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WHITE ALBUM2 -introductory chapter-に関する覚え書き

   ↑  2010/04/30 (金)  カテゴリー: 未分類

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(2010/03/26)
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introductory chapter は名前通り「前半」だけなので、結論じみたことは勿論言えませんが、しかしなんだこの後半が気になる度は……! という作品でした。で、以下覚え書きを。


音と演出


音を意識した演出が凄くて、たとえばバックグラウンドの音声・SEと、通常想定されるテキストの読まれる速度をだいたいで同期させている(同期するよう心がけて作られてる)なんてことも言えるんじゃないでしょうか。例としては、序盤の授業シーンで(一番最初の授業シーンだったかな)、主人公が普通にモノローグってる間に、モブ生徒が教科書読んでいて、その音声がバックグラウンドで流れているのですが、恐らく想定されているであろう通常の速度で文章を送っていくと、その生徒が読み終わったタイミングと、先生が「はい次、うしろの人」(こちらはテキストに表示)と振るタイミングがおおよそ一致するんですよ。ボクが何言ってるのかわかんないと思いますが(上手に説明できねえw)、これには驚きました。ここがあの女のハウスねのちょっと後、普通に読み進めていると、SEのチャイムが鳴り終るとほぼ同時に「なにやってんだお前ら、4時間目はじまったぞ」というセリフが来るところとかもそうで。非常に凝ったことをやるなと感服させられました。

また、エロゲでたまにある、強制オート(盛り上がる場面やクライマックス・ラストとかで、勝手にオートになること)って、どうも「ここが泣き所ですよ・ここが盛り上がりですよ・ここが感動するとこですよ、だからこう読んでください」的な匂いがしてあんまり好きじゃないんですけど、ホワルバ2の強制オートはそうでも無かったです。というのも、音楽と合わせることが主目的だから(主目的かのように見えるから)。これは非常に素晴らしいと思いました。実際の目的が”どっちにしろ(両方だったにしろ)”、そういった意図性に回収されることなく達成されている。


丸戸キャラクターの自律性と功罪


丸戸さんのキャラクターというのは、自律しているというか、ある意味しっかりと確立されている印象です。他のゲームだったら、地雷踏んじゃうような言動とか、聞き間違いとか勘違いとかなんかは、ああ物語を回すために(書き手がわざと)そうしてるんだな、という部分が透けて見えてしまうようなことが偶にあっても、丸戸さんにはそういう作者の意図の透けのようなものが全く無い。イコール「自然」ということです(※不自然を感じさせる言動ではないということ)。たとえば『さくらさくら』なんかは、聞き間違いとかうっかりとかのオンパレードですが、「なぜ彼がそこで聞き間違えるか」の必然性が示されてないわけです。だからそこに、作者の意図が透けて見えてしまう。「なぜ」の理由が人物の中にないのだから、作劇自体に回収されてしまう。対して『WA2』は、明らかに地雷踏んじゃってるような言動でも、「こいつはそういうこと絶対に言っちゃう人間だから」という根拠が散々に示されてるから、作者の意図的なものが透けて見えない(※後景化したままでいられる)。そういうことを言っちゃったりやっちゃったりする根拠が存分に示されている――むしろそういうことを言っちゃったりやっちゃったり”しない筈がない”、くらいのレベルで。たとえば、冬馬の家に泊まったとき、春希がトラベルセットを忘れちゃって雪菜に疑われるなんて場面がありましたが、こんな「トラベルセット(大事な・疑われざるもの)を忘れる」なんてことも、非常に春希っぽい。春希はひとつのことしか目に入らないというか、”目に入ったものしか目に入らない”タイプの人間なので(※詳細は後述)、こんな危険なブツを忘れることも、「ああ、こいつらしいな」と納得できる。作劇の都合でトラベルセットを忘れたのではなく、春希の人格としてトラベルセットを忘れるのは道理だなと思わせてくれるわけです。
三角関係モノの作劇のお決まりとして、勘違い・言い間違え・聞き間違え・言い損ね・聞き損ね・何かを忘れたりするようなうっかりミスなんかがよくあり、それにより三角関係という物語を回していくことがよくあるパターンでもあるのですが、『WA2』は、それをキャラクターの人格として回収することにより、作劇の都合により振り回される恋愛ではなく、彼らが彼ら自身だから振り回されてしまう恋愛という方向に纏めている。後編がまだなので結論には早いですが、ここまでのところ、勘違いなどの典型的パターンを踏襲しながらも、そこの帰結を作劇(物語)ではなくキャラクター(人間)に持ってくることによって、また別の次元を(新しい物語を)示しているように見えます。
(――前述の『さくらさくら』なんかはまさにそのパターンですよね。主として勘違いや言い損ねや聞き間違いなどで物語が回されている。ただ『さくらさくら』に関しては、作劇のパターンは一般的ながら、モノローグを語らないという、形式での絶妙な迂回があります。『WA2』とは異なる方法で、使い古されているくらいのパターンを回避しているといえるでしょう)

http://d.hatena.ne.jp/matunami/20100330/p1
こちらの方が、
キャラごとの発言、行動、その奥にある気持ちをちゃんと考えた上で、それぞれ独立した個体として他のキャラと絡ませる
と書かれていますが、まったくもってその通りだと思います。作劇の都合による発言というのが無い(というか、作劇の都合であると”感じられない”)。たとえば、雪菜のお父さんとかプレイしていてクソウザいと思ったのですが、しかしちゃんと、この人(雪菜父)なりの論理での発言だと感じられるんですね。この人はああいう人で、ああいう論理を持っていて、こちらがウザいと思えるような発言でも、この人なりには理に適っているんだろう、と理解できる。そういうのが全キャラ分あって、つまり誰も彼も、その人なりの理に適った言動をとっているように感じられるのです(※そう感じられる根拠は、一貫して「彼自身の理に従った言動」が行われているから。人物の言動が彼の性格・性質などから外れていない(むしろ厳守されている)からこそ、あらゆる言動が作劇に回収されず、キャラ個人に回収され、結果「彼らの自律性」が高まるわけです)。それは前述したように三角関係についても同じで、というか、”そういう人間だからこそ”、三角関係になったとも言えるでしょう。春希と雪菜と冬馬がこういうシチュエーションで出会えば、何回繰り返しても、こういう過程と結末に至るのではないか、だって彼らは”ああいう”人格・性格なのだから……と思えてしまう(ように描写されている)。

で、これは他のライターさんには真似できない丸戸さんの大きな特徴・利点ではあるのですが、同時に大きな欠点になる可能性も孕んでいる。なにせ、作劇の所為での言動ではなく、「春希がゆえの言動」なのだから、その責任は全て春希にかかることになるのです……!
要するに、この主人公ムカつく!ってなっちゃったら、(少なくともその点は)もうどうしようもなくなっちゃうんじゃないかなぁと思うのです。というかボクがそうでした。春希のやつに「そうじゃない、こうしろよ」「○○を言えよ」とか思っても詮無いことすぎる。だって”こいつ(=春希)ならこうする”をずっと実行され続けている”ということが分かるように作られてる”んだから……! 春希に、ああしろ、こうしろと言っても無意味を通り越して意味ないんですよね。だって春希は、ああしたりこうしたりしない、ああしたりこうしたらそれはもう春希ではない、この作中で描かれている行動をするのが春希なんだから……。
だから、途中で「決定的に合わない」となると、もうどうしようもない。たとえば、雪菜の父さんがウザいのは、作劇上の都合ではなく雪菜父がこういう人間だからというのが分かってしまうから(そう理解できるように作られているから)、そこでのウザさの責任は作劇にではなく雪菜父に向かってしまう。責任が作劇の都合ではなく、キャラクター個人に向かう。それは物語世界内レベルでは素晴らしく面白いことなのですが、物語世界外レベルでは、歯車が狂えばどうしようもなくなっちゃうことでもあったりします。格好良い人は(彼の責任において)しっかりと格好良いのだけれど、ウザい人は(彼の責任において)しっかりとウザい。

この、丸戸さんキャラクターが持つ(彼が生み出している)自律性の長所と短所、功と罪。ひるがえれば、”ムカつけるくらいキャラクターが立っている(自律している)”という点では、それだけで既に成功でありレベルが高いのは確かなのですが……。個人的にはちょっとアレだったかなーと。でも後編はすごく気になります。”この”春希のやろうがどう変わっていくのか・変わってくれるのかが……!


トラウマを「解消しない」、心の問題を「解決しない」ということの意義


さて、春希の内面。これはどう考えても「微妙におかしい」んですよね。たとえばNG恋の理くんなんかもそうで、少しおかしい(http://nasutoko.blog83.fc2.com/blog-entry-21.html)。異常な部分がある。けれど、その程度の異常さなど現代人誰もが何かしら持っているレベルだからか、作中で論点に上がることはないのです――これはもの凄く面白いし興味深い。いわゆる「主人公のトラウマ」というやつ(※ここでいうトラウマはあくまで(主人公の)精神的な問題を十把一絡げにトラウマとラベリングしてしまうのに近い「エロゲ用語的なトラウマ」でして、実際の精神分析的な意味でのトラウマとは大なり小なり異なる)を解消しない……そもそも議題(テーマ)にすら上がらない。理くんが狂ってるということに気づいた人はどれだけいるのだろうか?全然見かけないからそんなこと言ってるボクが狂ってるのかと思ってしまいますw
それはともかく、「主人公のトラウマを解消しない(そもそも議題に上がらない)」、これは非常に特徴的だと思います。まあ実際にはトラウマではなく、主人公の「狂ってる=狂気」の部分ですが、決定的に社会生活が送れないほど酷いわけではなく、また彼ら自身がそれぞれ、その異常な部分を抱えたままどう生きるかという処世術を持っている。これはわたしたちとたいして変わらないですね。これはわたしたちとたいして変わりません。大事なことなので二回言いましたが、人間というのは大なり小なり問題を抱えています。「人間には、既に精神病と認定された者か、(実は患っているのだが診断を受けていないため)まだ精神病と認定されていない者しかいない」みたいな感じの有名な言葉があるのですが(※有名なのに誰が言ったのか・詳しくはどんな文言だったのか忘れてすみません。知ってる人だれかフォロって!)、異常な部分や狂的な部分は、誰もが大なり小なり持っているわけです。その中で、”それを抱えたままでも社会生活を送っていけるように”、誰もが色々と工夫して・努力して・注意して・折り合いをつけている。理くんも春希くんも、その点においてはまったく同じで、彼らにも「おかしいところ」はあるけれど、それを病理として作中で殊更に取り上げることはなく、彼自身が抱えるものとして扱っている。そして彼らは、それを抱えた上で社会生活を送れている――どころか、大切なものを得たり、誰かを幸せにできたりしている。
まだ『WA2』は後編が出ていないので結論には早いですが、少なくとも『NG恋』なんかでは、そこはまったく取りだたされなかった。主人公のトラウマ(エロゲ的な意味で)は、議題にも上がらず、問題として前景化することもなく、彼が抱えるものとして埋もれていった。この対処はある意味では祝言でしょう。「病理は正されなくてもいい」「問題に答えを出さなくてもいい」。エロゲでは、少なくともヒロインにおいては、「トラウマは正される(べき)」というコードを多少なりとも負っている。ヒロインの問題は(主人公によって)解決され、特に心に関する問題は(主人公によって)解決される――これは葉鍵(つか鍵)以降、再帰的に強化されてきた流れと云うことができるでしょう(※だからこそ、「そうではない」タカヒロなどが新しいのであって)。それは主人公に対しても、ヒロインにおけるソレよりは弱いとはいえ存在していて、これもONE以降、たとえばメモオフやC†CやFateやキラ☆キラやそれこそ鍵作品に代表されるように、主人公のトラウマや心の問題に対して、”何らかの決着”が示されるという流れが再帰的に強化されてきた。それは換言すると、「病理は正されなくてはならない」「問題には答えが出されなくてはならない」というコードと精神の再帰的強化でもあるでしょう。だからこそ、NG恋では正されないし、答えも出ないのです。その程度の問題や病理は、誰もが抱えている程度のものではないか。ならば・だから正す必要はない、答える必然はない。主人公のトラウマ(エロゲ的な意味で)に答えを出すというのが再強化され続け、「ある種の論理的義務」と化しているからこそ、そのトラウマ的なものに答えを出さないことに意義がある。太一のように紆余曲折を経て自分を認めないといけないわけでも、朋也のように歩き続けた果てに自分を知らないといけないわけでも、鹿之助のように人生を揺るがす大問題の末に自分自身を見つけ「大丈夫に」ならないといけないワケではない。トラウマは解消されなくてもいい。心の問題に答えを出さなくてもいい。NG恋における(エロゲ的な意味での)トラウマの扱い方は、そういう解答を述べているわけです。それを抱えたままでも、社会生活を送れるようになんとか頑張っていけば、(そんな心の問題は「問題にすらならず」)、幸せになれるんだ、と―――

そして『WA2』ではどうなるのか。心の問題というものを徹底的に後景化させ続けテーマ化を拒み続けてきたここまでのテキストを見る限り、NG恋と同じ様になるのではないかと予想しますが、はたして。

そういえば春希の内面がどうおかしいのか書いていなかったので(そこ一番大事じゃん)補足しますと、というか言うまでもないかもしれませんが、基本的に奴は象徴界と想像界の住人です。何かを決め付けているというか、自分の常識が完璧に「自分の常識」なんですよね。「自分の常識が他人にも常識だと思っている」ということではなくて(ほどではなくて)。自分が「○○は××だろ」と思うことは、他人にとっても自分のそれと近いものではないかと思っているけど、確定=(その他人にとっても)常識、というほどではない、けれど自分にとっては絶対の常識である。「クラス委員ってのはそういうものだろ?」「テストの時は一ヶ月前から勉強するものだろ?」みたいな自分の常識を当たり前だと思っていて、けれどそういう「自分の常識」が、他人にとっても当たり前=常識だと”までは”思っていなくて(春希も自分の極端な部分とか変わった部分とかは幾つか自覚していますよね)、しかし、なのに、自分にとってはそれが当たり前で常識である。疑う余地もなく。自分にとっては常識でも他人にとって常識ではないそれを、そうだと知っていながらも、春希は疑っていない(し、他人にも「これが常識」と思わせようとしない)。これは別に社会生活が出来ないほど異常ではないし、他人をむやみに傷つけてしまうほど狂ってはいない――つまり、このくらいの「おかしさ」なら、人間誰だって持っていてもおかしくないレベルのものではあるのだけど(※もちろんフィクションなので強調やデフォルメがされているだろうけど)、でも、少なくとも”その程度には”、彼はおかしい。
冬馬が楽しい、可愛いという雪菜評に対して、「悪い、俺の言ってた冬馬って、ウチのクラスの冬馬かずさって子なんだ」「本当に同一人物なのか……?」と言ってしまうように、こんなに(雪菜の言葉に対する、自分がかずさに接するときは当然のように「自分」だという事実に対する)理解が及んでいない。 冬馬の家に泊まりこみでギター練習していて、熱心にやりすぎて気づかないうちに夜を明かしてしまったときに、時間を見て「俺の腕時計が狂ってる」、外に日が差してるのを見て「どうして窓の外が明るいんだ」、と素で言ってしまうように。 「ミス峰城大付属の小木曽に対して、最初から失礼な印象を持っていた」と語るように。他人の印象・風評に惑わされず、自分で見て決めるが、”自分で見て決めたソレには簡単に惑わされる”(前提として絶対であるから)。

そんな「おかしさ」は、たとえば生きていけないほど異常ではない、社会生活を送れないほど狂ってはいない。いや、そのままだと社会で生きていけないかもしれないけど、彼は作中で散々示されるように、自分を御して社会に入り込む彼なりの処世術を見に付けている。それはある意味、ボクらと同じようなもので、それさえあれば――それだけあれば、生きていくことも、どころか幸せになることだって、叶うかもしれない。


誰にでも、色んな事情がある。
家のこと、家族のこと、友達のこと……
人と比べて自分を慰めたり、余計に落ち込んだり、足掻こうとしてかえってドツボにはまってしまったり。
そんな、誰もが持ってる「自分だけの事情」って、本人的には生きるか死ぬかの問題だと思ってても、端から見ると、実は大したことなかったりして。
作中の言葉ですが(これは恋愛にもかかってる――WA2の物語(ないし彼らの恋愛)への自己言及的なものでもあるかもですが)、これが印象的でした。これは――そもそもこのモノローグ自体が、「かずさの問題」に絡めて出てきたものですが、春希に対しても同じようになるのでしょうか。

『WHITE ALBUM2』が後編において、どのような結論をここに用意するのかは分かりません。これまでのところはNG恋と同じ様に、エロゲ的なトラウマ、心の問題のようなものは埋没していますが、そこ(心)に刃を向けるのかもしれないし、あるいはNG恋のように社会や生活や幸せの後景に収め続けるのかもしれない。どのような結論が出てくるのか分かりませんが、どちらにしろ面白そうではあります。


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