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真剣で私に恋しなさい まゆっちシナリオ

   ↑  2009/09/11 (金)  カテゴリー: まじこい
まゆっちシナリオもおわり~。

以下ネタバレです。

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■ライナスの毛布は失われず、我が身に宿る――
つか、ここまで京シナリオとダッシュシナリオをクリアしたのですが、その二人も↑のような感じですね。


――小学生時代は。
地元での名家として、黛十一段の娘として、畏怖の存在だった。
しかも、卓越した動きで常人を越える動きを楽々としてみせる。
血は受け継いでいる。余計に人々は畏れた。
――
気が付けば、私は品行方正で、成績優秀で。
でもそのとき、周囲を見たら自分は一人だった。
――
ああ、私は友達とかいない子供時代を代償に、この力を得たんだなと思った。
凄く嬉しかったけど……凄く誇らしいけれど。
どこか寂しかった。
強いのは良いことだがそれには孤独がつきまとう。
少し、自分の力を抑えることにした。
友達を作るためにも。



そして「友達を作るために抑えていたソレ」を見ても、受け入れてくれる友達。作るためではなく、もう既になっているのだから。


majikoi02.jpg
majikoi03.jpg
まゆっちにおける「日本刀」と「松風」は何なのか?
まゆっちにおける「ライナスの毛布」とでも呼べるものなのか?

ライナスの毛布――移行対象。
それは幼児期には「内」から「外」への円滑な移行と適切(あるいは過剰)な防御をする役目を果たす。成長した後でも、防御機構、安定機構として役立って(あるいは・それゆえに役立たずに)いるでしょう。
さて、細かくから大まかにまで様々に説明が付けられ応用も可能なこの用語ですが(というか心理学・精神分析の用語はそういうの多いですが)、この場合は、「私の内」と「私の外」との境界という、私たちが普段他人と触れあい生活している空間ですね、それを、「私の内」側にシフトさせることができる対象と申し上げましょうか。
私の領域外=私の外と接する際に、「私」の領域にあるものをもってそれを緩衝している。……という第一義からもう少しつっこんで、ここでは「本来現実にありえないけれど彼女にとってはありえるもの(日本刀)」を現実に持ち込む行為、そして「本来現実にはそうではない(ストラップは喋らない)ものを彼女にとってはそうである(ストラップだけど喋る)」を現実に持ち込む行為。イマジネールに頼る術。

日本刀と松風。それらは、まゆっちにとっては特別な意味を持つ……けれども、現実世界では、他の人には、まゆっちと同じ様な意味は決して持ちえません。
日本刀は手放せられないし帯刀許可も得ているけど――つまりまゆっちにとっては普通でもあるけれど、”普通の人”から見たら、それは危険で意味不明で異常な行為。
松風はお話し相手になってくれて大事なひとり(人格)だけれど――まゆっちにとってはそうであるけど、”普通の人”からすれば、異常で奇妙で不可解な行為。

ただし、まゆっちには普通であった。
しかし、普通の人には異常であった。
ゆえに、それを手放す。
手放すといっても、捨てるのでも何でもなく、自身の内へと手放す。


まずは日本刀からいきましょう。これは移行対象的な役割というより、自己規律的なものでもある。あるいは通過儀礼か。

由紀江「これは私の魂でもあるんです」
百代「手放せとは言わないさ」
百代「ただ年がら年中刀抱えているのは、やめておけ」
百代「刀は魂。素晴らしい言葉ではあるが所詮喩え」
百代「真の魂は、体の中に宿っている熱いものだ」


刀は魂。それは剣術の家に生まれた結果植えつけられた価値観でもあり、そしてそれゆえに、未だ物理的に所持せざるを得ないまゆっちは未熟だということを表している。
それでも、刀を持っていない立ち絵(絵からの判断しかしようがありませんが)も結構あります――というか、夏服私服は基本的に刀を持っていませんし、そして何より、実際に抜くことが殆ど無い。格闘大会と百代戦のみであり、つまり戦いに必要という意味での抜刀のみであり、魂として、自己の心の補強としての抜刀は一度たりとて無い。百代の言うとおり、真の魂は、体の内に宿っている。だから最後の武蔵小杉とのバトルは素手によるものになったのでしょう。
もし日本刀所持からの完全な移行ができるとしたら、それは、まゆっちが揺るがなく成長し尽し、親から完全に離れられた時でしょう。それを問うのは、学生時分の、まだ成長過程の今ではなく。だからこそ、今はまだ、この程度の離れで十分。


そして松風。

由紀江「孤独な私から生み出た、もう一人の私」
由紀江「言いたいことを言ってもらっていた、私の分身」
由紀江「だから、どこかに行く……のではなく」
由紀江「私の中にはいってください」
由紀江「…それもまた私の一部として」
由紀江「一緒にやっていきましょう!」
――
松風が、去っていくなんて悲しい終わりじゃなく。
自分として受け入れた。
由紀江「……よし!」
現実を見つけなおす心が、現実と戦う力を生む。
由紀江「戦います! 現実と!!」


友達が出来ず寂しいまゆっちに、まゆっちが無意識で作り出した、まゆっちにだけ見える・居る友達。
それは、成長した女の子がぬいぐるみに話しかけるのをやめるように、いつか役目を終える。私にしかいなくて現実にはいないものは、他人にとってはやっぱりいないもので、私が無意識でも勝手に作り出したものは、やっぱり私が作り出したものでしかないのだから。
それは「一人」だった――友達がいなかったまゆっちを、守ってきたけれど。その役目は、友達ができれば、まゆっちが一人で歩いていけるようになれば、当然、終わる。
でも、消えるワケじゃない。
たとえば、抜刀せずとも、帯刀せずとも、心にいつも刀が、魂としてあるように。私が作り出した松風も、私自身に還っていく。それはたとえば、遠く離れてても、”ここ”にいなくても(京シナリオ参照)、仲間が、風間ファミリーが、心の中にいて、ずっと一緒なのと同じように。
現実は現実に。想像は想像に。でも、想像の領域はなかったことになるのではなく、体の中にあって見えない魂のように、心の中にあり続けるのだ。


FC2スレッドテーマ : エロゲー (ジャンル : ゲーム

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