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風間ファミリーと閉鎖性 (「真剣で私に恋しなさい!」)

   ↑  2009/09/30 (水)  カテゴリー: まじこい
『真剣で私に恋しなさい!』ネタバレ。ちょっとアレが疑問に思うというかわだかまったので。

風間ファミリーへの加入条件というか、そこにおける選民性・選択性が強いかというと、それは普通(普通の程度)なんじゃないかなーと。多分、結果的に「超人」揃いだったことと、男女混合の大人数グループだったことが、そこら辺に暗幕をかけている。別に正義の味方でもボランティア団体でも何でもなくて、”ただの友達集団”なんだから、誰でも彼でも加入できるわけではないし・実際に誰でも彼でも加入できなかったという事実は”普通”のことだと思うんですよね。普通に自分とその周囲とか、あるいはクラスメイトの属している集団(グループ)とか思い起こしてみればいい。特に仲の良い数人で固まってて、それは”集団”で、余所からすればある程度”閉鎖的”であるけれど、それってのは友達集団においては普通のことであるんじゃないかなあと。

俺達は、積極的に仲間を増やそうとしなかった。
今のままでも充分楽しいから。
【ユキを仲間に入れるの断ったとこの回想】


基本的には「楽しく遊べるための仲間」というのが集団加入の条件であって、それ自体は、この世に数多在る子供のコミュニティその殆ど全てと似たようなモノ――つまり”普通”であるんじゃないでしょうか。小学校でも、中学校でも、高校でも、”つるむ奴ら”というのは、単純に気が合ったり、遊ぶと楽しい奴らであって、そこに無理して新しいメンバーを求めたり、探したりするなんてことは普通しない。まあこの時の大和は京回想でも語られるように、おそらく「ニヒル」時代の大和でしょうから、こうも無下に断った面もあるのでしょうが、友達集団に外部から「いれてー」と誰かが加入を求めてきたところで、普通は無条件に承認しませんよね。一緒に遊ぶと楽しい奴だから仲間に加える(加わる)というもの。クリス・まゆっち加入時に、「軽い気持ちでおためし・気が合わなかったらやめよう」みたいなことが述べられていたのが、まさにそういうところの付き合い方でしょう。その”友達集団”が、別の誰かと遊ぶことはある。たとえば大和とサブルートのヒロインとか、モロとスグルとか、キャップとクマちゃんとか、そうやって一対一で遊んでる場面も当然あるし、その延長線上で複数人同士で遊ぶというのがあってもおかしくない(ちょっと変則的なものなら十分ありますが)。現実のボクらだって同じですね。”友達集団”みたいのがあっても、それと関係なく遊んでる相手とか当然いるでしょう。だからといって、ソイツがその集団に入るかどうかは別の話。その”友達集団”の殆ど全員を絡めて遊ぶ”誰か”がいたところで、ソイツがその”友達集団”に入るかどうかはまた別の話である。まゆっち・クリスのとこで言ってた「おためし期間」のように、気が合ったり、遊んでて面白かったりすれば入るかもしれませんね。そこで入らなかったのが、これまでに語られてこなかった”誰か”たちであったり、あるいはクマちゃんやヨンパチやスグルであったりするのかもしれない。そして、そこで入ったのが、ゲンさんである。

まあそのぐらいに「普通のこと」というか、そういった閉鎖性は「普通のこと」でしょう。ファミリー外で遊ぶ奴等だって、そいつはそいつで別のファミリー・友達集団を持ってる可能性は高いし(だからこそ、余所から越してきたクリス・まゆっちはすんなり入れた)、単純に入る気がないだけかもしれない。
特徴的なメンバー・男女混合・大人数・クリスとまゆっちといった点が、間口の広さというか、友達集団=遊び仲間という点に、少しスモークかけてぼかしてしまってますが、基本的にはただの”友達集団”であって(それが長期に渡って続いたから、お互いの中でかけがえのないものになっている)、ある程度の「閉鎖性」は仕方がない――というか、慈善事業でもボランティアでも学校のクラスでも制度でも規則でも何でもないんだから、外から見れば「閉鎖性」があるのは当然のこと(その閉鎖性の度合いは、風間ファミリー相手だけではなく、どのコミュニティにも言える程度である)。

つまりさ。上で「普通」って書いてきたけど、それってどういうことかというと。
忘れてるかもしんないけど、そもそも、現実では、世界も人間も人間の集団も閉鎖的なんですよ

外の人間が排除される、外の人間が加われない。そんなの、世界のありとあらゆる場所で、人の集団のありとあらゆる場合で、当たり前のように起こっていることじゃないですか。それは現実においてそうで、そして「まじこい」という物語においても同じ。「お話の中にだって救いはなーい」とユキが云うように、「まじこい」はそんなポンポンと救いが落ちてるお話じゃなくて。奇跡が起きるお話じゃなくて。お話なんだから安易にその現実的な閉鎖性が払拭されている物語じゃなくて。
救いは、天から勝手に降ってくるものではなく――それぞれの個別シナリオや、あるいは冬馬のように、救われるというのは、天から恵まれるのではなくて、歩みの先にそれを獲得したり、そこに辿り着いたりするもの。其処に至るに奇跡は無いんですよ。一歩一歩進んでいくだけで、奇跡で一気に獲得できてやったー……というものはない。そんな状況でも、一歩一歩歩いた先にしか、救いのようなものはない。つまり「奇跡も無く標も無く、ただ夜が広がるのみ」「揺るぎない意思を糧として、闇の旅を進んでいく」というヤツですね。
「まじこい」の、「問題解決」や「救い」とか、そういうものの全ては、その川神魂的なものが根幹にあると思うんですよね。だからボクとしては、彼らが何か奇跡のようなものに恵まれたり、天啓のように才能を閃いたり、運命のように何かに目覚めたりみたいなところが(過去はともかく、作中で語られる時間内では)無いことをとても評価しています。ラストバトルが淡白という感想をちょくちょく拝見するけど、逆にそこで「全てを出し切らない」――彼らにとって全てがかかった何か・大事・つまり「運命」みたいなものではない、というところが、ボクとしては評価できる。だから淡白で良かったんだと思います。
で、閉鎖性というのも、そう。やはりここでも現実と同じで、(前提として)閉鎖的であるのは当たり前。お話だからといって、安易に非閉鎖的であったりはしない。リアルとかリアリティというとちょっとアレだけど、まあ単純に言えば、お話だからって”そんな都合良くない”ということです。そして、その閉鎖性は、もちろんマイナス面があって、それが形としてたまたま現われたのがユキであったということ。
たぶん、どこのコミュニティにも、当たり前のようにありえたかもしれない事。

最後のゲンさん加入が、冬馬に閉鎖的と突っ込まれたことに対するものでもあったと語られていますが、これは単純に冬馬への対抗心とか当て付けとかそういうのじゃなくて、「冬馬にコミュニティの脆弱なところを指摘されたので、それを直した」とか、そういうレベルのことですね。真に閉鎖的ならば、ユキのようなことがまた繰り返されるかもしれない。だからこそ、ある程度の柔軟性が必要である。

真に閉鎖的なコミュニティというのは、本作の場合だと板垣ファミリーのことでしょう。

大和「……姉妹同士、姉弟同士は仲良いのになぁ」
辰子「家族で仲良いのは当たり前だよ~」
大和「赤の他人は?」
天使「どーなろうとまったくまったくまったく関係ねー」


家族内は仲が良いし、危険があれば守るだろうけど、その外側の人間はどうなろうが関係ない。危害だって(実際に作中で示されているように)平気で加える。外側と内側を恐ろしく区別していて、内側は大事だけど外側には平気で危害を加えられる、そして内側に入る条件は「家族」のように、外側の人間はまず殆ど必ずといっていいほど、内側に入れない。

そこまで閉鎖性のある集団だとどうなるかというと。風間ファミリーの閉鎖性はユキを救えませんでした(拾えませんでした)が、板垣ファミリーの閉鎖性はユキや京のような人間を作り出すでしょう。

京「…これは作り話だけどある仲良し集団がいてね」
京「その人達はもう、平然と人を害する悪党集団なんだけど仲間がやられると凄く怒るの」
京「どうして、人を害せるの? って質問に自分達と関係ないから害せると返すの…」
京「別に人を害したいとか、そんなんじゃなくて」
京「極端な話、そういう集団に憧れるの」
京「自分達以外、一切無関心みたいな、ね」


京シナリオの一幕ですが、この言葉はおそらく裏返しでしょう。これは、まんま京がやられてきたことであるからこそ、これはつまり京が思う世界の(他人の)形でもある。他者は彼らの更なる他者を理由もなく排斥する。そういうふうにできている。なぜなら、今まで生きてきて私が触れてきた他者が、そうだったから。ずっとそういうことをされてきたから。だから、(この時点の)京には、風間ファミリーの外側は自分を「何の理由も無く害してもおかしくない」ものに見えた――というか、そういうものが、普通だった。何せ今まで風間ファミリーという例外を抜かせばそういうのしか見てこなかったのだから。
そして言うまでもないですが、京のその「作り話」というのは、板垣ファミリーと相似しています。つまり、板垣ファミリーの閉鎖性はユキや京のような人間を作り出しておかしくない。そして、風間ファミリーの閉鎖性は、ユキや京を救いきれなくても(拾いきれなくても)おかしくない。

別に人類皆兄弟ピースフルなヒューマンドラマじゃないんだから、その程度の閉鎖性は現実でも物語でも当たり前。でも、歩き続ければ、闇の旅を続けた先で、いつかは何処かに――救いや、奇跡に――辿り着けるかもしれないのも当たり前。その時に、少しでも救いの間口が広いかどうか、というのが、ラストのゲンさん加入が冬馬への反応であるというところ――風間ファミリー自体の柔軟性・変化、もうユキのようなことを繰り返さないということ――に当てはまるんじゃないでしょうか。


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2009/09/30 | Comment (-) | HOME | ↑ ページ先頭へ |

「真剣で私に恋しなさい!」は、旅立つまでを描いたワケではない

   ↑  2009/09/17 (木)  カテゴリー: まじこい
以下「まじこい」のネタバレです。ご注意。

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本作を「旅立つ子供たちの物語(旅立つ子供たちというオチ)」として読むことはできない。実際に旅立っているのですが、それはただ、そうであるだけでしかない。

……「旅立つ子供たちの物語」として読んでしまうと、交換可能になるというか、極論、そこまでの全てが無意味になる。なんでもよくなる、と言い換えた方が正しいでしょうか。各エピローグで彼らの旅立っている姿が語られているように、たとえばそれは別にラストシナリオでなくても、彼らは「旅立つ」。つまり、大抵の可能性なら、彼らは「旅立って」、風間ファミリーの友達としての関係も続いているだろう、と予測される――つか、個別シナリオで、それがある程度、実証されているのです。
ということは、「旅立つ」という観点だけからみたら、「どれでも(ほぼ)一緒」ということになる。彼らは大抵の可能性ならどうだろうと旅立って仲間のままゆえに、まじこいを「子供が旅立つまでを描いている」と読むと、イコールで「中身がない(中身がどれでもいい)」となってしまう。

そうなのだから、ここはその中身を読むべきでしょう。それが丁寧に折り重ねられているのだから。関係性というのは自らのありかたの「新たなるもの」を生み出し、それが「今までの(自分ひとりでの)自らのありかた」では敗北してしまうものを乗り越えさせてくれる(個別シナリオは全てそういう話ですね)。そしてその経験、それ自体が、川神魂のように身となり肉となる(この辺は前回の記事自己のありかたを巡る話としてみる「真剣で私に恋しなさい」を参照に)。

だから、真剣で私に恋しなさい!は、「旅立つまでを描いた」わけでも、「旅立つとはどういうことか」を描いたわけでもない。ただ、”結果的に旅立っただけ”である。だいたいのものなら、何であろうと「旅立つ」のだから。どのシナリオ選んでも。どのシナリオ選ばなくても。しかも、「仲間」との関係もほとんど維持できたままに。

「旅立つ」を、「大人になる」や「卒業する」に置き換えてみるとわかりやすいでしょう(ここにおける意味はどの言葉もほとんど同じです)。よっぽどの可能性を選んでない限りは、どこを歩もうが、それまでがどんな中身だろうが、彼らは「旅立った」し、「大人になる」し、「卒業する」。その時がくれば、そうならざるを得ない――そして実際に、作中では、”その時がきたから(時間が要因として)”それを迎えている。祭りが何で終わるかというと、終了時刻が来たからです。ネットワークの終わりというのは、時間切れでしかないのです。
ただ、その中身次第では、自身が変化や成長を遂げるだろう(個別シナリオのように)。ただ、どうせならば、それが素晴らしい中身ならば、その先にも残り続けるだろう(川神魂のように)。

ただそれだけのこと。終わりはいつか必然に訪れる。しかし、その”終わるまでの中身(終わるまでの日々)”は千差万別で、そしてそれは、「終わった後」にも続いていけるものでもある。その中身で得るものが自身を変え、その中身が素晴らしければ、その先の自身も変わるだろう。その中身が祭りのように楽しければ、明日へと進む力にもなるだろう。そういうことである。ゆえに、このゲームは、楽しくて、笑えて、賑やかなものなのである。
旅立つまでの中身が(よっぽど変なものでない限りは)何であろうと、旅立つことは変わらない。だから逆に、まじこいで描かれているのは、その中身自体が、後にまで続いていくというところである。

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2009/09/17 | Comment (-) | HOME | ↑ ページ先頭へ |

「真剣で私に恋しなさい!」レビュー : 「自己のありかた」を巡るお話

   ↑  2009/09/16 (水)  カテゴリー: まじこい
ということで、全部終わりました。
ラストシナリオは圧巻。プレミアムな出来映え。というか、ここまでやって、ようやく全てが繋がりました。

あと、ちょっとビックリ。お話面に関しては、作中でも存分に説明されているのですが、それプラス初回特典のブックレットでも余す所なく説明されてましてね。やべ、前回までの考察とか意味ねえじゃんってくらい。そしてラストまでやって、そこまでの「意味」がようやく分かったので、前回までの記事がホント意味ねえ! けどなんとなくリンク貼っときます。

当然ながらめっちゃネタバレです。

・関連:
   「まじこい」は、旅立つまでを描いた物語ではない
   風間ファミリーにおける閉鎖性について
   背景<変態の橋>について
   ワン子シナリオについて
   まゆっちシナリオについて
   京シナリオについて
   クリスシナリオについて
   百代シナリオについて

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この物語は、一言でいうと、「自己のありかた」を巡るお話。

「川神百代3年、武器は拳1つ。好きな言葉は誠」
「川神一子2年、武器は薙刀。勇気の勇の字が好き」
「2年クリスだ。武器はレイピア。義を重んじる」
「椎名京2年弓道を少々。好きな言葉は仁…女は愛」
「1年黛由紀江です。刀を使います。礼を尊びます」


彼女たちの性格・性質・姿勢的なものは、まず最初からはっきりしています。姉さんの誠、自分への実直さ、すなわち真剣さ。一子の勇、勇猛果敢、引かず諦めず走り続ける姿勢。クリスの義、ルールや規則、自らが正しいと信じることの絶対遵守、自らの信じるものを貫き通す。京の仁・愛、大和への、そして仲間への愛の深さ、そしてその姿勢を持ちえている故彼女は、その対象を周りにも広げることができる。まゆっちの礼、他者への礼が逆に自らを堅くして、人付き合いが上手くいかないほど。
それらが……獲得したものであるのか、生まれ付いてのものなのか、いずれにせよ「性質」と呼べるくらい深く根付き、彼女たちはそれを貫き通しつつも、また、(その枠内において)変化もしている。たとえばクリスに柔軟さを、京には他者にも向ける仁を、一子はひとつの目標が潰えても、別の目標に向かえるという勇を。
彼女たちの、「自分自身とは何なのか」が、まず、ここにあります。彼女たちが自己認識する、「私はこうある」という、ソレ。そしてそれは変わっていく。その変化は大和含めた仲間があり、起こり得たものですね。
それらは、大和自身にもいえる言葉です。というか、だからこそ、大和自身が(彼の進路が)各シナリオ毎で変化が生じる。姉さんシナリオなんかが最も象徴的でしょう、夢・目標を軸に、各シナリオごとで、大和の「自分はこうある」というのは変わっていくのですが、それもまた、彼女らに触れることで変わっていったもの。大和の「自分のありかた」というものが、関係の内で変化(ここでいう変化とは修正・成長・喪失などの、元からあったものに対する可変性において)していく。それはエピローグで提示されているように、大和のみにあらずですね。変化における他者の存在は、各キエピローグで示される各キャラの進路の僅かな誤差、その元となった出来事や、その元それ自体としてもあるでしょう。


自分と自分における自分のありかた。

エロゲにおいては、いわゆる「燃えゲー」と呼ばれるようなものが、ひとつ顕著だったでしょうか。たとえば『Fate』や『デモンベイン』なんかを見てみると、主人公の士郎くんや九郎くんなどは、「自分のありかた」というものを、ある種”ゆずれないもの”として持っていた。それは「自分と自分における(つまり「自分―自分」)」関係の中で閉じていたものでありました。

たとえば『Fate』の衛宮士郎は、「正義/正義の味方」を目指しながらも、決して”社会正義”みたいなものを目指さなかった。社会正義や一般的な正義、あるいは損得観念からの正義、さらには道徳的な正義も、決して目指していなかった。それはなぜかというと、そういう正義というのは、そのありかたの上での正義でしかないからです。つまりですね、社会正義を目指すというのは、「自分と社会における自分の正義のありかた」を目指すということだからです。そこには”社会”が混じりこんでしまいます。同じように、道徳的な意味での正義を目指すならば、「自分と道徳における自分の正義のありかた」を目指すことになる。それは社会通念上、あるいは道徳上認められるものかもしれませんが、しかし必ずしも、自分自身が認めるとは限らない。彼にとっての「正義」「正義のありかた」というのは、社会プラチック・道徳プラチックでは決してなく、ただひたすらに自身に――あるいは自身の過去や、自身の憧れたものに、向かっていくものである。つまりそこにおける正義は、「自分―自分」の関係の元でしか、見い出せないワケです(※少し簡略化していますが)。「正義」に関しては、「自分と自分における(自分の)正義のありかた」だけがただ、焦点にある。だから社会正義だの道徳上の正義だのというのは、論点の外になるわけです。

また『デモンベイン』の大十字九郎も、自身のありかたは、何に担保されるものでもなく、ただ自身に担保されるものとしてあった(※メタ的な要素によりそれらもまたコントロールされている可能性を考えないと仮定した場合)。たとえばマスターテリオンに、あるいは自分の無力さに、「許せねえ」と彼は震えるワケですが、これは別に社会的に許されないから許せねえワケでも、道徳的に許されないから許せねえワケでもない。ただそういうの関係なく、自分自身がそれを許せないから、「許せねえ」ワケです。たとえばこれ、九郎にかかる重みが同じであれば、敵がマスターテリオンじゃなくて全然違う奴でも、無力さが身を切る状況がそれとは全然違う状況でも、彼は同じく「許せねえ」となったでしょう。自身において、自己の規律・感情において、これは許せない。「自分と自分自身における自分のありかた」として、マスターテリオンや自身の無力さを許容することができないから、彼は許せねえワケです。

これらはどちらも閉じています。外部要因は促がすものやきっかけ・影響にはなれど、「○○における自分」という「○○」に、その自分に、自己が揺るがされない。外は影響を与えても、究極的には、「自分―自分」における「自己のありかた」、つまり自分自身で閉じていた。
だからこそ、逆説的に、自己内で自分のありかたが完結することが多い「燃えゲー」(←便宜的な名付け)的な物語は、自己超克的なものへと導かれやすい。自分における自分をずらしていく自由プラチックからはじまり、その「ずらし」を再帰的に強化・深化させることによって、もともとの「自分」を超克していく。


それに対し、『真剣で私に恋しなさい!』の場合は、「自分」以外の人々の存在が大きく絡まる。ボクとしては、なんとなく「ネットワーク性」とか呼びたいところでもあります。ここで『Fate』『デモンベイン』を引き合いに出したことも、ここ以降なんとなく『リトバス』にちょくちょく言及していることも、ボクが勝手に思うあるエロゲ史観からの導きなのですが(もちろん、前者に関しては単純に対照的であるという面も含みますが)、その辺、細かい話は、いつかの機会に回すとしまして。
『真剣で私に恋しなさい!』(同じくネットワーク的な『リトバス』なんかも近い)においての各キャラクターは、自分―自分として見つめた「自己のありかた」を”前提とした上で”、さらに仲間に置かれた自分、「自分と仲間における自分のありかた」を、自らのありかたとしている。これらは先に挙げた「燃えゲー」的な自己超克とはまた異なった自己超克です。先のが、徹底した自己の深化と強化によってなされる自己超克ならば、こちらは、そもそもの「自分のありかた」自体を、仲間におけるや地域におけるなどを用いて、徹底的にずらし、深化し強化して、自己超克している――あるいはその可能性、第一歩を見せている。
それはどういうことかというのは、まさに、個別シナリオが語っています
まず彼女たちが「自分と自分における」自分のありかたを持っていた、と先に語りましたが、それ自体は万能ではない・完璧ではないということが、個別シナリオで示されていました。まゆっちのその「ありかた」では友達はできない、京のその「ありかた」では外側でまともに生きていけない、一子のその「ありかた」は師範代になれないという挫折を味わう、クリスのその「ありかた」はそうそうに険悪になったように周囲と軋轢を起こす、百代のその「ありかた」は、一人では永遠に満たされない。
「ひとり」では負けるものにも、「みんな」における自分という対象ならば――自分自身をそれで、変化して、強化して、深化して、ずらしていけば、勝ちは掴め得る。個別シナリオは、(言い方はアレですが)全てそのパターンの変奏、全て自己のありかたの変化における自己超克の可能性を示したものである。

川神大戦であろうと、カーニバルであろうと、……いや、普段のありかたからして、それぞれが「役割・役目」のように、振り分けられていました。「ひとりで全て」ではなかった。そしてそれゆえに、たとえば大和が、あるいは誰かが、「みんなのおかげで今、ここにいる」と述べたり、実感したりするように、仲間に助けられる――助けられる余地が生まれる。「仲間と自分における自分」というものがあるから、「自分と自分における自分」、つまり自己完結的に、自己を見つめて、そこから生み出した「自分」だけではどうしようもないことや、厳しいことや、大変なことを、乗り越えていける。……これは、こういう言い方はあまり好きじゃないですけど、そのまんま、社会などの、この先にも通じている話でもありますね。自分で完結する自己のありかただけで、自分の世界は完結しない。広がっていく。先に挙げた燃えゲー的主人公のように、社会や普通を超越しすぎて、「たったひとり」で生きていける・生きていくものならば、あるいは、社会や普通を超越した者達の中で生きていくのならば、それでも構わないけれども。「仲間」というネットワークは、決して社会の縮図でも、モラトリアム下における社会の練習台でも決してないけれども、それはネットワークゆえに、構造的には他のネットワークにも敷衍しうる。

ネットワークの終わりは常に「時間切れ」である(あるいは本当の終わり(=死)、そのどちらか)。外部に通じるところがない、構造は外部に移行できない、理想が潰えている(達成されている)のがその特徴。外部にはネットワークを”そのままの形では”引き継げない――翻れば、ネットワークの形が崩れる(あるいはネットワーク自体が崩れる)ときこそが、その終わりである。『真剣で私に恋しなさい!』はまさに「時間切れ」で終わる。
その未来を輝かせるために。俺達は、それぞれの第一歩を踏み出した。【ラスト】
たとえば『リトバス』なんかもそうですね、麻枝さん最後の方を周囲に言われてシナリオ変えたというから、微妙ですけど。その辺の補填は沙耶シナリオで為されていましたが。とにかく。時間切れで終わりということは、逆に、”この形式にこだわらなければ”、継続は可能だということでもあります。終わる要因は形の維持の不可能性だけであって、だから、各エピローグで語られているように、どのような道を歩いても、彼らは、友達で仲間で、風間ファミリーであり続けることができたし、ラストエピソードの最後の方では、ユキと葵と準が、また仲良く歩く姿を(その形式は学園時代のそれとは異なるけれども)、自然と想像することになった。彼らは大和たちとは全てが表裏一体、特に方向性が表裏一体なのは語られていましたね。悪事に走り、もはや破滅でもいいので”徹底的”の、戻れないところに進みたい冬馬と、その裏側の大和。友達を引き止められない準と、その裏側のキャップ。壊れたユキと、その裏側の京。彼らは、風間ファミリーの裏側、つまり、風間ファミリーの「ありえた姿」。それは、ひとつを除いて全てが異なります。そのひとつというのが、友達、仲間、友情、その関係、ネットワークですね。冬馬たちは、たとえ何であろうとその関係を続けることができるという事実は、一度離れ離れになっても、まだその関係を続ける(再開する)ことができるという想像は、風間ファミリーもまたそうであるということを証明しています。

そしてそれは、どこまでも続くからこそ、彼らの自分のありかた、その自己超克性を担保し続けている。
形式を変えれば、関係は残り続けられる。あるいは、たとえば現実的な話をすれば、彼らはこの先、別の形式の別のネットワークに踏み込むことになる。
たとえば、仲間という存在が、「仲間と自分における自分」というものを獲得させ、自己完結の自分では敗れえるものを超克できる力となったり。
たとえば、川神魂というものが、「川神魂と自分における自分」というものを獲得させ、自分だけでは諦めたりくじけたりするところで、もう一歩を踏み出させたり。
「自分ひとり」の外に広がるネットワークが、その自分を超克させる自分を獲得させてくれる。

たとえば、大和が「いつかキャップを倒したい」と言いながらも、決してリーダーに”なれず”いつまでも軍師なところとかも、(言うなれば)仲間プラチックとしての、「彼のありかた」のひとつ。それぞれがそれぞれであるということ。大和くんは大和くんとしての自己超克にしかないわけで、ゆえに運命的な何かでもなく、己の血や才能や異能に目覚めるのではなく、つまり天から放られるように「自分のありかた」が授けられるのではなく、ドラマチックに、天啓のように「自分のありかた」が訪れるのではなく、「自分と自分における自分のありかた」を、「○○(たとえば仲間)と自分における自分のありかた」などの内で、ずらして、深めて、強めて、獲得していくのみである。
だからこそ余計、プラチックは外に広がるわけです。自分だけ完結する「自分のありかた」というのは、格好良いかもしれないけど、現実的ではない。異能や超人のように――あるいは、たとえば川神百代が、戦いの獣と化していたら成り得たかもと想像できる道のように――現実の中では生きていけない。現実に敗れかねない。まさに、ワン子やクリス、京にまゆっち、姉さんが、そうであったように。だから「仲間」という、彼らと過ごす日々という、終わった後に「祭り」と思う時間があったのだ。

楽しかった想い出はそれぞれの胸に秘めて。
その未来を輝かせるために。
俺達は、それぞれの第一歩を踏み出した。
キャップ「よーーーし!!」
キャップ「日は落ちて、祭りは終わった」
キャップ「進もうぜ! 明日へ! 勇往邁進だ!」


そしてそれはたとえば「川神魂」と同じで、どこまでも続いていく。たとえば、ここでは、「明日へと勇往邁進する風間ファミリーと自分における自分」という<自己のありかた>が生まれ、そしてそれ故に、キャップが云っているように、明日へと勇往邁進できるのだ。「楽しかった想い出はそれぞれの胸に秘めて」というけれど、「日は落ちて、祭りは終わった」というけれど、……胸に秘められるだけの楽しい想い出があれば、祭りであったことが分かるだけの祭りがあれば、それだけで「川神魂」と同じく、無限の力が湧いてくるんじゃないだろうか。そこにある「自己のありかた」が、祭りが終わった後に、明日へと、自らの歩を進める力となるのです。

だから。この物語は、一言でいうと、「自己のありかた」を巡るお話。


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2009/09/16 | Comment (-) | HOME | ↑ ページ先頭へ |

真剣で私に恋しなさい 百代シナリオ雑感

   ↑  2009/09/14 (月)  カテゴリー: まじこい
以下ネタバレ。
ちなみに百代シナリオは、最後とは言わないけど、最初にクリアするのだけはやめといた方がいいと思います。サブキャラたちみんな勢ぞろい全員見せ場アリ総活躍的な内容含むだから、全キャラをそれなりに知っておいてから見たほうが楽しめると思う。たぶんですけど。

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というかこのシナリオもまた、書くことがないなぁ……。

書くことがないというのは、全部見せてくれているということ。作中できっちりと語られているので、それ以上深読みする必要も考える必然もない。ヒロイン5人、全員クリアしましたけど、みんなそう。隠すところなく、惑うところなく、誤魔化すことなく、全てを見せてくれている。――謂わば「真剣である」ということですね。逃げず逃れず、真っ向から、全てをさらけ出している。

真剣。

百代は、指摘されているようにバトルマニア――戦い大好きという性であり、それは快楽でもあるのだけれど、ただ倒せれば何でもいいというワケではない。自分の力を全て出せる時が好きで、それを求めている。つまり姿勢においては「真剣」でもあるんですね。たとえば挑戦者とのバトルにおいても、絡んできた不良なんかはボコボコにするだけだけど、真剣勝負を挑んできた(試合形式に戦った)相手には、ちゃんと治療などのフォローもする。ただ快楽を、放蕩的に求めているわけではなくて、相手の真剣さに応じている。真剣に戦える相手を、真剣に求めている。
百代「ああ、私のモットーは正直に。誠に生きる事」
己に正直に。それは「己自身に」正直に、ということ。己の欲望に正直だし、それを自制する心や、周囲を配慮する心にも正直だし、己の志や夢に正直だし、己の頭脳や精神に正直だし、己の肉体や武道にも正直である――のだから、「半端」は存在しえないでしょう。

そして、大和はそれを実行してきた、からこそ、二度目の告白は上手くいった。その後は、目標も目的も夢にも、全て真剣に取り組んできた。姉さんへのマメさも気づかいも、川神大戦での知力も人脈も、敵本陣突撃時の頑強な意思も、全て大和が見せてきた真剣さ――彼の「誠」。
百代「ああ。伝わってきた。お前の誠…常日頃からな」
まさに「真剣で私に恋しなさい」。真剣でないものはまずお呼びでなく、そしてその上で、姉さんをなびかせるほどでなくてはいけない。つまり、そんなにも真剣でなくてはいけない。
日々の努力も、こまめな心遣いも。自分の知力も、体力も。仲間や、友達の助けも。全部をひっくるめて、その真剣さで、そこに届く。


ということをこうもキッチリ書かれると、このゲーム自体が「真剣だなぁ」とか、ボクは思うんですね。本当に真っ正面から全てを晒してくる。
このシナリオだけ、他4人と違ってエピローグで「各キャラのその後の進路」が示されなかったりするのは、逆にそうまでも真剣だったから、なのでしょうか。真剣すぎて目にも入らなかったのか、真剣だったから余裕がなかったのか、あるいは、その真剣さは、未来なんか不確定になるのか、いや、こんなに「今、ここで」真剣なんだから、未来なんて描く必要、そもそもありもしないのか。
いずれにしても、このゲームの真っ正直さには、驚きを覚えます。
ということで、残すはあと、ひとつ―――


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2009/09/14 | Comment (-) | HOME | ↑ ページ先頭へ |

真剣で私に恋しなさい クリスシナリオ雑感

   ↑  2009/09/13 (日)  カテゴリー: まじこい
京→まゆっち→ワン子と来て、クリスルートもクリア。
……なんすけど、あんま語ることないっすねえ。全部がシナリオ内でテキストとして語られてます系。
そういえばこのゲーム、F3でキャプチャできるのがとっても便利なんですけど、なんか気付いたらハゲのロリコン語りばっかキャプチャしてます。クソっ、ハゲめ、輝きすぎなんだコノヤロウ……!

以下ネタバレ。

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(2009/08/28)
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目の前に立ちはだかるのが、問題だろうが敵だろうが壁だろうが、自分の正しいと信じることを貫き通す。という「義」。そして「サムライ」。

大和「普段は柔軟だよ~軟体動物ばりだね。ためらいなく相手にヘコへコできるぜ」
大和「…でも。これと決めた事には絶対退かねぇ!!」
大和「俺は俺の正しいと思った事を貫くまで」



クリス「己の信じる道を行く事こそが義」
クリス「父様への想いと同様、大和への愛も貫きます」
――
クリス父「己の主張が正しいのにそれが通らないとしたら?」
クリス父「まさに理不尽だろう、正論が通らないのだからな」



クリス父「君こそサムライだ、直江大和!」
クリス父「国境の壁を乗り越えた」
クリス父「クリスを心から愛し、そのために学校まで辞めた」
クリス父「貧しいながらも、心は豊かに暮らしていた」
クリス父「奪われたら、はるばるドイツまで乗り込んできた」
クリス父「そして軍隊という圧倒的暴力に負けず突撃をしかけ、そしてここに辿り着いた……」


この三つの引用文で大まかなことは語ることができると思う……。

クリスを見てみるといい。私が思う「義」、私の「正義」、それを圧倒的に信じている。信じているというか、疑念や戸惑いを挟む余地すらないそれは、”当然のもの”になっているといえるでしょう。神はいるか、江戸時代は本当にあったのか、という問いなら、信じてる信じてないで語る余地もあるけれど、太陽はあるか、1+1は2か、という問いなら、信じる信じない以前、それは当然にある前提となっている。当初のクリスの疑いの無さは、そういったレベル。
その根拠は規律にある。これは軍人の家庭・家系に生まれたからそうであると言えるかもしれません。クリスはルール・慣習(つまり規律)に非常にこだわりますが、その理由には全くこだわりません。なぜそういうルールがあるのか、なぜその慣習はそういう形なのか、その正当性は何なのか、全くこだわらず、それがルール・慣習という時点で、盲目的に信じる――を通り越して、”当然のもの”になっている。だから大和がからかう嘘ルール・嘘慣習に、全く疑うことなくコロっと騙されるワケです。普通だったら、大和の嘘ルールは非効率的すぎるだろ、その嘘慣習は違和感があるだろ、くらい思えてもおかしくはないけれど(たとえばボクらがドイツ行って、現地の人に超突飛なルール・慣習を教えられたら、ちょっとは疑ってしまうでしょう)。ルール・慣習の根拠を問わずそれが正しいと前提にあるクリスにとっては、そこに何の疑問も生まれない。その正しさを疑わない。ルールや慣習はルールや慣習である時点で正しい。

それゆえ、メチャクチャに一直線だったりするし、シナリオ中盤では、己自身の気持ちと、己自身のルールに、挟まれることになる。
クリス「自分は父様のために生きると決めていたからだ」
クリス「父様が決めたから、そう動く」

あの、一端は別れそうになった8月末のとき。これに大和は「筋が通ってない」「義を言い訳にしている」と述べたけど、確かにこの、本心からそうではなく命に従うという”だけの”姿勢は、義理は通っているし忠も尽くしているけれど、彼女自身を通していない。そこに如何なる義があるのだろうか。これではただ、ルールを「ルールだから」、慣習を「慣習だから」という”だけの”理由で従ってしまうのと同じ。それは、ただあるもの、当然なものに”従っているだけ”で、己の信じるものに従うという「義」の姿勢と遠くかけ離れている。
これで大和のことを好きでも何でもないのなら、それが正しいけれど。一緒に居たいわけでもないのなら、それが正しいけれども。そうではなく、そして”根拠もなく”従うだけならば、そこに信じる道を行く「義」は無いのでしょう。

だから、この後、父に反発する際の台詞はこうなるのですね。
クリス「己の信じる道を行く事こそが義」
クリス「父様への想いと同様、大和への愛も貫きます」

私はどちらも選ぶ。どちらも選ぶのが、私の道だと―――。

もちろん、それは必ず貫き通せるものではない。クリス父が「理不尽」といっていたように、生きていくには、生活していくのは、その「義」の思いだけでどうこうできないような数多の障害があって、たとえそれを乗り越えられても、クリス父が自らクリスを攫うように、さらなる障害――理不尽がありえる。その、一人では到底敵わない理不尽の暴力が、義を、道を遮ることもある。

大和「俺1人じゃ無理だった」
クリス父「皆から協力してもらえる事も、力だ」


けれど、そいつだって乗り越えられうる。
クリス一人じゃ無理でも、大和がいれば。大和一人じゃ無理でも、皆がいれば。
そもそも。
そもそも振り返れば、クリスがこういう道を、自分の「義」をそういうものだと選べたことからして、そうなのです。 クリス「己の信じる道を行く事こそが義」 クリス「父様への想いと同様、大和への愛も貫きます」 こんな台詞、日本に来たばかりの、ルール・慣習絶対、父様絶対、「故に迷う所なし」のクリスには、どう間違っても出てこなかった。それがまず、皆と生活することで変わっていった。自分の価値観を疑わず「ビルを取り壊す」ことを提言してしまうようなクリスも、少しづつ変化していった。学校での他人への注意なども、そう。皆と生活することで、皆それぞれの「義」があって、自分の「義」は自分のものとしての一つの真実であるということを学んでいった。もちろん、大和という、そのような台詞を向けられる対象――そのような「義」を向けられる対象が出来たことも、大きい。クリスが語った「己の信じる道」というのは、そういうものがあってはじめて、この形で出来上がったということです。もしそうじゃなければ、普通に、今までどおりに、父に従うことが、己の信じる道になっていたでしょう。
つまり。皆がいたから、この最後のドイツで、クリスは助けられたワケですけど。そもそも、皆にはこれまでもずっと助けられてきたし、そもそも、皆がいたから、今ここにいるということです。
今ここにいる、このクリス。それはそもそも、クリス一人では成しえなかったところで、クリスと大和だけでも到達できなかったところで、それに皆がプラスされて、はじめて、このクリスができた。だからこそ、皆がいるというのは当たり前でもあるんですね。




あと、この4人までクリアした印象だと、クリスシナリオ途中にあった京極部長の言葉が引っかかります。

京極部長「…子供の頃より親から植え付けられた教えも1つの言霊と言えるだろう。君達を縛っている呪いの一種だよ、善し悪しあるがね」
京極部長「親の教えも大切だが。それに囚われすぎるのはまさに呪いだ。どうか柔軟に。では僕の話はここで終わる」


ここまで見てきた限りでは、大なり小なり、直接的か、あるいは潜在的や潜勢的か、もしくは何らかの「穴」としてか、全部に「親」が絡んでいる。クリスはそのまんま、教えとしての呪縛。ワン子は欠如したルーツ。まゆっちは、っこの性格で友達いない今の彼女を作り出した境遇としての親。京はもう色々ありすぎ。過去の色んな出来事から現在まで続く色んな出来事、「大嫌いな」浮気性な母と、「別に嫌いでも好きでもない」なんだかんだいって一途な父(どちらにしろ、子供の頃の京を愛してはくれなかったが)、そして迷うことなく異常なほど一途な今の京。
あと、キャップシナリオとモロシナリオもクリアしたけど、彼らにも、影響元としての親が、大なり小なり……というかそれなりに大なり、存在(不在という名の存在)している。
……あと大和くんも。断片的にしか、今は語られていないけど。

その辺が結構気になりますねー。武士、真剣、川神魂。愚直なまでに貫き通すことにより、全てを乗り越えているこのゲーム……つかさ、毎回エピローグに、その愚直を貫いた登場人物たちの「その後」を示したりとか、ぶっちゃけ、正直とか真っ直ぐを通り越して露悪的なくらいすげーと思うんですけど(だから個人的には、これは「やると元気が出るエロゲ」なんですけど)、もちろんどのシナリオでも風間ファミリーは永久に不滅なところも合わせて。その辺の真っ直ぐさ――真剣さが、本作品の武器であり、正中である、そんな風に思うのですが……えっとまあ、この辺の話は、全部クリアしてからということで。おしまい。


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2009/09/13 | Comment (-) | HOME | ↑ ページ先頭へ |
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