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2009/07/30 (木) カテゴリー: 未分類
![]() | Dies irae Also sprach Zarathustra -die Wiederkunft- (2009/07/24) Windows 商品詳細を見る |
香純のほうクリアー。
ここまでの感触は……さすがに期待が大きすぎたかという感じ。いや、決してつまらないワケではないのですが。いや、というか、マリールートの方がメインっぽいので、あくまで「ここまでの」という感触においての意見なのですが。
以下ネタバレ。
まず「日常」について話をしよう。
我々はエロゲについて語る際に「日常」という語句を用いることがあるが、それが何なのかについてはあまり語られてはいないだろう。つまり、「日常とは一体何なのか」という事についてだ。
語義的には―――また実感的にも、「日常」というのはある種のパターン、繰り返し、つまるところ「普段の・普通の・通常の状態」を指しているように君達は認識しているかもしれない。我々が日々暮らし、学校に行ったり会社に行ったりして、友達と遊んだり恋人と楽しんだり家族と会話をしたり、その狭間ではエロゲやアニメなどの趣味も嗜んだりするだろう。
それが、『日常』。
我々が知る我々自身の「普段の・普通の・通常の状態」だ。細かい所に差異あれど、大筋においては変わらない、何十回も何百回も何千回も繰り返して、その中を生きてきた日々の総体だ。
という見方が、まずひとつにある。
というのも、この見方だけで『日常』というのは十全に構築されざるからだ。いつもの・当たり前の・日々、それを『日常』と呼ぶ事はできるし、実際に『日常』なのだろう。しかし、その「いつもの」というのは、物理的な意味においてであろうか? あるいは時間的な意味においてであろうか? ―――いや、そうではなく、精神的な意味においてではないだろうか。そもそも元々『日常』なる語には実際がない。中身がない。何でも投影できる空の対象だ。だからこそ、その意味は精神面においてのみ確立されうる。
例えば、と例を挙げれば。生まれてこの方ずっと戦場に在り続けた者のことを仮定しよう。ずっと戦場に在り続けた―――今日は戦い、明日も戦い、当然昨日も戦い、今日は殺し、明日もきっと殺す、もちろん昨日も殺した、今日は殺されそうになり、明日もたぶん殺されそうになる、だから昨日も殺されそうになった生き延びた、今日仲間が死に、明日も仲間が死ぬだろう、昨日も仲間が死んだだろうけどもう覚えてもいない。そういう者のことだ。そういう者にとって『日常』とは何か? これは当然、「戦場」のことを指すだろう。何せ戦場しか知らぬのだ、ひとつのモノしか知らない以上、それが何であれ、そうなるしか道はない。……勿論、『日常』という概念が彼の中に許容できたらという仮定の話だが。
では、生まれてからずっと”ではなかった”者にとってはどうだろう。若くして戦場に赴きその後ずっと戦場に居続けた者、気付いた時からずっと戦場に居続けたがある時ふと「平和な日常」と俗に称される普通の時間を得た者。そういう者にとっては。
時間だけならば「戦場」の方が遥かに多い。時間的な意味においては戦場に在る。
物理的な・物質的なものならば天秤は「戦場」の方に圧倒的に片寄る。失ったものも得たものも戦場においてが遥かに多い。
ならば……だから、そういう者には、「戦場が日常」と言えるのであろうか?
イエスでもあり、ノーだろう。つまり、一概にそうとは言えないだろう。
この『Dies irea』の主人公、蓮で例え話をしてみればいい。例えば、彼が、あれだけ「日常」に固執する彼が、”もしもこのまま何十年も戦い続けなければいけなくなった”としたらどうだろうか。このまま”ずっと”と云えるほど長い時間を、戦場に身を置かなくてはならないとなったら?
その場合、時間的には「戦場」が日常の領分に立ち入るだろう。明らかにこちらの方が普段のいつもの状態だ。物理的にも「戦場」が地盤たるもの・日常と成り果てているだろう。明らかに得るものも失うものも、そもそも今の自分自身が、そこから形成されている。
だがしかし、それはあくまで数字的な統計の話。建前上はそうなれるが、精神上もそうなれるとは限らない。
例外状態が圧倒的に上回ってもそれでも「これは例外状態だから」というのは、建前では言い続けられるが、その建前は実際のレベルを維持する為に利用されることはあっても、実際そのものにはならない―――当然実際も、建前そのものにはならないのだ。(この辺の話で稀に例に挙がろう、普段は半戒厳令並みの例外状態にありながら選挙のときだけ、それを平等な・正当な行為にするため、その「例外状態を解く」某国を思い出してみればいい。)
定義上はそうであっても、だがしかし定義上というのは文字通り「定義の上」でしかない。そして定義は絶対でも究極でもない。過去、数多の定義が否定され更新され覆され一新されまた否定され更新されてきた。それは「実際」と「実際の外」に隔たれる一つの境位でしかない。
故に精神的なものが日常を作る。当の本人にあっては。我々「見る者」(つまるところプレイヤー)においてもそうであろう。ここでは当然立場にズレが生じる――我々が「日常」と見るものを、物語の中の彼らが「日常」と捉えるかどうかは定かではない――ことは付け加えておこう。
あと一つ申し加えておこう、『日常』が殆ど幻想の域で扱われる点についてである。これは「見る者」としての方が強いであろう。例えばキミは戦場に在り続ける彼の『日常』をその戦場に見るか、それともほんの少しだけある、戦場を離れた安らげる時間、他愛も無い友との戯れの方に見るか―――という違いだ。
例を挙げれば、『デモンベイン』において、時間的な意味で言えば、アル・アジフの日常は間違いなく戦いの方におけるだろう。大十字九郎と共にアーカムシティで過ごしたほんの僅かな、本当にほんの僅かな時間を除けば、全ての時間は戦いの中に在った。また大十字九郎も、これはシナリオによって多少色合いを異にするが、たとえばアル・アジフシナリオにおいては、彼の人生は戦場に置かれた時間の方が、そうでなかった時間より遥かに多い事になるだろう。
そこにおいて日常をどう捉えるか? あくまで時間の長い前者を日常と捉えるか、あるいは時間的には短いが(我々が知る日常と近い)後者を日常と捉えるか。
もう少し補足が必要だろう。
我々が知る日常というのは、我々が生きる日常のことですが、つまり私たちが生きる日々のことですが、……こんなことは言うまでもないのですがもの凄く大事なので書きましょう。「我々は、日々を正しく記憶していない」。
何かが抜けてるし何かが足されてる。嫌なことはあまり覚えていないように出来ているし、うれしいことやたのしいことはそれが増幅されて覚えていることも多い。本当はあったイヤな○○を、適当な理由を付けて無かった事にしたり、あるいは転嫁したりして覚えて。本当はなかったイイ○○を、自分がそう見えたからそれを真実にしてしまったり、自分がそう見たかったから無意識的にそう見えたという結果を記憶してしまったり。
そういう足し引きがあって、『日常』という幻想は構築される。
蓮はマリィに、『日常』を見せようとするが。
何も知らず、何も持つことを許されなかった彼女に、たとえ茶番であっても、こんな日常を感じさせることができたらそれは……
この文章から明白だろう。日常は時間の過多でもなく、身に纏うものの総量でもない。安らげる時間、目的無くたゆたえる時間、己を限界まで置かなくてすむ暖かい時間の総称。人々の幻想の中に育まれる原風景のひとつである。
そして勿論、原風景というのは<如何なる場合にも>幻想により構築されている/支えられている。優しい時間、「在りし日」として存在した原風景が、もうひとつの『日常』の定義なのだ。
そう、つまり。
単純に生きながらえ手にし続けてきた「時間的・物質的」な天秤における『日常』と。
「精神的に」そこにおきたい・そこに在り続けるという私が見る・定義する『日常』。
その二つに分かれうる。
そして見る者は―――これは勿論「他人を見る」と「自分を見る」の二つあるが、原理的にはどちらも一緒。自分が他人の日々を見た場合のソレは、他人が自分の日々を見た場合のそれと異なっているだろう。自分で自分の日々を振り返った場合には、当然ながら何かが欠けて何かが足される。つまりどちらにしろ恣意的であり確定的ではない。
だが『日常』とはそういうものである。
意味が確定されざる、幻想に支えられた、幻想により形作られた概念―――そもそも、何を持ってしても『日常』を十全に表せない以上、その概念は幻想に居を構えていると述べて大差がない。
して。藤井蓮の日常は。
自分が居たい場所。自分を置きたい場所。帰る場所。失いたくない場所。そういったものである。
それは実際の日々と、どこまでイコールかは分からない、そういうものであるけれど―――そういうものであるからこそ「日常―非日常」の境界が成り立ち、また「日常の象徴」という語句が(香純なり学校なりに)用いることができる・象徴と言う事が可能である―――つまり幻想に座しているからこそ、それは私自身の足場足りえるのである。前提や建前は、実際に”どうあるべきか”を作り出す。そこを分別することが、彼にとって意味がある、むしろ支えである。別けて、帰る場所と向かう場所を分けておく必要がある――というか、分かることそれ自体が既にして支えなのである。
至極当たり前の事を言えば。
帰る場所がない者は、帰る事も出来ないのだから。
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