なすところをしらざればなりFOR I KNOW NOT WHAT I DO 

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だんごらない方の大家族vs小家族

   ↑  2009/08/21 (金)  カテゴリー: 未分類
■1
萌えゲーなど存在しないし、燃えゲーも泣きゲーも存在しない。抜きゲーも存在しないし、極端な話「エロゲーは存在しない」。

有名な語句を拾ってくればジャック・ラカンの「女は存在しない」あたりが示唆的だろう。これに対する見解は古今東西様々ありますが、個人的に好きなのはジョアン・コプチェクあたりの見解。「ここにいるのは<女>ではない、ひとりの人間だ」というもの。何をやろうが、何を満たそうが、<女>なるものには届かない。そもそも<女>って何よ。てゆうか、もっとそもそも、まず生物学的に男女が分かれてて、そんで社会的に男女が分かれてるわけなんだけど、それのどこが正当なの? そしてたとえそれが正当だとして、それを君らは正しく認識できるの?
なんてのがその見解。不可能性としての<女>。これはいわゆる<現実界>(象徴限界としての<現実界>)と同じ感じでしょう。あるものを、如何なる語句や概念で補っても、その「あるもの自体(現実界)」に届かない(そして届かないからこそ語句や概念が入り込む余地が生まれる)のと同じ様に、何をどう補っても「女自体」に届かない―――だってね、ぶっちゃけね、「女なるもの自体」が幻想じゃあないか。

それと同じ様に、あるゲームを「萌えゲーだ」「燃えゲーだ」「泣きゲーだ」「抜きゲーだ」と述べても、それ自体に届くことは決してない。そのゲームが如何なる内容であっても、そのゲームを如何なる言葉で表現しても、「萌えゲー」「燃えゲー」「泣きゲー」「抜きゲー」に届くことは決してない。また逆から言えば、その言葉だけでそのゲームを言い表すこともできない、ということ。……単純に、そこに回収しよう/回収できる/回収してしまう、なんてのは愚かというか、まあ愛が足りないよね。
たとえば萌え属性ちりばめられたキャラとただの萌え萌えシナリオだけで作られたゲームを「萌えゲー」と名付けたところで、それは現時点で・その名付け主だけがそう思っているだけのもの、以上にはなれない。たとえば今、「萌えゲーといえばコレ」「○○は萌えゲーだろ」と思ったところで、その基準で10年前のゲームや10年後のゲームを査定したら、そのゲームを10年前のゲームや10年後のゲームと比べてみたら、さてどうだろう。”届かない”のではないだろうか、というところ。どのような内容でもどのような語句でも「萌えゲーの内実」「これこそ萌えゲーだ」というもの(現実界)には届かない(逆説的に、もし届くのであれば、最初から語句も内容も入り込む余地は無くなるはずである)。

別の語句を拾ってくればミシェル・フーコーの「民衆などない。ただ民衆性があるのみだ」がある(ごめん正確な言葉は忘れちった(けど内容は同じ)あとで確認る)。というかコッチの方が分かりやすい。
「萌えゲーなどない、ただ萌えゲー性があるのみだ」、「燃えゲーなどない、ただ燃えゲー性があるのみだ」「泣きゲーなどない、ただ泣きゲー性があるのみだ」「抜きゲーなどない、ただ抜きゲー性があるのみだ」。
如何なる内容をもってしても、如何なる言葉をしても、その内実は埋まりきらない。「これこそ○○だ」という究極は届き得ない(「今の自分が思う」という限定条件下なら届くかもしれないが)。ゆえに、「○○は存在しない」。あるとしたらただの形式性としてのソレ、つまり「エロゲという形式で売られてるからエロゲがある」くらいになるだろう(となると、その「形式性」の正当性と十全性が問われるかもしれないが、それはまた別のストーリー)。


■2
『くるくるく~る』。
くるくるく~るくるくるく~る
(2009/06/26)
Windows

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なぜ俺はこれをプレイしているのか? A:知るか
と言いたくなるくらい、なんで俺こんなのやってるんだろうと「言い訳」させてもらいたくなるゲーム。
えっと喩えるなら、(リトバスの)理樹きゅんが女の子に性転換して恭介とKKUMMしたり(外見も性格も関係性も、そこはかとなく理樹・恭介に似ていると言えなくもない)、理樹くんは男の子のまま恭介が女の子に性転換して理樹くんとKKUMMしたり、しかもそれが別々のルートではなく一つのルートの中で起きたりEDでは女の子になった恭介が理樹きゅんの子を妊娠してたりとか何を言ってるのか分からないと思うが俺は自分が何でこれをやってるのか分からねーとしか言いようがないゲーム……ということにしてもらえないでしょうか。リトバスのエロ同人の最高峰は「リキコエクスタシーだね!」とか言うヒトにオススメ。多分。



OPムービー。ニコ動にあるんだね、てゆうかプレイ動画が上がってて吹いたw どうせウィニーに流れるんだろとはっちゃけてましたが、それ以前にニコ動に流れましたね(笑)。ちなみに本作ははっちゃけたギャグがあって、結構笑えます。そして時は動き出す!!


面白いんだけど精神的に疲れます。理由としては、まあその、欲望に真っ直ぐすぎるんですよね、このゲーム。プレイヤーの欲望にね。
上手いのは、珍しく「主人公も」常に立ち絵表示であるというところ。そう、一人で居る時も道歩いてるだけの時も常に(一枚絵CG時以外常に)主人公の立ち絵が表示されている。プレイヤーは完膚なきまでに……もう舐め回すくらいに(笑)、『見る側』に回っている。プレイヤーと主人公自体を軽く分離させているわけです。
で、次いで、ユキちん自体の性に対するスタンス。序盤でユキの性知識・性体験・性に対するスタンスは、女の子と付き合ったこともなければ裸を見たこともない、エロ本さえ一度見せられたけどすぐに目を逸らした、女体化してお風呂に入るとき、自分の裸を見ることにすら「やましさ」を感じていた―――つまりウブ・ピュア・純情などという単語が思い浮かびますが、そうでもありますが、それより重要なのは、ユキはそこに「罪悪感的」なものを抱いているというところです。
けれどユキは、最低でも少しだけ肉欲的なものに堕ちていくし、プレイヤーの選択によっては簡単により深く肉欲的なものに堕ちていく。
ここです。まるで欲望の主体がプレイヤー側にあるかのような振る舞い。そもそも、『くるくるくーる』の場合は外側から見ている存在=第三者の審級的であるプレイヤーが「うん」といえば、罪悪感は消滅するのだけれど、実際に「うん」といえない以上、ここでは「見て見ないフリをしながら」エロに突入せざるを得なくなる。(物語上必然でないオマケ的なエロシーン突入の)選択肢があまり直接的でないところ―――つまり選択肢の内容とこれまでの流れから「エロを予測して」選ぶ所などもまた、拍車をかけているでしょう。つまり享楽。享楽の方程式。罪悪感すら享楽なのですよ。精神分析における享楽の条件とは、<大文字の他者>に知られていないことである。ここではユキの罪悪感をプレイヤーが(主体となることで)剥離させることによって(大他者に知られることなく)、享楽が生まれている―――ただし代わりに、プレイヤー自身が享楽を奪われている。というのは言うまでもないでしょうか、プレイしていれば気付いておかしくない筈です。ユキがプレイヤー以上に「楽しんでいる・感じている」ことを

不可視の第三者的なカメラというのは、映画なんかでもそうですが、カメラを対象の「他者」としてしまいます。つまり(単純化してしまいますが)見ている我々は彼らの「他者」であるということ。そして彼らもまた、見ている我々の「他者」である。
故に(偽りでも)主体化して罪悪感を引き受けられるし、そしてそれゆえに享楽を「奪われて」しまう(享楽は奪われていると感じられるものだとは、よく言うところです)。プレイヤーの欲望に真っ直ぐすぎる。プレイヤーがそれを欲望していなくても、プレイヤーがそれを欲望している主体の位置に立たされる―――そしてその代わりに、ユキちんはあんなに楽しんで・感じているワケです。もうまったく、Mっ気ないとキツイっすよ?


(記事編集) http://nasutoko.blog83.fc2.com/blog-entry-13.html

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