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なすところをしらざればなりFOR I KNOW NOT WHAT I DO 

くるくるく~る雑感

   ↑  2009/09/03 (木)  カテゴリー: 未分類
『くるくるく~る』雑感。先にメモ的に書いたもののまとめ。

くるくるく~るくるくるく~る
(2009/06/26)
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えっと喩えるなら、(リトバスの)理樹きゅんが女の子に性転換して恭介とKKUMMしたり(外見も性格も関係性も、そこはかとなく理樹・恭介に似ていると言えなくもない)、理樹くんは男の子のまま恭介が女の子に性転換して理樹くんとKKUMMしたり、しかもそれが別々のルートではなく一つのルートの中で起きたりEDでは女の子になった恭介が理樹きゅんの子を妊娠してたりとか何を言ってるのか分からないと思うが俺は自分が何でこれをやってるのか分からねーとしか言いようがないゲーム……ということにしてもらえないでしょうか。


面白いんだけど精神的に疲れます。理由としては、まあその、欲望に真っ直ぐすぎるんですよね、このゲーム。プレイヤーの欲望にね。
上手いのは、珍しく「主人公も」常に立ち絵表示であるというところ。そう、一人で居る時も道歩いてるだけの時も常に(一枚絵CG時以外常に)主人公の立ち絵が表示されている。プレイヤーは完膚なきまでに……もう舐め回すくらいに(笑)、『見る側』に回っている。プレイヤーと主人公自体を軽く分離させているわけです。
で、次いで、ユキちん自体の性に対するスタンス。序盤でユキの性知識・性体験・性に対するスタンスは、女の子と付き合ったこともなければ裸を見たこともない、エロ本さえ一度見せられたけどすぐに目を逸らした、女体化してお風呂に入るとき、自分の裸を見ることにすら「やましさ」を感じていた―――つまりウブ・ピュア・純情などという単語が思い浮かびますが、そうでもありますが、それより重要なのは、ユキはそこに「罪悪感的」なものを抱いているというところです。
けれどユキは、最低でも少しだけ肉欲的なものに堕ちていくし、プレイヤーの選択によっては簡単により深く肉欲的なものに堕ちていく。
ここです。まるで欲望の主体がプレイヤー側にあるかのような振る舞い。そもそも、『くるくるくーる』の場合は外側から見ている存在=第三者の審級的であるプレイヤーが「うん」といえば、罪悪感は消滅するのだけれど、実際に「うん」といえない以上、ここでは「見て見ないフリをしながら」エロに突入せざるを得なくなる。(物語上必然でないオマケ的なエロシーン突入の)選択肢があまり直接的でないところ―――つまり選択肢の内容とこれまでの流れから「エロを予測して」選ぶ所などもまた、拍車をかけているでしょう。つまり享楽。享楽の方程式。罪悪感すら享楽なのですよ。精神分析における享楽の条件とは、<大文字の他者>に知られていないことである。ここではユキの罪悪感をプレイヤーが(主体となることで)剥離させることによって(大他者に知られることなく)、享楽が生まれている―――ただし代わりに、プレイヤー自身が享楽を奪われている。というのは言うまでもないでしょうか、プレイしていれば気付いておかしくない筈です。ユキがプレイヤー以上に「楽しんでいる・感じている」ことを

不可視の第三者的なカメラというのは、映画なんかでもそうですが、カメラを対象の「他者」としてしまいます。つまり(単純化してしまいますが)見ている我々は彼らの「他者」であるということ。そして彼らもまた、見ている我々の「他者」である。
故に(偽りでも)主体化して罪悪感を引き受けられるし、そしてそれゆえに享楽を「奪われて」しまう(享楽は奪われていると感じられるものだとは、よく言うところです)。プレイヤーの欲望に真っ直ぐすぎる。プレイヤーがそれを欲望していなくても、プレイヤーがそれを欲望している主体の位置に立たされる―――そしてその代わりに、ユキちんはあんなに楽しんで・感じているワケです。もうまったく、Mっ気ないとキツイっすよ?



プレイヤーの立場。ユキが享楽を楽しむため、彼の行動を<大文字の他者>に知られない為の機能と化している。ユキの方がプレイヤーより楽しんでるし感じている、という享楽の剥奪。補足として。

銀聖「あー……まさかこのENDに来るとはな……お前、誰にでも抱かれるのは良くないぞ、本当に」
きらら「ふふ、うふふふふ……まさかねぇ、用意してあったとはいえ……本当に来る奴がいるなんてね! 何考えてんのよ、アンタ!!」
ユキ「あいた、いたたたた!? ご、ごめん! って、ボクじゃない、ボクじゃなくて、プレイヤーの人に言って!」【姉妹エンド後の座談会】


これは素晴らしい。象徴的というかまんますぎ(笑)。「プレイヤーの所為」。そうです、プレイヤーの所為ですよ、ええホント、ユキちゃんエロエロENDに到達するのも、ユキがエロエロシチュエーションに出くわすのも、ええホント、プレイヤーの所為。
主体はどこにあるかということ。

きらら「まあ、でも良いんじゃない。ユキ以外でも試さないといけなかったし、本人も楽しんでるみたいだし」
雪光「そうなんだよね、楽しんでるんだよね、二人とも」
そこがボクと一番大きな違いだよね。実際、困ったりしているそぶりなんてほとんど見せないし。


ユキは「主体的には」楽しんでいないと語る分、その剰余する楽しみを享楽的に楽しんでいる。エロに関しても(ひとつ前の引用のように)そうですね。主体的でないからこそ生じる「過剰な」快楽は、享楽として彼に消費されている。実際見ていれば、彼が「すっげー楽しんでいる(享楽として)」のは明白。
逆にプレイヤーは、ユキのそのスタンス故に「浮いた」享楽でない普通の「楽しみ」を、(ユキの代わりに)真っ当に享受できる。――ただその分、正攻法の正面突破だからこそ、欲望にストレートになりすぎます。欲望している主体に、ストレートに「ならされすぎる」。そここそが「プレイヤーの人に言って」です。まさに、俺の所為。そう言うしかない浮遊がそこにある。

個々のシナリオの話をすれば、やっぱ銀聖でしょう。つかもうシチュエーションの勝利ですよ、シチュの。

ギン「はっはっはっ……それともまさか、親友ENDを超越できる可能性がある俺か?」


ええ、超越したよ、超越したよ!!! アタイ見ちゃった、ピリオドの向こう側を……!

kuru_v_01.jpg
こんなのお前、ムネキュンしなきゃウソだろ……!(注:この娘は親友である銀聖(男)が性転換した結果出来上がった真・親友ことギンという人外魔境なのじゃよ……)

世界はトキメキで出来ている。そんなことを知った、今日このごろ。

(記事編集) http://nasutoko.blog83.fc2.com/blog-entry-19.html

2009/09/03 | Comment (-) | HOME | ↑ ページ先頭へ |