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「真剣で私に恋しなさい!」は、旅立つまでを描いたワケではない

   ↑  2009/09/17 (木)  カテゴリー: まじこい
以下「まじこい」のネタバレです。ご注意。

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本作を「旅立つ子供たちの物語(旅立つ子供たちというオチ)」として読むことはできない。実際に旅立っているのですが、それはただ、そうであるだけでしかない。

……「旅立つ子供たちの物語」として読んでしまうと、交換可能になるというか、極論、そこまでの全てが無意味になる。なんでもよくなる、と言い換えた方が正しいでしょうか。各エピローグで彼らの旅立っている姿が語られているように、たとえばそれは別にラストシナリオでなくても、彼らは「旅立つ」。つまり、大抵の可能性なら、彼らは「旅立って」、風間ファミリーの友達としての関係も続いているだろう、と予測される――つか、個別シナリオで、それがある程度、実証されているのです。
ということは、「旅立つ」という観点だけからみたら、「どれでも(ほぼ)一緒」ということになる。彼らは大抵の可能性ならどうだろうと旅立って仲間のままゆえに、まじこいを「子供が旅立つまでを描いている」と読むと、イコールで「中身がない(中身がどれでもいい)」となってしまう。

そうなのだから、ここはその中身を読むべきでしょう。それが丁寧に折り重ねられているのだから。関係性というのは自らのありかたの「新たなるもの」を生み出し、それが「今までの(自分ひとりでの)自らのありかた」では敗北してしまうものを乗り越えさせてくれる(個別シナリオは全てそういう話ですね)。そしてその経験、それ自体が、川神魂のように身となり肉となる(この辺は前回の記事自己のありかたを巡る話としてみる「真剣で私に恋しなさい」を参照に)。

だから、真剣で私に恋しなさい!は、「旅立つまでを描いた」わけでも、「旅立つとはどういうことか」を描いたわけでもない。ただ、”結果的に旅立っただけ”である。だいたいのものなら、何であろうと「旅立つ」のだから。どのシナリオ選んでも。どのシナリオ選ばなくても。しかも、「仲間」との関係もほとんど維持できたままに。

「旅立つ」を、「大人になる」や「卒業する」に置き換えてみるとわかりやすいでしょう(ここにおける意味はどの言葉もほとんど同じです)。よっぽどの可能性を選んでない限りは、どこを歩もうが、それまでがどんな中身だろうが、彼らは「旅立った」し、「大人になる」し、「卒業する」。その時がくれば、そうならざるを得ない――そして実際に、作中では、”その時がきたから(時間が要因として)”それを迎えている。祭りが何で終わるかというと、終了時刻が来たからです。ネットワークの終わりというのは、時間切れでしかないのです。
ただ、その中身次第では、自身が変化や成長を遂げるだろう(個別シナリオのように)。ただ、どうせならば、それが素晴らしい中身ならば、その先にも残り続けるだろう(川神魂のように)。

ただそれだけのこと。終わりはいつか必然に訪れる。しかし、その”終わるまでの中身(終わるまでの日々)”は千差万別で、そしてそれは、「終わった後」にも続いていけるものでもある。その中身で得るものが自身を変え、その中身が素晴らしければ、その先の自身も変わるだろう。その中身が祭りのように楽しければ、明日へと進む力にもなるだろう。そういうことである。ゆえに、このゲームは、楽しくて、笑えて、賑やかなものなのである。
旅立つまでの中身が(よっぽど変なものでない限りは)何であろうと、旅立つことは変わらない。だから逆に、まじこいで描かれているのは、その中身自体が、後にまで続いていくというところである。

(記事編集) http://nasutoko.blog83.fc2.com/blog-entry-31.html

2009/09/17 | Comment (-) | HOME | ↑ ページ先頭へ |
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