といいつつ忘れないようにメモ。千絵姉シナリオの、「大人になること」の困難さは、個人的好みもあって凄い良かったです。
千絵「いつまでこんななんだろうね。どうやったら大人になれるんだろう? 子供のときはね、もうちょっと、上手に歳がとれると思ってたんだけどなあ。歳をとるのも、難しいもんだ」
大人になるって何だ、大人になんてなれるのか――たとえば、桜庭一樹さんも、最近の自著のテーマみたいなものを、そういうこと(私達は、本当に、「大人」になれるのだろうか、大人になれているだろうか)ではないか、みたいなことを仰っておりましたが、それと相通じるところがあります。ほっといたら、歳を取って勝手になると思ったけど、そうではなく。あるいは、もっと上手く、自然に歳を取れると思ったけど、そうでもなく。自分自身が、「自分」と<自分>の狭間に、いつも置かれて、迷って、苦しんで、悩んで……何も、何一つ、立派で揺るがないことなんて、ない。遠くまで来たのに全然遠くなく、けれど、振り返ると、それはやっぱ遠い場所であった。その場所が、”あの時思っていた「大人」”なのか、それに近いのか、勘違いなくらい遠いのか、それは、全然、自信がないのだけれど。
それは。いつかの機会に。ということで。
ここでは、ひとつだけを。命をかけて、語りたいと思います。
「a song for…」
きらりシナリオ。
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■「命をかけて演奏します」

「a song for」シナリオは、最後の「命をかけて演奏します」という言葉を、はじめて鹿之助が(心の中で)言えたこと、にひとまず集約できると思う。命をかけて演奏することは、やる気とか本気とか以前のまず最低条件として、”かけれる命がある奴にしかできない”。だから、彼は最後の最後にしか、それを口に出来なかった。それまでは、自分の命を自分でかけれるほど自分が自分ではなかった。自分で自分を引き受けてなかったのだから、そのようなことを言い様がない。離人を離れ、自己同一性を離れ、自分が自分を引き受けた今になって”はじめて”、鹿之助には「かけれる自分の命」が生まれた。だから、この最後の場面で彼は、そんなことが言える。
もうひとつの軸は、タイトル通りの「キラキラ」。喩えて云うなら世界は金色に輝いているのだーってフィルターは確かにある。たとえば、きらりと一緒ならば、そうだった。キラキラしている。でも今はしてない。だから、「この、くそったれな世界」。
最終的には「a song for…」の歌詞に持ってこれる。君の永遠はきっと歌の中、消えない。君の歌が、道になる。
■キラ☆キラ
ステージライトの輝きは、暗いところに突然現われたせいか、文化祭のあのときの太陽よりも、ずっとまぶしく感じられる。
あまりにも輝きすぎているものだから、僕はなんだかそこに入ってはいけないような気がして、そこで足が止まってしまった。
すると、僕を呼ぶ声。
「鹿クンっ!」
いつのまにかステージにあがったきらりが、明かりのなか、僕を振り返っていた。
「何やってるの! 早くおいでよっ」
光の中からきらりは呼び、一歩近づいて、僕の手を取った。
彼女が手を引っ張ると、僕の全身は魔法が解けたように軽くなった。
【スタジェネ5周年ライブステージ袖】
最も象徴的というか、隠喩的でしょう。きらりが、鹿之助を、きらきら輝くところへと、連れてってくれる。
あるいは、こういうのもある。
ステージライトの光はあいかわらずこれ以上ないほどの光を僕らに照り付けている。
だけど、先ほどまで感じていた光のようななにかに比べれば、明らかに輝きが落ちて、薄暗く感じてしまうのだ。
これが普段の世界の光量なんだとしたら、僕は今までずっと、こんな薄暗い世界で生きていたのだろうか?
【博多ライブ、ZONE的体験の直後】
これも暗示的でしょう。きらりの演奏に引っ張られて、未知の明るいところに行っていた。きらりが引っ張ってくれる。明るいところに。
そういった隠喩的なものではなく、もっと直接的なものを示せば、この一文になるでしょう。
僕は、自分が再び自分に戻っていくのを感じていた。
結局、きらりの目を通さなければ、僕には何も美しくは見えない。
【きらり死の直後の焼け跡で】
つまりは、そういうこと。「きらりの目を通さなければ、美しくは見えない」。 ここではもう一つ重要なことが語られています。そちらを先に見て見ましょうか。「僕は、自分が再び自分に戻っていくのを感じていた」――
自分がいて、ここにいる「自分」を見て、コントロールしているような感覚。
幾度も提示されてきましたし、3通りのシナリオで3通りの付き合い方も示されてきました。鹿之助の、自分から一歩引いた、自分との付き合い方――それは、世界と付き合うための処世術。一番最初に、付き合っていた彼女に、「心がない」とまで言われた、その最大の原因ともいえるでしょう。
疲れると、どうしてこうなのだろう? 自制心から開放された無数の口が全部開いて、頭の中で一斉に喋りはじめる。
普段なら、この声の中から一番適切なものを選んで、他の声のボリュームを落とし、自分の考えとするのだけど、疲れていると、だめだ。
相反するいくつもの考えが同時に喋っているのだが、そこから一つを選べない。
無数の声を管理しなくてはならないはずの意思は、泥がねばりついたように動いてくれない。
【チャプター2、スタジェネ5周年ライブの帰り・駅のホーム】
頭の中では様々な考えが行き交っているけれど、鹿之助はそれを把握した上で、その中から「選んでいる」。そして選んだものを、「自分の考えと」している。
これは何を示しているかというと、彼は、思ったことを「自分の思ったこと」としているのではなく、幾つかの思ったことの中から最も適切だと彼が思うものを(恣意的に)選んで、「自分の考え」としているということ――つまり、これはひどく異常なのですが、普通は、怒りの感情が出たら、頭の中はそのまんま「怒り」になりますよね。勿論、頭の中が100%怒りになっているワケじゃなくて、その内の何%かは安らいでいたり、めんどくせえなぁと思っていたり、このまま怒ったらヤバイよなぁと自制的だったり、今日の夕飯何にするかなと考えていたりするけれど。普通の人は、そう。頭の中で、様々な感情や考えが行き交っていて、「それが、自分の感情/考えとなる」。もちろん、それを会話や態度で他人に示す段となれば、まさか混沌としたもの全部をそのまま示すワケにはいかないし、何より意味が通じないので、話の流れや相手との関係、自分や環境の状況を考えて、調節するワケですが。前提として、全てがあるワケです。怒りながらも、怒ったらヤバイよなあとか、怒るほどじゃあないよなあとか、頭の片隅のどこかに存在している。しかし鹿之助の場合は違う。そのひとつ向こうを行っている。私たちがその混沌としたものを「自分の考え」と受け止めた上で、最も指向性の強いものや、最も場にふさわしいもの・先々に禍根を残さないものを選んでいるのに対し、鹿之助は、”まず選んだ後に”、それを「自分の考え」としている。
彼は、自分自身でも言ってた。「本音を口にしたことがない」と。選んで、それを自分の考えとする。究極の自己コントロール。彼は、幾人かが指摘するように、「まず怒らない」し、またシナリオ中で彼自身が驚くように、「(物心ついてから)涙を流したことがない」。自分をコントロールし続ける。本当のことや本音を言ったり表に出す必要はなく、むしろ、その本当のことや本音と呼ばれるような原初の感情は、自身の奥へと埋没していく。きらり「そうだよ。本当のこと、たまにしか言ってくれないよね」 「あたしたちあんまり似てないけど、そこは似てるかもって思った」。また、「心を乱してはいけない」とも口にしていた。自己統制の為には、一段上から、メタ的に、自分自身を制御しなくてはならない。「無数の声を管理しなくてはならないはずの意思」。
はじまりは、ここにある。
僕は死ななくちゃいけないと思いつつも、それ以上に死にたくなかったのだ。
僕は、別の方法で、自殺もせず、生活のなかにありながら、うまく死んだようになれないかと、考えた。生きることと、いなくなることを、同時にかなえることは出来ないか。
【紗理奈シナリオ】
一般的な人が喜びそうなときは喜び、悲しみそうなときは悲しみ、人が言いそうなことを選んで言う。
本当に嬉しいときや悲しいときは、それが場違いな感情でないか考えてから、行動する。
【同】
自分の境遇を知った。その中身とは、自分の存在が無条件に肯定されたものではなく、自分が存在しているということが他者を脅かす(他人に迷惑をかけている)ものでもあるという認識だった。だから、”このような”生きていく術を取っていたけれど、その対応(克服)は、千絵姉シナリオでは、「自分のことを前より(少し)好きになる」ということ、他者承認から繋がる自己承認に、紗理奈シナリオでは、結果を出すことによる自己の感情肯定よって為されていたが、ここでは別のお話。
生きていくために、自分と自分を切り離した。自分で自分をコントロールした。
けれどそれは、必ずしも、良いということばかりではない。彼は、これを、「もっと上手く、自然に振舞えれば、ラクになれるか」と語るけれど、その姿勢はテニス部で無茶した時と同じだ。そのまま行ったら、オカしくなってしまう。彼の望み――「死にながら生きている / 生きながら死んでいる」を叶えることになってしまう。それは、もう、これ以上進んだら戻れないという、どうしようもない、オカしい、領域。
「何もすることがなくて、毎日楽しくなかったって言ってたけど、それはいつごろからだったか覚えてる? ねえ、それは妹ちゃんが生まれて、親が相手してくれなくなった時から? それとも、男の子と女の子がわかれるようになって、千絵ちゃんと遊べなくなってから?」
「じゃあ、そうだ。そういうのを寂しいって思うのは弱くてみっともないことだからって、我慢ばかりしすぎて自分を抑え過ぎちゃったから、心が渇いちゃったのっ? ねえ、それが原因?」
「わかった、じゃあ、あれだ。お母さんが今のお父さんがホンモノじゃないって言ったときでしょ? お母さんは言ったよね、『お父さんが居た方がその方があなたも嬉しいよね』って、だから、自分は嬉しがらなくちゃいけないと思った鹿クンは、自分の気持ちを捨てちゃって……」
「あのね、鹿クンはやっぱり、少し忘れものを取り戻さないといけないんだよっ。このまま進んでいったらオカしくなっちゃうよ」
【きらりシナリオ】
自分で自分をコントロールしている……するようにした。できてしまった。自分で自分を制御するようにした。ひとつの「離人的」症候。自分がどう思ったかより、自分がどう思うのがベストかを考えて行動する。それは決して悪いことばかりではないかもしれない、が。それでは。「自分の生を生きていない」。自分で自分を引き受けていないのだから、彼に、「命をかけて演奏する」資格はないのだ。――なにせ、かけれる命が存在しない。
「自分で自分の人生を引き受けられない」。そうならば、”何か”に引き受けてもらうしかない。その統制機構として、まず彼の「離人的」な傾向が挙げられ、そして実際に行われるのは、おおよそこのふたつ。シニシズム的な「どうでもよさ」か、他者を理由にすること。
前者はテニス部時代のどうしようもないほどの無茶や、きらりをなくした後のどうしようもないほどの空虚(そこからゆるやかにはじまる、きらりの幻影のようなテニス部時代の反復強迫)などがそうでしょう。「どうでもよさ」は、無気力と同時に破壊衝動も生み出す。どうでもよいということは、つまるところ「無軌道」なのだ。方針や自身や守るべきものなども、どうでもよくなる。これは「自身を引き受けられない」ことのストレス・抑圧から現われていると言う事もできる。少し古びた概念の理解の仕方で申し訳ないが、一般的理解における死の欲動的であるといえなくもない。
大胆なことをする直前にいつも感じる、この殻がバリバリと崩れ落ち、熱くドロドロとした黒いものが溢れ出てくるような感覚は、他人にはちょっと伝えにくい。
【千絵姉編・卒業式
「自分を自分で引き受けない」というのは、あくまでも彼の処世術でしかないのだから、生きる術・他人を喜ばせる術でしかなくて、鹿之助は、別に元々”そういう生き物ではない”のだから、そこを壊せる時に、こういった快感を得るのは、何もおかしいことではないだろう。
鹿之助「まあ、わからん。もしかしたら、就職活動するかも。いずれにせよ、何だって良いんだ、俺の場合は。気の向くままにやっていくよ」
村上『適当な奴だな』
【HAPPY CYCLE MANIA編】
引用できる箇所など、腐るほどありますが。鹿之助の「どうでもよさ」。
どうでもいい。そりゃどうでもいい筈です。自分の人生を引き受けてないんだから。そりゃあ、どうでもいい。 そして、そうであるから、そんなんだから、体調を壊した後、心配してくれる家族に触れて、”彼女らの為に(家族の為に)”、真っ当に生きようかと考えるようになる。
しかし、それもまた、自分を引き受けていないのです。家族を理由にしている。自分で自分の人生を引き受けるのではなく、家族を理由に自分の人生を引き受けている。これでは――未だ、キラキラにはほど遠い。
だから、忘れ物をとりにいく。
だいたい、忘れ物というもの自体が、ろくなもんじゃない。
そんなもの、忘れたくて忘れたに決まってる。人の心とはそういうものなんだ。
それを取りに行く、なんて。トラウマをほじくり返すような何かなんだろ。
【きらりシナリオ】
トラウマだってほじくり返しにいく。
感情を殺すことが唯一の生き方だった。
他人に愛されないのなら、存在してて不都合があるならば、せめて透明な存在にならなくてはいけない。見えない存在にならなくてはならない。生きているのに、死んでいるかのように。自分自身を押し殺す。<自分>と「自分」をどこまでも分離する。
モノローグが「僕」で喋る言葉は「俺」なことも、女装することも、バンドツアーに出ることだって、きっとそういうことだ。離精神化として一回路を挟むモノローグと言葉の違い、離身体化として自己の身体を脱却する女装、離領土化として知らぬ土地と知らぬ環境と、決して歓迎されることばかりではなかった旅。それらを仲間と共有するこの時間が、どれだけ大事だったか、どれだけきらきらと輝いていたか。
彼ははじめて、泣くことになる。
どうしてなんだ? どうして、死んでしまうんだ? どうして、二度と戻らないんだ?
こんなの、受け容れられるはずがない。そんなの、出来るはずないじゃないか。どうして僕はこんなひどいものと仲良くしようとしてたんだ?
つまり、彼ははじめて、否定することになる。
それまでの自分の、生き方を。涙を流さず、怒りを発さず、悲しみをもらさず、全てをコントロールして抑え込んで、全てを「忘れ物」として置き去りにしてきた生き方を。こんなひどいもの、やっていけるわけないじゃないかと。これに心動かさず、その心動かさないことを受け容れるなんて、出来るはずないじゃないか、と。
「忘れ物」を、取り戻した。
自分の感情。
自分の感情を、そのまま、自分のモノとすること。
――ここにてはじめて、本当の意味で、鹿之助は、自分の生を、自分で、引き受けることができた。
彼は語る。「瞬間が全て」「パンクロックはスパーク」。どうしてシド・ヴィシャスが嫌いかというと、物語仕立てにしてしまうところ。その時感じたことは、”その時のもの”でしかなくて、それを因果関係気にして積み重ねれば物語は作れるだろうけど、当の本人にとっては、そんなことはない。感情ってのはその時だけで、別に因果関係や、物語を気にして、感情を組み立てているワケではない――ああ、まるで、かつての鹿之助くんの逆で、そして、今の鹿之助くん、まんまだ。
だから彼は演奏する。
誰のものでもない、何のものでもない、自分自身から発した、自分自身が引き受けた、この「感情」に乗って。
ライブの中には沢山の感情があります。何と言ったら良いのでしょう? とにかく、たくさんの感情。
悲しいとか嬉しいとかになる前の原液のような、全部がつまってぴかぴか輝いた黄金色の感情です。
演奏がはじまると、自分の中からもドクドクとあふれ出すのがわかるのですが、こういう感情は、どこからやってくるのでしょうか? とても、僕の中にこんなに輝くものがあったとは、思えません。
きっと、どこか良い場所に、全人類の感情を貯めたダムみたいのがあって、そこから一人一人にパイプで送られてるのかなと、そんな妄想が止まりません。
とにかく、この感情を少しでも、他の誰かに伝えたいなあと、ステージの上ではいつも、そう思っているのです。
きらりの目を通したら「キラキラ」に見えた世界。そうではなく、そう出来なく、しかもきらりまで失わせてしまったこの世界は、もはや、そう簡単にはキラキラには見えない。
それでも、たとえば、村上が「俺たち、どうせ生きてるんだからさ。生きるしかないんだからさ」こう云うように、好き好まずとも、続いていく。その世界で生きていかなくてはならない。村上はこう続ける。「もうちょっと、楽しくした方がいいだろ?」と。
だから、歌っていく、続けていく。自分自身で、きらりの歌と、きらりのマイクと。
彼がいうように、これは、キラキラの曲。「みなさんの明日と、そして、僕ら自身の明日に捧げる、キラキラの曲」。
たとえば、この歌にきらりは残る。たとえば、このマイクにきらりは残滓する。あるいは、思い出に、場所に、生活に、思考に、心に、彼自身に。きらりがいたという痕跡は残り、そこにあった輝きは(残滓として以外は)消えてしまった(=つまり死んでしまった)ということが残り続ける。
それでも、なお。
いや、それだからなお、歌うのです。
今やもうかけれる、自分の命をかけて、演奏する。
きらりがいなく、キラキラでもない、このくそったれな世界に、”それでも”、愛を込めて。

鹿之助は生きていくことになる。感情を殺すかつての生き方から、感情を持って、自分で自分を引き受けて。
それはきっと、このような生き方になるんじゃないだろうか――
「あのね、世の中には、素晴らしい、夢みたいなステキなものがたくさんあるけど、そういうのってさ、欲しいと思ったからって、すぐに全部は手に入らないでしょ?」
「だからね、人は誰でも、すぐ近くにある手に届くものを、やんなきゃいけないことを、一つ一つやっていかなきゃいけないと思うんだ。ステキなものがまだ全然遠いからって、短気になったり、暗い気持ちになったりしないで、ちょっとずつね、やっていくことが大事だと思うの」
「あのね、私もまだ、どんなに手を伸ばしたって、ぴょんぴょん跳ねたって、絶対届かないから、だから、ちょっとずつ、がんばろうと思ってるんだ。もし後戻りしても、くじけないで、ステキなもののことを、忘れないように……。鹿クンも、そういう考え方に、賛同してくれる?」
【きらり・死の少し前】
ここはくそったれな世界。キラキラは、未だ遠い。それでも、なお。精一杯の愛を込めて。このキラキラの曲を、「明日に」捧げるように――
生きていける。
FC2スレッドテーマ : エロゲー (ジャンル : ゲーム)
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2009/09/08 | Comment (-) | HOME | ↑ ページ先頭へ |