むかし別のところに書いた文章なんだけど、自己参照したいのでこっちにも移植。見たことあるぜ~という方がいらっしゃったらどうもその節はお世話になりました。またあったね!とご挨拶を。一応ベースが『てとてトライオン』の感想になってます。ごく僅かなネタバレはあるかも。
■選択肢――決定の不可能性について
『てとて』の選択肢はかなり特徴的で、どうプレイしようが「ふたつ」しかない。二箇所の選択場面に、それぞれ二つの選択肢――計4通りの選択組み合わせがあって、そして、『てとて』のヒロイン(ルート)は4人。つまり選択肢は、「どのヒロインルートに入るか・どの物語をみるか」という意味のものを”一度だけ”選べるものだけであって、しかもかなり序盤で決められる。つまり、もう全くもって言うまでもないけれど、プレイヤーが選択するものは、「どのヒロインルートに入るか・どの物語をみるか」が一回あるだけで、それ以外は何も無い、と言えます。
基本的に八柾さんがおっしゃってるとおり(http://d.hatena.ne.jp/hachimasa/20090706/1246886340)というか、それを見ればまずは十分。
我々は決定する前に既に決定している。そしてされている。たとえば、就職活動なんて、その時に自由な選択があるわけじゃなくて、どの大学に入るか・どういうスキルや資格を持ってるか・どんな経験をしてきたか・どういう性格か・どういうコネがあるか、という、就職活動「以前」に決定されたことによって、ある程度が既に決定されている。そしてそもそもの部分、たとえば「どの大学に入るか」というのも、大学受験時や受験勉強開始時に急に選択できるわけじゃなくて、どの高校に入るか・普段から勉強するか・塾に通うか(通える経済力か)・家庭環境はどうか・自分の性格は、などの「以前」に、ある程度既に決定されている。そしてまた、それらの要素すらも……と、そりゃもう究極的には生まれた瞬間まで、極限的には両親が、あるいは先祖が生まれた瞬間まで、限界的には宇宙が誕生したとことか何かそんな感じまで、延々と続いていきます。
この辺のお話は二つに分けられて、ひとつは、八柾さんが書かれたように「つねにすでに」の決定。その場以前に決定してしまっている、たとえば就職活動する前の大学入試の時点で既に就職活動の何割かを”それと知らず”(知ってる人もいるけど)決定してしまっている――これはもうちょい細かくすると、ぶっちゃけどこまでも遡ることができます。簡単に言うと「運命は性格の中にある by芥川龍之介」。ある状況に置かれた自分が何を選択するのかは、自分の「これまで」(=性格+経済力や技能・人脈・能力などを含めて境遇)に、既に決定されているといっても過言ではない。『てとて』の選択肢に対する解釈はその辺が妥当なんじゃないでしょうか。「この私」が「ある場面」に出くわしたら、その性格や能力・状況や環境などから、絶対にAの選択肢を選ぶだろうというのと同じように、「この慎一郎」が、「こういう場面・状況」に出くわしたら、たとえ選択肢があろうがなかろうが、そういう選択をするであろう。まあ本当に自由な選択なんてさ、本当にどうでもいいことにしか起こりえないと思うんですよね。夕飯なににするとか、そういうレベルでしか、いや――そういうレベルですら、ある程度が、つねにすでに、決定されてるけど。だーまえ先生がファミマのおろしチキンなんちゃらばっか食べるのは、彼の味覚が、嗜好が、あるいはそういうことを明言している態度が、ある程度、既に決定している。
もう一つは、つねにすでに、第一の決定が為されているということ。「決定のコンテクストは決定できない(決定されている) byジュディス・バトラー」。もうちょっと分かりやすくいえば「決定の環境が決定されている」ということですね。あるいは「状況」。ある状況において私は何かを選ぶことができる。でも、その状況そのものは既に、私によって・特定の他者・不特定の他者・あるいは社会や、人間であるという生物学的な理由によって、決定されている。状況そのものを決定することは許されていない。たとえば、日本人である貴方はこれこれこういう職業に就けますよ~選択できますよ~といっても、そもそもの「俺が何人であるか」を選択することは(そこでは)叶わない。環境でもいいですけど。「(決定の)現実の内容は二次的なものでしかない byエルネスト・ラクラウ」。
もうちょい踏み込みましょうか。「他人のリアル」。まあ基本的にね、真にマルチシナリオで一回限りやり直しできませんセーブロードもないよバッドエンドでもグッドエンドでもエンディング後にこのゲームは自動的に消滅しますってならまだしも、現在までのエロゲ/ギャルゲの選択肢による決定なんか、とても「決定」じゃないよねとは思いますね。だってあんなの、たいてい正解は一つ――道は(各キャラに)一本しか正解として(トゥルーエンドとして)ないわけで、まああっても数本で、しかもいくらでもやり直しができて。そんな状況で自分が=プレイヤーが「選んでる」なんて言える方がおかしい。勿論「言える」であって、「思える」ではありません。寧ろプレイヤーが選んでると「思える」ようにできている。それはおかしくない。「決定」というものの強制的な関与ですね。
例の如くジジェク印の例え話で、エレベーターのボタン話があって。エレベーターの「閉」ボタン、あれを押しても扉が閉まる速度はせいぜい1~2秒早まるだけで、殆ど意味をなしていない。しかし、それを押すこと/押さないこと、つまり「選択できる」ということにより、自分はエレベーターの作動速度に関与している、それを決められるという印象を与えることができる。せいぜい1・2秒の変化なのに、それでも自分が「決めている」という、「まやかしの関与」がそこにある。もっと分かりやすい例え話ですと、これは僕のオリジナルですが、「押しボタン式信号」ってあるじゃないですか。ウチの近くにもあるんですけど、その信号、ただの取り外し忘れなのか時間帯(夜中とかは別なのかも)によるのか何なのか知らないですけど、ボタンを押しても押さなくても青に変わるんですよ。しかも、計ったわけじゃないから正確なところはわかんないですけど、目分量だと、ボタン押しても押さなくても、変わるタイミングは多分一緒。多分、ね。もしかしたら押した方が早いかも、なんてことは、僕に限らずあそこを使う人の大半が幻想として抱いているかもしれませんけど。つまり普通の信号機ですね。押しボタンの機械が付いてるけど、付いているだけで何も機能してなく意味も為していない信号機。けれども僕は「押しちゃう」んですよ。意味なんてない、速度は変わらないと分かっているのに。さっさと青になって欲しいから。実質的に自分は決めれないけど、ボタンを押すことによって、「決めている」――自分が決めているという印象を、そこに持っている。持ててしまう。
「選ぶ」行為が、「決める」行為が、実質的には何も選んでなく/選べてなく、何も決めてなく/決められなかったとしても、そういう行為を行うだけで、本当に選んで・決めているように思えてしまう。
プレイヤーが選んでいると「思える」のはそこです。道は無限にあるわけじゃなく、正解は僅か限られたパターンしかない、つまり、実質的には何も選んでない・決めれていないけれども、わざわざ「選ばせる」ことによって、「決めている」ように思えてしまう。たとえば3つ選択肢があって、1つだけ正解で後の2つは選ぶとすぐにバッドエンドなんて場合は端的でしょう。この場合、実質的には何も選んでいない――選べていない。やり直しができないというなら、それでも「選べている」と言えるんでしょうが、ゲームは何回でも同じ選択肢にいける、やり直せますからね。結局僕ら、バッドエンドの選択肢を選んでも、またやり直して同じ選択肢に辿り着くじゃないですか。もう飽きた、めんどくせえやめる~、なんて「ゲーム外の選択肢(物語外の選択肢)」なら便宜的に選べても、「ゲーム内の選択肢(物語内の選択肢)」はひとつしか選べない――つまり、選べていない。つまるところ、正解を「選ばされている」。正解はひとつ、やり直しは可能、つまり、実質的には「何も選択できない=ひとつしか選択できない」のに、選択肢でプレイヤーが選ぶことによって、自分が決めているという印象を、まやかしに持つ。
ここでいう「まやかし」は”実質的ではない”ということで、関与の感触だけは”まやかし”ではありません――だからこそ、本当は違うのに本当かもと感じるからこそ、”まやかし”の関与なのですが。
これが、ここにおける私たち自身を構成していくわけですね。「他人のリアル」。
この項の最初に引用した言葉。あれはエルネスト・ラクラウさんの決定論を受けてのジャック・デリダさんのお言葉なんですけど、つまり、「ある状況に置かれた自分が選択するもの」は、「自分」と「状況」を正しく鑑みれば既に決定されているも同意であり、ならば「決定」なんてものは実質的に無い――これは『てとて』も同じですね。状況・環境・そして自分、全ての要素が完全に分かれば、全ての決定は予測ができる――既に為されている(法則の適用である)。まあ例えるなら、10年前の自分にタイムスリップしてもさ、今の記憶を失くしてのタイムスリップだったら、殆ど全てにおいて、同じ選択をしちゃうでしょう、同じ轍を踏んじゃうでしょう、ということ。だから、慎一郎くんが慎一郎くんである以上、ある状況における慎一郎くんの「選択」は変わるはずがないのだから、選択肢がなくても彼は選択しているし――それは同時に、彼は何の選択もしていない、ただ法則を適用しているだけ、ただ自分を適用しているだけといえる。選択肢が無いというのは、我々に「ない」というのではなく、彼にも「ない」ということ。
ラクラウによれば、「決定(自己決定)」というのは、同一化を経ない限り起こりようがない。まーろくにラクラウ分かってない自分が言うので、勘違いしてるかもしんないですけど、つまり「自分が決定する者にならない限り」決定は起こりえないということですね、たぶん。これまでのお話を見て頂ければ分かりますが、既に「決定済み」――「何を選ぶのかが決定済み」であるのに、それでもなお自分を決定する者だというのならば、「決定する者」に同一化しなければならない――決定は起こりえない。
この辺をエロゲ/ギャルゲに持ってくると面白いんじゃないですかねー。私たちの干渉をどういう意味で取るのかにもよりますけど、そこにおいて私たちは「決定者」である――それに同一化している。これは「プレイヤーである」と言い換えることもできるでしょう。
エロゲ(ビジュアルノベル・ノベル・アドベンチャーゲーム)の選択肢というのは、「間違えない限りにおいて自由に選べる」か、「間違えてもどうでもよいことにおいて自由に選べる」かのどっちかしか大抵なくて。前者は、結局トゥルーエンドは1つか2つで、実質的に何も選べていないじゃんというやつ。後者は、好感度にもフラグにも関係ない、直後のセリフが変わるだけの選択肢、実際的に何も選んでいないじゃんというやつ。……あーごめん、「自由」じゃないや。大事なところを忘れてた。これ、自由な選択肢じゃないですよね、こういう限定条件下ですら。先に挙げたもう一つの方、「状況(コンテクスト)が決定されていて、それは選択できない」というやつ。まず、「何処に選択肢があるか」を、僕らは決定できない。あちらさんの都合で、本当に選択したいところで選択肢が出てこなかったり、本当にどうでもいいところとか、本当は選択したくないところとか、あるいは本当に選択したいところで、選択”させられる”。そして、「どんな選択肢があるか」も、僕らは決定できない。提示される選択肢が、全部どうでもいいものでも、全部選びたくないものでも、全部選びたいものでも、たとえ脳内にはもっと良い選択が浮かんでいても、提示されるもののなかから、選びたかろうが選びたくなかろうが無理矢理、選択”させられる”。選択の選択は選択済みである。そして選択の選択済みの中からさらに選択されたものを我々に”選択しろ”と言ってくる(選択しないという選択を、大抵のゲームは選べない(まあ選べても、実質「選択項目の次のn個目の選択肢」でしかなかったりするけど))。たとえば雑談部分、何を選んでも直後のセリフがちょっと変わるだけのどうでもいいところだからこっちとしてはどうでもいいんだけど……って箇所でも、選ばなければ場面が進まないのだから、選ばなくてはいけない、つまり、強制的に選ばされる。それはプレイヤーのここにおける存在を決定していくものでもあるんじゃないでしょうか。
選択させられる。これは逆から読めば、「選択者にならさせる」。あれ、ならさせるって変な言葉だな……こういう場合、何て言えばいいの? ともかく、我々を選択者という立場に(その時において)立たせるわけです、配置しているわけです。無理矢理選択させられるというのは、無理矢理我々を「選択者にしてしまう」ということです。ここで、これまでの議論とラクラウを引っ張ってくればいい。「決定」というものは実質的には無い。『てとて』の慎一郎がそうであるように、あるいは我々自身が現実にそうであるように、ある状況において我々が選ぶものは/決定することは常に既に決まっている。つまり、普通のエロゲ/ギャルゲ(ループものなどは除く)で出てくる選択肢を誰が選んでるかっていったら、彼らではないんですよ。ゲームの中の彼らではない。主体があるのならば決定はない。まあただ、「正解」の選択肢だけは彼ら(もしくは、ある一つの選択肢だけは彼ら)が選んでるも同義の選択である、とはいえるかもしれません。ある特定の状況で、ある特定の自分が、いつも異なる行動/選択を取るなんて、まずありえない、というか、いつも”同じ”行動/選択を取るでしょう。記憶を失くしてタイムスリップしたら違うこと選べないのと同じ。まー『CROSS†CHANNEL』で七香が「太一だけはいつも行動が異なる」と言ってたとおり、よっぽど精神面が特異な方は別だと思うんですが。逆に言うと、太一以外は、曜子ちゃんあたりは特別かもしんないけど、殆どみんな、記憶を失くしたら、つまり「ある特定の自分」だったら、「ある特定の状況下」で、同じ行動/選択を取っているということですよね、このセリフって。ギャルゲ/エロゲの既読文章――何度繰り返しプレイしてもこいつら同じ言動するよね問題――まあそんな問題ないけど――を、もし理屈的に説明するとしたら、そんな感じでしょう。主体があれば決定はない。法則の適用、既に決定されている。
そのまま翻れば、決定があれば決定の主体はない。
主体は部分的にしか自己決定的ではない。この自己決定は、すでに主体であるものの表現ではなくて、主体が欠如していることの結果なのである。そうである以上、自己決定は同一化という過程をへないかぎり起こりようがない。 / 選択者は完全に一人前の主体たる手段もないのに、主体であるように行動せねばならないアポリアの状況に立たざるをえない。
ここでいうと、つまりエロゲ的に利用すると、エロゲにおける「選択肢」というのは、たとえば神が運命を弄ぶような超越的なプレイヤーの介入であるとみるか、あるいは「選択できる主体」になった主人公――プレイヤーの介入によって、いわば欠如を埋めた、アポリアでなく現時に為し遂げた存在である、とみるか。他にもみれるかもしれない。いずれにせよ言えるのは、そいつはもはや「主人公」である彼とイコールではないということ。決定できるものは、決定者(そのアポリアを達成済みのもの)だけである、それなのに決定しようというのなら、それに同一化するしかない。つまり、つまりだ、結論を言うと、選択をすることが出来る我々は、いや、選択を強制されている我々は((選択肢がないゲームは別として。))、主人公ではないということ、そして、それ故に、その選択は主人公の選択ではないということ。
他人のリアル。決定が無い『てとて』に描かれるのが他人――慎一郎くんのリアルならば、普通のエロゲで描かれているのは、もはや誰のリアルでもない。というと言い過ぎか。まあ当たり前の話だけど、同時に達成不可能な可能性が同時に達成されるのはメルヘンのなか以外にはなくて、そんな素朴な時点で「彼のリアル」では無いんですが(まあ所謂「真ルート」だけ彼のリアルとかは言えますけど)、同時に、俺が全てを選んだ彼の/他人のリアルでもなくて――決定のコンテクストは決定できない――一部を「決めた」ということもできる、けれども。それはもう、唯一の主人公とは違う、そしてプレイヤーである自分とも違う、他人である。「決めれる」という時点で、それは決定者という・決定者(決定可能な主体)に同一化するというムチャを通した別のモノなのだから――決定の主体があれば決定はなく、決定があれば決定の主体はない――、「決定」の存在は断絶を生み、それはどう足掻いたって他人のものでしかない。”この主体とは違う”。「人は自らを人生に投げ込む」ことの厳密な意味での矛盾・断裂、「投げ込む主体」と「投げ込まれる主体」の断層がそこにある――ゆえにアポリアなのです。
これは同時に、プレイヤーを「そういう存在に固定するもの」でもあるでしょう。
おおー、しかしー、なんか難し系の言葉こねくり回しながらも大したこと言えてない感じでこれは酷いですねー自分。三歩進んで二.五歩下がってる。そもそもここでいう主体って何かをどスルーしてますしね今んとこ。この辺のお話はですね、いつか、そのうち、続く――と思う。まあ、本当に「続く」か「続かない」かの選択は、自分の思惑に関係なく、たぶんもう既に、決定されているでしょう(うまいこといったつもり)。
※ラクラウ・デリダの引用はすべて『脱構築とプラグマティズム』より。
■選択肢――決定の不可能性について
主体が誰であり何であるかは前もって決まっていると考えれば、決定というものは存在しないと言いたい。言い換えますと、決定というものがあるとすれば、決定は誰や何かを前もって不可能にするとは言わないまでも中立化するに違いありません。誰であり何であるかがわかっていて、それを知っている者が主体だとすれば、決定は、単なる法則の適用にすぎません。言い換えれば、決定があれば、決定の主体はまだ存在せず、決定の対象も存在していないのです。
『てとて』の選択肢はかなり特徴的で、どうプレイしようが「ふたつ」しかない。二箇所の選択場面に、それぞれ二つの選択肢――計4通りの選択組み合わせがあって、そして、『てとて』のヒロイン(ルート)は4人。つまり選択肢は、「どのヒロインルートに入るか・どの物語をみるか」という意味のものを”一度だけ”選べるものだけであって、しかもかなり序盤で決められる。つまり、もう全くもって言うまでもないけれど、プレイヤーが選択するものは、「どのヒロインルートに入るか・どの物語をみるか」が一回あるだけで、それ以外は何も無い、と言えます。
基本的に八柾さんがおっしゃってるとおり(http://d.hatena.ne.jp/hachimasa/20090706/1246886340)というか、それを見ればまずは十分。
我々は決定する前に既に決定している。そしてされている。たとえば、就職活動なんて、その時に自由な選択があるわけじゃなくて、どの大学に入るか・どういうスキルや資格を持ってるか・どんな経験をしてきたか・どういう性格か・どういうコネがあるか、という、就職活動「以前」に決定されたことによって、ある程度が既に決定されている。そしてそもそもの部分、たとえば「どの大学に入るか」というのも、大学受験時や受験勉強開始時に急に選択できるわけじゃなくて、どの高校に入るか・普段から勉強するか・塾に通うか(通える経済力か)・家庭環境はどうか・自分の性格は、などの「以前」に、ある程度既に決定されている。そしてまた、それらの要素すらも……と、そりゃもう究極的には生まれた瞬間まで、極限的には両親が、あるいは先祖が生まれた瞬間まで、限界的には宇宙が誕生したとことか何かそんな感じまで、延々と続いていきます。
この辺のお話は二つに分けられて、ひとつは、八柾さんが書かれたように「つねにすでに」の決定。その場以前に決定してしまっている、たとえば就職活動する前の大学入試の時点で既に就職活動の何割かを”それと知らず”(知ってる人もいるけど)決定してしまっている――これはもうちょい細かくすると、ぶっちゃけどこまでも遡ることができます。簡単に言うと「運命は性格の中にある by芥川龍之介」。ある状況に置かれた自分が何を選択するのかは、自分の「これまで」(=性格+経済力や技能・人脈・能力などを含めて境遇)に、既に決定されているといっても過言ではない。『てとて』の選択肢に対する解釈はその辺が妥当なんじゃないでしょうか。「この私」が「ある場面」に出くわしたら、その性格や能力・状況や環境などから、絶対にAの選択肢を選ぶだろうというのと同じように、「この慎一郎」が、「こういう場面・状況」に出くわしたら、たとえ選択肢があろうがなかろうが、そういう選択をするであろう。まあ本当に自由な選択なんてさ、本当にどうでもいいことにしか起こりえないと思うんですよね。夕飯なににするとか、そういうレベルでしか、いや――そういうレベルですら、ある程度が、つねにすでに、決定されてるけど。だーまえ先生がファミマのおろしチキンなんちゃらばっか食べるのは、彼の味覚が、嗜好が、あるいはそういうことを明言している態度が、ある程度、既に決定している。
もう一つは、つねにすでに、第一の決定が為されているということ。「決定のコンテクストは決定できない(決定されている) byジュディス・バトラー」。もうちょっと分かりやすくいえば「決定の環境が決定されている」ということですね。あるいは「状況」。ある状況において私は何かを選ぶことができる。でも、その状況そのものは既に、私によって・特定の他者・不特定の他者・あるいは社会や、人間であるという生物学的な理由によって、決定されている。状況そのものを決定することは許されていない。たとえば、日本人である貴方はこれこれこういう職業に就けますよ~選択できますよ~といっても、そもそもの「俺が何人であるか」を選択することは(そこでは)叶わない。環境でもいいですけど。「(決定の)現実の内容は二次的なものでしかない byエルネスト・ラクラウ」。
もうちょい踏み込みましょうか。「他人のリアル」。まあ基本的にね、真にマルチシナリオで一回限りやり直しできませんセーブロードもないよバッドエンドでもグッドエンドでもエンディング後にこのゲームは自動的に消滅しますってならまだしも、現在までのエロゲ/ギャルゲの選択肢による決定なんか、とても「決定」じゃないよねとは思いますね。だってあんなの、たいてい正解は一つ――道は(各キャラに)一本しか正解として(トゥルーエンドとして)ないわけで、まああっても数本で、しかもいくらでもやり直しができて。そんな状況で自分が=プレイヤーが「選んでる」なんて言える方がおかしい。勿論「言える」であって、「思える」ではありません。寧ろプレイヤーが選んでると「思える」ようにできている。それはおかしくない。「決定」というものの強制的な関与ですね。
例の如くジジェク印の例え話で、エレベーターのボタン話があって。エレベーターの「閉」ボタン、あれを押しても扉が閉まる速度はせいぜい1~2秒早まるだけで、殆ど意味をなしていない。しかし、それを押すこと/押さないこと、つまり「選択できる」ということにより、自分はエレベーターの作動速度に関与している、それを決められるという印象を与えることができる。せいぜい1・2秒の変化なのに、それでも自分が「決めている」という、「まやかしの関与」がそこにある。もっと分かりやすい例え話ですと、これは僕のオリジナルですが、「押しボタン式信号」ってあるじゃないですか。ウチの近くにもあるんですけど、その信号、ただの取り外し忘れなのか時間帯(夜中とかは別なのかも)によるのか何なのか知らないですけど、ボタンを押しても押さなくても青に変わるんですよ。しかも、計ったわけじゃないから正確なところはわかんないですけど、目分量だと、ボタン押しても押さなくても、変わるタイミングは多分一緒。多分、ね。もしかしたら押した方が早いかも、なんてことは、僕に限らずあそこを使う人の大半が幻想として抱いているかもしれませんけど。つまり普通の信号機ですね。押しボタンの機械が付いてるけど、付いているだけで何も機能してなく意味も為していない信号機。けれども僕は「押しちゃう」んですよ。意味なんてない、速度は変わらないと分かっているのに。さっさと青になって欲しいから。実質的に自分は決めれないけど、ボタンを押すことによって、「決めている」――自分が決めているという印象を、そこに持っている。持ててしまう。
「選ぶ」行為が、「決める」行為が、実質的には何も選んでなく/選べてなく、何も決めてなく/決められなかったとしても、そういう行為を行うだけで、本当に選んで・決めているように思えてしまう。
プレイヤーが選んでいると「思える」のはそこです。道は無限にあるわけじゃなく、正解は僅か限られたパターンしかない、つまり、実質的には何も選んでない・決めれていないけれども、わざわざ「選ばせる」ことによって、「決めている」ように思えてしまう。たとえば3つ選択肢があって、1つだけ正解で後の2つは選ぶとすぐにバッドエンドなんて場合は端的でしょう。この場合、実質的には何も選んでいない――選べていない。やり直しができないというなら、それでも「選べている」と言えるんでしょうが、ゲームは何回でも同じ選択肢にいける、やり直せますからね。結局僕ら、バッドエンドの選択肢を選んでも、またやり直して同じ選択肢に辿り着くじゃないですか。もう飽きた、めんどくせえやめる~、なんて「ゲーム外の選択肢(物語外の選択肢)」なら便宜的に選べても、「ゲーム内の選択肢(物語内の選択肢)」はひとつしか選べない――つまり、選べていない。つまるところ、正解を「選ばされている」。正解はひとつ、やり直しは可能、つまり、実質的には「何も選択できない=ひとつしか選択できない」のに、選択肢でプレイヤーが選ぶことによって、自分が決めているという印象を、まやかしに持つ。
ここでいう「まやかし」は”実質的ではない”ということで、関与の感触だけは”まやかし”ではありません――だからこそ、本当は違うのに本当かもと感じるからこそ、”まやかし”の関与なのですが。
これが、ここにおける私たち自身を構成していくわけですね。「他人のリアル」。
この項の最初に引用した言葉。あれはエルネスト・ラクラウさんの決定論を受けてのジャック・デリダさんのお言葉なんですけど、つまり、「ある状況に置かれた自分が選択するもの」は、「自分」と「状況」を正しく鑑みれば既に決定されているも同意であり、ならば「決定」なんてものは実質的に無い――これは『てとて』も同じですね。状況・環境・そして自分、全ての要素が完全に分かれば、全ての決定は予測ができる――既に為されている(法則の適用である)。まあ例えるなら、10年前の自分にタイムスリップしてもさ、今の記憶を失くしてのタイムスリップだったら、殆ど全てにおいて、同じ選択をしちゃうでしょう、同じ轍を踏んじゃうでしょう、ということ。だから、慎一郎くんが慎一郎くんである以上、ある状況における慎一郎くんの「選択」は変わるはずがないのだから、選択肢がなくても彼は選択しているし――それは同時に、彼は何の選択もしていない、ただ法則を適用しているだけ、ただ自分を適用しているだけといえる。選択肢が無いというのは、我々に「ない」というのではなく、彼にも「ない」ということ。
ラクラウによれば、「決定(自己決定)」というのは、同一化を経ない限り起こりようがない。まーろくにラクラウ分かってない自分が言うので、勘違いしてるかもしんないですけど、つまり「自分が決定する者にならない限り」決定は起こりえないということですね、たぶん。これまでのお話を見て頂ければ分かりますが、既に「決定済み」――「何を選ぶのかが決定済み」であるのに、それでもなお自分を決定する者だというのならば、「決定する者」に同一化しなければならない――決定は起こりえない。
この辺をエロゲ/ギャルゲに持ってくると面白いんじゃないですかねー。私たちの干渉をどういう意味で取るのかにもよりますけど、そこにおいて私たちは「決定者」である――それに同一化している。これは「プレイヤーである」と言い換えることもできるでしょう。
エロゲ(ビジュアルノベル・ノベル・アドベンチャーゲーム)の選択肢というのは、「間違えない限りにおいて自由に選べる」か、「間違えてもどうでもよいことにおいて自由に選べる」かのどっちかしか大抵なくて。前者は、結局トゥルーエンドは1つか2つで、実質的に何も選べていないじゃんというやつ。後者は、好感度にもフラグにも関係ない、直後のセリフが変わるだけの選択肢、実際的に何も選んでいないじゃんというやつ。……あーごめん、「自由」じゃないや。大事なところを忘れてた。これ、自由な選択肢じゃないですよね、こういう限定条件下ですら。先に挙げたもう一つの方、「状況(コンテクスト)が決定されていて、それは選択できない」というやつ。まず、「何処に選択肢があるか」を、僕らは決定できない。あちらさんの都合で、本当に選択したいところで選択肢が出てこなかったり、本当にどうでもいいところとか、本当は選択したくないところとか、あるいは本当に選択したいところで、選択”させられる”。そして、「どんな選択肢があるか」も、僕らは決定できない。提示される選択肢が、全部どうでもいいものでも、全部選びたくないものでも、全部選びたいものでも、たとえ脳内にはもっと良い選択が浮かんでいても、提示されるもののなかから、選びたかろうが選びたくなかろうが無理矢理、選択”させられる”。選択の選択は選択済みである。そして選択の選択済みの中からさらに選択されたものを我々に”選択しろ”と言ってくる(選択しないという選択を、大抵のゲームは選べない(まあ選べても、実質「選択項目の次のn個目の選択肢」でしかなかったりするけど))。たとえば雑談部分、何を選んでも直後のセリフがちょっと変わるだけのどうでもいいところだからこっちとしてはどうでもいいんだけど……って箇所でも、選ばなければ場面が進まないのだから、選ばなくてはいけない、つまり、強制的に選ばされる。それはプレイヤーのここにおける存在を決定していくものでもあるんじゃないでしょうか。
選択させられる。これは逆から読めば、「選択者にならさせる」。あれ、ならさせるって変な言葉だな……こういう場合、何て言えばいいの? ともかく、我々を選択者という立場に(その時において)立たせるわけです、配置しているわけです。無理矢理選択させられるというのは、無理矢理我々を「選択者にしてしまう」ということです。ここで、これまでの議論とラクラウを引っ張ってくればいい。「決定」というものは実質的には無い。『てとて』の慎一郎がそうであるように、あるいは我々自身が現実にそうであるように、ある状況において我々が選ぶものは/決定することは常に既に決まっている。つまり、普通のエロゲ/ギャルゲ(ループものなどは除く)で出てくる選択肢を誰が選んでるかっていったら、彼らではないんですよ。ゲームの中の彼らではない。主体があるのならば決定はない。まあただ、「正解」の選択肢だけは彼ら(もしくは、ある一つの選択肢だけは彼ら)が選んでるも同義の選択である、とはいえるかもしれません。ある特定の状況で、ある特定の自分が、いつも異なる行動/選択を取るなんて、まずありえない、というか、いつも”同じ”行動/選択を取るでしょう。記憶を失くしてタイムスリップしたら違うこと選べないのと同じ。まー『CROSS†CHANNEL』で七香が「太一だけはいつも行動が異なる」と言ってたとおり、よっぽど精神面が特異な方は別だと思うんですが。逆に言うと、太一以外は、曜子ちゃんあたりは特別かもしんないけど、殆どみんな、記憶を失くしたら、つまり「ある特定の自分」だったら、「ある特定の状況下」で、同じ行動/選択を取っているということですよね、このセリフって。ギャルゲ/エロゲの既読文章――何度繰り返しプレイしてもこいつら同じ言動するよね問題――まあそんな問題ないけど――を、もし理屈的に説明するとしたら、そんな感じでしょう。主体があれば決定はない。法則の適用、既に決定されている。
そのまま翻れば、決定があれば決定の主体はない。
主体は部分的にしか自己決定的ではない。この自己決定は、すでに主体であるものの表現ではなくて、主体が欠如していることの結果なのである。そうである以上、自己決定は同一化という過程をへないかぎり起こりようがない。 / 選択者は完全に一人前の主体たる手段もないのに、主体であるように行動せねばならないアポリアの状況に立たざるをえない。
ここでいうと、つまりエロゲ的に利用すると、エロゲにおける「選択肢」というのは、たとえば神が運命を弄ぶような超越的なプレイヤーの介入であるとみるか、あるいは「選択できる主体」になった主人公――プレイヤーの介入によって、いわば欠如を埋めた、アポリアでなく現時に為し遂げた存在である、とみるか。他にもみれるかもしれない。いずれにせよ言えるのは、そいつはもはや「主人公」である彼とイコールではないということ。決定できるものは、決定者(そのアポリアを達成済みのもの)だけである、それなのに決定しようというのなら、それに同一化するしかない。つまり、つまりだ、結論を言うと、選択をすることが出来る我々は、いや、選択を強制されている我々は((選択肢がないゲームは別として。))、主人公ではないということ、そして、それ故に、その選択は主人公の選択ではないということ。
他人のリアル。決定が無い『てとて』に描かれるのが他人――慎一郎くんのリアルならば、普通のエロゲで描かれているのは、もはや誰のリアルでもない。というと言い過ぎか。まあ当たり前の話だけど、同時に達成不可能な可能性が同時に達成されるのはメルヘンのなか以外にはなくて、そんな素朴な時点で「彼のリアル」では無いんですが(まあ所謂「真ルート」だけ彼のリアルとかは言えますけど)、同時に、俺が全てを選んだ彼の/他人のリアルでもなくて――決定のコンテクストは決定できない――一部を「決めた」ということもできる、けれども。それはもう、唯一の主人公とは違う、そしてプレイヤーである自分とも違う、他人である。「決めれる」という時点で、それは決定者という・決定者(決定可能な主体)に同一化するというムチャを通した別のモノなのだから――決定の主体があれば決定はなく、決定があれば決定の主体はない――、「決定」の存在は断絶を生み、それはどう足掻いたって他人のものでしかない。”この主体とは違う”。「人は自らを人生に投げ込む」ことの厳密な意味での矛盾・断裂、「投げ込む主体」と「投げ込まれる主体」の断層がそこにある――ゆえにアポリアなのです。
これは同時に、プレイヤーを「そういう存在に固定するもの」でもあるでしょう。
おおー、しかしー、なんか難し系の言葉こねくり回しながらも大したこと言えてない感じでこれは酷いですねー自分。三歩進んで二.五歩下がってる。そもそもここでいう主体って何かをどスルーしてますしね今んとこ。この辺のお話はですね、いつか、そのうち、続く――と思う。まあ、本当に「続く」か「続かない」かの選択は、自分の思惑に関係なく、たぶんもう既に、決定されているでしょう(うまいこといったつもり)。
※ラクラウ・デリダの引用はすべて『脱構築とプラグマティズム』より。
(記事編集) http://nasutoko.blog83.fc2.com/blog-entry-46.html
2009/10/22 | Comment (-) | HOME | ↑ ページ先頭へ |