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2009/09/20 (日) カテゴリー: 未分類
ラストシナリオすげえ……! ずっと驚いたままでした。しかも感動系。清清しい。よくこのゲームについては「鬱ゲー」とか聞くけど、違うよ全然違うよ。いやホント、「鬱」じゃないって、これは、この終わりは、こんなのは、もう、素晴らしすぎて、言葉も出ないほど。……ああ、「素晴らしすぎて鬱」とならば言えるかもしれない。
とにかくこれはですね、「最後までやって」ナンボです。道中、まあ、結構微妙な箇所があったりするんですが、それでも最後までやったほうがいい。もしこのゲームに手を出すのなら。絶対に最後までやるべき。そしてネタバレも、絶対に見てはいけません。ネタバレくらったら、途中でくじけてしまうかもしれませんしね。
衝撃度としては、『Ever17』ほどではないですけど、『Never7』以上ではある。ベクトル的にも、そっちの方と言えるかも。
ということで以下ネタバレありなので、プレイ前は絶対に見ちゃダメです。
現実に叶えられなかったことが”あった”。どうしても心に引っかかってしまうことが”あった”。
たとえば女として生まれたのに男の格好を強いられて、自分を解き放つこともできなければ好きな人に告白することもできない。たとえばこの火傷の身体に対しては、どこでも好奇と見下しの目線に晒され、恋や愛などほど遠く。たとえば分かっていても母を許すことができず。たとえば命の弱さから叶えられないことを諦め続けるしかなかった。
そんなことでも、夢の中なら叶えることもできる。
たとえば恋人が海の底に散っていって、もう二度と会えないという現実でも、夢の中ならば二人幸せに生きていくこともできる。あるいは、はじめから出会わなかったことにして、海の底に散っていく事象を起こさないようにすることもできる。
夢の、中ならば。
全てが夢の中だから、だから、叶えることができる。どんなことも。
けれど、全てが夢の中だから、それは偽りのモノで、そして何処にも続かない。
だから。夢は終わらせなくてはならない。夢の向こうを見なくてはならない。いや、終わらせるべきで、見るべきなのでしょう。ここにある笑顔もここにある幸せも、それは「夢」のもので、本当の笑顔も幸せも、「夢の向こう側」にしかない――そして可能性というものも、夢の向こう側にしかないのだから。
現実はやっぱり、叶えたいことも叶わなくて、居て欲しい人もいなくて、それはやはり、辛いものかもしれない。それでも、夢は夢で、何処にも続かないのだから。せめて――この夏を夢に見て、新しい楽しい夏を、思い描いて生きていくべきなのでしょう。
そのくらいに、この「素晴らしい夢」は、「力になる」のだから。
新しい一日へと歩んでいく力となるような夢。歩が自身を「蝶」に喩えていたけれど、その蝶を、新しい一日へと運ぶ、風のような、夏の夢。
ここは深い海の底の理想郷。現実に叶えられないようなことも叶えてくれる、望外の夏の夢。そこに永遠留まれたら、ステキなことかもしれない。現実よりもよっぽどこっちの方が、ラクで、楽しくて、素晴らしいものかもしれない。たとえそこに在るものが、そこで手に入るものが、偽物であろうとも。そこで叶うことが偽りの実現であろうとも。やはり、望みが叶う空間であることは変わりない。
けれど、夢というのはそれだけの価値しかないのだろうか?
いや、そんなことはない。この、望みが叶う慰めの空間は、それ故に、新しい一日へ進む力となる。
この夏は、現実の何処にもないけれど。これに近い夏が。これと似たような夏が。あるいは、これよりもっと素晴らしく楽しい夏が。現実の先には、開かれている。
夢に見た理想は、現実に開かれている理想へと続いている。つまり未来へと続いている。
そこへと向かう力を与えてくれる。
夢は偽物だということ、夢は慰めの虚飾だということ、夢は終わるということ。これらは長い間語られてきましたが、『ナツユメナギサ』は、そこにさらにプラスしている。その「夢」は、現実を生きる力になると。
たとえばこれを、『リトルバスターズ!(特に沙耶シナリオ)』なんかと同じく、プレイヤー論としても読むことができるでしょう。『ナツユメナギサ』においては、(最終段階と歩シナリオ除いて)渚くんの記憶とゲームスタート時が「完全に同定されて」いて、それ以前が、実感の伴わない「設定」的な意味しか持たない、渚くんにとっても私たちにとっても同じ重みのものとなっていた――つまりそこまで同定されていました。そもそもの存在からして、そのように読める者として在った。
結局のところ、俺は、誰でも無かった。
誰であってもいけなかった。
ただ、誰かの夢だった。
浮かんでは消えていくだけの夢だった。
「記憶喪失として存在する」ことこそが、ホンモノの郡山渚の残滓に”乗れていない”証左であるでしょう。ホンモノの渚でないから、”それら”がない。あるいは歩がそれを望んでいなかったとしたら、それはそれで、ホンモノの渚ではない(だから、「過去」と「現今の自己」の話、過去が(署名アリの)自己の存在証明の話がなされていた)。
夢の向こう側=現実と、夢=ゲームは、未接続の世界である。それは何の関係ない、繋がりない、けれど、その偽りの慰めの理想の幻想は、”それでもなお”――あるいは”それゆえになお”、未来への希望へと至る、ということ(こう見てみると、今年発売という観点から『俺つば』と同じ問題意識――世界なんて、おまえらみんなたちの心の中にあるチャンネルをひねれば、いくらでも変わってしまうものなんだぜ / 「現実に帰れ」というけど、そもそも「現実って何だよ」という根本的な問いに対する答え――と同時的である。この辺は時代性というか、一昔前は「夢は偽物だということ、夢は慰めの虚飾だということ、夢は終わるということ」”だけしか”描かれなかったのに、それ以上を描くようになった――描かざるをえなくなった・描きたくなったという時代性を見ることもできるでしょう)。
この素晴らしい夢が明日へ向かう力になり、そして、たとえばもし辛くなったら、またこの夢を見て、明日へ向かう力を蓄えればいい。この渚と歩が交わした「約束」を思い出せばいい。夢を再獲得して、力とすればいい。この夢は蝶を運ぶ風となる。それが、渚が最後に残せるもので、それが、歩が進んでいける力となる。
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とにかくこれはですね、「最後までやって」ナンボです。道中、まあ、結構微妙な箇所があったりするんですが、それでも最後までやったほうがいい。もしこのゲームに手を出すのなら。絶対に最後までやるべき。そしてネタバレも、絶対に見てはいけません。ネタバレくらったら、途中でくじけてしまうかもしれませんしね。
衝撃度としては、『Ever17』ほどではないですけど、『Never7』以上ではある。ベクトル的にも、そっちの方と言えるかも。
ということで以下ネタバレありなので、プレイ前は絶対に見ちゃダメです。
夢は夢だ。やがて覚めなければならない。
俺も、歩も。
それぞれの場所に帰らなければならない。
俺は海の底へ。
歩は、ヒマワリの咲くアパートへ。
そうして渚に立つ者はいなくなり、夏が終わる。
歩「ねぇ、渚」
歩「それでももし……もし私がまた迷いそうになったら。その時は……」
渚「あぁ」
渚「その時は、この夏のことを思い出せばいい」
渚「夢に見ればいい」
渚「歩も俺も…。ここで、いくつもの夏を過ごしたはずだ」
渚「俺がいた夏を思い出せ、そして俺たちの約束を」
渚「そうしたら……」
渚「やがて新しい夏が来る」
渚「今とは違う。けれど、もっと楽しい夏が来る」
現実に叶えられなかったことが”あった”。どうしても心に引っかかってしまうことが”あった”。
たとえば女として生まれたのに男の格好を強いられて、自分を解き放つこともできなければ好きな人に告白することもできない。たとえばこの火傷の身体に対しては、どこでも好奇と見下しの目線に晒され、恋や愛などほど遠く。たとえば分かっていても母を許すことができず。たとえば命の弱さから叶えられないことを諦め続けるしかなかった。
そんなことでも、夢の中なら叶えることもできる。
たとえば恋人が海の底に散っていって、もう二度と会えないという現実でも、夢の中ならば二人幸せに生きていくこともできる。あるいは、はじめから出会わなかったことにして、海の底に散っていく事象を起こさないようにすることもできる。
夢の、中ならば。
全てが夢の中だから、だから、叶えることができる。どんなことも。
けれど、全てが夢の中だから、それは偽りのモノで、そして何処にも続かない。
だから。夢は終わらせなくてはならない。夢の向こうを見なくてはならない。いや、終わらせるべきで、見るべきなのでしょう。ここにある笑顔もここにある幸せも、それは「夢」のもので、本当の笑顔も幸せも、「夢の向こう側」にしかない――そして可能性というものも、夢の向こう側にしかないのだから。
現実はやっぱり、叶えたいことも叶わなくて、居て欲しい人もいなくて、それはやはり、辛いものかもしれない。それでも、夢は夢で、何処にも続かないのだから。せめて――この夏を夢に見て、新しい楽しい夏を、思い描いて生きていくべきなのでしょう。
そのくらいに、この「素晴らしい夢」は、「力になる」のだから。
俺が歩の見る、悲しい夢だとするならば。
することは決まっている。
俺は彼女の美しい夢になりたい。
暗い夜の内にしばりつけるような重い夢ではない。
朝、彼女が目覚めて。ぼんやりと残るその光景を懐かしみながらも、心は不思議に暖かい。
そうして、彼女の気持ちを新しい一日へと押し出していくような。
風のような。
そんな夏の夢になりたい。
歩「……私。夢を、見ていました」
大河内「ほう。どんな夢だい?」
歩「えと…………」
歩「…………」
歩「…………あれ?」
歩「……覚えてないです」
歩「でも……きっと。素敵な、夢でした……。そう思います」
新しい一日へと歩んでいく力となるような夢。歩が自身を「蝶」に喩えていたけれど、その蝶を、新しい一日へと運ぶ、風のような、夏の夢。
ここは深い海の底の理想郷。現実に叶えられないようなことも叶えてくれる、望外の夏の夢。そこに永遠留まれたら、ステキなことかもしれない。現実よりもよっぽどこっちの方が、ラクで、楽しくて、素晴らしいものかもしれない。たとえそこに在るものが、そこで手に入るものが、偽物であろうとも。そこで叶うことが偽りの実現であろうとも。やはり、望みが叶う空間であることは変わりない。
けれど、夢というのはそれだけの価値しかないのだろうか?
いや、そんなことはない。この、望みが叶う慰めの空間は、それ故に、新しい一日へ進む力となる。
この夏は、現実の何処にもないけれど。これに近い夏が。これと似たような夏が。あるいは、これよりもっと素晴らしく楽しい夏が。現実の先には、開かれている。
夢に見た理想は、現実に開かれている理想へと続いている。つまり未来へと続いている。
そこへと向かう力を与えてくれる。
夢は偽物だということ、夢は慰めの虚飾だということ、夢は終わるということ。これらは長い間語られてきましたが、『ナツユメナギサ』は、そこにさらにプラスしている。その「夢」は、現実を生きる力になると。
たとえばこれを、『リトルバスターズ!(特に沙耶シナリオ)』なんかと同じく、プレイヤー論としても読むことができるでしょう。『ナツユメナギサ』においては、(最終段階と歩シナリオ除いて)渚くんの記憶とゲームスタート時が「完全に同定されて」いて、それ以前が、実感の伴わない「設定」的な意味しか持たない、渚くんにとっても私たちにとっても同じ重みのものとなっていた――つまりそこまで同定されていました。そもそもの存在からして、そのように読める者として在った。
結局のところ、俺は、誰でも無かった。
誰であってもいけなかった。
ただ、誰かの夢だった。
浮かんでは消えていくだけの夢だった。
「記憶喪失として存在する」ことこそが、ホンモノの郡山渚の残滓に”乗れていない”証左であるでしょう。ホンモノの渚でないから、”それら”がない。あるいは歩がそれを望んでいなかったとしたら、それはそれで、ホンモノの渚ではない(だから、「過去」と「現今の自己」の話、過去が(署名アリの)自己の存在証明の話がなされていた)。
夢の向こう側=現実と、夢=ゲームは、未接続の世界である。それは何の関係ない、繋がりない、けれど、その偽りの慰めの理想の幻想は、”それでもなお”――あるいは”それゆえになお”、未来への希望へと至る、ということ(こう見てみると、今年発売という観点から『俺つば』と同じ問題意識――世界なんて、おまえらみんなたちの心の中にあるチャンネルをひねれば、いくらでも変わってしまうものなんだぜ / 「現実に帰れ」というけど、そもそも「現実って何だよ」という根本的な問いに対する答え――と同時的である。この辺は時代性というか、一昔前は「夢は偽物だということ、夢は慰めの虚飾だということ、夢は終わるということ」”だけしか”描かれなかったのに、それ以上を描くようになった――描かざるをえなくなった・描きたくなったという時代性を見ることもできるでしょう)。
この素晴らしい夢が明日へ向かう力になり、そして、たとえばもし辛くなったら、またこの夢を見て、明日へ向かう力を蓄えればいい。この渚と歩が交わした「約束」を思い出せばいい。夢を再獲得して、力とすればいい。この夢は蝶を運ぶ風となる。それが、渚が最後に残せるもので、それが、歩が進んでいける力となる。
(記事編集) http://nasutoko.blog83.fc2.com/blog-entry-32.html
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