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2010/02/25 (木) カテゴリー: 未分類
記事タイトル(↑)はなんか思いついちゃったワードでしかないけれど、しかし実際にこの作品の(個人的に)肝要なところはそれである。
■ メモっておく、と言いながら、何をメモったらいいのかまるで分からないんだけど。それなりにプレイメモも取ったしキャプったりもしたのですが、やっぱなんというか、いちいち記すようなことではないよなぁとしか思えない。というか、記したところで作品の価値を少しも上げることの出来ない事しか存在しない。そうでない人など、この世に誰かいるのであろうか。己の中のインガノックに打ち克ち、それを文章に認められる人など(←ぶっちゃけ負け惜しみ)
■ 文章。文章。それが素晴らしいなんて、言うまでもないと百も承知ですけど、しかしやはり素晴らしいことに変わりはないわけで。このラインの最新作『ヴァルーシア』もちょっとだけ触りましたが、あちらはさらにエッジが効いていますね(効きすぎてしまっているかも。真逆、あの文章、まともに読み込むなどしたら、死ぬぞ)。うろ覚えの走り書きで記しますが、ウンベルト・エーコの書いた「小説ではない本」――つまり記号論とか物語論(的なモノ)をエーコさんは幾つか書いてたのですが、そしてわたしは幾つか読んでたのですが、それを非常に思い起こさせる。や、エーコの小説の方はひとつも読んだことないので、そっち側の点ではまるでさっぱりですが。しかも記号とか物語の本を読んだのもだいぶ前なのでうろ覚えなのですが。なんか詳しい人に突っ込んでもらいたい気分ですー。最大の要点は、「言葉と、言葉の連なりというものが、如何に読者に認識(理解)されるか」という点。言葉が示しているのは、その言葉に対応する意味だけではない。そこから類似的に・類像的に導き出されるモノ・言葉もそうだし、言葉を示さないということで導き出されるモノ・言葉もまたある。そして、その言葉の連なり――つまり文章は、さらなるモノ・言葉・文章を導き出す。そしてエーコといえば『物語における読者』『開かれた作品』などなど、「読者」という存在にも強く注意を払った人物でした。
それは『インガノック』でも同じ。『インガノックにおける読者(=プレイヤー)』。ああ、いちいち書く必要もない、というか、『インガノック』というのは、なんかもー何も書かずに後生大事に心の引き出しにしまって置きたい物語なワケで(それだけ素晴らしく、完成しきっているということだ。崇高のままで居てもらいたいと望むほどに)、なので、こうやって書くことで(自分の中の)作品を貶めてることにしかなってないワケなのだけど、まぁいいや、書こう。この物語は”動くもの”とそれを”見つめ続けるもの”がメインの登場人物となり綴られている。手を差し伸べ続ける青年、ギー。ギーを見つめ続ける少女、キーア。殺しという救いを差し伸べ続ける青年、ケルカン。彼を見つめ続ける少女、ルアハ(最初はキーアを見つめ続ける少女だったが)。空を見上げる猫、溜息の女、アティ。階段を登る者を待ち続け・見つめ続ける願いの具現、大公爵。時計の針、己の使命を見つめ続ける男、路上の騎士。―――いや、ギーにしろケルカンにしろ、差し伸べる/救う相手を見つめ続けているからこその行動である以上、彼らもまた”見ている”存在でもあるのですが(それはレムル・レムルも同じく)。そして、その見つめ続ける彼らを、いやそれどころか……インガノック全ての住民の瞳にあって、そこから彼らを視ている、道化師。……そして。その全てを見て、知る、猫の老人と。
僕らはそれを「見ている」。ああ、そう、見ている人はもう一人居ましたね。ギーの後に立って、彼の行動を、その上あのゲームパート・心の声までも見つめ続けている、鋼の彼。ゲームパートを見ている主体は我われだと(我われだけだと)思っていたら、実は違っていた。鋼の彼が(彼も)見ていた、ということが、最終章のゲームパート最後(の仮面の声)にて明かされます。ならば我われは鋼の彼―――ポルシオンなのか?
<<奇械>>という名の「おとぎ話」。
人に美しいものをもたらす<<奇械>>が「おとぎ話」だということは、裏返せば、「おとぎ話の中にしか美しいものはない」ということである。この都市においては。美しいものをもたらすということ、それ自体が既に「おとぎ話」なのである。美しいものをもたらすのが「おとぎ話」になってしまっている”くらいに”、この街は、人は、非希望に彩られている――いやもう第一章の頃から散々語られている。街行く人は、街住む人は、みんな、「疲れている」「諦めている」。あの日より前に帰れるなら、他人を殺すことも、自分を殺すことも、なんだってした―――いや、なんだってするくらいに”それが救いだった”サレムのように。簡単だ。話は簡単だ。誰も現在に耐えられない。イマを無限増殖すれば、簡単に耐え切れなくなるほどに。
しかし<<奇械>>とは「おとぎ話」なのだ。クリッターに勝てる、同じ<<奇械>>にも勝てる、この”現在”を生み出している、様々な、人の手に届かない脅威や恐怖や崩壊に勝ることのできる。”現在”にあって人の手に届かない、それこそ人は諦めるか疲れるかしかない、脅威の”現象”に届くことの出来る、人ならざる彼の手。それは、しかし「おとぎ話」でしかない。裏返せば、「おとぎ話の中にしか、”現在”に在る、人が諦めるか疲れるかしかないその”現象”に勝てるものはいない」ということである。この都市においては。クリッターという恐怖・脅威、それに勝てること自体が既に「おとぎ話」なのである。死をもたらす恐怖の現象に勝てるものが「おとぎ話」になってしまっている”くらいに”、この街は、人は、非希望に彩られている――いやもう第一章の頃から散々語られている。街行く人は、街住む人は、みんな、「疲れている」「諦めている」。この10年、在り続けたこの敵わない/叶わないものたちに。”現実”と呼ばれるそれに。
裏を返せば……いやもう返すまでもない程に明白だが、あくまで裏を返せば、<<奇械>>がおとぎ話であるということは、それだけで人の限界の証明である。敵わないものは敵わないのだ。届かないものは届かないのだ。
それで終わりか。<<奇械>>というおとぎ話がなければ何も出来ず、何も叶わず、人は緩慢に死んでいくしかないのか。まさか。まさか。
救いも、おとぎ話。死と絶望の現象を拭い去ることも、おとぎ話。おとぎ話とはすなわち、現実ではない、存在しないということ。すなわち。救いも。現象に勝てることも。存在しない。現実には存在しない。「おとぎ話」くらいに夢物語の中にしか存在しない。
それでも人は生きている以上、生きていくのだ。それでもギーは手を差し伸べ続けるのだ。届かないかもしれないし、無意味かもしれない。叶わないかもしれないし、負けるかもしれない。―――いやむしろ、きっとそう。……だけど、それでも。
だからやっぱり書く意味なんてなかったよな(笑)。当たり前のことを文章というレベルに貶めてるだけ。
what a beautiful people. 大公爵の願いが、想いが、この10年のはじまりだが、果たして大公爵の願いとは何だったのか。崩落事故をきっかけに、嘆き悲しんだ、と語られるけれど、願いとは何だったのか。大公爵の願いとは何か。それは作中で語られている。 『人は、尊くあらねばならない』 。尊いあり方。そんな願いは叶うのか? 美しいもの。美しい人々。
無論、叶うのだ。グリム=グリムは黄金螺旋階段の終で待ち続ける。 人間の持つ想い。そして、その願いが行き着く果てを。 ならばそこにあるのが答えだろう。―――ああ、だから、書くまでもない、書く必要はない、書かない方がいいに決まっている。作中で描かれた全てが道程で解答だ。見ればよい・プレイすればよいし、それ以外に答えはない。それを文章に卸したところでマイナスしかないのは決まっている。
ただひたすら手を伸ばすのだ。獲り憑かれたかのよう。まるで病のよう。事実それは、獲り憑かれているし、病である。手を伸ばす理由は、道徳でも人命の尊さでも博愛でも偽善でも何でもない。 声にはならない。それは想いでしかないからだ。声にはならない。それは願いでしかないからだ。 己の思いの重さが全て。願いの果て。想いの果て。
巡回医師として下層を廻り、手を差し伸べ続けてきたのは、彼らを助けるためであり、また自分を助ける行為でもあった。ギーはいったい、何を怖れていたか。ギーをずっと見つめ続けてきた少女キーアはこう語る。
これは不純や打算ではない。間違ってはいけない。僅かなシリング以外は、姿形は見えないが、しかしそこに得はあるし、見返りはある。けれど、だからといって、それが不純や打算に結びつくわけではない。それらは後からやってきているのだから。……ここにあるには、ただの「想い」「願い」だ。それしかなく、まずそれだけで、それが彼を動かす動機。キーアが求め続けた、41の命が求め続けた、「どうして」の答え。―――つまり、一番分かりやすいところでぶった切ると、この作品の答えでもある。
相手の涙を拭う手は、自分の涙も拭っている。
そして、それは当然、繋がっていく。ギーの周りに居る人は、その殆どが、間接的にしろ直接的にしろ、”手を差し伸べたから”居る人たち。その(『インガノック』中での)行き着く先は、言うまでもないけれどエンディング。ポルシオンは伸ばされた手を掴みとり――手を伸ばすものがいて――そして少年と少女たちは、手を繋ぎ、青空の下、インガノックを見つめる。ああ、もう、やっぱ書くまでもないが、 what a beautiful people. なわけです。
――誰かが夢見た世界。――いつか夢見た世界。――けれど、こんなにも猥雑で、残酷で、憂いに満ちて、眩しいほどに輝いて――。
大公爵が、41の命が、夢見た世界。大公爵が、41の命が、我われが、見続けた世界。想いの・願いの果てがそこにあり、尊くあるべき人たちがそこにある。
ゲームシステムもまた面白かったというか、作品を上手く彩っていましたね。「心の声を聞くと、モノクロのキャラが実像化していき、完全に実像化すると、重要な選択肢が現れる」と説明されていましたが、ならば「手を伸ばす」「諦めない」という選択肢(正解となる選択肢は全部そういったものでしたね)は、心の声を聞かなくては選択できない・存在しない選択肢だと言える。心の声を聞き、心を知り、そこではじめて「手を伸ばす」ことが許される。伸ばした手が届くためには心の声を知ることが肝要なのですね――それは黄金螺旋階段の果てのギー(とキーア)の想い・願いの果てと重なってくるわけですが。ライアーソフトにとってはいつものことなのですが、マウスカーソルが「右手」というのも良い味だしていました。
そういえば「読者」の話をしてたっけ。忘れてた。このまま永久に忘れ続けてもいいですか?いいよね(何書こうとしてたのかももう覚えてねぇw)
ギーの後に立って、彼の行動を、その上あのゲームパート・心の声までも見つめ続けている、鋼の彼。ゲームパートを見ている主体は我われだと(我われだけだと)思っていたら、実は違っていた。鋼の彼が(彼も)見ていた、ということが、最終章のゲームパート最後(の仮面の声)にて明かされます。ならば我われは鋼の彼―――ポルシオンなのか?と問えば、やっぱりそれは違うわけですね。彼は生まれてしまったから。ずっと全てを見ていた、という意味では同じなのだけど。
……ずっと全てを見ていた、というのなら、もう一主体いました。……それと同じく。可視になり、不可視になり、鋼の彼と同じく、または赤い目の少女を通じて、ここに居るのに居なく、全てを見ているのに見ているかもしれない、41の生まれなかった命たち。ならば我われはその「41」なのか? ――まさか。それこそ真逆。この世界に居なくて、しかしこの世界にまったく居ないというわけではない――たとえば、我われが心の声を聞いたり選択肢を選べたりするくらいには”この世界に居る”ように――そんな彼らと我われは殆ど同一している。殆ど同一しているが、しかし同一ではない。しかし同一ではある。共通項は、「この世界に生まれていないが存在している」。
ならば同じだ。同じではないが、主体としての置かれる場は同じだ。『(赫炎の)インガノック』に対して置かれる位置という主体の在り場については同じだ。彼らを、一言でいうと何になるかは、作中で語られています。「可能性」。生まれていないのだからそれは全て可能性である。そして我われも、そこに生まれていないで、これを経験して自分たちの世界にまた生まれる以上、ひとつの可能性である。
モニターの向こうから差し伸べられた手は、わたしたちに届く前に霧散し、モニターへと差し伸べた手は、彼らに届く前に阻まれる。それでも、手を差し伸べるという「美しさ」は、”差し伸べられている”。
『赫炎のインガノック』、クリア。傑作である、とか、言うまでもないですよねー。ということで傑作でした。喝采しかない。そして端的に申し上げるとこの作品に対しては(誰も)何も述べることができない。理由の、ひとつ。この”書かれ方”――言葉の繋ぎ方が、その全てなのだから。理由の、ふたつ。既に作中で全てがまとまり丸まり完成されつくしているのだから。残ったのは些事と剰余でしかない。本作自体がひとつのアーコロジーであり、描き尽くされている以上、残るは考察だの感想だのといった余りでしかない。ということで、以上、終わり。―――がベストなんだけど。なんか、諦めきれずにメモっておく。以下ネタバレ。ここより先に喝采はない。
赫炎のインガノック ~What a beautiful people~
(2007/11/22)
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■ メモっておく、と言いながら、何をメモったらいいのかまるで分からないんだけど。それなりにプレイメモも取ったしキャプったりもしたのですが、やっぱなんというか、いちいち記すようなことではないよなぁとしか思えない。というか、記したところで作品の価値を少しも上げることの出来ない事しか存在しない。そうでない人など、この世に誰かいるのであろうか。己の中のインガノックに打ち克ち、それを文章に認められる人など(←ぶっちゃけ負け惜しみ)
■ 文章。文章。それが素晴らしいなんて、言うまでもないと百も承知ですけど、しかしやはり素晴らしいことに変わりはないわけで。このラインの最新作『ヴァルーシア』もちょっとだけ触りましたが、あちらはさらにエッジが効いていますね(効きすぎてしまっているかも。真逆、あの文章、まともに読み込むなどしたら、死ぬぞ)。うろ覚えの走り書きで記しますが、ウンベルト・エーコの書いた「小説ではない本」――つまり記号論とか物語論(的なモノ)をエーコさんは幾つか書いてたのですが、そしてわたしは幾つか読んでたのですが、それを非常に思い起こさせる。や、エーコの小説の方はひとつも読んだことないので、そっち側の点ではまるでさっぱりですが。しかも記号とか物語の本を読んだのもだいぶ前なのでうろ覚えなのですが。なんか詳しい人に突っ込んでもらいたい気分ですー。最大の要点は、「言葉と、言葉の連なりというものが、如何に読者に認識(理解)されるか」という点。言葉が示しているのは、その言葉に対応する意味だけではない。そこから類似的に・類像的に導き出されるモノ・言葉もそうだし、言葉を示さないということで導き出されるモノ・言葉もまたある。そして、その言葉の連なり――つまり文章は、さらなるモノ・言葉・文章を導き出す。そしてエーコといえば『物語における読者』『開かれた作品』などなど、「読者」という存在にも強く注意を払った人物でした。
それは『インガノック』でも同じ。『インガノックにおける読者(=プレイヤー)』。ああ、いちいち書く必要もない、というか、『インガノック』というのは、なんかもー何も書かずに後生大事に心の引き出しにしまって置きたい物語なワケで(それだけ素晴らしく、完成しきっているということだ。崇高のままで居てもらいたいと望むほどに)、なので、こうやって書くことで(自分の中の)作品を貶めてることにしかなってないワケなのだけど、まぁいいや、書こう。この物語は”動くもの”とそれを”見つめ続けるもの”がメインの登場人物となり綴られている。手を差し伸べ続ける青年、ギー。ギーを見つめ続ける少女、キーア。殺しという救いを差し伸べ続ける青年、ケルカン。彼を見つめ続ける少女、ルアハ(最初はキーアを見つめ続ける少女だったが)。空を見上げる猫、溜息の女、アティ。階段を登る者を待ち続け・見つめ続ける願いの具現、大公爵。時計の針、己の使命を見つめ続ける男、路上の騎士。―――いや、ギーにしろケルカンにしろ、差し伸べる/救う相手を見つめ続けているからこその行動である以上、彼らもまた”見ている”存在でもあるのですが(それはレムル・レムルも同じく)。そして、その見つめ続ける彼らを、いやそれどころか……インガノック全ての住民の瞳にあって、そこから彼らを視ている、道化師。……そして。その全てを見て、知る、猫の老人と。
僕らはそれを「見ている」。ああ、そう、見ている人はもう一人居ましたね。ギーの後に立って、彼の行動を、その上あのゲームパート・心の声までも見つめ続けている、鋼の彼。ゲームパートを見ている主体は我われだと(我われだけだと)思っていたら、実は違っていた。鋼の彼が(彼も)見ていた、ということが、最終章のゲームパート最後(の仮面の声)にて明かされます。ならば我われは鋼の彼―――ポルシオンなのか?
<<奇械>>という名の「おとぎ話」。
――それは<<奇械>>。<<奇械>>とは、”おとぎ話”。この都市最後の、この都市たったひとつの。そう語られている。何度も何度も。そして<<奇械>>は、クリッターを滅ぼす力を持っている。人間に敵うことは叶わず、人間を幾らでも殺す、人間から見たら”現象”である、謂わば絶望。
――それは人に美しい何かをもたらす。
――人の手が届かないもの。それは<<奇械>>も同じ。人の手に届かず、人が敵う見込みもない。負けるしかなく、退くしかなく、諦めるしかなく、絶望するしかない、そんなモノたち。それに敵うことの出来る存在、それが<<奇械>>。ポルシオン。ギーはそれらを何度も何度も倒していく。その度にギーは云っている。 「……なるほど、確かに。人はきみに何もできないだろう」「けれど、どうやら。鋼の”彼”は人ではない」 。その言葉はすなわち。人では敵わないという証明。それを繰り返して語る。何度も何度も。
――何者にも傷つけられないもの。
人に美しいものをもたらす<<奇械>>が「おとぎ話」だということは、裏返せば、「おとぎ話の中にしか美しいものはない」ということである。この都市においては。美しいものをもたらすということ、それ自体が既に「おとぎ話」なのである。美しいものをもたらすのが「おとぎ話」になってしまっている”くらいに”、この街は、人は、非希望に彩られている――いやもう第一章の頃から散々語られている。街行く人は、街住む人は、みんな、「疲れている」「諦めている」。あの日より前に帰れるなら、他人を殺すことも、自分を殺すことも、なんだってした―――いや、なんだってするくらいに”それが救いだった”サレムのように。簡単だ。話は簡単だ。誰も現在に耐えられない。イマを無限増殖すれば、簡単に耐え切れなくなるほどに。
誰も都市の”現在”には耐えられない。だから、やっぱりまだ、いちいち言うまでもないんだけど―――この都市には、この都市で生きていくには、本当に、絶望しかない。人の悪意、だなんて可愛らしいレベルではない、人の悪意なら、人間にどうにかすることが出来るかもしれない、しかしここにあるのは環境の悪意。人はきみに何もできない、それが対象なのだから。世界自体が悪意であるかのような世界なのだから。ここで生きていくには嘘をついていくしかない。 「みんな、ずっと、嘘ついて……。これからも……きっと、そう……」 。ここには嘘しかないと――しかし、 『都市に、嘘など一つもないのさ』『嘘をついてるのは、人間だけだ』 と云うように、つまり誰もが嘘をつきながら――誰かが/誰もが言っていたように。悲しみも、涙も、嘘で隠し通していくしかない。嘆きは生きてすらいない為政者に届く筈もなく、灰色の空に覆われているのだから天にも届く筈もなく。しかし、それでも、生きている以上、まだ死んでない以上、生きていってしまうことになってしまう。救いや幸せはどこにもなく、それに諦め疲れ果て、涙も嘆きもどこにも届かず、それも諦め疲れ果て、全てを覆い隠しても。
――10年前の<<復活>>の日の出来事。
――それこそが”現在”の正体だから。
――誰ひとり。
――あの日を繰り返すことに耐えられない。
老師 「人は変異し、幻想の生物たちは現出し、強大なるクリッターどもが恐怖を撒いて。人の手が届かないものに、人が勝てる筈はない。この世界そのものもそうである。またクリッターもそうである。……が、それに勝てるのが、<<奇械>>。
人はそれでも生きねばならぬ。
人はそれでも涙を堪えねばと」
しかし<<奇械>>とは「おとぎ話」なのだ。クリッターに勝てる、同じ<<奇械>>にも勝てる、この”現在”を生み出している、様々な、人の手に届かない脅威や恐怖や崩壊に勝ることのできる。”現在”にあって人の手に届かない、それこそ人は諦めるか疲れるかしかない、脅威の”現象”に届くことの出来る、人ならざる彼の手。それは、しかし「おとぎ話」でしかない。裏返せば、「おとぎ話の中にしか、”現在”に在る、人が諦めるか疲れるかしかないその”現象”に勝てるものはいない」ということである。この都市においては。クリッターという恐怖・脅威、それに勝てること自体が既に「おとぎ話」なのである。死をもたらす恐怖の現象に勝てるものが「おとぎ話」になってしまっている”くらいに”、この街は、人は、非希望に彩られている――いやもう第一章の頃から散々語られている。街行く人は、街住む人は、みんな、「疲れている」「諦めている」。この10年、在り続けたこの敵わない/叶わないものたちに。”現実”と呼ばれるそれに。
裏を返せば……いやもう返すまでもない程に明白だが、あくまで裏を返せば、<<奇械>>がおとぎ話であるということは、それだけで人の限界の証明である。敵わないものは敵わないのだ。届かないものは届かないのだ。
【レムル・レムル】僕たち<<奇械>>は可能性であるだけ。可能性そのものに勝つことはできない。そして、このたったひとつのおとぎ話のように、可能性そのものの力は、”現在”という現象にも勝ることができる。
クリッターも同じこと。
だから強い。
可能性なんだから。
……だから人間たちを圧倒できる。
そうする意図が、なかったとしても。
それで終わりか。<<奇械>>というおとぎ話がなければ何も出来ず、何も叶わず、人は緩慢に死んでいくしかないのか。まさか。まさか。
救いも、おとぎ話。死と絶望の現象を拭い去ることも、おとぎ話。おとぎ話とはすなわち、現実ではない、存在しないということ。すなわち。救いも。現象に勝てることも。存在しない。現実には存在しない。「おとぎ話」くらいに夢物語の中にしか存在しない。
それでも人は生きている以上、生きていくのだ。それでもギーは手を差し伸べ続けるのだ。届かないかもしれないし、無意味かもしれない。叶わないかもしれないし、負けるかもしれない。―――いやむしろ、きっとそう。……だけど、それでも。
だからやっぱり書く意味なんてなかったよな(笑)。当たり前のことを文章というレベルに貶めてるだけ。
what a beautiful people. 大公爵の願いが、想いが、この10年のはじまりだが、果たして大公爵の願いとは何だったのか。崩落事故をきっかけに、嘆き悲しんだ、と語られるけれど、願いとは何だったのか。大公爵の願いとは何か。それは作中で語られている。 『人は、尊くあらねばならない』 。尊いあり方。そんな願いは叶うのか? 美しいもの。美しい人々。
無論、叶うのだ。グリム=グリムは黄金螺旋階段の終で待ち続ける。 人間の持つ想い。そして、その願いが行き着く果てを。 ならばそこにあるのが答えだろう。―――ああ、だから、書くまでもない、書く必要はない、書かない方がいいに決まっている。作中で描かれた全てが道程で解答だ。見ればよい・プレイすればよいし、それ以外に答えはない。それを文章に卸したところでマイナスしかないのは決まっている。
ただひたすら手を伸ばすのだ。獲り憑かれたかのよう。まるで病のよう。事実それは、獲り憑かれているし、病である。手を伸ばす理由は、道徳でも人命の尊さでも博愛でも偽善でも何でもない。 声にはならない。それは想いでしかないからだ。声にはならない。それは願いでしかないからだ。 己の思いの重さが全て。願いの果て。想いの果て。
キーア 「どうして、あなたは諦めなかったの。あたしに手を差し伸べて」この解答になっていないかのような解答こそが真実解答だったのだろう。誰かを救うということは、自分を救うことでもある。誰かに手を差し伸べるということは、自分に手を差し伸べるということでもある。
ギー 「泣いていたのは僕だけじゃない。きみも、そうだね」
巡回医師として下層を廻り、手を差し伸べ続けてきたのは、彼らを助けるためであり、また自分を助ける行為でもあった。ギーはいったい、何を怖れていたか。ギーをずっと見つめ続けてきた少女キーアはこう語る。
――それは、あなた自身。だからこそ、差し伸べた手が届くことにより、彼自身も救われているのだ。……たとえばだからこそ、インガノックの「解放」が告げられた時も、一人歩き続ける選択を選ばざるを得なかったわけです、彼は。<<復活>>のちの10年を全て無かったことにするその宣言も、<<復活>>のほんの数時間前から、ずっとこの「想い」「願い」に獲り憑かれて生きてきた彼自身の解放を告げる音となるには程遠い。
――差し伸べた手の無力さを想うあなた。
これは不純や打算ではない。間違ってはいけない。僅かなシリング以外は、姿形は見えないが、しかしそこに得はあるし、見返りはある。けれど、だからといって、それが不純や打算に結びつくわけではない。それらは後からやってきているのだから。……ここにあるには、ただの「想い」「願い」だ。それしかなく、まずそれだけで、それが彼を動かす動機。キーアが求め続けた、41の命が求め続けた、「どうして」の答え。―――つまり、一番分かりやすいところでぶった切ると、この作品の答えでもある。
相手の涙を拭う手は、自分の涙も拭っている。
そして、それは当然、繋がっていく。ギーの周りに居る人は、その殆どが、間接的にしろ直接的にしろ、”手を差し伸べたから”居る人たち。その(『インガノック』中での)行き着く先は、言うまでもないけれどエンディング。ポルシオンは伸ばされた手を掴みとり――手を伸ばすものがいて――そして少年と少女たちは、手を繋ぎ、青空の下、インガノックを見つめる。ああ、もう、やっぱ書くまでもないが、 what a beautiful people. なわけです。
……だいじょうぶ。どうしてキーアはこう”言えたのか”。ギーを、彼と共にこの都市インガノックを、見えない<<奇械>>や41の命たちまでも含めて、この世界を見つめ続けてきた少女の瞳に映る世界が「なぜ、どうして、それなのか」。その答えは簡単だ。簡単だろう。<<奇械>>などなくても。おとぎ話などなくても。クリッターという災害、変異という不治病、肉体にも精神にも苛酷を強いる環境、そんな「インガノック」だけど。それら様々な苛酷に立ち向かえる<<奇械>>が「おとぎ話」であるように、人はそれに手が届かない、人はそれをどうすることもできない、この厳しい環境・世界を変えることは出来ないけれど。出来ないけど。それでも。人はひとりではない。人は誰かを愛せる。誰かが誰かを愛してくれる。手を伸ばして、手を差し出して、その先に叶えるものがなくても、そこで終わりではない。人は、終わりではない。この苛酷な環境の中で。それに立ち向かえるのはおとぎ話のみ、つまり人は立ち向かえないという諦観の中で。それでも、伸ばした手は繋がっていく。そんな暖かさ。それは、<<奇械>>というおとぎ話に頼らずともなせる、<<奇械>>というおとぎ話とは異なる、現実に現存する「おとぎ話」。―――だから。生き辛い都市も、苛酷を強いる世界も。それに抗うことも敵うことも、人間には出来なくても。そこにいる人たちは、こんなにもまだ”美しい”のだから。都市は、世界は、思っているよりも、暖かい。
ギー。何も、心配いらない……。
決してあなたはひとりではなかったし、
決してあなたはひとりではないのだから。
知っているの。
見てきたから。
いつも、誰かがあなたを愛している。
あなたが思うよりも。
この都市も、この世界も、暖かいよ。
――誰かが夢見た世界。――いつか夢見た世界。――けれど、こんなにも猥雑で、残酷で、憂いに満ちて、眩しいほどに輝いて――。
大公爵が、41の命が、夢見た世界。大公爵が、41の命が、我われが、見続けた世界。想いの・願いの果てがそこにあり、尊くあるべき人たちがそこにある。
ゲームシステムもまた面白かったというか、作品を上手く彩っていましたね。「心の声を聞くと、モノクロのキャラが実像化していき、完全に実像化すると、重要な選択肢が現れる」と説明されていましたが、ならば「手を伸ばす」「諦めない」という選択肢(正解となる選択肢は全部そういったものでしたね)は、心の声を聞かなくては選択できない・存在しない選択肢だと言える。心の声を聞き、心を知り、そこではじめて「手を伸ばす」ことが許される。伸ばした手が届くためには心の声を知ることが肝要なのですね――それは黄金螺旋階段の果てのギー(とキーア)の想い・願いの果てと重なってくるわけですが。ライアーソフトにとってはいつものことなのですが、マウスカーソルが「右手」というのも良い味だしていました。
そういえば「読者」の話をしてたっけ。忘れてた。このまま永久に忘れ続けてもいいですか?いいよね(何書こうとしてたのかももう覚えてねぇw)
ギーの後に立って、彼の行動を、その上あのゲームパート・心の声までも見つめ続けている、鋼の彼。ゲームパートを見ている主体は我われだと(我われだけだと)思っていたら、実は違っていた。鋼の彼が(彼も)見ていた、ということが、最終章のゲームパート最後(の仮面の声)にて明かされます。ならば我われは鋼の彼―――ポルシオンなのか?と問えば、やっぱりそれは違うわけですね。彼は生まれてしまったから。ずっと全てを見ていた、という意味では同じなのだけど。
……ずっと全てを見ていた、というのなら、もう一主体いました。……それと同じく。可視になり、不可視になり、鋼の彼と同じく、または赤い目の少女を通じて、ここに居るのに居なく、全てを見ているのに見ているかもしれない、41の生まれなかった命たち。ならば我われはその「41」なのか? ――まさか。それこそ真逆。この世界に居なくて、しかしこの世界にまったく居ないというわけではない――たとえば、我われが心の声を聞いたり選択肢を選べたりするくらいには”この世界に居る”ように――そんな彼らと我われは殆ど同一している。殆ど同一しているが、しかし同一ではない。しかし同一ではある。共通項は、「この世界に生まれていないが存在している」。
ならば同じだ。同じではないが、主体としての置かれる場は同じだ。『(赫炎の)インガノック』に対して置かれる位置という主体の在り場については同じだ。彼らを、一言でいうと何になるかは、作中で語られています。「可能性」。生まれていないのだからそれは全て可能性である。そして我われも、そこに生まれていないで、これを経験して自分たちの世界にまた生まれる以上、ひとつの可能性である。
モニターの向こうから差し伸べられた手は、わたしたちに届く前に霧散し、モニターへと差し伸べた手は、彼らに届く前に阻まれる。それでも、手を差し伸べるという「美しさ」は、”差し伸べられている”。
(記事編集) http://nasutoko.blog83.fc2.com/blog-entry-83.html
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