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なすところをしらざればなりFOR I KNOW NOT WHAT I DO 

「飽きた。つまんねえ」(Fate/hollow ataraxia)について

   ↑  2009/07/15 (水)  カテゴリー: 未分類
このお話はこれ以上ないほどに一つ素晴らしい。正しく述べるならば「大好きです」と言うべきでしょうか。ええ、正直大好きです。

この夜戦う(つどう)ものの全ては。
自ら望んだ未来の為に、この幻想を打ち棄てて―――
(「ブロード・ブリッジ」)

一言で述べることが乱暴であることを承知で申し上げれば。これは。「続かせる」為のお話。「続かせる」ために「終わらせる」というお話。アンリの言葉で云うならば。 「終わる事と続かない事は違う」(「スパイラル・ラダー」) 。鍵となるのは「背負うもの」。


■はじめに――「悪とは全て拒否された善である」

「あらゆる悪は拒否された善である」。たしかジョン・デューイさんのお言葉。悪とは全て受け入れられなかった善である。
善とか悪とか、よくいいますが、そこの基準に/分別に真なるものはない。それは皆様よくお分かりでしょう。何が善で何が悪かは立場によって変わるという、あまりにもありふれたお話は、それほどまでに「真」なるものがそこにはないということを示しています。
立場によって変わるなら、何をしても、何をもってしても、「真の」善にも悪にも届かない。つまり、「真の」は、無い―――たとえ在ったとしても、「届かない」。ならばここにおいて為される正義は、独善しかなく。在り得る悪は、独善の逆側でしかない。
それは受け入れられるか、受け入れられないか。たとえば、そうですね、アンリマユは 「愛だよ愛。それが基本にして最強だ」 と語る。だが皆さんご存知でしょう。ご存知でなければ今知るといい。最強というのは最善の同義語にして最悪の同義語だ。最も強いというのは、他の全てを駆逐する。最強の前では、99点も、天才も、秀才も、血の滲むような努力も、涙ながらにしか語りえない道程も、幼き頃の約束も、病気の子供の為にホームランも、いかなる理由もいかなる内容もいかなる努力もいかなる者も、全てが、その最強の前では駆逐される。何があろうと最強に塗りつぶされる―――否定される。今でも満足している、これで充分だという次善も、最強―――未だ見ぬ最善の前では、否定される。だからこそ、悪とは受け入れられなかった善の名前である。それが受け入れられれば善であり、それが拒否されれば悪である。
しかしそれは、如何なる場にも覗く。最強の真逆―――「ひとつ除いて全て否定」という最強の真逆、「全てを肯定」という謂わば「最弱」もまた、同じくらい悪であり善である。カレンがいとも簡単に、一言で纏めています。「全てを許すということは、”強者は強く、弱者は弱い”と切り捨てる事なのです」。全てを肯定するということの結果もまた、受け入れられるか/受け入れられないかで、善と悪は異なる。ここまでくれば明白でしょう。善とは受け入れられるものの名称であり、悪とは受け入れられないものの名称である。ならば、「正義」もまた明白。それは、「受け入れられるもの」を作り出そうという行為であり、かつ、その極北、今よりも「もっと」を目指すもののことを指している。作中の言葉で云えば、それは、「我慢できない」。


たとえばアンリマユを思い出すといい。彼は悪として「見立てられたもの」であると語られます。特に何かをしたわけでもなく、特に理由があったわけでもなく―――少なくとも、必然足りえる(真足りえる)何かや理由があったわけではなく、ただただ彼は「悪魔」として人々に選ばれ、人々の悪心の全てがそこに懸けられていった。曰く、 「そういう悪魔がいるなら仕方ないって。イヤな事は全部そいつの所為で自分たちの所為じゃないんだからって」 。我々は本来ならば善なる者だ、良い人間だ、その人間が悪いことを行うのは、不安に怯えたり恐怖に震えたりするのは、悪魔が、悪心を我々に宿すからだ、と―――彼の所為にした。
その「人間の弱さ」を我慢できるかどうかが、士郎とアンリの「我慢」の違いでもあるでしょう。己の悪心に耐えられない。恐怖に、イヤなことに耐えられない。だから、悪心も恐怖もイヤなことも全部「悪魔の所為」にして逃げる。つまり、それらは自分のモノではない―――悪いことも恐怖もイヤなことも全部「悪魔がいるから」で、「真の自分」がそうなのではない、真の自分の所為ではない、真の自分は”別に居る”、と見なすのが、この場合の弱さ。その弱さを引き受け、乗り越え、さらに良い結果を追い求め続けるのが衛宮士郎ならば。その弱さを肯定するのがアンリ。悪心を持った今の自分が本当の自分だと受け入れられない奴が弱虫なわけではない、悪い事を他人の所為にしてしまう人間が弱虫な奴ということではない、人間はそれほどまでに「弱い」のだ。人間は自然と誰かの所為にしてしまうほどに「弱い」のだ。その弱さも含めて当たり前。その弱さは人間の元々なのだ――現今の姿が常に「真」であり、その弱さも含めて「真なる」己なのだということ、そして、そもそもの、その弱さを直視できず「誰かの所為に」してしまう、その苦悩を誰かに背負ってもらおうとすることもまた同じく、貴方の弱さなのだ――ということ。その肯定。
そして裏返しにあるのがその否定。最善を目指すことと、今の全てが今の最善であること。
それが彼らの我慢の在りどころ。

さて、そんなわけで。


■飽きた。つまんねえ。

「飽きた。つまんねえ」というアンリの台詞。全てを埋め尽くしたら終わる永遠と重なって、これはある種「プレイヤーのこと」かと、4年ほど前、最初にやった時は思いました。

なるほどここまでゲームをプレイしてきたプレイヤーも、いい加減、この日常に飽きてしまった。しかも100%―――全部埋め尽くしたとなれば、もう見るものは無くなる、輝きは無くなる、関心は無くなる。飽きたし、つまんなくなる。
だからここにおいて、アンリは――終わらせるアンリというのは、まさにプレイヤーのことかと思っていたのですが……少し、違いました。これはミスリードで、ならびにトゥルーリード。日常に飽きたのではない。日常がつまらないのではない。アンリの「飽きた、つまんねえ」というのは、嘘である。しかも理解の上でも、さらに上記した読みと異なっていた。

最初に彼が「飽きた、つまんねえ」と口にした時は、バゼットにより否定されていました。
拳を握り締めて叫ぶ。
私は裏切られたことより、その気持ちを知りたかった。
なのに、ソレは、
「飽きた。つまんねえ」
あっさりと。
こんな時まで、見事なまでに自分の気持ちを消したのだ。
(「夜の聖杯戦争6」)


次は、カレンによる否定。
「……ねえ。今でも本当に、この願いを終わらせたい?」
「あったりまえだ。もう何億回繰り返したと思ってやがる。いいかげん、飽き飽きでお先真っ暗だよ」
「嘘つき」
(「夜の聖杯戦争6」)


そして、自分自身による否定の言葉。
楽しみは充分すぎるほど出揃っていた。
新しい出来事は必要ない。
たった一種類の四日間でも、永遠に繰り返すという契約を守っていける。
なのにどうして、オレはしなくてもいい事をし続けたのか。
被った人格の影響だけではあるまい。
多分、飽きたのだ。理由はそれでいい。飽きたから終わらせたくなっただけ。そうとでもしなければ。
何もかも、放り出したくなってしまう。
(「スパイラル・ラダー」)

すげえぜおい、言う度に他人に/自分に否定されてるぜコイツ。それはともかく、この最後の「自分による否定」において、何が嘘なのか、そもそも何に対して「飽きた。つまんねえ」なのかが明らかにされています。新しい出来事は全く必要なく、たった一種類の四日間を繰り返す=ずっと同じこと・同じ日々・同じ出来事を繰り返すのでも”別によかった”けれどと、アンリは云ってるわけですね。ということは、内容に飽きたのでも内容がつまらなかったわけでもない。たった一種類でもよかったし、新しい出来事は必要なかったのだから、内容自体に不満があったわけではない。そもそもこの得られる筈の無かった得られるべき事々は、それだけで過ぎたユメだろう。
内容に対して「飽きた。つまんねえ」と言ってるわけではない(まあ「飽きた。つまんねえ」というのは、”そうとでも言わなきゃやってられない”ということで、決して(十全な)本心ではないのですが)。では何に対して「飽きた。つまんねえ」と言っているのか。何に対して、飽きてつまんないと無理にでも思わなくてはならないのか。それは彼とバゼットとの会話で明らかになります。

「貴方はずっと遊んでいたかった。隙間なんて埋めたくなかった。自分が無に戻ると分かっていたから。
なのに日常を回し続けたのは、貴方にとって」

わかんないヤツだな。
飽きたんだってば、そういうのは。
(「天の逆月」)

「そういうのは」というのは、バゼットの言葉の前半部。『貴方はずっと遊んでいたかった。隙間なんて埋めたくなかった。自分が無に戻ると分かっていたから。』。そいつに「飽きた」と言っている―――勿論ここでいう「飽きた」は、常に完全な本心ではないかもしれないという注釈が付く、つまり「飽きた」とうそぶいているわけです。それはもちろん、 そうとでもしなければ。何もかも、放り出したくなってしまう。 という彼の言葉に従えば、”そういうことにしておきたかったから”。そう思い込んでいたかったから。たとえ嘘だと見抜かれていても、そういう外見を取り繕っていなければ、何もかも放り出してしまう―――今やってることができなくなってしまう。

その、「今彼がやってること」とは何か。この永遠の繰り返し――永遠に繰り返せることを、終えようとすること。別に、この繰り返し自体は嫌いでも何でもなかった。一種類の四日間でも、新しい出来事が一つもなくても、やろうと思えばいくらでも出来た。ずっと遊んでいられた。やめてしまったら無に戻る。けれど、それでも、「飽きた。つまんねえ」と嘘を吐いてでも、したかったことがある。
それは、上の引用の直後の文章が、克明に語っているでしょう。

世界を回し続けろ。
あの黄金の日々を。
オレには決して手に入らなかった、本来与えられるべきだったモノを―――

「―――しつこいなあ。
悪いけど、その願いは叶えられねえわ。無意味な時間はここまでにしようぜ」
(「天の逆月」)

無意味な時間はここまでにする。つまりでいえば、この(無意味な)時間を終わらせる。この時間は全く持って無意味である。この永遠は全く持って続きがない。つまり「飽きた。つまんねえ」というのは終わらせる為の方便ですね。ずっと遊んでいたかった、ずっとこの永遠に留まっていたかった、ここにある黄金の日々、与えられず与えられる筈だったものに接し続けられる日々、それを続けていたかった気持ちもあったのだけれど。
終わらせることにした。それら、彼が言う「無意味な時間」≒無意味なことを。

その為の方便としての「飽きた。つまんねえ」がある。そう、だから「飽きた。つまんねえ」とは、内容が「飽きた。つまんねえ」なのではなく、形式が「飽きた。つまんねえ」なのです。この日々自体は飽きてもないしつまんなくもない。たった一種類でも永遠繰り返せるくらいなのだから、そもそも「飽きる」ことも「つまらない」ことも起こり得ないかもしれないくらい。そしてそれ自体は単純に無意味ではない。カレンやイリヤに、この日々を、この自分自身を「真実」「本物」と云われてアンリが安堵したように、この繰り返される四日間自体は嘘ではない。この四日間で起こる出来事は全て「ありえること」で、「あったこと」には到底届かないけれど、その「ありえた」の価値は・重みは嘘ではない。到底、真実。喩えるならば、この四日間の出来事は全て「ある」出来事―――そこに「在る」出来事ではないけれど、かつて「あった」出来事―――本当にそう在ったのかを、本当はどうだったのかを、今となっては確かめようがない、俗に「あった」と呼ばれる遠い日の想い出くらいの深度では「在る」。真実「在る」わけではないけれど「あった」日々。
けれどそれを繰り返すこと自体は無意味であろう。いくら「あった」を繰り返してもそれが「在る」に変わることは永遠に無い。夢の中の出来事は、夢の中では「本当」だけれど、夢の外には続いていかない。永遠の四日間の中の出来事は、この四日間の中では「本当」だけれど、その先には続いていかない。この形式には先がない。それは―――五日目の世界においては、夢の先の現実においては、無意味な”時間”にしか過ぎない。


順を追っていきましょう。
まず、この四日間を終わらせるという話。

「……そうだな。終わる事と続かない事は違う。
ここにいたら、いつまでも続きがない」
(天の逆月)

「終わる事と続かない事は違う」とアンリは云う。これは「終わらない事と続く事は違う」と述べるのと同義でしょう。たとえ物事が続いたからって、ある出来事が終わらずに続き続けたからって、それは一概に”続いている”とは言えない。夢がいくら続いても夢の先には続かないことと同じ。永遠の時間に居続けたら永遠の先に続かない事と同じ。この四日間は永遠に続くけれども、四日間の先―――五日目には、絶対に「続かない」。日が沈まなければ日が昇らないのと同じ様に、四日目が終わらなければ五日目は訪れない。永遠は終わらなければ、永遠の先に辿り着くことは決して無いということ。

この夜戦う(つどう)ものの全ては。
自ら望んだ未来の為に、この幻想を打ち棄てて―――
(「ブロード・ブリッジ」)

それはセイバーたちサーヴァントにとっても同じ。たとえばキャスターは「もっと続けていたかった」と居心地の良さを述べたり、ギルは「児戯に等しい」と初めから呆れていたけれど、それでもそれぞれが、ここは「夢」と同質のものだと分かっていて、そして終わらせることを選んだ。この四日目と五日目の狭間の戦いは、セイバーが云うとおり、幻想の四日間を殺して、未来に至る為の戦い。夢と同質、この中においては真実であるけれど、先には一つも続かない。この四日間にはミライがない。
明日と言わず永劫に。
聖杯戦争は終わらない。
仮に、俺が死んだとしても、彼女が消え去ったとしても。
日常は、こうしてずっと回り続ける。
戦いを終わらせないかぎり、終わりを望まないかぎり、
その約束が、ただの願望に成り果てる事はない。
「―――でも、貴方はそれを許せない。我慢できない人だから」
(中略)
「―――そうだ。俺は聖杯戦争を解決する」
その独善。
本当は解決する必要などない。
四日目を眠って過ごせばそれでいいのだ。
この四日間だけ、目をつむって見過ごしてしまえばいい。
それだけで、この異常は終わるのだ。
でも、それは衛宮士郎にはできない。
それは失われたものを無視する事だ。
幸福を享受し、足を止めた生き方だ。
都合のいい幸せを。
都合よく受け止められない、骨の髄まで捻じ曲がった正義の味方。
(「wish」)

衛宮士郎においても半分同質。彼が「我慢できない」というのは、”それでは足りない”ということ。ここで足を止めてしまっては、この都合のいい幸せでは、足りない、届かない。
(カレン)「ねえ。……人並みの幸せは、そんなにつまらない?」
(中略)
ああ―――そうか。
俺の生き方は、つまり、それでは我慢できない人生なんだ。
生命(いのち)の分だけ幸あれと。
小さな幸福では、割が合わないと叫んでいる。

「最強」と同じ。次善の幸福は望んでいない。今ある幸よりも、さらなる幸がある/ありえるならば、それを目指さなければならない―――それを目指さない事が、「我慢できない」。それは、今ある次善の幸福を否定することに繋がるけれど、今ある次善の幸福はそもそも、その”次善”という時点で、失われたものに報いいれていない。 「この、誰も失われていない理想郷で。貴方だけは、失われたものに価値を見い出そうとしている」(「wish」)
だから、塗り替えなければならない。失われたものへの報いは、最大の幸福をもってして。だから、我慢できない。それが唯一果たせる未来へ向かうことを―――この四日間を終わらせることを、我慢できない。

終わらなければ続きはない。今日が終わらなければ、今日は永遠に続いていくのだけれど、明日へと続くことが無くなってしまう。今日が終わらなければ、明日に続くことがない。


続いて、何故「飽きた。つまんねえ」とうそぶいたのか。
一つは理由の捏造。象徴的な態度としての採るべき己。 そうとでもしなければ。何もかも、放り出したくなってしまう。 / この願いを止める方法はただ一つ。停止を拒む彼女と、本当は同意したい心。その二つに、キレイに幕を降ろさなくては。 何もかも放り出さないために、本当は同意したい心を麻痺させるために、作り上げた言霊。
もう一つも理由の捏造。ただしこちらは、他者に対する象徴的な己の態度。……一言でいえば。本心を知られなければ、他者は”そうだ”と勘違いしてくれる。ここにおける対象は主に、いや唯一、バゼットに。
……それは、望んだ中で一番上等な別れ際だった。
オレはこの関係が気に入っていたらしい。
犯しも殺しもせず付き添ったのは、きっとそういう事だろう。
だから最後は、こういう別れが欲しかった。
今まで通りの関係で別れる。
(「天の逆月」)

”さあ、聖杯戦争を続けようぜバゼット。今度こそ、アンタの望みが―――”
ソラミミが聞こえる。
彼は最後まで、そんな関係を望んだ。
それが分かったから、私もなんとかやり通した。
私はうまく出来ただろうか?
彼が望んだ通り、悲しい別れではなく、信用ならない相棒として、それぞれの道に戻ることが。
……出来ていたのなら、胸を張ってお別れを言える。
―――あの見栄っ張りな男の、取るに足らないちっぽけな誇りを。
最後に守ることが出来たのなら、私たちは、きっと最高のパートナーだった筈だ。
(「エピローグ」)

このままで終わらせる。いつものままで別れれば、それは荷にならず、バゼットは五日目に向かうことができる。飽きたのだから、つまんねえのだから終わらせるのであって、決してバゼットの為ではない、と―――。
しかしそんなことは、とっくに看破されてました。そもそも、アンリの「飽きた。つまんねえ」が嘘だということを、バゼットは最初の瞬間で分かっていました。しかし、その事を決して口に出しもしなかった。知ってても、知らないこととした。そのお陰で――その所為で、この関係のまま、別れることが出来た。


■バゼットについて。

私は外面ばっかりで、大人になる時に持っていなくてはいけない”自分”を、決めようともしなかった。
『自律した自分』という鎧を鍛えてばかりで、生身の私を鍛えられなかった。
むき出しの自分はこんなにも弱くて臆病で、私は生まれた時から、ずっと世界を悲観している。

希望を持てない私は、希望を持たない事で毎日をやり過ごす。
けど、それはぜんぶ怖かったから。
本当は人一倍報われたいクセに、賢いフリして自分を騙し続けていた。
本当は人並みに毎日を楽しめたのに、いつか無くしてしまうからと目を背け続けた。
本当は―――本当は。
そんな自分がとても楽で/そんな弱さを克服したくて、
この惨めな気持ちのまま/こんな惨めな気持ちのまま、
生きていくのだと/生きていくのは
諦めている。/耐えられない。
(「夜の聖杯戦争6」)

たとえば自身によって、あるいはアンリによって、幾度も語られていますね。上の引用文のような内容が。曰く、 中身は自分に自信を持てない臆病者で、それを擬装する為に厳しく肉体と精神を鍛えてきた。(「夜の聖杯戦争2」) 。謂わば、外側の鎧だけは徹底して鍛え抜いて、中側の心だけは決定的に鍛えられなかった。そんな彼女に付き纏うのは自分に対する不信感、周囲に対する罪悪感、そして身に付く諦観。それらは別に、なんてことはない―――誰もが持っているものと同じ。誰だって。傷つくのは怖いし、失うのも怖いし、そして何より、人の人生というのは、いつか必ずどこかで傷ついて、いつか必ず何かを失うことが定められている。それを覆すことは出来ない。それに対する恐ろしさが、生まれた時から分かっていた、現実の厳しさ。……たとえば、子供の頃のバゼットが、クーフーリンの逸話に怖れを抱いた理由とか。
「……そうだな。おそらく君は、その少年の行動に苛立ちを覚えてしまった。こうして成長した今でも、彼の決定を怖がっているのだろう?」 / そもそも、そんな非業の運命を変えようとさえしなかった英雄を、私は畏れていたんだ―――(「Forest」)
自分が如何なる戦士となり、短い栄光を得て、長い苦悶とぶつかり合うのかを”分かっていながら”、それを変えようとしなかった―――受け入れたクーフーリン。バゼットはその事自体に畏れている。その、自分自身の運命を受け入れるということ、如何なる出会いも如何なる喪失も全部受け止めるということ、この先に見えるどんな辛さも厳しさも、非業と呼ばれるその運命も、変えようともしないこと。
少し長くなりますが、引用しましょう。

「……あ、あるわ。ここにいるかぎり、私はこうして居続けられる」
「死なないだけだ。それは救いじゃない」
「で、でも……ここは楽だから。あんな、苦しいだけの外に比べたら、少しは―――」
「変わらないだろ。これでも長い付き合いだったんだ。アンタがどれだけ不器用かはよく知ってる。このまま続けばアンタは永遠に苦しみ続ける」
自分に対する不信感。
周囲に対する罪悪感。
(中略)
その敗北感こそが、生まれついた時から離れない、この女の心の瑕だ。
「でも、努力するしか道はない。孤立する無様さより、努力をしない無様さの方がアンタには耐えられない。
そうして―――アンタはずっと、強者なのに一番底にいるという屈辱に苛まれる
その克服はここでも出来なかった。
そうだろう? どんなに勝ち残り、何人のマスターを倒したところで。
……アンタは一度も、自分を誇りに思えなかった」
「言っとくけどさ、何処であろうと無理なんだ。その惨めさは一生拭いされない。それは人間が死ぬまで抱えていくものだ」
(中略)
「その荷物は誰も持ってやる事はできない。自分で抱えるしかない。人間に支え合う事ができるのは荷物じゃなくて、荷物の重さで倒れそうな体だけだ」
そして更についてない事に、この女は一人でもなんとか体を支えられる特訓マニアだったのだった。
だから倒れた経験がなく。
この荷物(くのう)は、誰かが支えてくれるものだと誤解している。
「苦悩は誰にも理解されない。それは内だろうと外だろうと同じ事だ」
(「天の逆月」)

荷物/苦悩は”自分にしか背負えない”。自分のモノは、自分にしか背負えない。彼女はクーフーリンの何に畏れたのか? たとえそれが非業のモノであろうとも、自分の運命、自分のモノを自分で背負う、その決定を怖がったのだ。
人一倍報われたいクセに、賢いフリして自分を騙し続けていた。―――それは、自分自身の苦悩からの目の逸らし。人並みに毎日を楽しめたのに、いつか無くしてしまうからと目を背け続けた。―――それは、自分自身の荷物を背負うことからの逃走。希望を持てないバゼットは、希望を持たない事で毎日をやり過ごした。―――それは、自分自身の苦悩の、荷物の、放棄の願い。
背負うしか、ない。それは他人がどうこうできるものではない。そこに救いはないのです。だから、背負って―――アンリが云うように、もがいて、足掻いて、生きていくしかない。バゼット自身が云うように、みっともなく悩みながら、走っていくしかない。他人にそれを放棄することは出来ないし、この四日間にそれを埋没させようとしても叶わない。
このお話は。このお話におけるバゼットは。
どうせ傷ついてしまうし、どうせ失ってしまう、だから、希望自体が無い―――というところから。どうやっても傷ついてしまう、どうやっても失ってしまう、けれど、希望は在る。それを背負っていく限り、希望は在り続けるという場所へ。

「……バゼット。世界は続いている。
瀕死寸前であろうが断末魔にのたうちまわろうが、今もこうして生きている。
それを―――希望(みらい)がないと、おまえは笑うのか」
(「天の逆月」)


世界は続いている。 それはアンリにも、彼ら・彼女らにも言えることでしょう。
「いつまでも間違えたままでも―――その手で何かが出来る以上、必ず、救えるものがあるだろう」(「スパイラル・ラダー」)
ここにある英霊という姿は残滓でも。そこにおいて何かが出来る事はありうる。たとえば「ライダー」においても、同じ様なことが語られています。自分は必ずや「怪物」になってしまう、過去においてそれは既に決まっているけれど、この世界にたとえ残滓としてでも現界できている以上、この世界で出来る事はある、この世界で与えられる影響は現実のモノである=世界は続いている。この自分でも、桜に自分と同じ道を辿らせない、桜を救う事ができる。「救う」と、はっきり言葉で、明記されていますね。
ホロウにおいて唐突に過去が語られるライダー・ランサー・キャスター。それは、ランサーの場合は特に夜の聖杯戦争・本編の物語に絡んでくるものでもあり、他の二人は前作で語られなかった事の補完でありますが、それらは単純にそういう意味だけでは終わっていない。


というわけで、この長い長い迂回の末、「プレイヤー」についてのお話に至ると……まあこっから先は蛇足に近いですが。
終わらせないと、続かせる事はできない。たとえばこのゲームプレイとか。だから敢えてこう云おう。全てをブチ殺して、終わらせる為にこう云おう。「飽きた。つまんねえ」、と。

(記事編集) http://nasutoko.blog83.fc2.com/blog-entry-1.html

2009/07/15 | Comment (-) | HOME | ↑ ページ先頭へ |