれているか・どこにより物語が動いているか――たとえば近景はキャラクターが・後景は世界、社会などが、といった具合――に喩えていて、それは随分大胆な発言に思えたけど、しかし少なくともベクトルとしては正しい分析であり、あまつさえ速度とカットの量によってはその重要度は増すのである、まさにギアスのように)、そういう面での統合が図られてたりすれば、もっと良かったんじゃないのとか思う。まあどうでもいいけどな!だーまえ信者としては、「全肯定」がまず先立っていて、ダメとか文句とかも全肯定の後に続いているんですよ。あーだから信徒的にはそんな評価みたいなものはどうでもいいんだよ。岸監督はタイトルにエンジェルってつく作品が鬼門なんだぜ……!で終わらせときゃいい、それだけの話。……いちいちこんなどうでもいいこと書くのは、自分にとって自明で書くまでもないどうでもいいことでも、書かなきゃ伝わらないらしいから(だから、どうでもいいと前置きしておかなきゃやってらんないわけだ)。メンドクサイよね、弾幕!
えっと……、なんだっけ。鼓動ちゃんマジ鼓動!でおなじみの某ビーツの話か。今回に関していえば、記憶を取り戻したOTONASIが、第1話と同じ様に――というか「同じ」を狙って作ってるんだろうけど、まあそういうやり直しの契機じみたものが存在している。ゲームだったら2周目って感じだよね!会長代理軍に敗れたOTONASIだが、2周目では生前の記憶を持ったままはじまることになる。第1話の再現のような屋上→作戦発表……なのだが、第1話のときはその後、何も分からないまま天使を撃ってしまい、故にそのまま、音無と天使は敵対関係の中に仮投機された。そのことに対し音無は「もし俺に記憶があったら……。最初にバカな質問をしなければ……。この世界で俺は、お前の味方でいたかもな」(第6話)と語っていて、じゃあ記憶あったらどうなのよ?、というのが今回の再現で示されるわけです。橋で銃を撃ってしまったように、今回もまた橋みたいなところでみんなに「こいつがマイスウィート天使ちゃんだ」と紹介するわけですしね。丁度クールの半分消化して、丁度一周ぐるっと廻って戻ってきたみたいな感じでございましょう。
記憶を取り戻し責任を取り戻すことによって動くことが出来た。というわけでもないが(記憶がないときの音無の人生だって、本物だったはずだ!→抱擁→号泣)、少なくとも「天使よ。撃っちゃったけど音無くんを許しなさい。彼はその為すところを知らざればなり」みたいな状況からは脱却できたわけで、そんで名前も知ったわけで、天使ちゃんとお互い名前交換して「下の名前を呼んで。恋人付きあいのはじめはそれだけでいいの」って話ですよね多分。なんか適当に書きすぎてんだろおめーとお思いかもしれませんが、イエス適当に書いてます。ドイツの教授の言に従えば、適当さの先が逆説的に神を召喚するのです。逆説的に差異と反復ですね。まあそのー、たまには適当に書きたいんですよボクも。あーめんどくせー(精神言語だだ漏れ)。
とりあえずまぁ、まだまだ答えや結論には遠すぎるっつーお話です。某ビーツは現時点ではよくわかんねえ。「神」が対象aとしてのマクガフィンなのか、といえば、少なくともYURIっぺにとってはまあだいたいそんなものである、ように見受けられる。こんな人生なんて許せないから神へ復讐するわけであり、そこにおいて神様が、キリスト方面のなにかでもイスラム方面のなにかでもギリシャ神話やケルトや八百万方面のなにかでも、YURIっぺ的には別になんでもいいわけです。「復讐さえ出来れば」。受けた理不尽のお返しが出来るだけの対象が神であり、要するに彼女の運命みたいなのを決めたヤツがいればそいつが神であり、そいつに復讐できるならば、そいつ自体が何者であるかは問われないわけです(だからまあ、たとえば、この世界が死後じゃなくて電脳世界とかだとしても(そういう事実が判明しても)、其の点においてやることは変わらないでしょう)。しかしそれは、彼女の独言を信用した場合にのみ立ち上がる解答であり、つまり、音無も岩沢さんも、語られる過去は、「自分が何で死んだか」であり故にどんな「死にきれない」が在るのかなのに対し、ゆりっぺさんはそうではない。過去の辛いことは語られても、何で死んだかは語られないし、何で死にきれないのかも語られない。まあ語られた「その過去」が、ほぼまんまでそっちの理由にも接続されるのかもしんないですけど。いずれにせよ、神さまは現時点では、まるで沙耶っちの秘宝のような扱いであり(正しくはそれ以下、実在――というか、いちおう「在る」ということが、エビでは保証されていない)、その上、実際に神さまを追い求めるのに執念燃やしてるのってYURIっぺだけみたいに見えるつうか、神に対する姿勢としてなんか周囲と(前略)っぺさんと温度差を感じさせるものでもあるから――たとえば、今回のBパート、みんなで天使を手伝って釣り上げて、NPCにご飯振舞って、という彼ら・彼女ら・そしてこの世界への「適応」を、ゆりっぺだけは参加しない=拒んでいるわけです。MS(モンスタストリム)を釣り上げようとする天使ちゃんを音無が「抱きついて」助け、その音無になんか恭介みたいな声の人が抱きついて、それに他の戦線メンバーもどんどん続いていって、つまり”音無を介して”みんなが天使ちゃんと繋がり彼女を助けるわけですが、ゆりっぺは”当然”のようにそこに参加しない。ちなみにユイも抱きついて助けるという参加はしてないけど、いちおう声を上げて応援したり文句言うというように、音で参加している(バンドだけにな!)。ゆりっぺさんはそれすらも無いわけです。そしてその後の食糧配給場面でも、当然のようにゆりっぺさんは居ないわけです。天使と一緒に、NPCと一緒に、つまりこの世界に適応し参加していく所業を、ゆりっぺさんは拒んでいる。しかもそれだけでなく、拒んだ果てに、ひとりで、今度こそ神の御遣いかもーな天使Bとバトってるのですから、その温度差は言わずもがな。――だからそのー、なんとも判別付かなくて、なんとも難しいよね。神は、一方(ゆり)では対象aとしてのマクガフィン的であり、もう一方(他の人)では浮遊するシニフィアン的である。
えーと要するに、真相解明編をまとうぜ!って話です。ぶっちゃけ毎週そうだけどね! 神への復讐、その最前線/希望を胸に生れ落ちる生命。彼女はそれを見送り続けた/ 「死にきれない」、つまり未練や悔いや思い残し、「これがあたしの人生なんだ」と生きてく意味とか生まれてきた意味とか、つまり死にきれなさを超越するもの。それらがいちおう、中心のようなものだと思うんだけど、しかし、真相がわからないからこそ、これらをどこまで額面通りに受け取っていいのかもわからない。
というのがね、逆説的に優れてるんじゃないかと思います。真っ向から人生を語る(テーマは人生賛歌!)というのを回避できている。そんなものを真っ向から語られてたら、さすがにクサかったりでやっていけないかもしれないけど、このように、真相を分からなくすることにより、キャラクターの過去や見つけた人生の意味の「本当の意味」を宙吊りさせることが出来ており、それが逆説的に、やがて来る強度の潜在となっている。未だ未分化的であり、意味づけで回収できないように・位置づけを拒み続けているように、それは”存在しているのに現実化されておらず”、”見えているのに潜在的であり続けられている”のです。
これはまあ、一つの肝でしょう。真相を隠すというのが作劇的な所作だけだとしても、しかしそうしてしまっている以上、何かしらの意味は生じている。ようすると、プラグマティックには、真相解明されたときに一気にばーん!と来るのでしょうが、それまでは「これ何なのだろう」の段階に潜在させておくことが出来、それがばーん!ってなったときの強度に繋がるという話なんですが、しかし「そのためにこうしている/結果としてそうなる」という構造・構成そのものが、そのものに回収しきれない過剰を生んでいる。それが……そのうちの一つが、つまりこういう点であり、それが果たしていかなる意味を持てる/持つのかは……真相次第、だよねー!
というわけで真相編が楽しみなんですが、ぶっちゃけ毎回ごとの期待をぜんぶ真相解明=最終回に延期しまくって積もり積もってキャリーオーバーがとんでもないことになっているので、つまりアレだよね、期待しすぎかもね自分、という話ではありますが、現状宙吊り分のタメがあるので、ラストはスパッと斬れてくれるでしょう、と期待して。真相解明は劇場で、だとしてもボクは見に行くよ!
(記事編集) http://nasutoko.blog83.fc2.com/blog-entry-93.html
2010/05/15 | Comment (0) | Trackback (0) | HOME | ↑ ページ先頭へ |美苑さんマジ天使で、莉っちゃんの踊りがアホすぎて大爆笑で、主人公にドン引きのゲームです。つまり、まさかのバカゲーでした……!
色に出でにけり わが恋は 初回限定版
Windows
商品詳細を見る
えっと、絵と音楽とシステムは非常に優れています。特に絵は最高といっても過言ではありません。ただストーリーと、そしてなんといってもテキスト(文章)はちょっとアレです。どみるとライターさんにこそレスキューを……! とはいえ、どうしょもないってことではなく、なんだか愛せる酷さであって、笑いながらプレイはできます。バカゲーとして考えれば。
横滑りしていった結果……
エロにしろ萌えにしろ、テキストが走りすぎているとはいえます。しかし、その分、「逆に」バカゲー的な魅力を提示できているとは言えるでしょう……きっと……。
なんだコレwww と言いたい感じなんですが。サービスカット(サービスボイス)的に、淫語を言わせようとしてるのは分かるんですけど、空気読んでない上に唐突なので上滑りしちゃってて、そのままバカゲーの領域にまで滑っていってしまってる感じです。いや、これが逆に面白いところなのですが。(まあ「逆に」じゃなくて普通に萌えゲーだったらもっと面白かったけどな!)■たとえば「この辺がおかしい」
①本家のお嬢様であるヒロインと、分家の普通のギャルゲー主人公的キャラの主人公、お互い礼儀正しく「ですます調」ぎみで会話してるのに、いきなり「勃起勃起」連呼しだす。
②ロマンチックなキスシーンで、いきなり主人公が「俺でオナニーしてんでしょ」とか言い出し、ヒロインが「うん」「オナニーしてます」と言うまで、主人公、ねばる。
③後半、あるキャラが擬似幼児退行してしまい、常にあるヒロインのおっぱいを揉むようになってしまう。そのヒロインは常におっぱい揉まれてるので常にあんあん喘いでいる。
エロゲというのは不思議なメディアです。特に「エロ」に関しては、常々思うのですが、かなり不思議です。というのも、こういった萌ゲーの・和姦モノのエロ(=エロシーン)というのは、たいてい「一番感じている・愉しんでいるのは主人公で、二番目に感じている・愉しんでいるのはヒロイン」、あるいは、「一番感じている・愉しんでいるのはヒロインで、二番目に感じている・愉しんでいるのは主人公」だからです。どう考えてもですね、プレイヤーより主人公やヒロインの方が楽しんでるし感じてるのです。全てのエロゲがそうだというワケではありませんが、また全てのプレイヤーがそうだとは限りませんが、大抵のエロゲとプレイヤーにとってはそうなのではないでしょうか。プレイヤーより主人公やヒロインの方が楽しんでるし感じてる。まあ当たり前といえば当たり前ですね。実際に体験するのは彼らの快楽が、わたしたちより大きい(大きく見える)のは当然でしょう。
ならばわたしたちに残る快楽は何かというと、そこを覗き見る=窃視の快楽でしょう。これは主人公と同一化・ヒロインと同一化についても同じようなことです。ここにおいては「わたしが想像する」という想像力の主体(主体化)が重要です。こちらより作中の人物の方が楽しんでるし感じてるというのは、エロ漫画でもAVでも基本的には同じ。実際に「ヤッてる」人には、その分ダイレクトな・<現実的な>快楽や愉しみが存在している。それが無いわたしたちは、「無い」というのを逆手に取り、想像する主体として補うわけです。「実際とは異なる快楽」「実際以上の愉しみ」を想像的に(想像内において)導き出すことができる。
の……ですが……。
「でにけり」は、主人公がそこを補っちゃうんですね。サービスシーンに主人公が「エロい!」って大興奮しちゃう。しかも、プレイすればお分かりになると思いますが、主人公の発言とモノローグは、えーと素でルイズうわああんのコピペをやっちゃいそうな、気持ち悪い文章です(その上、「えっへん☆」とか「えへへ……♪」とか「かわいい……♪」とか「ホント……☆」とか、ちゃんと星も音符も付きでテキストに書かれてしまう。あと性格もキモイ。下品なエロ発言しかしないデリカシーゼロの変態です。しかもオッサンっぽいです。スポーツ新聞のエロ欄の匂いがします)。
そういうわけで、サービスシーンがサービスシーンとして機能してないのです(コンテクスト無しで成り立てる「声」だけが機能している)。それは「萌え」についても同じで、たとえば莉桜さんが早起きしてるのを主人公が見かけたとき、選択肢として
①かわいいっ!
②エロいっ!!
③どうしたのですか?
こんな選択肢が出てきて(つーか何だこの選択肢)、「かわいい」を選ぶと主人公がかわいいかわいい叫びまくって(しかもキモい文章で)、「エロい」を選ぶと主人公がエロいエロいと歓喜しまくります(しかもキモい文章で)。「かわいい」なんてプレイヤーが勝手に思ってればいいことなのに、主人公が言ってしまうし、じゃあ主人公の発言に同一化しようかといえば、文章キモすぎて同一化できない。むしろ主人公は萌えたりエロがったりするわたしたちの「極端な」鏡であり、そんなもの見せられると逆に引いちゃうんですね。
萌えたり、かわいいと言ったり、エロいと言ったり、下心出すのは、本来プレイヤーだけでも十分です。いちいち主人公が言わなくても、プレイヤーは勝手にやります。なのに、主人公がプレイヤーの「代わりに」言っちゃう上、主人公の発言(モノローグ)は萌え豚とおっさんを足して二で割ったようなキモイ文章だから、同一化もできない。萌えているプレイヤーを極端なカタチで表現したような主人公はマジキモく、そしてこいつはわたしたちの「極端な」鏡像である、という恐ろしい構図がここにあります。主人公が(主人公の発言やモノローグが)イカれている分、わたしたちは一歩離れられるのですね。そうなると、結果として萌えもエロも、まともには機能せず、バカに(バカゲーの領域に)横滑りしていってしまうのです。(付け加えて、登場人物も(特にりっちゃん)話が進むほどどんどんバカになっていきますしね)
もはや萌えもエロも、声と図像にしかない。まさかどみるでこんなことになるとは思っていませんでしたが、これはこれで面白いといえば面白いです。普通にお嬢様キャラだと思っていた莉桜さんが超バカキャラだった(超バカキャラになっていった)のが、それはそれで面白かった・愛すべきキャラになったように、普通に萌えとか見たかったのだけれど、これはこれで面白いし愛せる。
「自分自身(の心)が一回殺されることによって新たな自分となる」というのが、特にメイン二人のストーリーにおける根幹的なモチーフですが、それと同じように、プレイ前や開始直後の印象がどんどん殺されていき、バカゲーとして新たなる魅力を生み出せているでしょう。……たぶん。
(記事編集) http://nasutoko.blog83.fc2.com/blog-entry-92.html
2010/05/02 | Comment (0) | Trackback (0) | HOME | ↑ ページ先頭へ |夜々といちゃいちゃするゲームです。
Clover Point 初回限定版
(2007/12/21)
Windows
商品詳細を見る
この一言以上も以下もありません。いやあるんだけど、そんなことより夜々といちゃいちゃしようぜ!といったことの方が重要で重大で価値がありすぎるので、つまり夜々といちゃいちゃするゲームです。
画面上において、基本的に「一人しかいない / 誰もいない」というのが特徴的でした。たいていのエロゲって、キャラが二人いる場面だと【 (画面左に)キャラA (画面右に)キャラB 】という感じに、複数人が表示されますよね。2人、3人くらいまでなら当たり前に表示されます。しかしクロポは、たとえ何人いようと【 夜々 】といった感じに、常に一人しか表示されないのです。さらに背景も少し特徴的で、たとえば教室の背景絵なんかだとクラスメイトが(背景として)描かれているゲームが多いですが、クロポにおいてそういうのは一切ありません。駅前とか公園とかも同じで、背景には常に誰もいない。つまり、一枚絵を除いた全てにおいて、(立ち絵のキャラ一人分以外の)誰かが描かれることがない。余計な存在や邪魔な存在を排除して、常に【 夜々 】となるわけです。これによりもっともっと夜々といちゃいちゃできるわけです。つまり、夜々といちゃいちゃするゲームです。以上。
(記事編集) http://nasutoko.blog83.fc2.com/blog-entry-91.html
2010/05/02 | Comment (0) | Trackback (0) | HOME | ↑ ページ先頭へ |
WHITE ALBUM2 -introductory chapter- 初回限定版 (予約キャンペーン特典「オリジナルフィギュア」付き)
(2010/03/26)
Windows
商品詳細を見る
introductory chapter は名前通り「前半」だけなので、結論じみたことは勿論言えませんが、しかしなんだこの後半が気になる度は……! という作品でした。で、以下覚え書きを。
音と演出
音を意識した演出が凄くて、たとえばバックグラウンドの音声・SEと、通常想定されるテキストの読まれる速度をだいたいで同期させている(同期するよう心がけて作られてる)なんてことも言えるんじゃないでしょうか。例としては、序盤の授業シーンで(一番最初の授業シーンだったかな)、主人公が普通にモノローグってる間に、モブ生徒が教科書読んでいて、その音声がバックグラウンドで流れているのですが、恐らく想定されているであろう通常の速度で文章を送っていくと、その生徒が読み終わったタイミングと、先生が「はい次、うしろの人」(こちらはテキストに表示)と振るタイミングがおおよそ一致するんですよ。ボクが何言ってるのかわかんないと思いますが(上手に説明できねえw)、これには驚きました。ここがあの女のハウスねのちょっと後、普通に読み進めていると、SEのチャイムが鳴り終るとほぼ同時に「なにやってんだお前ら、4時間目はじまったぞ」というセリフが来るところとかもそうで。非常に凝ったことをやるなと感服させられました。
また、エロゲでたまにある、強制オート(盛り上がる場面やクライマックス・ラストとかで、勝手にオートになること)って、どうも「ここが泣き所ですよ・ここが盛り上がりですよ・ここが感動するとこですよ、だからこう読んでください」的な匂いがしてあんまり好きじゃないんですけど、ホワルバ2の強制オートはそうでも無かったです。というのも、音楽と合わせることが主目的だから(主目的かのように見えるから)。これは非常に素晴らしいと思いました。実際の目的が”どっちにしろ(両方だったにしろ)”、そういった意図性に回収されることなく達成されている。
丸戸キャラクターの自律性と功罪
丸戸さんのキャラクターというのは、自律しているというか、ある意味しっかりと確立されている印象です。他のゲームだったら、地雷踏んじゃうような言動とか、聞き間違いとか勘違いとかなんかは、ああ物語を回すために(書き手がわざと)そうしてるんだな、という部分が透けて見えてしまうようなことが偶にあっても、丸戸さんにはそういう作者の意図の透けのようなものが全く無い。イコール「自然」ということです(※不自然を感じさせる言動ではないということ)。たとえば『さくらさくら』なんかは、聞き間違いとかうっかりとかのオンパレードですが、「なぜ彼がそこで聞き間違えるか」の必然性が示されてないわけです。だからそこに、作者の意図が透けて見えてしまう。「なぜ」の理由が人物の中にないのだから、作劇自体に回収されてしまう。対して『WA2』は、明らかに地雷踏んじゃってるような言動でも、「こいつはそういうこと絶対に言っちゃう人間だから」という根拠が散々に示されてるから、作者の意図的なものが透けて見えない(※後景化したままでいられる)。そういうことを言っちゃったりやっちゃったりする根拠が存分に示されている――むしろそういうことを言っちゃったりやっちゃったり”しない筈がない”、くらいのレベルで。たとえば、冬馬の家に泊まったとき、春希がトラベルセットを忘れちゃって雪菜に疑われるなんて場面がありましたが、こんな「トラベルセット(大事な・疑われざるもの)を忘れる」なんてことも、非常に春希っぽい。春希はひとつのことしか目に入らないというか、”目に入ったものしか目に入らない”タイプの人間なので(※詳細は後述)、こんな危険なブツを忘れることも、「ああ、こいつらしいな」と納得できる。作劇の都合でトラベルセットを忘れたのではなく、春希の人格としてトラベルセットを忘れるのは道理だなと思わせてくれるわけです。
三角関係モノの作劇のお決まりとして、勘違い・言い間違え・聞き間違え・言い損ね・聞き損ね・何かを忘れたりするようなうっかりミスなんかがよくあり、それにより三角関係という物語を回していくことがよくあるパターンでもあるのですが、『WA2』は、それをキャラクターの人格として回収することにより、作劇の都合により振り回される恋愛ではなく、彼らが彼ら自身だから振り回されてしまう恋愛という方向に纏めている。後編がまだなので結論には早いですが、ここまでのところ、勘違いなどの典型的パターンを踏襲しながらも、そこの帰結を作劇(物語)ではなくキャラクター(人間)に持ってくることによって、また別の次元を(新しい物語を)示しているように見えます。
(――前述の『さくらさくら』なんかはまさにそのパターンですよね。主として勘違いや言い損ねや聞き間違いなどで物語が回されている。ただ『さくらさくら』に関しては、作劇のパターンは一般的ながら、モノローグを語らないという、形式での絶妙な迂回があります。『WA2』とは異なる方法で、使い古されているくらいのパターンを回避しているといえるでしょう)
http://d.hatena.ne.jp/matunami/20100330/p1
こちらの方が、
キャラごとの発言、行動、その奥にある気持ちをちゃんと考えた上で、それぞれ独立した個体として他のキャラと絡ませると書かれていますが、まったくもってその通りだと思います。作劇の都合による発言というのが無い(というか、作劇の都合であると”感じられない”)。たとえば、雪菜のお父さんとかプレイしていてクソウザいと思ったのですが、しかしちゃんと、この人(雪菜父)なりの論理での発言だと感じられるんですね。この人はああいう人で、ああいう論理を持っていて、こちらがウザいと思えるような発言でも、この人なりには理に適っているんだろう、と理解できる。そういうのが全キャラ分あって、つまり誰も彼も、その人なりの理に適った言動をとっているように感じられるのです(※そう感じられる根拠は、一貫して「彼自身の理に従った言動」が行われているから。人物の言動が彼の性格・性質などから外れていない(むしろ厳守されている)からこそ、あらゆる言動が作劇に回収されず、キャラ個人に回収され、結果「彼らの自律性」が高まるわけです)。それは前述したように三角関係についても同じで、というか、”そういう人間だからこそ”、三角関係になったとも言えるでしょう。春希と雪菜と冬馬がこういうシチュエーションで出会えば、何回繰り返しても、こういう過程と結末に至るのではないか、だって彼らは”ああいう”人格・性格なのだから……と思えてしまう(ように描写されている)。
で、これは他のライターさんには真似できない丸戸さんの大きな特徴・利点ではあるのですが、同時に大きな欠点になる可能性も孕んでいる。なにせ、作劇の所為での言動ではなく、「春希がゆえの言動」なのだから、その責任は全て春希にかかることになるのです……!
要するに、この主人公ムカつく!ってなっちゃったら、(少なくともその点は)もうどうしようもなくなっちゃうんじゃないかなぁと思うのです。というかボクがそうでした。春希のやつに「そうじゃない、こうしろよ」「○○を言えよ」とか思っても詮無いことすぎる。だって”こいつ(=春希)ならこうする”をずっと実行され続けている”ということが分かるように作られてる”んだから……! 春希に、ああしろ、こうしろと言っても無意味を通り越して意味ないんですよね。だって春希は、ああしたりこうしたりしない、ああしたりこうしたらそれはもう春希ではない、この作中で描かれている行動をするのが春希なんだから……。
だから、途中で「決定的に合わない」となると、もうどうしようもない。たとえば、雪菜の父さんがウザいのは、作劇上の都合ではなく雪菜父がこういう人間だからというのが分かってしまうから(そう理解できるように作られているから)、そこでのウザさの責任は作劇にではなく雪菜父に向かってしまう。責任が作劇の都合ではなく、キャラクター個人に向かう。それは物語世界内レベルでは素晴らしく面白いことなのですが、物語世界外レベルでは、歯車が狂えばどうしようもなくなっちゃうことでもあったりします。格好良い人は(彼の責任において)しっかりと格好良いのだけれど、ウザい人は(彼の責任において)しっかりとウザい。
この、丸戸さんキャラクターが持つ(彼が生み出している)自律性の長所と短所、功と罪。ひるがえれば、”ムカつけるくらいキャラクターが立っている(自律している)”という点では、それだけで既に成功でありレベルが高いのは確かなのですが……。個人的にはちょっとアレだったかなーと。でも後編はすごく気になります。”この”春希のやろうがどう変わっていくのか・変わってくれるのかが……!
トラウマを「解消しない」、心の問題を「解決しない」ということの意義
さて、春希の内面。これはどう考えても「微妙におかしい」んですよね。たとえばNG恋の理くんなんかもそうで、少しおかしい(http://nasutoko.blog83.fc2.com/blog-entry-21.html)。異常な部分がある。けれど、その程度の異常さなど現代人誰もが何かしら持っているレベルだからか、作中で論点に上がることはないのです――これはもの凄く面白いし興味深い。いわゆる「主人公のトラウマ」というやつ(※ここでいうトラウマはあくまで(主人公の)精神的な問題を十把一絡げにトラウマとラベリングしてしまうのに近い「エロゲ用語的なトラウマ」でして、実際の精神分析的な意味でのトラウマとは大なり小なり異なる)を解消しない……そもそも議題(テーマ)にすら上がらない。理くんが狂ってるということに気づいた人はどれだけいるのだろうか?全然見かけないからそんなこと言ってるボクが狂ってるのかと思ってしまいますw
それはともかく、「主人公のトラウマを解消しない(そもそも議題に上がらない)」、これは非常に特徴的だと思います。まあ実際にはトラウマではなく、主人公の「狂ってる=狂気」の部分ですが、決定的に社会生活が送れないほど酷いわけではなく、また彼ら自身がそれぞれ、その異常な部分を抱えたままどう生きるかという処世術を持っている。これはわたしたちとたいして変わらないですね。これはわたしたちとたいして変わりません。大事なことなので二回言いましたが、人間というのは大なり小なり問題を抱えています。「人間には、既に精神病と認定された者か、(実は患っているのだが診断を受けていないため)まだ精神病と認定されていない者しかいない」みたいな感じの有名な言葉があるのですが(※有名なのに誰が言ったのか・詳しくはどんな文言だったのか忘れてすみません。知ってる人だれかフォロって!)、異常な部分や狂的な部分は、誰もが大なり小なり持っているわけです。その中で、”それを抱えたままでも社会生活を送っていけるように”、誰もが色々と工夫して・努力して・注意して・折り合いをつけている。理くんも春希くんも、その点においてはまったく同じで、彼らにも「おかしいところ」はあるけれど、それを病理として作中で殊更に取り上げることはなく、彼自身が抱えるものとして扱っている。そして彼らは、それを抱えた上で社会生活を送れている――どころか、大切なものを得たり、誰かを幸せにできたりしている。
まだ『WA2』は後編が出ていないので結論には早いですが、少なくとも『NG恋』なんかでは、そこはまったく取りだたされなかった。主人公のトラウマ(エロゲ的な意味で)は、議題にも上がらず、問題として前景化することもなく、彼が抱えるものとして埋もれていった。この対処はある意味では祝言でしょう。「病理は正されなくてもいい」「問題に答えを出さなくてもいい」。エロゲでは、少なくともヒロインにおいては、「トラウマは正される(べき)」というコードを多少なりとも負っている。ヒロインの問題は(主人公によって)解決され、特に心に関する問題は(主人公によって)解決される――これは葉鍵(つか鍵)以降、再帰的に強化されてきた流れと云うことができるでしょう(※だからこそ、「そうではない」タカヒロなどが新しいのであって)。それは主人公に対しても、ヒロインにおけるソレよりは弱いとはいえ存在していて、これもONE以降、たとえばメモオフやC†CやFateやキラ☆キラやそれこそ鍵作品に代表されるように、主人公のトラウマや心の問題に対して、”何らかの決着”が示されるという流れが再帰的に強化されてきた。それは換言すると、「病理は正されなくてはならない」「問題には答えが出されなくてはならない」というコードと精神の再帰的強化でもあるでしょう。だからこそ、NG恋では正されないし、答えも出ないのです。その程度の問題や病理は、誰もが抱えている程度のものではないか。ならば・だから正す必要はない、答える必然はない。主人公のトラウマ(エロゲ的な意味で)に答えを出すというのが再強化され続け、「ある種の論理的義務」と化しているからこそ、そのトラウマ的なものに答えを出さないことに意義がある。太一のように紆余曲折を経て自分を認めないといけないわけでも、朋也のように歩き続けた果てに自分を知らないといけないわけでも、鹿之助のように人生を揺るがす大問題の末に自分自身を見つけ「大丈夫に」ならないといけないワケではない。トラウマは解消されなくてもいい。心の問題に答えを出さなくてもいい。NG恋における(エロゲ的な意味での)トラウマの扱い方は、そういう解答を述べているわけです。それを抱えたままでも、社会生活を送れるようになんとか頑張っていけば、(そんな心の問題は「問題にすらならず」)、幸せになれるんだ、と―――
そして『WA2』ではどうなるのか。心の問題というものを徹底的に後景化させ続けテーマ化を拒み続けてきたここまでのテキストを見る限り、NG恋と同じ様になるのではないかと予想しますが、はたして。
そういえば春希の内面がどうおかしいのか書いていなかったので(そこ一番大事じゃん)補足しますと、というか言うまでもないかもしれませんが、基本的に奴は象徴界と想像界の住人です。何かを決め付けているというか、自分の常識が完璧に「自分の常識」なんですよね。「自分の常識が他人にも常識だと思っている」ということではなくて(ほどではなくて)。自分が「○○は××だろ」と思うことは、他人にとっても自分のそれと近いものではないかと思っているけど、確定=(その他人にとっても)常識、というほどではない、けれど自分にとっては絶対の常識である。「クラス委員ってのはそういうものだろ?」「テストの時は一ヶ月前から勉強するものだろ?」みたいな自分の常識を当たり前だと思っていて、けれどそういう「自分の常識」が、他人にとっても当たり前=常識だと”までは”思っていなくて(春希も自分の極端な部分とか変わった部分とかは幾つか自覚していますよね)、しかし、なのに、自分にとってはそれが当たり前で常識である。疑う余地もなく。自分にとっては常識でも他人にとって常識ではないそれを、そうだと知っていながらも、春希は疑っていない(し、他人にも「これが常識」と思わせようとしない)。これは別に社会生活が出来ないほど異常ではないし、他人をむやみに傷つけてしまうほど狂ってはいない――つまり、このくらいの「おかしさ」なら、人間誰だって持っていてもおかしくないレベルのものではあるのだけど(※もちろんフィクションなので強調やデフォルメがされているだろうけど)、でも、少なくとも”その程度には”、彼はおかしい。
冬馬が楽しい、可愛いという雪菜評に対して、「悪い、俺の言ってた冬馬って、ウチのクラスの冬馬かずさって子なんだ」「本当に同一人物なのか……?」と言ってしまうように、こんなに(雪菜の言葉に対する、自分がかずさに接するときは当然のように「自分」だという事実に対する)理解が及んでいない。 冬馬の家に泊まりこみでギター練習していて、熱心にやりすぎて気づかないうちに夜を明かしてしまったときに、時間を見て「俺の腕時計が狂ってる」、外に日が差してるのを見て「どうして窓の外が明るいんだ」、と素で言ってしまうように。 「ミス峰城大付属の小木曽に対して、最初から失礼な印象を持っていた」と語るように。他人の印象・風評に惑わされず、自分で見て決めるが、”自分で見て決めたソレには簡単に惑わされる”(前提として絶対であるから)。
そんな「おかしさ」は、たとえば生きていけないほど異常ではない、社会生活を送れないほど狂ってはいない。いや、そのままだと社会で生きていけないかもしれないけど、彼は作中で散々示されるように、自分を御して社会に入り込む彼なりの処世術を見に付けている。それはある意味、ボクらと同じようなもので、それさえあれば――それだけあれば、生きていくことも、どころか幸せになることだって、叶うかもしれない。
誰にでも、色んな事情がある。作中の言葉ですが(これは恋愛にもかかってる――WA2の物語(ないし彼らの恋愛)への自己言及的なものでもあるかもですが)、これが印象的でした。これは――そもそもこのモノローグ自体が、「かずさの問題」に絡めて出てきたものですが、春希に対しても同じようになるのでしょうか。
家のこと、家族のこと、友達のこと……
人と比べて自分を慰めたり、余計に落ち込んだり、足掻こうとしてかえってドツボにはまってしまったり。
そんな、誰もが持ってる「自分だけの事情」って、本人的には生きるか死ぬかの問題だと思ってても、端から見ると、実は大したことなかったりして。
『WHITE ALBUM2』が後編において、どのような結論をここに用意するのかは分かりません。これまでのところはNG恋と同じ様に、エロゲ的なトラウマ、心の問題のようなものは埋没していますが、そこ(心)に刃を向けるのかもしれないし、あるいはNG恋のように社会や生活や幸せの後景に収め続けるのかもしれない。どのような結論が出てくるのか分かりませんが、どちらにしろ面白そうではあります。
(記事編集) http://nasutoko.blog83.fc2.com/blog-entry-90.html
2010/04/30 | Comment (0) | Trackback (0) | HOME | ↑ ページ先頭へ |