なすところをしらざればなりFOR I KNOW NOT WHAT I DO 

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カワラツキヨ

   ↑  2009/08/26 (水)  カテゴリー: 未分類
■1
2年くらい前にDVDを発売日買いしながらも積みっぱだった『フルメタル・パニック ふもっふ』と『フルメタル・パニック TSR』を、なんとなく一気見する。
さすが京アニとでも云う、良い出来でした。
やはり構図の妙とでもいうべきなのだろうか。普通のアニメを見てると、2倍速にしたいくらい退屈というか、だれる・飽きる箇所が多いのですが、これには全くだれる・飽きることがない。5秒で行うべき描写を10秒に伸ばすことはない。10秒で行われる描写は、5秒で行うべき描写を10秒に水増ししたもの(たとえるならDBZで気合い溜めてるアレみたいなの)では、決して無い。という点を決して割らないですからね、京アニは。だから個人的には、凄い安定感がある。「つまらない・退屈」ということがまず滅多にない。
あとこの頃だと武本さんとか多いのでやっぱ構図がキーになるんじゃないかなぁとか。高雄さんとか荒谷さんとかの空気や畳み掛けとか、北之原さんがたまに魅せる謎のタイムコントロール技術とか、大当たりと大外れが交互にやってくる米田さんのスリリングさとか、その辺が無い分、今の京アニからするとちょっと寂しいというか、シンプル。


■2
智代アフター~It's a Wonderful Life~CS Edition智代アフター~It's a Wonderful Life~CS Edition
(2009/03/19)
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ついに『智代アフター』をプレイしちまった……。
俺、智アフをプレイしたら○○するんだ……(○○の中にはどんな言葉でも入ります)というくらい、なんか自分の中では封印指定モノだったのですが、河原で喧嘩くらいまではやりつつも何故かやめちゃうということを10回くらい繰り返していたのですが、ついに。遂に……。

さらっとメモると、『CLANNAD』の続き。あるいは、もうひとつの答え。
『CLANNAD』冒頭、坂道での言葉。作中で朋也が最初に発した言葉。

「この学校は好きですか? ――でも、なにもかも、変わらずにはいられないです ――それでも、好きでいられますか?」
「見つければいいだけだろ」「次の楽しいこととか嬉しいこととか、見つければいいだけだろ」


これに対する『CLANNAD』の答えは何だったか。
渚が死んだ後、「楽しいことや嬉しいこと」全てを失った朋也くんは、紆余曲折あり、”汐”という「次の」楽しいこととか嬉しいことを見つけることができましたが、しかし、その汐もまた、失われる。
何度でも失って、何度でも見つけるのか? 何度でも、楽しいこと、嬉しいことを見つけるのか? ―――いや、見つけることができる。 それが『CLANNAD』の答えなんじゃないだろうか。
全ては失われてしまうものだが、その先に、新しいことを見つけることができる。失いながらも先に進められる。それが彼の発言に対して、『CLANNAD』が出せた答えだろう。
そこでは本当に失われている。渚も汐も死んで、それは失われてしまう。だからこそ、最後は「死ななかった」話に移行する必要があった。つまり、死んだ後は、それは終わりになって、「次の」に移行する――失われてしまうから、渚・汐との幸せは、永遠に失われてしまうからこそ、「次の」に至らない、「次の」の前のもの(つまり死なない世界)を示さなければ、渚・汐との幸せは描けなかったのだ。

対して『智代アフター』は、(ひどく大雑把に喩えれば)渚も汐も失われなかった世界に至ることがなかったゆえ、その『CLANNAD』冒頭の言葉に対して、失われるものはない、消えるものはないと答えている。つまり。”失われたものは「ここ(そこ)にはない」というだけで、永遠に「ある」”

「でも…今日、ようやく…」
「ようやく、おまえは私に好きと言ってくれた…」
「それは、この三年間で初めてのことなんだ…」
「それでわかった」
「私たちの愛は続いている」
「今も」


全ては残り続ける。今やここやそこに無くても、あの時やあっちやあれに在り続ける。
『CLANNAD』に繋げると。渚が失われた結果、そこから先の楽しいことや嬉しいことは永劫手に入らなくなったけれど。渚の存在も、その時の感情も、渚と一緒にいて嬉しかったことや楽しかったことは、永遠に残り続ける――これはアフター2周目分岐点、坂道での「声をかける/かけない」にも接続される。最終的に死ぬとしても、最終的に不幸だとしても、「出会わなければよかった」なんて、ありえないくらい間違えだ。
最後がなんであれ、それまでは「永遠に残り続ける」。どんなことでも。なんであろうとも。それは幸にも不幸にも時の流れにも、何ものにも侵しえぬ、永遠に残り続ける、あなただけの「宝物」だ。故に、 it's a wonderfull life. 全ては永遠に残り続ける、人生の宝物。


■3
『くるくるく~る』。
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全部……は終わってない。というか、難しくて途中で諦めたけど。最後の最後のユキちんハーレムEND以外はおわた。
おおよそ、前回書いたとおり。プレイヤーの立場。ユキが享楽を楽しむため、彼の行動を<大文字の他者>に知られない為の機能と化している。ユキの方がプレイヤーより楽しんでるし感じている、という享楽の剥奪。補足として。

銀聖「あー……まさかこのENDに来るとはな……お前、誰にでも抱かれるのは良くないぞ、本当に」
きらら「ふふ、うふふふふ……まさかねぇ、用意してあったとはいえ……本当に来る奴がいるなんてね! 何考えてんのよ、アンタ!!」
ユキ「あいた、いたたたた!? ご、ごめん! って、ボクじゃない、ボクじゃなくて、プレイヤーの人に言って!」【姉妹エンド後の座談会】


これは素晴らしい。象徴的というかまんますぎ(笑)。「プレイヤーの所為」。そうです、プレイヤーの所為ですよ、ええホント、ユキちゃんエロエロENDに到達するのも、ユキがエロエロシチュエーションに出くわすのも、ええホント、プレイヤーの所為。
主体はどこにあるかということ。

きらら「まあ、でも良いんじゃない。ユキ以外でも試さないといけなかったし、本人も楽しんでるみたいだし」
雪光「そうなんだよね、楽しんでるんだよね、二人とも」
そこがボクと一番大きな違いだよね。実際、困ったりしているそぶりなんてほとんど見せないし。


ユキは「主体的には」楽しんでいないと語る分、その剰余する楽しみを享楽的に楽しんでいる。エロに関しても(ひとつ前の引用のように)そうですね。主体的でないからこそ生じる「過剰な」快楽は、享楽として彼に消費されている。実際見ていれば、彼が「すっげー楽しんでいる(享楽として)」のは明白。
逆にプレイヤーは、ユキのそのスタンス故に「浮いた」享楽でない普通の「楽しみ」を、(ユキの代わりに)真っ当に享受できる。――ただその分、正攻法の正面突破だからこそ、欲望にストレートになりすぎます。欲望している主体に、ストレートに「ならされすぎる」。そここそが「プレイヤーの人に言って」です。まさに、俺の所為。そう言うしかない浮遊がそこにある。

個々のシナリオの話をすれば、やっぱ銀聖でしょう。つかもうシチュエーションの勝利ですよ、シチュの。

ギン「はっはっはっ……それともまさか、親友ENDを超越できる可能性がある俺か?」


ええ、超越したよ、超越したよ!!! アタイ見ちゃった、ピリオドの向こう側を……!

kuru_v_01.jpg
こんなのお前、ムネキュンしなきゃウソだろ……!(注:この娘は親友である銀聖(男)が性転換した結果出来上がった真・親友ことギンという人外魔境なのじゃよ……)

世界はトキメキで出来ている。そんなことを知った、今日このごろ。

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