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なすところをしらざればなりFOR I KNOW NOT WHAT I DO 

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The Indivisible Remainder ―― 『花と乙女に祝福を』

   ↑  2009/09/30 (水)  カテゴリー: 未分類
『花と乙女に祝福を』、個人的には傑作すぎましたねえ。歴史には残らないかもしれないけれども、記憶には必ず残る。結構前にレビュー書いてたけど上げるの忘れてたので修正してうp。
花と乙女に祝福を 通常版花と乙女に祝福を 通常版
(2009/05/29)
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「女装モノ」というジャンルとしてはかなり極まったところに在ると思うのですけど、そこのところが今一つ評価されていない感が無きにしもあらず、という気もしなくありません(すげえうろんな言葉使い)。

序盤と終盤を除けば(かつ千鶴シナリオも除けば)殆ど「男ということを意識させない」作りに、シナリオも、テキストも、晶子の言動もなっていて、それゆえに、見ようによっては、「もうこれじゃ女装じゃなくて女じゃん」「これは女装じゃなくて百合じゃん」みたいに見えるかもしれないけれど―――そのように見えるかもしれないけれど、実際は――最終的には、そうではない。

そここそがキモです。そのように見える
そう、彰=晶子(女装して晶子になっている彰のことをここでは「彰=晶子」と記します)は殆どまんま「女性」です、というか「晶子」です。(序盤・終盤・千鶴抜かせば)彼が実は男だということを意識させるようなイベント・物語はほぼ無く、彰=晶子状態においては彼のモノローグにおいてもほぼ完全に、その9割9分が「晶子のもの」「女性のもの」になっている。何かに対し示す反応がまるっきり女の子のものだったり、寝起きですら晶子だったりと、無意識・潜在下においてもそれは徹底されている。

「んー……彰ぁ? 違うよ、私は晶子だよぉ」



うぅっ、なんか可愛い! やっぱりダメだ。私こういう子に弱いのよ。
もっとお話したくなっちゃう。


上は都さんに「彰さん」と呼びかけられた時(しかも晶子=彰が寝ている時に!)の反応。寝ている、全く無防備、もはや無意識の状況でも、しっかりと彰は「彰」じゃなくて、「晶子」になっている。つまり、外見だけでなく、内面においてすら、見た目上ではまんま女の子(まんま「晶子」)

下は祈ちゃんとはじめて会って、晶子が彼女のことをなんか気に入っちゃった時の反応。この反応は「男ではない」ですよね。この一文だけだと分かりづらいかもですが、ゲーム内のテキストを追っていただくとよく分かる。彼はまるで「男性的視点・視線」で見ていない。それはこのシーンに限らず、(ルピナス潜入当初と、各シナリオ後半部を除けば)殆どずっとと云って良いくらいに、晶子=彰に「男性的視点・視線」というものは存在しません。序盤と終盤を除けば、殆どが男性的視線・視点が排除された―――というよりむしろ、「女性的視点・視線」のようなもので埋め尽くされている(正確には、それはやはり女性的よりも少しズレているかもしれない、「晶子的視点・視線」といった方がいいかもしれない)。着替えを見てどうとか、下着を見てどうとか、スキンシップしちゃってどうとか、うっかり一緒にお風呂入りそうになってどうとか、そういう、普通の女装主人公モノでありそうなイベント・シチュエーションが殆どないし、あっても、かなりの部分が女性的視点・視線で埋め尽くされていて、男性的視点・視線がごく僅かに残る残余分の介入程度しかない。それらのイベントシーンをあまりにも引っ張らない――淡白に終わる、という点で、プレイヤーに見せるもの・意識させるものも、男性的視点・視線ではなく、女性的視点・視線であるといえるでしょう。つまり描写・表象においても”なりきっている”。男性的な視点・視線を殆ど意識させていない。言い換えると、プレイヤーに晶子は「男だ」ということを(序盤・終盤・一部イベント除けば)殆ど意識させていない。自身が「男である」ということを意識させるような視線の配しが、殆ど存在していないワケです。プレイヤーすらここではある種”なりきれる”ワケです。

ただし起源分は残るワケです。彰はやっぱり男だという拭い去れない起源があって、その分は視点・視線にも、描写・表象にも僅かばかりに残っている。

拭いきれない起源というのは他にもまだある。
そもそも「妹の代わり」であるということ、そして動機が「妹のため」だということ。
さらに自分が本当の姿ではないという事、本当の自分自身でルピナスの彼女達に接しているワケではないということ、つまり作中でも幾度か彼自身が自己言及していましたね、「騙している」という観念。
そして最後、妹の代わり、それも緊急措置的に一時的なものなのだから当然にある、この生活の終わり。(殆どの人に)お別れを言わず去っていかなくてはならないという幕。

どれだけ彰が「晶子になろうとも」、やはり、どうしたって、”本当に晶子じゃない”以上、それらの要素はどうしても拭いきれない。消し去れない。そもそもの起源を覆すことはできない。何もかもを仮想化させて彰は「晶子」になっても、消え去らない起源という残余がそこに残り続ける。

そして、それに追いつかれるし、それに向き合う。

仮想化できないというものを、そうなのだから仮想化せずに、そこに足場があると承知のままで(というか、そこに足場があるからこそ、彰にとってもプレイヤーにとっても、この状況でそれらが「残余」となる)、ここに居続ける。それらが「他人の迷惑」になっていることを彼は承知しているが故に、それらに嘘をつかない。
その起源からは徹底して逃れられない。実は男であるということと、あくまでも妹の代わりの一時的なものであるということと、ここにいる(女装してルピナスにいる)のは妹のためだということ。
”そもそも”の部分ですね。これを覆したら、彰=晶子も存在しないという、そもそも自分は何者なのか・そもそも自分は何故ここにいるのか・そもそも自分はどうしてここに居続けられるのか、という、この状況である理由。そればかりは、消し去れない。女装も、入れ替わりも、潜入も、それが真なるものではないという起源がなければ起こりえない故に、その起源だけは消すことができないということ。
性別・理由動機・期間――この話が終わる理由は、はじめから定められていたものによってである。

これがこのゲームの素晴らしさの一つですね。この世界―――ルピナスに晶子として居るという「楽園」を、ただ楽園のまま逃避的に受け入れるのではなく、しっかりと、そこにある問題に目を向けている。そこにある、というより、”何ものにもある”と言い換えられましょうか。起源という問題、仮想化しきれない残余という問題は必ずある。どんなものにだって、はじまりははじまりとして永遠に残り、それが(たとえ目に見えない残余だろうとも)捕らえ続ける。
そのことを誤魔化さないところが、一つの良さではないでしょうか。

嘘っぱちの楽園は永遠には続かない。
けれど、そこで起こったこと・得たことは、(この後の恋人関係のように)後々まで続いていく。
つまり「嘘」で入り込んだ世界でも、そこで得たことは「本物」である。それを嘘の自分ではなく、本物の自分で引き受ければ――それは後々まで続いていく。

当たり前と言えばあたりまえなんですけど、そこに誤魔化しを入れないこと――楽園を壊すことに躊躇しないことが、個人的にはすごく好きです。はじめからある種の限定空間として侵入した「晶子になってルピナスでの生活」という、”いつか終わる空間に他人になりすまして入る”というもの――それは謂わば「プレイヤー」におけるゲームと同じようなものである。いつか終わる空間に主人公役として入り込む(あるいはときメモ系なら、自身のシミュラークルを送り込むとでも言ったところか)。それが終わる理由は”そもそも”の、起源の部分である――起源の部分に、終了の限界が既に構築されているのだけれど、だけれど、だからこそ。終わるからこそ、そして全てが無かった事になるのではなく、彰なら恋人として、我々なら経験として、そこでの出来事や出会いや日々が続いていくからこそ、それは素晴らしいものになるのだ。元の足場から離れたところにあるものは、決して、自分に無意味な何かで在り続けるワケではないということなのだから。

(記事編集) http://nasutoko.blog83.fc2.com/blog-entry-38.html

2009/09/30 | Comment (-) | HOME | ↑ ページ先頭へ |