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2009/09/30 (水) カテゴリー: まじこい
『真剣で私に恋しなさい!』ネタバレ。ちょっとアレが疑問に思うというかわだかまったので。
風間ファミリーへの加入条件というか、そこにおける選民性・選択性が強いかというと、それは普通(普通の程度)なんじゃないかなーと。多分、結果的に「超人」揃いだったことと、男女混合の大人数グループだったことが、そこら辺に暗幕をかけている。別に正義の味方でもボランティア団体でも何でもなくて、”ただの友達集団”なんだから、誰でも彼でも加入できるわけではないし・実際に誰でも彼でも加入できなかったという事実は”普通”のことだと思うんですよね。普通に自分とその周囲とか、あるいはクラスメイトの属している集団(グループ)とか思い起こしてみればいい。特に仲の良い数人で固まってて、それは”集団”で、余所からすればある程度”閉鎖的”であるけれど、それってのは友達集団においては普通のことであるんじゃないかなあと。
基本的には「楽しく遊べるための仲間」というのが集団加入の条件であって、それ自体は、この世に数多在る子供のコミュニティその殆ど全てと似たようなモノ――つまり”普通”であるんじゃないでしょうか。小学校でも、中学校でも、高校でも、”つるむ奴ら”というのは、単純に気が合ったり、遊ぶと楽しい奴らであって、そこに無理して新しいメンバーを求めたり、探したりするなんてことは普通しない。まあこの時の大和は京回想でも語られるように、おそらく「ニヒル」時代の大和でしょうから、こうも無下に断った面もあるのでしょうが、友達集団に外部から「いれてー」と誰かが加入を求めてきたところで、普通は無条件に承認しませんよね。一緒に遊ぶと楽しい奴だから仲間に加える(加わる)というもの。クリス・まゆっち加入時に、「軽い気持ちでおためし・気が合わなかったらやめよう」みたいなことが述べられていたのが、まさにそういうところの付き合い方でしょう。その”友達集団”が、別の誰かと遊ぶことはある。たとえば大和とサブルートのヒロインとか、モロとスグルとか、キャップとクマちゃんとか、そうやって一対一で遊んでる場面も当然あるし、その延長線上で複数人同士で遊ぶというのがあってもおかしくない(ちょっと変則的なものなら十分ありますが)。現実のボクらだって同じですね。”友達集団”みたいのがあっても、それと関係なく遊んでる相手とか当然いるでしょう。だからといって、ソイツがその集団に入るかどうかは別の話。その”友達集団”の殆ど全員を絡めて遊ぶ”誰か”がいたところで、ソイツがその”友達集団”に入るかどうかはまた別の話である。まゆっち・クリスのとこで言ってた「おためし期間」のように、気が合ったり、遊んでて面白かったりすれば入るかもしれませんね。そこで入らなかったのが、これまでに語られてこなかった”誰か”たちであったり、あるいはクマちゃんやヨンパチやスグルであったりするのかもしれない。そして、そこで入ったのが、ゲンさんである。
まあそのぐらいに「普通のこと」というか、そういった閉鎖性は「普通のこと」でしょう。ファミリー外で遊ぶ奴等だって、そいつはそいつで別のファミリー・友達集団を持ってる可能性は高いし(だからこそ、余所から越してきたクリス・まゆっちはすんなり入れた)、単純に入る気がないだけかもしれない。
特徴的なメンバー・男女混合・大人数・クリスとまゆっちといった点が、間口の広さというか、友達集団=遊び仲間という点に、少しスモークかけてぼかしてしまってますが、基本的にはただの”友達集団”であって(それが長期に渡って続いたから、お互いの中でかけがえのないものになっている)、ある程度の「閉鎖性」は仕方がない――というか、慈善事業でもボランティアでも学校のクラスでも制度でも規則でも何でもないんだから、外から見れば「閉鎖性」があるのは当然のこと(その閉鎖性の度合いは、風間ファミリー相手だけではなく、どのコミュニティにも言える程度である)。
つまりさ。上で「普通」って書いてきたけど、それってどういうことかというと。
忘れてるかもしんないけど、そもそも、現実では、世界も人間も人間の集団も閉鎖的なんですよ。
外の人間が排除される、外の人間が加われない。そんなの、世界のありとあらゆる場所で、人の集団のありとあらゆる場合で、当たり前のように起こっていることじゃないですか。それは現実においてそうで、そして「まじこい」という物語においても同じ。「お話の中にだって救いはなーい」とユキが云うように、「まじこい」はそんなポンポンと救いが落ちてるお話じゃなくて。奇跡が起きるお話じゃなくて。お話なんだから安易にその現実的な閉鎖性が払拭されている物語じゃなくて。
救いは、天から勝手に降ってくるものではなく――それぞれの個別シナリオや、あるいは冬馬のように、救われるというのは、天から恵まれるのではなくて、歩みの先にそれを獲得したり、そこに辿り着いたりするもの。其処に至るに奇跡は無いんですよ。一歩一歩進んでいくだけで、奇跡で一気に獲得できてやったー……というものはない。そんな状況でも、一歩一歩歩いた先にしか、救いのようなものはない。つまり「奇跡も無く標も無く、ただ夜が広がるのみ」「揺るぎない意思を糧として、闇の旅を進んでいく」というヤツですね。
「まじこい」の、「問題解決」や「救い」とか、そういうものの全ては、その川神魂的なものが根幹にあると思うんですよね。だからボクとしては、彼らが何か奇跡のようなものに恵まれたり、天啓のように才能を閃いたり、運命のように何かに目覚めたりみたいなところが(過去はともかく、作中で語られる時間内では)無いことをとても評価しています。ラストバトルが淡白という感想をちょくちょく拝見するけど、逆にそこで「全てを出し切らない」――彼らにとって全てがかかった何か・大事・つまり「運命」みたいなものではない、というところが、ボクとしては評価できる。だから淡白で良かったんだと思います。
で、閉鎖性というのも、そう。やはりここでも現実と同じで、(前提として)閉鎖的であるのは当たり前。お話だからといって、安易に非閉鎖的であったりはしない。リアルとかリアリティというとちょっとアレだけど、まあ単純に言えば、お話だからって”そんな都合良くない”ということです。そして、その閉鎖性は、もちろんマイナス面があって、それが形としてたまたま現われたのがユキであったということ。
たぶん、どこのコミュニティにも、当たり前のようにありえたかもしれない事。
最後のゲンさん加入が、冬馬に閉鎖的と突っ込まれたことに対するものでもあったと語られていますが、これは単純に冬馬への対抗心とか当て付けとかそういうのじゃなくて、「冬馬にコミュニティの脆弱なところを指摘されたので、それを直した」とか、そういうレベルのことですね。真に閉鎖的ならば、ユキのようなことがまた繰り返されるかもしれない。だからこそ、ある程度の柔軟性が必要である。
真に閉鎖的なコミュニティというのは、本作の場合だと板垣ファミリーのことでしょう。
家族内は仲が良いし、危険があれば守るだろうけど、その外側の人間はどうなろうが関係ない。危害だって(実際に作中で示されているように)平気で加える。外側と内側を恐ろしく区別していて、内側は大事だけど外側には平気で危害を加えられる、そして内側に入る条件は「家族」のように、外側の人間はまず殆ど必ずといっていいほど、内側に入れない。
そこまで閉鎖性のある集団だとどうなるかというと。風間ファミリーの閉鎖性はユキを救えませんでした(拾えませんでした)が、板垣ファミリーの閉鎖性はユキや京のような人間を作り出すでしょう。
京シナリオの一幕ですが、この言葉はおそらく裏返しでしょう。これは、まんま京がやられてきたことであるからこそ、これはつまり京が思う世界の(他人の)形でもある。他者は彼らの更なる他者を理由もなく排斥する。そういうふうにできている。なぜなら、今まで生きてきて私が触れてきた他者が、そうだったから。ずっとそういうことをされてきたから。だから、(この時点の)京には、風間ファミリーの外側は自分を「何の理由も無く害してもおかしくない」ものに見えた――というか、そういうものが、普通だった。何せ今まで風間ファミリーという例外を抜かせばそういうのしか見てこなかったのだから。
そして言うまでもないですが、京のその「作り話」というのは、板垣ファミリーと相似しています。つまり、板垣ファミリーの閉鎖性はユキや京のような人間を作り出しておかしくない。そして、風間ファミリーの閉鎖性は、ユキや京を救いきれなくても(拾いきれなくても)おかしくない。
別に人類皆兄弟ピースフルなヒューマンドラマじゃないんだから、その程度の閉鎖性は現実でも物語でも当たり前。でも、歩き続ければ、闇の旅を続けた先で、いつかは何処かに――救いや、奇跡に――辿り着けるかもしれないのも当たり前。その時に、少しでも救いの間口が広いかどうか、というのが、ラストのゲンさん加入が冬馬への反応であるというところ――風間ファミリー自体の柔軟性・変化、もうユキのようなことを繰り返さないということ――に当てはまるんじゃないでしょうか。
風間ファミリーへの加入条件というか、そこにおける選民性・選択性が強いかというと、それは普通(普通の程度)なんじゃないかなーと。多分、結果的に「超人」揃いだったことと、男女混合の大人数グループだったことが、そこら辺に暗幕をかけている。別に正義の味方でもボランティア団体でも何でもなくて、”ただの友達集団”なんだから、誰でも彼でも加入できるわけではないし・実際に誰でも彼でも加入できなかったという事実は”普通”のことだと思うんですよね。普通に自分とその周囲とか、あるいはクラスメイトの属している集団(グループ)とか思い起こしてみればいい。特に仲の良い数人で固まってて、それは”集団”で、余所からすればある程度”閉鎖的”であるけれど、それってのは友達集団においては普通のことであるんじゃないかなあと。
俺達は、積極的に仲間を増やそうとしなかった。
今のままでも充分楽しいから。
【ユキを仲間に入れるの断ったとこの回想】
基本的には「楽しく遊べるための仲間」というのが集団加入の条件であって、それ自体は、この世に数多在る子供のコミュニティその殆ど全てと似たようなモノ――つまり”普通”であるんじゃないでしょうか。小学校でも、中学校でも、高校でも、”つるむ奴ら”というのは、単純に気が合ったり、遊ぶと楽しい奴らであって、そこに無理して新しいメンバーを求めたり、探したりするなんてことは普通しない。まあこの時の大和は京回想でも語られるように、おそらく「ニヒル」時代の大和でしょうから、こうも無下に断った面もあるのでしょうが、友達集団に外部から「いれてー」と誰かが加入を求めてきたところで、普通は無条件に承認しませんよね。一緒に遊ぶと楽しい奴だから仲間に加える(加わる)というもの。クリス・まゆっち加入時に、「軽い気持ちでおためし・気が合わなかったらやめよう」みたいなことが述べられていたのが、まさにそういうところの付き合い方でしょう。その”友達集団”が、別の誰かと遊ぶことはある。たとえば大和とサブルートのヒロインとか、モロとスグルとか、キャップとクマちゃんとか、そうやって一対一で遊んでる場面も当然あるし、その延長線上で複数人同士で遊ぶというのがあってもおかしくない(ちょっと変則的なものなら十分ありますが)。現実のボクらだって同じですね。”友達集団”みたいのがあっても、それと関係なく遊んでる相手とか当然いるでしょう。だからといって、ソイツがその集団に入るかどうかは別の話。その”友達集団”の殆ど全員を絡めて遊ぶ”誰か”がいたところで、ソイツがその”友達集団”に入るかどうかはまた別の話である。まゆっち・クリスのとこで言ってた「おためし期間」のように、気が合ったり、遊んでて面白かったりすれば入るかもしれませんね。そこで入らなかったのが、これまでに語られてこなかった”誰か”たちであったり、あるいはクマちゃんやヨンパチやスグルであったりするのかもしれない。そして、そこで入ったのが、ゲンさんである。
まあそのぐらいに「普通のこと」というか、そういった閉鎖性は「普通のこと」でしょう。ファミリー外で遊ぶ奴等だって、そいつはそいつで別のファミリー・友達集団を持ってる可能性は高いし(だからこそ、余所から越してきたクリス・まゆっちはすんなり入れた)、単純に入る気がないだけかもしれない。
特徴的なメンバー・男女混合・大人数・クリスとまゆっちといった点が、間口の広さというか、友達集団=遊び仲間という点に、少しスモークかけてぼかしてしまってますが、基本的にはただの”友達集団”であって(それが長期に渡って続いたから、お互いの中でかけがえのないものになっている)、ある程度の「閉鎖性」は仕方がない――というか、慈善事業でもボランティアでも学校のクラスでも制度でも規則でも何でもないんだから、外から見れば「閉鎖性」があるのは当然のこと(その閉鎖性の度合いは、風間ファミリー相手だけではなく、どのコミュニティにも言える程度である)。
つまりさ。上で「普通」って書いてきたけど、それってどういうことかというと。
忘れてるかもしんないけど、そもそも、現実では、世界も人間も人間の集団も閉鎖的なんですよ。
外の人間が排除される、外の人間が加われない。そんなの、世界のありとあらゆる場所で、人の集団のありとあらゆる場合で、当たり前のように起こっていることじゃないですか。それは現実においてそうで、そして「まじこい」という物語においても同じ。「お話の中にだって救いはなーい」とユキが云うように、「まじこい」はそんなポンポンと救いが落ちてるお話じゃなくて。奇跡が起きるお話じゃなくて。お話なんだから安易にその現実的な閉鎖性が払拭されている物語じゃなくて。
救いは、天から勝手に降ってくるものではなく――それぞれの個別シナリオや、あるいは冬馬のように、救われるというのは、天から恵まれるのではなくて、歩みの先にそれを獲得したり、そこに辿り着いたりするもの。其処に至るに奇跡は無いんですよ。一歩一歩進んでいくだけで、奇跡で一気に獲得できてやったー……というものはない。そんな状況でも、一歩一歩歩いた先にしか、救いのようなものはない。つまり「奇跡も無く標も無く、ただ夜が広がるのみ」「揺るぎない意思を糧として、闇の旅を進んでいく」というヤツですね。
「まじこい」の、「問題解決」や「救い」とか、そういうものの全ては、その川神魂的なものが根幹にあると思うんですよね。だからボクとしては、彼らが何か奇跡のようなものに恵まれたり、天啓のように才能を閃いたり、運命のように何かに目覚めたりみたいなところが(過去はともかく、作中で語られる時間内では)無いことをとても評価しています。ラストバトルが淡白という感想をちょくちょく拝見するけど、逆にそこで「全てを出し切らない」――彼らにとって全てがかかった何か・大事・つまり「運命」みたいなものではない、というところが、ボクとしては評価できる。だから淡白で良かったんだと思います。
で、閉鎖性というのも、そう。やはりここでも現実と同じで、(前提として)閉鎖的であるのは当たり前。お話だからといって、安易に非閉鎖的であったりはしない。リアルとかリアリティというとちょっとアレだけど、まあ単純に言えば、お話だからって”そんな都合良くない”ということです。そして、その閉鎖性は、もちろんマイナス面があって、それが形としてたまたま現われたのがユキであったということ。
たぶん、どこのコミュニティにも、当たり前のようにありえたかもしれない事。
最後のゲンさん加入が、冬馬に閉鎖的と突っ込まれたことに対するものでもあったと語られていますが、これは単純に冬馬への対抗心とか当て付けとかそういうのじゃなくて、「冬馬にコミュニティの脆弱なところを指摘されたので、それを直した」とか、そういうレベルのことですね。真に閉鎖的ならば、ユキのようなことがまた繰り返されるかもしれない。だからこそ、ある程度の柔軟性が必要である。
真に閉鎖的なコミュニティというのは、本作の場合だと板垣ファミリーのことでしょう。
大和「……姉妹同士、姉弟同士は仲良いのになぁ」
辰子「家族で仲良いのは当たり前だよ~」
大和「赤の他人は?」
天使「どーなろうとまったくまったくまったく関係ねー」
家族内は仲が良いし、危険があれば守るだろうけど、その外側の人間はどうなろうが関係ない。危害だって(実際に作中で示されているように)平気で加える。外側と内側を恐ろしく区別していて、内側は大事だけど外側には平気で危害を加えられる、そして内側に入る条件は「家族」のように、外側の人間はまず殆ど必ずといっていいほど、内側に入れない。
そこまで閉鎖性のある集団だとどうなるかというと。風間ファミリーの閉鎖性はユキを救えませんでした(拾えませんでした)が、板垣ファミリーの閉鎖性はユキや京のような人間を作り出すでしょう。
京「…これは作り話だけどある仲良し集団がいてね」
京「その人達はもう、平然と人を害する悪党集団なんだけど仲間がやられると凄く怒るの」
京「どうして、人を害せるの? って質問に自分達と関係ないから害せると返すの…」
京「別に人を害したいとか、そんなんじゃなくて」
京「極端な話、そういう集団に憧れるの」
京「自分達以外、一切無関心みたいな、ね」
京シナリオの一幕ですが、この言葉はおそらく裏返しでしょう。これは、まんま京がやられてきたことであるからこそ、これはつまり京が思う世界の(他人の)形でもある。他者は彼らの更なる他者を理由もなく排斥する。そういうふうにできている。なぜなら、今まで生きてきて私が触れてきた他者が、そうだったから。ずっとそういうことをされてきたから。だから、(この時点の)京には、風間ファミリーの外側は自分を「何の理由も無く害してもおかしくない」ものに見えた――というか、そういうものが、普通だった。何せ今まで風間ファミリーという例外を抜かせばそういうのしか見てこなかったのだから。
そして言うまでもないですが、京のその「作り話」というのは、板垣ファミリーと相似しています。つまり、板垣ファミリーの閉鎖性はユキや京のような人間を作り出しておかしくない。そして、風間ファミリーの閉鎖性は、ユキや京を救いきれなくても(拾いきれなくても)おかしくない。
別に人類皆兄弟ピースフルなヒューマンドラマじゃないんだから、その程度の閉鎖性は現実でも物語でも当たり前。でも、歩き続ければ、闇の旅を続けた先で、いつかは何処かに――救いや、奇跡に――辿り着けるかもしれないのも当たり前。その時に、少しでも救いの間口が広いかどうか、というのが、ラストのゲンさん加入が冬馬への反応であるというところ――風間ファミリー自体の柔軟性・変化、もうユキのようなことを繰り返さないということ――に当てはまるんじゃないでしょうか。
(記事編集) http://nasutoko.blog83.fc2.com/blog-entry-39.html
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