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「Trample on "Schatten!!" ~かげふみのうた~」 雑感

   ↑  2010/01/25 (月)  カテゴリー: 未分類

Trample on Trample on "Schatten!!" ~かげふみのうた~
(2009/05/29)
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「世界に人の力が及ばぬ時に成す力。
人の『心』を『受』けいれて、
更に『手を差し伸べる』……これすなわち」
「『愛』なりっ!!」

熱すぎて吹いたww
無論このシーンだけではなく全編「熱すぎて吹いたw」と言えてしまうようなシーン盛り沢山で、まあなんとも不思議な感覚。でもそれはボクがそう思うだけであって、他の方は「吹く」なんてことせず、まともに受け止めるかもしれません。そういうゲーム。決してバカゲーではありませんし、ギャグゲーでもありません。大真面目にやってます。たぶん、つうか確実に、大真面目にやってると思うのです。だって遊びとか、笑かしてやろうという気配が無いですからね。けれどあまりにも真っ直ぐすぎて、熱すぎて、(ある意味での)形式すぎてて、(ある意味での)予定調和すぎてて、逆に笑える。
まあつまり、ある意味では、松岡修造的であって。感情論的なものとしては、言ってることは、正道を通って王道を通している。あまりに正しく、あまりに熱い。そこには尊敬の念も畏敬の念も覚える。覚えるの、ですが……あまりに凄すぎて(=真っ直ぐすぎて)、逆に笑えてしまう。否、「笑うしかない」と言い換えた方が近いかもしれない。

「愛」だの「信念」だの「未来」だのという言葉の(感情の・気持ちの)非有効性は、まあ普通に生きてれば大なり小なり感じるところあるんじゃないでしょうか。それを真っ向から否定した(つまりそういった感情・気持ちを真っ向から肯定した)『シャッテン』は美しく、まるで子供向け特撮番組のように美しいけれど……ヒーローショーが何故美しいままでいられるかというと、現実に無いからであって。現実にヒーローがいない理由は、人はヒーローになる前に現実に敗北してしまうから、ではなく、ヒーローがいたら現実が壊れてしまうからである。


少しネタバレになりますが、「ユングネタ」を根幹&ラストに持ってきたのにちょっと吹いた。や、90年代ならともかく、09年にユングって古くね? という意味で。それはオタク系ネタ元としては既にユングは使い古されたとか、斉藤環とかジジェクとかでラカンが広まって(あるいはフィンクとかで理解も広まって)勢力図が塗り替えられたとか、そういうのもあるけど、オカルト的=想像力に接続される、という点で。一言でいえば、そこに孕まれる「物語性」と、前提としてある「集団・共同・共有性」に対し、現代の人間も世界も耐えられない。勿論全部が全部そうじゃないけど、例えばシャッテンで取り上げられた集合的無意識とか。
物語化は、個々人の中で勝手にしか起こらない。集合的無意識のような「共通・集団」という基盤は、はっきり言って透明の入れ物にしか感じられなくて(モバイル的実存とか、言葉はアレだけど良い例)、そこを個人に留めないで広げる物語化に、彼岸の遠さを感じざるを得ない。そうする必要はないし、なにより、それに耐えられるわけがない。09年のエロゲで言えば、その方面の極点(つまり『シャッテン』の真逆)が『コミュ―黒い竜と以下略』でしょう。決して対称的ではないけれど、向いてる意識は真逆である。『コミュ』は、人はおとぎ話に生きていることを語り、『シャッテン』は、人はおとぎ話だと思い込んでいるものに生きられることを語る。……けれど『シャッテン』のそれは無理なのだ。寓話にしかなりえない。そんなものには、世界が耐えられない。
しかしそれ故に『シャッテン』はユングで正解なのでしょう。これは届き得ない物語なのだから。まさに、真にフィクションで、まるで寓話のようで。『シャッテン』で言われている論なんて届きようがない。感情論至上主義でどうしようというのだ、何処の松岡修造だ ―――だが、それで正解なのだ。この遠さはヒーローショー=特撮と同じである。

非実写のフィクションで「ダーツ」を描くのは難しいでしょう。登場人物がダーツで20トリプルだそうがBULLだそうが、フィクションだったらそんなものは当然自由自在にコントロールされているわけであり、それで「やったー」とか「ちくしょー」とか叫ばれても、それを何かの隠喩的に使われても、こちらとしては「あっそう」以上の反応も以下の反応も単品で見ると持ち得ない。つまり、ダーツを投げた結果に対して、感動するのも興奮するのも難しいわけです。そんなもの作者のさじ加減ひとつじゃねーかと。そこまでの物語の流れと文章の流れで頑張って読者の一喜一憂を誘うことはできるが、ダーツという行動単品で(つまりなんらかの演出無しで)それを創造するのは難しいでしょう。その上、それが文章でしか表現されないとなると、その虚しさはさらに増す。たとえばアニメであったら、さじ加減ひとつなのは変わらないけど、一応、射手の挙動・ダーツの挙動という運動を見るという面白さが介在する余地がある。単純に「運動」そのものに快楽を見い出すことができるわけですが、ノベル形式のエロゲにおいては、それは殆ど叶わないわけで、しかも『シャッテン』のダーツシーンなんてただダーツの的置いたくらいの演出しかないわけで、つまりまあ、まったく適っていないわけです。
平たく言えば、そういうことで。『シャッテン』が纏う虚しさは、非現実のそれである。しかし、故に美しいところもある。―――ああ、それは、まんま「ヒーローショー=特撮」のことではなかったか。


熱いけれど憧れられない。

「熱いけれど憧れられない」という感想を以前どこかで拝見したのですが、非常に上手いこと言ってるなと思いました。

今、わたしたちが生きてる世界は、自分の信念や心を押し通すものに優しくなく、容赦なく排除してくるが、それでも押し通せ……(シャッテンの超意訳要約)というのは、寓話の中にしかない。実は世界はまったく異なる。今、わたしたちが生きている世界は、自分の信念や心を押し通したら、あっけなく壊れるほど脆いのだ。

だからぼくらは、これに熱くなれても、憧れられない。大人がヒーローショーを見ても、熱くはなれても憧れられないように。そこに映っている寓話は、ぼくたちの現実では危険すぎるから(=そういったものによくありそうな注意書き、「絶対にマネしないで下さい」ということ)。だからこそ美しい、ここにしか在り得ない物語。

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2010/01/25 | Comment (0) | Trackback (0) | HOME | ↑ ページ先頭へ |
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