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Sugar+Spice! (And everything nice)

   ↑  2009/09/02 (水)  カテゴリー: 未分類
さて、長らく書いてきたシュガスパに関する記事も、ここらで締めといたしましょう。

まずはメモ。

・後半はともかく、10月くらいまでは共通イベントが大多数を占めています。そのイベントは「誰と付き合ってても同じ」だったりするのが面白いところです。イベントは同じ、テキストも同じでも、「付き合ってるかどうか」という点でプレイヤーの心象が変わる。この二人は”そういう関係”なのかどうかということを、どちらに加味しても読めるという点で、テキストは危ういバランスの上を化物並み上手さで渡りきっていますね。どっちのコンテクストでもおk。ある意味、二度楽しめます。 関係(恋愛関係)というコンテクストによって、「同じもの」も「異なって」見える(実際にはテキストもイベントも同じなのだけれど)。

・アダ名と共同体。これは言わずもがなですねー。違う呼び方が、その空間・その人々の関係の「親密さ」を表している――あるいは「秘密」とか「閉鎖性」とか(この辺は”コードネーム”、”通り名”なんかを想定すると分かりやすい)。アダ名は決して「親密さ」とイコールではありませんが、少なくとも、その独特なモノを「共有」しているということは確かで、そしてそうであるからこそ、必然的に「親密さ」に結び付きやすい。『俺つば』の鳴ちゃんさんシナリオでメンマのラーメン屋に行ったときアダ名(いつもと違う名)で呼ばれるとどうこうとか確か言ってましたが、まあそんな感じですよね。

・バックグラウンド音声が結構ありますけど、いいですよね。私が見えないところ(和真がいないところ)でもちゃんと進行している感が強くて。

・司の発音、あの(帰国子女故の)アクセントってもう、「それだけで勝利」ですよ、というか、「それだけで勝利」でした。自分、あれ大好きすぎますw

と、とりあえず忘れない程度にメモしといて、次が本番。和真の「責任と浮遊」についての話と、プレイヤーの「記憶喪失」、そして「プレイヤーと和真」についての話。

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■1―――有限責任主人公KZM

記憶喪失という状態においては―――ある意味、責任が「浮いて」います。かつての自分の、「知らないこと」の責任は思い当たりさえしないし、他人もあまり要求できない。記憶がないということ自体に対して責任を感じることはできても、その失くした記憶の中身に対しては、知らないのだから責任の負いようがない――知らないのに責任を取ろうとすれば、「適当なこと」言うはめになって、作中でも幾度かあったように、かえって誰かを傷付けるだけである。さらにもうひとつ、当初(7月まで)の和真くんは、現在時の自分を「仮の自分」、「記憶を失くす前の代わりの自分」と認識しており、「記憶を失くす前の自分を演じる・同定に至ろうとする」姿勢を保っていて、そこでもまた、ひとつの浮遊がある。そう思う限りにおいては、現在時の和真が「浮いている」。

はねるや歌に「変わってないね」と言われ
れば、そうなんだと心がけようと思っていた。
本物なのに偽物だ、
っていう訳の分からない感覚。
どうしてそんな、歪んだことをしようと
思ったのか。
きっとそれは、楽しそうな場所が目の前に
あって、俺は元々そこにいたんだよって言
われて。
だったら戻るのが自然じゃないかと思った。
けれど、その席は当然記憶を失くす前の俺の
席だったから、
その席に戻る以上俺は少しでも記憶をなくす
前の俺でなくてはならないって思っていたん
だ。
【7月:晴れた空のように】


ここにおいて和真は「有限責任」である。かつての自分と今の自分の両方が、奇妙に「浮いている」。かつての自分に対して責任を負いようがないし、「今」がかつての和真のロールプレイングである以上、今の責任もある程度は”かつての和真”の方に流されていく――つまり、”主体性”という考えにおいて、かつての和真を模倣している今の和真は、半分(あるいはもっと大きい/小さい)しか”今の自分を担えていない”と言える。

少なくとも途中までは、その二つの理由から――突き詰めれば「記憶喪失になった」という理由から――和真の責任は有限であった。これらは目に見えても作用していた。たとえば、和真を中心に歌と夢路の間に”かつて”あったことも、「記憶喪失」により保留される――保留だから、夢路シナリオ・歌シナリオで問題となったのですが――。対外的に(便宜的に)は、彼女たちのわだかまりは宙に浮くことになる。ならび、思い出したい、かつての自分になりたい、つまりかつての自分を「演じる」という姿勢が、そこの有限性を強調していた。7月までは、「今の」和真すら、「ウソのもの」であったと、和真自身が自覚していたのだ。

ただし本当に「有限責任」で終わるワケではない――無限責任へと至る。まず7月以降、”この自分で良い”とした和真、ここからはじめようとした和真。それは未来への責任を、過去の自分と地続きではなくて、”今の自分と地続きの自分”で取ろうという彼の姿勢に表れている。

(先の引用文の続き)
――記憶を失った俺、でもいいんだ。
俺は――こだわる必要なんてなかったんだ。
なくしたものを取り戻すんじゃなくて。
きっと多分。
なくした中に、もう一回積んでいけば
良かったんだ。


そして過去。歌・夢路あたりは明白、藍衣などもそうでしょう。過去の自分と今の自分は地続きではなく”ても”責任をとるし、(限定的にも)思い出せば当然、責任はとる。そして「思い出さなくても」、たとえば歌シナリオラストの「守る」みたいに、記憶をなくしても、和真は和真であり続ける以上、結果的に責任をとっている――つまり、人としては代わっていなかった。和真が和真である以上、和真の責任は取れるし、それでもやっぱ変わってしまったもろもろのこと、思い出せなかったさまざまなことに関しては、取れない。ただしそこにあるのは「有限性」ではなく「限界性」。その差は、和真の姿勢の違いに集約される。

「記憶喪失」ではじまった、この「浮遊した」自分、そして責任を。過去の自分を超克し、今の自分を自ら担い、未来の自分を受け入れることで、和真は「和真自身」を取り戻した。そこではもはや「有限責任」ではない。普通の人と同じ。今や彼は、限界性という有限を孕みながら、何処までも果てなく可能性が広がっていく「無限責任」を見据え、その境界に立ち続けている。



■2―――「Everything Nice!」 ~記憶喪失プレイヤー

ss_05.jpg


見てないけど「あった」エピソード、というのが示唆されている。プレイ中にこれらに出くわした人も多いのではないでしょうか。
ゲームの進行は、エピソードを「選ぶ」という形式なんだけど、選んでないエピソードも「あの時どうこう」と言及されるように、「あったこと」になっている場合が多々あります(多々でなく「出来る限り全て」かもしれない)。個人的には、ひな祭りイベントを選んでいないのに、花見の時に「ひな祭りの時は……」と言及されていたことなんかをよく覚えています。そういう、「自分(プレイヤー)は選んでないけど、和真は体験している」ことは多々ある。いつの間にか司との「初エッチ」を終えていたりとかね。あれー、ボク今まで司とエッチした記憶ないのに、和真くんいつの間にしてたんですかー、と(笑)。とはいえロードして前からやりなおしたら、ちゃんと初エッチイベントはあった。 つまりですね、プレイヤーは選んでないけど、和真は体験していることは多々あるんですが、それって”どこまである”のか。もしかしたら、可能な限り、矛盾が生じない限り「全部」だったりするんじゃないだろうか―――。
エピソード選択によりプレイヤーが創りだしているように見えながら、その実は異なっている。プレイヤーが選んでないイベントも、和真は体験している。この距離。つまり、プレイヤーが選んでいるのは、プレイヤーが「見れるもの」であって、和真が「体験すること」とイコールではない。つまり選んでるというのは和真の経験を選ぶのではなく、私たちが知ること(見ること)を選ぶということ。
これ、もうちょっと捻ると、つまり、『私たちが”覚えていること”を選んでる』ともいえますね。未選択だけど実際に在ったエピソードというのは、私たちにとっては、”記憶から抜け落ちてしまったもの”と同じ扱い。もしもプレイヤーと和真を(プレイヤーが選択するエピソードと、和真が体験するエピソードを)同定的に考えるなら、そうなります。

父が考古学者、フィールドワーク、発掘。……これは(Everything Niceを前提に)プレイヤーが和真を導くもの=考古学者、フィールドワーク=MAP上を巡る、発掘=エピソード(アイテムリスト)集め、と、ちょっと苦しいかもだけど言えなくもない。ただし、「プレイヤーと和真を逆」にした方も言える。プレイヤーが”覚えていない”和真の体験を、MAP上を何度も何度も巡って、エピソードを発掘しまくって、ようやくそこに辿り着こうという試み。
「プレイヤーと和真」「和真とプレイヤー」……単純に両方かもしれない。

高橋「この一年で、君はいったん破損した
パーソナルを再構築するのに充分な
経験を得た」
高橋「過去の自分がどんな人間であったとしても、
失われた記憶が戻ろうと戻るまいと、」
高橋「それらに君の人格が揺るがされることは、
もはやないだろう」
高橋「つまり――」
高橋「これ以上、私が君にしてやれることはない、
ということさ」
高橋「……お疲れさま、新木くん」
【Everything Nice!】


最後の最後。
全てのキャラクターをクリアしたあとに出現する【Everything Nice!】において、高橋先生はこう語ります。これにて、ついに、やることはなくなった――やる必要はなくなった、と。もう記憶を気にする必要はないし、記憶を捜し求める必要もない。
……もしも、先に書いたように、我々が彼の記憶を復旧させる考古学者と喩えてみれば。その役目も、ここで終わる。逆に、和真くんが我々だけに未知で和真くんには既知である「エピソード」を発掘する、プレイヤーに対する考古学者だとしたら。その役目も、やはりここで終わってしまう。

まだ、プレイヤーが知らないことはあるけれど。「役目」として課せられたもの、和真くんの記憶関係は、ここで全てが終わる。ゲームのラストにふさわしいと言えるでしょう。もうやることはないと語る高橋先生。これで終わり。そしてゲームも終わる。和真くんの「パーソナルの安定」まで付き合うことが、私たちのやること(やったこと)だったのだとしたら。
そして、心残りも消え去っていく。

和真「俺がこうしてここにいるのは、
こうしてここにいる俺は、
みんなあっての者なんだって思う」
和真「だから、ありがとう」
和真「みんなと出会えて良かった」
和真「大好きだよ、みんな」
【Everything Nice!】


言っとくけどこれはハーレムエンド的な意味で読んじゃだめだよ(笑)。ここで大事なことは、その「感謝」と「好きな気持ち」。
彼がそうであるように、私たちもそうである(でしょう、きっと)。ここまでプレイしてきて、見てきて、私も、彼女たちのことが大好きだよ。和真くんもそう思ってくれたようで、嬉しい限り。―――それはもう、安心して、お別れできるくらいに。
ここで彼に「さよなら」を。背後霊、後の人、右肩にいる人―――彼がときたま語る冗談みたいな(きっと冗談じみた)それは、「かつての和真自身」であり、「私たちプレイヤー自身」でもあったのではないでしょうか。
高橋先生が云うように、安定した彼になら、安心してまかしていける。彼女たちのことを。感謝と、好きな気持ちを失わないのだから。

こうして、我々もまた、エピソードコンプリート(記憶の完全復旧)を成し得ないままでも(成し得ていても)、ここから去ることができる。この「安定した=完成した」6人の空間に、作中の登場人物ではない現実の人間である我々はいられないという、我々自身のパーソナルもまた「安定」する。そして、だからこそ、別れを告げることができるのだ。

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