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なぜ朱鷺戸沙耶はSAYAとして最後までスパイになって秘宝を追わなければならなかったのか。とか。

   ↑  2009/10/02 (金)  カテゴリー: 未分類
来たるべき朱鷺戸沙耶シナリオ読解のための断片集その5くらい。
なぜ沙耶は自由に遊んだり理樹くんとキャッキャウフフしたりする”だけ”を選べず、なぜ夜の校舎に忍び込んで秘宝を狙わなければならなかったのか。
全然違う作品の感想の中で書いてた文章なんだけどさすがに話逸れすぎたので分離。
以下リトバスEXネタバレ。




仮想化しきれない残余。大元にある起源が「離れないで」在り続けるということ。どこまで誤魔化しても、その起源だけは誤魔化しきれない。

それはたとえば、リトバスEXの朱鷺戸沙耶なんかもそうだったりします。何故、沙耶は、本名・本当の自分の設定をあの世界で使わず(使えず)、ずっと……最後まで「朱鷺戸沙耶」のままでいたのか。「あや」という本名を名乗れず、なぜ最後までスパイとして秘宝を追わなければならなかったのか。それは時風が語っているように、彼女がこの世界に受け入れられたのは「朱鷺戸沙耶」だったからでしょう。「朱鷺戸沙耶」だからここにいることが出来た。
これは二重に働いています。まずひとつ、「朱鷺戸沙耶」だったから(恭介は自分の願望と勘違いして)受け入れられた以上、「朱鷺戸沙耶」で無いという事が明白になったら、ここにいれなくなるかもしれないという点。「朱鷺戸沙耶」で無いという事が誰に明白になったらマズイかというと、所謂「知らないと想定される主体」でして、つまり―――たとえば、見るからにカツラの人(有名人でもいいけど)に対してでも、誰も「カツラだろ」と本人に聞いていないし、本人もそうだとは言っていない以上、”たとえみんながそうだと分かっていても”、公には彼はカツラかどうか不明という状態に立たされています。俺はそうだと思う、俺の友達のアイツもそうだと思っている、てゆうか殆どの人がそうだと思っているだろう、けれど、そうだと思っていない人も多分いるわけで、しかも”そうだ”とは誰も明言していない―――未確認なわけで。その、たとえみんなが「そうだ」と思っていても、「そうだ」と噂していても、公式には「そうだ」と言われていない以上、確実に「そうだ」とは言えない―――そう言える担保がない。つまり、真実・本当という証明書が付いていない、真実・本当というモノたちに「知られていない」。たとえ本当はそうでも、外面上、みんながそうではないと言っていれば(あるいは口をつぐめば)、”本当はそうでも外面上ではそうではないが維持できている”状態が出来上がるということです。
沙耶っちのお話に戻りましょう。その朱鷺戸沙耶の存在における「知らないと想定される主体」は、この世界の起源ですね。「理樹と鈴を育てるためにみんなで作った世界(恭介一人ではなく”みんな”というのがポイント)」というのがこの世界の成り立ちにして大義名分にして原動力なワケで、そこを脅かすような存在はあまねく排除されるし、ましてやそれが「外部のもの」ならば、言うまでもなく排除されるでしょう。
それなのにAYAが受け入れられたのは、彼女が「沙耶」として認識された―――勘違いされたから。まずはじめに恭介が自分の願望だと勘違いしたから受け入れられて(翻れば、勘違いされなかったら受け入れられていなかった)、本当は恭介の願望のSAYAではなく、AYAという全く別の誰かだったんだけど、そもそもがそういう始まりだからこそ、それを覆せない。なんだ、恭介の願望でも何でもない、赤の他人なんだ、じゃあ出て行け――となってしまう(しまいかねない)。原初の「目的」を鑑みれば、”そうならない理由が無い”。故に、少なくとも形式上はその勘違いに乗り続けるわけです。朱鷺戸沙耶だからこの世界に居れるという前提な以上、建前上・見た目上はそれを崩すわけにはいかないということです。だから、外面上では、AYAは沙耶を保っていなければいけないわけですね。これがまずひとつ、自分が沙耶でなくてはここにいられないという起源。
そしてもうひとつは、「それでも自分はやっぱり沙耶ではない」という真実。この世界に居るための起源としてのSAYAの、さらに裏の起源、そもそもAYAという一個人であるという事実。本当はAYAであり、だからここに居続けることはできない―――この駆け抜けたかった青春は、どう足掻いたって自分のものではない(SAYAのモノであっても、AYAのモノではない)ということ、その仮想化されなさ。なぜ沙耶は最後に自分で自分を撃ち殺すのか? その理由の一つとして(あくまで一つ)、この辺が当てはまるかもしれません。彼女は、何処までいっても、「朱鷺戸沙耶」ではないのだから。



ということで来たるべき朱鷺戸沙耶シナリオ読解に向けての断片集その5くらい終わり。以下CLAと智アフネタバレ。
だーまえさんに何か一貫したテーマみたいなものを見い出すとすれば、『終わること』『終わらせること』『終わるということ』あたりをそこに見ることができる。他にも色々と見ることはできるでしょうけど、とりあえずボクはそれを見たい。
ONEの永遠は全部破棄されるものだしね。「滅びに向かうからこそ、すべてはかけがえのない瞬間だってことを。こんな永遠なんて、もういらなかった」。
「もう…ゴールしてもいいよね」というのは、当たり前ですが、ここに留まらないことを意味している。もう、これを終わらせていいよね?わたし、終えることできるよね?終えるだけのことを、したよね? 辛いからでも、辿り着いたからでも、理由なんて何だろうと。いつかは何でも、終わらなくては/終わらせなくてはならない。
恭介「今がずっと続けばいいのにな」沙耶「今がずっと続けばいいのにね」 ―――その言葉は真裏を意味する。祈りとは当然そういうものである。本当は、実際は、現実は、未来は、……今がずっと続かないからこそ、その願望が口をつくのだ。
CLANNADも智代アフターも、今がずっと続かなかった。町は変わっていくし、自分(たち)も変わっていく。ずっとともや鷹文たちが居るわけでもないし、ずっと「同じ一週間」を送っていても、それは今が続いているわけではなかった。CLAと智アフについては、その辺「対称」です。喩えるなら、「水たまりを駆けぬけ、その跳ねた泥がズボンのすそに付くことだって、それは幸せの小さなかけらだった」―――それは、その時その時の一度きりにしか得られないのがCLANNADであり、たとえ得られなかったものですら自身の中で続いていくのが智アフである。要するに、前者は「渚と汐との幸せ」が、渚の居ない場所では叶えられないからラスト渚が死なない世界を描かなければいけなかったのに対し、後者は「朋也と智代との幸せ」が、朋也の死んだ世界でも描けたから、光の玉は必要なかった。CLANNAD冒頭の、「見つければいいだけだろ」という朋也の発言に対する二通りのアンサーです。また見つければいいだろうというけれど、その水たまりで得られる幸せのかけらはその水たまりでしか得られない、という点は両者(つうか全だーまえ)共通している。しかしながら、水たまりが無くなったら得られる筈の幸せが得られなくなるというのがCLANNADで、水たまりが無くなったら、跳ねた泥がズボンのすそに付くという幸せは得られなくなるけれど、別の幸せがそこには待っていますよというのが智アフ。

なんだか話が膨らみすぎですが、朱鷺戸沙耶は、自分で自分を撃ち殺したという点で、そしてだーまえラストシナリオという点で、その系譜上最も注目に値すべし……というか、最も考察されていないので、考察すべしなわけで、「来たるべき」ということで、ボクはいつか解釈してみたいわけです。この8年の間での変化、跳躍。もうゴールしてもいいよねという言葉は喪われ、実弾と云う暴力的な痛みを持って、いきなりゴールに辿り着いた朱鷺戸沙耶。その『終わること』『終わらせること』『終わるということ』という指向性における変化と通底を見極めることによって、はじめて我々自身がだーまえからゴールすることができるというものである。
とかなんとか。来たるべき沙耶シナリオのガチィ解釈に向けて。誰かやってくんないかしら。

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