このページの記事目次 (カテゴリー: メモ)
- エロゲの選択肢――決定の不可能性について [2009/10/22]
- ヒロインのトラウマをどうにかする権利をやろう(AA略 [2009/10/11]
- エロゲの背景における「断絶」と「接続」に関する一考――『真剣で私に恋しなさい!』通学路より [2009/09/15]
むかし別のところに書いた文章なんだけど、自己参照したいのでこっちにも移植。見たことあるぜ~という方がいらっしゃったらどうもその節はお世話になりました。またあったね!とご挨拶を。一応ベースが『てとてトライオン』の感想になってます。ごく僅かなネタバレはあるかも。
(記事編集) http://nasutoko.blog83.fc2.com/blog-entry-46.html
2009/10/22 | Comment (-) | HOME | ↑ ページ先頭へ |
ただのメモ書き三連発。下二つはそのうちビルドアップしたい。
■
10月に買うエロゲ。『コミュ』、『幼なじみは大統領』。この二つは確定。買う、そして速攻やる。『コミュ』までになんとか『るい智』を終わらせるのが当面の目標かなぁ……と思いつつ「るい智」があまりに面白すぎて、本気で読み込みたいのでいつ終わるのか自分でも検討がつかない感じです。いやこれ本当にすごいです。久しぶりに本気で取り組みたいと思わせる作品。
あと『ましろ色シンフォニー』も買うかも。というか多分買う。『村正』は欲しかったけどスペック的に動かねえ……。どーも最近スペ要求のハードルがどんどんと上がってきているような気がします。
迷うのが『果てしなく青い以下略』なんですけど、どうしましょうか。無印は、プレイした後トラウマちっくになって以後5年間くらいエロゲから離れたというくらい、ボクにとっては鬼門だったのですが。しかしソレは内容どうこう以前に自分が若すぎた所為で、今の自分なら実は受け入れられるのではないか……みたいな、期待と不安も入り混じりっています。うーんどうかな、ムリかなー。
そんな感じ。
■アイキャッチ・メモ
エロゲにおけるアイキャッチの効果性について少し考えてみた――というか、今度考えるんだけど。まあ下書き・とっかかりということで。ぶっちゃけこのブログ自体が壮大な下書きなんですが(なんの?)
基本的には「1テンポ入れる」ものである。場面転換時の「暗転」と意味合いは変わらない。しかし「プレイヤーの目を覚ます」ような効果もある程度はあるでしょう。何せメタ的な存在ですからね。例えば、いったん舞台の幕が降りれば、ドラマの途中にCMが入れば、その虚構世界から私たち自身がいる”こちらの世界”に、いったん意識が向けられるのも然るべきところ。椅子に座って舞台を見ている、テレビの前に座っている、そんなことを意識させるものでもある。
もちろんそれはモノによるけれど――たとえば「ゲームのタイトル」を画面に出すアイキャッチなんかはどうだろう? その辺の落差がさらに激しくなるのではないだろうか?
とか思うんすよねー。これは良い点もあれば悪い点もあるでしょう。
最近ボクがプレイした中では、たとえば『俺たちに翼はない』なんかは、シャッターが降りるようにタイトルロゴ付きのアイキャッチがどんっと画面を占有することによって、一瞬だけ、ふと意識が、物語世界からゲームプレイという行為へと流れ出る。俺はこいつじゃない、これはゲームだ、というほんの僅かな意識性。回数も、表示される時間も僅かなので、そこにあるのは本当に些細な違和感。けど、本当に些細な違和感程度には、物語世界とゲームプレイとの間に「溝」があって然るべきなのだ。それは『俺つば』の内容ともの凄くあっていました。『スズノネセブン』なんかは結構な頻度で入ってきたけれど、プレイヤーの視座が、主人公たちを「見る」ようなものに近しい――それを想定できる主体がゲームの内外部に存在している(学長―大人たち、とか)なので、その「見る」という感覚には非常にあっていた。逆に『死神の接吻は別離の味』なんかは、しょっちゅうアイキャッチが――しかもタイトルいちいち喋るし――入ってきて、その度に物語世界が頓挫して、それでいて別にメタ的見地も、ここにいない楽しんでいると想定される主体(プレイヤーの座の置ける場所)もなくて、正直これはわずわらしいほどでもあった。
とまあ、メタ的な「溝」を意識させることによって、プレイヤーの立ち位置を明らかにするとか、劇としてのそれを意識させるとか、単純な場面転換・息抜き以外にも色々ありえるんじゃないかなーと。詳しくは今度考えるー。
■ファリックガール、エア批評
http://twitter.g.hatena.ne.jp/hachimasa/20090920/1253398080
「戦闘美少女の精神分析」を読んでない(斎藤環さんの提唱したファリック・ガールに明るくない)ので、あくまでエア批評ですが。だからあくまでメモ書きですがー。てゆうかボクは斎藤環さんの本、7冊くらいは読んだと思うけどファリック・ガールって言葉は一度くらいしか目にしなかった気がする。
普通に考えたら「ファリック・ガールを救済する方法」って、「お前の持ってるファルスは偽物だよ」と云う事(それを明らかにすること)に至るんじゃないだろうか。
ご存知のとおり、人は誰も「本当のファルス」というものを獲得できない。ただし、相手側が「それはファルスだ」と思うようなものならば獲得できる。それはたとえば「子から見た親」のように、(封建社会の)「臣民から見た王」のように。ゆえに「ファリック・マザー」は成立し得る。ファルスを持った母親というのは存在し得る。ファルスというのはもちろん象徴(象徴界)におけるファルスでしかなくて、受け手(相手・受信者)にとっては、その「マザー=親」という機構がそれだけでファルスを(象徴的に)所持する・というか”保証する”条件の一つを満たしている
ファリック・ガールというのは、単純に闘う少女のことではなく、綾波であろうと長門であろうと、あるいは例に挙がってたところでボクが知ってるところだとカレンや曜子ちゃんか……(例に挙がったのでまともに分かるのそんだけしかいないので、間違ってるかもしれないが)彼女たち全てに共通するのは、「トラウマの無さ(見えなさ)」と、その「超然とした」態度、である。その辺がファリック・ガールの必要条件……であるらしい(たぶん)。
しかしそれは、ファルスを持っているとは言えないのではないだろうか。というか単純に、トラウマが無いということが、「去勢されてなさ」を示しているかのようで、超然さが、「父の名に縛られていない」ことを示しているかのように見えるだけなんじゃないだろうか。この象徴的ネットワークに囚われていないかのような超然さは、彼女が私たちと違って去勢されていないからである。みたいな錯覚。
つまり、私たちと同じ様な去勢のしるしを認めることができない彼女は、私たちと違って去勢されていない、かのように見える。だからファルスを持っているかのように見える。
いやゴメン、「エア」でそこまで書くなって内容だけど。あくまでメモだからと言い訳を(戦闘美少女~は今度読む)。
その超然さ・トラウマのなさ=つまり去勢されていないことから、まるで擬製ではない「真のファルス」を持っているかのように見える。しかしそれは、象徴的に保証されていない。その超然さ・非去勢さは、彼女たちを象徴的ネットワークから半ば除外し、まるでホンモノのファルスを持っているかのようですが、しかしよくよく考えてみると、彼女たちが持っているのは「ただの超然・非去勢」であって、決して「ファルス」ではないのです。去勢されていない=ファルスを持っているということではない。喩えるなら仙人のような。秘された魔法使いの弟子のような。権力をポンと引き継いだまだ年端もいかない無垢なるお姫様のような。
我々から半歩離れ、去勢されていないだけ。彼女達すべてに当てはまる印象として「寂しさ」「孤独」という点がある――”それを我々見る者に抱かせてしまうという点が”(しかもそれが特徴であり萌えポイントでもあるのだw)――まさにそのことの証左。ファルスを持っているわけではないことの証左。
彼女達に救済をもたらすとしたら――もうぶっちゃけ、例に挙げた彼女たちの物語がそれを証明してるんすけどね――「君たちはファルスなんて持ってないよ」というところに行き着く。
だから貴女たちは、去勢されてないだけで、孤独ではないのだよ、と。
エロゲにおけるヒロインのトラウマどうこうは、こないだ「主人公がクッションの綴じ目格」(※「クッションの綴じ目」はラカン先生のアレ)と検討付けてみたんですが、いやもちろんもっと詰める必要は大アリなんですけど。「カウンセリング願望」というのはまさにその辺で、だから(そういう意味で)主人公は・プレイヤーは「父」なりうる。
ひとつ疑問に思うのは、エロゲ的文脈における「救い」というのはそこに集約されすぎているのではないかと。
その観点における物語駆動性における要請が、ループとファリックガールの関連性でもあるのかもしれない。ヒロインを救いヒロインを俺のものにする(父となる・所有する)という歪な構造がエロゲの花であり仇。何だかんだいって、みんな、そういう意味での攻略を求めたりしている。サブヒロインルートが欲しいだとか、「きみある(の森羅様シナリオ以外)」で「もう終わり?」といった感想が多いところとか。もちろん状況は刻一刻と変化し、そこにおいても変わってはきているけれど。
えーとメモだから中途半端だけど終わり。
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10月に買うエロゲ。『コミュ』、『幼なじみは大統領』。この二つは確定。買う、そして速攻やる。『コミュ』までになんとか『るい智』を終わらせるのが当面の目標かなぁ……と思いつつ「るい智」があまりに面白すぎて、本気で読み込みたいのでいつ終わるのか自分でも検討がつかない感じです。いやこれ本当にすごいです。久しぶりに本気で取り組みたいと思わせる作品。
あと『ましろ色シンフォニー』も買うかも。というか多分買う。『村正』は欲しかったけどスペック的に動かねえ……。どーも最近スペ要求のハードルがどんどんと上がってきているような気がします。
迷うのが『果てしなく青い以下略』なんですけど、どうしましょうか。無印は、プレイした後トラウマちっくになって以後5年間くらいエロゲから離れたというくらい、ボクにとっては鬼門だったのですが。しかしソレは内容どうこう以前に自分が若すぎた所為で、今の自分なら実は受け入れられるのではないか……みたいな、期待と不安も入り混じりっています。うーんどうかな、ムリかなー。
そんな感じ。
■アイキャッチ・メモ
エロゲにおけるアイキャッチの効果性について少し考えてみた――というか、今度考えるんだけど。まあ下書き・とっかかりということで。ぶっちゃけこのブログ自体が壮大な下書きなんですが(なんの?)
基本的には「1テンポ入れる」ものである。場面転換時の「暗転」と意味合いは変わらない。しかし「プレイヤーの目を覚ます」ような効果もある程度はあるでしょう。何せメタ的な存在ですからね。例えば、いったん舞台の幕が降りれば、ドラマの途中にCMが入れば、その虚構世界から私たち自身がいる”こちらの世界”に、いったん意識が向けられるのも然るべきところ。椅子に座って舞台を見ている、テレビの前に座っている、そんなことを意識させるものでもある。
もちろんそれはモノによるけれど――たとえば「ゲームのタイトル」を画面に出すアイキャッチなんかはどうだろう? その辺の落差がさらに激しくなるのではないだろうか?
とか思うんすよねー。これは良い点もあれば悪い点もあるでしょう。
最近ボクがプレイした中では、たとえば『俺たちに翼はない』なんかは、シャッターが降りるようにタイトルロゴ付きのアイキャッチがどんっと画面を占有することによって、一瞬だけ、ふと意識が、物語世界からゲームプレイという行為へと流れ出る。俺はこいつじゃない、これはゲームだ、というほんの僅かな意識性。回数も、表示される時間も僅かなので、そこにあるのは本当に些細な違和感。けど、本当に些細な違和感程度には、物語世界とゲームプレイとの間に「溝」があって然るべきなのだ。それは『俺つば』の内容ともの凄くあっていました。『スズノネセブン』なんかは結構な頻度で入ってきたけれど、プレイヤーの視座が、主人公たちを「見る」ようなものに近しい――それを想定できる主体がゲームの内外部に存在している(学長―大人たち、とか)なので、その「見る」という感覚には非常にあっていた。逆に『死神の接吻は別離の味』なんかは、しょっちゅうアイキャッチが――しかもタイトルいちいち喋るし――入ってきて、その度に物語世界が頓挫して、それでいて別にメタ的見地も、ここにいない楽しんでいると想定される主体(プレイヤーの座の置ける場所)もなくて、正直これはわずわらしいほどでもあった。
とまあ、メタ的な「溝」を意識させることによって、プレイヤーの立ち位置を明らかにするとか、劇としてのそれを意識させるとか、単純な場面転換・息抜き以外にも色々ありえるんじゃないかなーと。詳しくは今度考えるー。
■ファリックガール、エア批評
http://twitter.g.hatena.ne.jp/hachimasa/20090920/1253398080
「戦闘美少女の精神分析」を読んでない(斎藤環さんの提唱したファリック・ガールに明るくない)ので、あくまでエア批評ですが。だからあくまでメモ書きですがー。てゆうかボクは斎藤環さんの本、7冊くらいは読んだと思うけどファリック・ガールって言葉は一度くらいしか目にしなかった気がする。
普通に考えたら「ファリック・ガールを救済する方法」って、「お前の持ってるファルスは偽物だよ」と云う事(それを明らかにすること)に至るんじゃないだろうか。
ご存知のとおり、人は誰も「本当のファルス」というものを獲得できない。ただし、相手側が「それはファルスだ」と思うようなものならば獲得できる。それはたとえば「子から見た親」のように、(封建社会の)「臣民から見た王」のように。ゆえに「ファリック・マザー」は成立し得る。ファルスを持った母親というのは存在し得る。ファルスというのはもちろん象徴(象徴界)におけるファルスでしかなくて、受け手(相手・受信者)にとっては、その「マザー=親」という機構がそれだけでファルスを(象徴的に)所持する・というか”保証する”条件の一つを満たしている
ファリック・ガールというのは、単純に闘う少女のことではなく、綾波であろうと長門であろうと、あるいは例に挙がってたところでボクが知ってるところだとカレンや曜子ちゃんか……(例に挙がったのでまともに分かるのそんだけしかいないので、間違ってるかもしれないが)彼女たち全てに共通するのは、「トラウマの無さ(見えなさ)」と、その「超然とした」態度、である。その辺がファリック・ガールの必要条件……であるらしい(たぶん)。
しかしそれは、ファルスを持っているとは言えないのではないだろうか。というか単純に、トラウマが無いということが、「去勢されてなさ」を示しているかのようで、超然さが、「父の名に縛られていない」ことを示しているかのように見えるだけなんじゃないだろうか。この象徴的ネットワークに囚われていないかのような超然さは、彼女が私たちと違って去勢されていないからである。みたいな錯覚。
つまり、私たちと同じ様な去勢のしるしを認めることができない彼女は、私たちと違って去勢されていない、かのように見える。だからファルスを持っているかのように見える。
いやゴメン、「エア」でそこまで書くなって内容だけど。あくまでメモだからと言い訳を(戦闘美少女~は今度読む)。
その超然さ・トラウマのなさ=つまり去勢されていないことから、まるで擬製ではない「真のファルス」を持っているかのように見える。しかしそれは、象徴的に保証されていない。その超然さ・非去勢さは、彼女たちを象徴的ネットワークから半ば除外し、まるでホンモノのファルスを持っているかのようですが、しかしよくよく考えてみると、彼女たちが持っているのは「ただの超然・非去勢」であって、決して「ファルス」ではないのです。去勢されていない=ファルスを持っているということではない。喩えるなら仙人のような。秘された魔法使いの弟子のような。権力をポンと引き継いだまだ年端もいかない無垢なるお姫様のような。
我々から半歩離れ、去勢されていないだけ。彼女達すべてに当てはまる印象として「寂しさ」「孤独」という点がある――”それを我々見る者に抱かせてしまうという点が”(しかもそれが特徴であり萌えポイントでもあるのだw)――まさにそのことの証左。ファルスを持っているわけではないことの証左。
彼女達に救済をもたらすとしたら――もうぶっちゃけ、例に挙げた彼女たちの物語がそれを証明してるんすけどね――「君たちはファルスなんて持ってないよ」というところに行き着く。
だから貴女たちは、去勢されてないだけで、孤独ではないのだよ、と。
エロゲにおけるヒロインのトラウマどうこうは、こないだ「主人公がクッションの綴じ目格」(※「クッションの綴じ目」はラカン先生のアレ)と検討付けてみたんですが、いやもちろんもっと詰める必要は大アリなんですけど。「カウンセリング願望」というのはまさにその辺で、だから(そういう意味で)主人公は・プレイヤーは「父」なりうる。
ひとつ疑問に思うのは、エロゲ的文脈における「救い」というのはそこに集約されすぎているのではないかと。
その観点における物語駆動性における要請が、ループとファリックガールの関連性でもあるのかもしれない。ヒロインを救いヒロインを俺のものにする(父となる・所有する)という歪な構造がエロゲの花であり仇。何だかんだいって、みんな、そういう意味での攻略を求めたりしている。サブヒロインルートが欲しいだとか、「きみある(の森羅様シナリオ以外)」で「もう終わり?」といった感想が多いところとか。もちろん状況は刻一刻と変化し、そこにおいても変わってはきているけれど。
えーとメモだから中途半端だけど終わり。
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2009/10/11 | Comment (-) | HOME | ↑ ページ先頭へ |![]() | 真剣で私に恋しなさい! 初回版 (予約キャンペーン特典付き) (2009/08/28) Windows 商品詳細を見る |
エロゲの背景描写は、その特色故にもうちょっと考えてみたいところなのですが、とりあえず『真剣で私に恋しなさい!』では、<変態の橋>が興味深かったです。


『真剣で私に恋しなさい!』では、主人公が学生で、ということは当然学校に通うワケなんですけど、その際の「通学路」というものが、そこで映される場面(背景)が、「家の前」「河川敷」「変態の橋」しかない。川が境界の役目を担っていて、橋がそれを繋ぐものを担っているというのは、古今東西どんなジャンルでも言われてきたことですけど、エロゲ(ノベル・アドベンチャータイプ)においては連続性のある背景描写というものが実質不可能であって、その断絶性が、「川」「橋」という境界における断絶性、さらには「家」「学校」という場所的・プライベート/パブリック的な断絶性、そこをより(絵的な意味でも)引き立てると思うのです。
たとえば、映像メディアの話ですが、蓮実重彦さんは映画「秋刀魚の味」における、一階と二階の分離を指摘していました。
そして夫婦は一階にいて、子供や来客は二階に寝泊まりする。男の聖域である料理屋の座敷と対応しつつ、家屋の二階が娘たちの聖域になっており、階段の不可視性によって奇妙に浮遊しているという蓮實重彦の指摘はよく知られていよう。
【五十嵐太郎「映画的建築」・P36】
階段を映さないことにより、一階と二階の接続性・連続性が弱くなる。一階と二階が”実際に繋がっている(自由な行き来的な意味で)証拠”が映されないから、二者の繋がりという想像力が働けず、これにより、二階が奇妙に「浮遊している」。どうやって一階と二階を行き来するのかが映されないということは、一階と二階の行き来が(視覚的に)保証されていないと認識できるということです。
これは誰も指摘していない……つうか、ボクが暇なとき見返して後で指摘しようかなーと暖めておいたのですが(時間ができたら纏めるかもー)、まあいいやということで今申し上げますと、京アニ版『CLANNAD』『CLANNAD AFTER STORY』においても、ひとつ似たような「奇妙な浮遊」があるんですね。
それは「朋也の部屋」。
岡崎家は結構な回数映っていますが、”朋也の部屋がどこにあるのか”がまるで映っていません。居間、流し、朋也の部屋、あと玄関、それらは数限りなく映りこむけれど、”どこに階段があるのか””どうやって朋也の部屋に入れるのか”が、まるで映っていない。
先ほどの「秋刀魚の味」と同じことです。奇妙に浮遊している。「朋也の部屋」と、この家の別の場所が、まるで接続性がない、まるで連続性がない。たとえばボクたちが岡崎家の玄関から中に入ったとして、どこ歩いたら朋也の部屋に着くのか、まるで分からないでしょう。入って、結構すぐに台所があって、居間があって、その奥に階段があるんだろうな――くらいは想像できるけれど、その先が映されていない故に未知すぎる。朋也の部屋という、朋也の居場所は、他の部屋と、つまり他の部屋の住人と、すなわち親父と、まるで接続性がない、まるで連続性がない。だからこそ、たとえば第一話で親父が朋也の部屋に入ってきたときも、智代が朝起こしに来たときも、まるでワープでもしたかのように、いきなりそこ(朋也の部屋)にいる。他との連続性・接続性がないから、他者は”突然”でしか出現しえない。
……これだけなら、なんてことはありません、どのアニメでもあんだろ杏の家だってそうじゃんという話ですが、朋也の部屋という環境、つまり「家における朋也の居場所」に関しては、他にも比較対象があるので、話は別になります。他に朋也が暮らした家、そう、古河家と、あの卒業後に住んだアパートですね。
玄関・居間・台所・朋也の部屋、あとほんの少しの廊下……それ以外は「何も」写さなかった岡崎家に比べ、古河家は写しまくりです。岡崎家じゃ映されず、どうやって彼の部屋に辿り着くのか不明だった階段だって、ここでは写しまくり。渚の部屋、あるいは朋也の部屋に、”どうやって”辿りつけるのか分かりまくりですね。つまるところ、接続性・連続性がある。「朋也の部屋」という朋也の居場所が、他の部屋と、誰かの居場所と、繋がっている。すなわち、その家に住む他の者と、朋也が”繋がっている”。部屋と同じく、親父に対して奇妙に浮遊した関係であったかつてとは大違いです。そもそも、一歩踏み込めばすぐ家の領域に変わるタイプの「お店」ですしね。接続性と連続性は、この家内だけに留まらず、外側にまで延びている。
「アパート」に関しては、言うまでもないでしょう。そもそも部屋がないし。全てが一気通貫に繋がっています。
そしてここにおいては、もうひとつ大事な指摘があります。親父とのすれ違いを解消した、アフターストーリーの19話。親父との話し合い後は、「それまで」の岡崎家とは違って……というか、それまでに写されていなかったものを、沢山写しています。一緒にお風呂が象徴的ですが、そこに、朋也と、直幸が、同フレーム内に収まる。
ここにおいて「繋がった」ワケですね。家の中での居場所というものが、家の中の他に対して奇妙に浮遊していた――その関係は彼ら二人の関係と同様でもあった――学生時代の朋也の居場所に対して、古河家においては、他の場所と繋がる連続を、アパートにおいては、そもそも全ての場所が一つになるほどの繋がりを、そしてこのAS第19話で、岡崎家においても、全ての場所に「朋也も直幸もいれる――偏在できる」、すなわち「全ての場所が彼らの居場所になりうる」ということを示したワケです。もう、この家の中で、朋也の居場所は、他と隔絶されて浮遊することなくなった。地続きに、続いている。
ついでにもう一つ言っておくと、(朋也の家から)春原の部屋に向かうという描写が殆どないということも重大であります。寮の遠景を映すくらいで、気付いたら、春原の部屋に居る。そこではむしろ逆、奇妙に「繋がって」います。道中の徹底した省略により、玄関(というか朋也くんの部屋の扉)開けたら春原の部屋、というくらい繋がり性ができている。
ということで『マジ恋』の話に戻りましょう。一応ネタバレなところは反転文字で。
先に書いたように、通学路の背景というのは「家の前」「河川敷」「変態の橋」の三つ(河川敷に関しては2パターンの絵)しかない。その「通学路」は、他者的なところ――つまり別の・一般の「家」とか「駅」ですね、それを決して写さない、けれども、川という境界を写す(そして橋が「変態の橋」である以上、橋までは「正常」である)ということにより、そこ自体が「境界」となっている。
まず風間ファミリーという学校に向かう面々があって、ただし「彼ら」と「学校」は外部と内部、境界が引かれている。故に川という境界を橋をもって渡る。けれども、当然ながら学生である以上は、大きな目で見れば彼らとて学校の内部である。そして「学校」と「社会」というのも当然厳密的には区分けできるものであって、そこでもまた境界が引かれている、故に通学路は他者的なものを映さない。一般の家々は映らない――少なくとも、この歩いている土手以外の場所にあるし、同じ学校に通うもの・(社会・一般からは外れてる)百代への挑戦者・外部だけど風間ファミリーに非常に近いキャップのバイト先の店長なんかは通行人として映っても、他は映らない。ただし「学校」も「風間ファミリー」も、「地域」という枠組みでなら包括される。つまり「家の前」「河川敷」「変態の橋」も、大きく見れば川神という地域の元に包括される。変態の橋は学生で共有され、川・河川敷は総理がそうだったように地域で共有され、家は寮ゆえに寮生で共有される。そして川神を火の海にするというラストシナリオでも、その全てが映っていた――ひるがえれば、その全てが川神に入っていた――ように。(←ネタバレ反転)
聖域たる秘密基地のビルに向かうときも、特別なイベントとかなく、通常時なら(つまり殆どにおいて)、いきなりビルの前か、いきなり部屋、あるいはせいぜい家の前・学校の前・河川敷くらいしか写されないのもまた特徴でしょう。
つまりですね――「外部」と(から)、少し浮遊している。いや、その場所そのものに、キャラクター達が直接的に接続されていると述べた方が近いでしょうか。
これらは殆ど全てのエロゲにおいて、「背景画像」が限られているという数の点から当然のことでして、別のタイトルなら違う意味や見解がそこに持てるので、まったくもって『マジ恋』に限らないことですが(それゆえ作り手側が「狙って」これをしてるか「偶然に」こうなったか以前の問題になりますが)。しかしこの背景画像によって必然的に生じうる「断絶」と「接続」は、一考に価するのではないでしょうか。
(記事編集) http://nasutoko.blog83.fc2.com/blog-entry-29.html
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