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トラウマをエロゲ的に扱わないということ : 君が主で執事が俺で

   ↑  2009/10/04 (日)  カテゴリー: 未分類
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(2007/05/25)
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『真剣で私に恋しなさい!』から、遡るようにプレイ。

『まじこい』とも共通していたのですが、ヒロインの問題という問題意識に対する観点がある種特徴的で面白かったですね。一言でいえば、ヒロインに「エロゲ的」トラウマがない――というか、トラウマを「エロゲ的に扱わない」という点。ここでいう「エロゲ的なトラウマ(トラウマのエロゲ的な扱い)」というのは、それこそ『Kanon』あたりから代表されるであろう、物語においてヒロインの問題として存在して、主人公によって・彼の行動によって・彼の存在によって・彼と過ごす日々という物語によって、癒されたり解消されたり向き合ったりする対象としてのトラウマです。『Kanon』っていうか、『リトバス』の個別ルートなんかまさにというか典型的なくらいにそうでしょう。そういった対象として在るトラウマ。それが『まじこい』にしろ『きみある』にしろ、無かった――というか、対象にならなかったわけです。これは面白いですね。言うなれば、タカヒロヒロインに、所謂「Kanon問題」なんかは起こりえないでしょう。

エロゲ的にトラウマを扱うエロゲだったら、たとえばミューの身体的なコンプレックスとかそこから至るいばりんぼ気質・説明好きなところ――要するに身体がアレな分、頭脳MEISEKIとか威厳・威光・徳などの「目に見えないもの」に依存している点とか、夢の姉と比べての自意識コンプレックスとか、森羅様の子供っぽいところとか、そういうところに話が進んでいきそうだけど、そうはならない。その辺はもう彼女たちの性格を構成する要因というか、枠を定める枠の中のものとして埋没しているんですね。主人公が・彼の行動がクッションの綴じ目となって解消・解決というエロゲ的トラウマの扱いではなく、外傷自体が現実の人間と同じく自己の中に埋没している。「どうしてこうなった」は問題にならなくて(「過去」は問題にならなくて)、もし問題があるとするならば、それは未来にしかない。ここは重要。端的に言えば、「主人公がいなくても何とかなる」という話です。それぞれの「対象となる問題」(※それぞれの「問題」ではなく、あくまで「対象となる」問題。問題と呼べるようなものは(場合によっては・文脈によっては呼べるようなもの)、それこそ現実の人間がそうであるように、両手の指に収まらないくらいあって、その中でも”ここで”対象となるようなもの)を見ていただければ、それらが基本的にどうしょもないものとかではないことが分かると思います。とりあえずこの辺で、もうひとつの重要な点について話しましょう。

もうひとつ重要な点、それは主人公のそれ(トラウマ的なるもの・問題とされること)への関わりが非常に迂遠・回避的であるということ。俺が救う・俺により救われる、ということがロクにない(そのようにはロクに感じられない)。ミューたんを救うのはあくまで医者で、主人公は医者に行く後押しをするという役割しか与えられない。夢を支えて見守るけど、それだけ。実は主人公いなくても良いというか、彼である必然はまるでなかったりします。別のシナリオだと、ミューたんシナリオの主人公の役割は鳩子が担うし、夢のその問題について語られることはないけれど……しかし、”どうにもならない”とは思えがたいし、もしどうにもならなくても、”それはそれ”と思える程度の問題でもあった。ナトセさんは……ナトセさんが「どうしても守りたい」→「離れ離れになったら守れないかもしれないと不安がる」→「でも守れた(間に合った)」、その分の変化や成長、そしてその不確定性を受け入れる心をこれから育てようという話なので、ぶっちゃけ主人公いりません。結局「間に合った」でナトセさんが駆けつけた相手は夢なのだから、本当に主人公いなくてもおかしくない。
つまり、そのポジションに居るのが”上杉錬である必要がない””他の人物でも交換可能”であり、さらにいうなら、そもそもそのポジションに誰もいなくても、それはそれで何とかなった可能性が高いわけです。シナリオで描かれたものとは異なる展開・結末を見せるかもしれないけど、それはそれで何とかなっているだろうと(ミューだって、これ以上ヤバくなれば、久遠寺家の誰かが気付いて支えていた(それこそ別シナリオで鳩ねえがそうしたように)かもしれない)。
その点はベニスシナリオも同じですね。森羅様を目指さず、お前はお前自身から延びる道の先を目指せというお話でしたが、それをベニに語ったのは森羅様自身。しかもこのタイミングで起きてなければ秋にベニをその場所に誘ったというのだから、主人公は本当に迂遠にしか関わっていません。
ひとつ異なるのは森羅様シナリオですが、これも面白く回避している。
森羅「私達は誇り高き、久遠寺万象の娘。が!」
森羅「それはあくまで戸籍上、私達は個で私達なのだ。万象の娘である前に久遠寺森羅だ」
森羅「父の名を汚すまいと過度に怯える必要はない」

森羅様シナリオにおいて問題となるような「対象」は、父の名誉・その名を「守ること」に縛られているという点でしたが、錬が彼の父親に立ち向かい吐いた啖呵によって、彼女は上記のような対象解決の方法を発見します。これについては、錬がいなかったら――錬vs父がなかったら――森羅様のその対象は解決されなかったと取ることができるでしょう。実際、たとえばベニスシナリオラストなどで、それを引きずっていることが示唆されています(勿論、鳩ねえを除く他シナリオでも、その後に錬vs父がある可能性はありますが)。それは解決されなければ絶対に不幸になる問題――対象とは言い切れませんが(少なくとも師匠の評価は上がらず、指揮者として今以上の大成が難しいかもという可能性はあります)、しかし他シナリオの対象となる問題に比べると、錬の比重・重要性・必然性が大きくなっています。
なのですけど、何が面白い回避かというと、これ、錬くんは森羅様のためを思ってやったわけでも言ったわけでもないところです。結果論で読めば錬のお陰のようであるけれど、錬自体は何も狙っていない。自分の問題に、自分の思うよう対処したら、”たまたま”、森羅様の問題とリンクしていたわけです。言い換えれば、錬の行動から、言葉から、森羅様が”勝手に”自身の問題対象解決の糸口を見つけ出したわけですね。

えーとなんというか、一言でいいますとね、その、エロゲ的にトラウマを扱うゲームというのは、主人公がその女の子に「必要」「守ってやる」という理路の元ではじめて解消されているわけです。それがこのゲームの場合は無い。……無いとまでいうと言い過ぎかもしれませんが、とりあえず上述したように、まずとなる主人公が触れる限りの問題の対象を、エロゲ的トラウマのニッチもサッチもいかないような重いものではなく、前に進む上での一つの壁とし尽くしたところ、そしてまた上述のように、それにあたる錬くんの関与を非常に回避的・迂遠的にしているところ。この二つが特徴的でしょう。
エロゲ的なトラウマの扱いというのは、主人公の行動・存在・彼との日々などが、ヒロインのトラウマを”どうこうする(どうこうの中身は非常にケースバイケースっぽいので曖昧な言葉でw)”わけでして、それはトラウマにおいては、「守る」「所有する」「支配する」などに近いと思われます。つまり主人公の行動・存在・日々などが、クッションの綴じ目的な役割を果たしている。結果的に「守る」「所有する」「支配する」などに近いものを錯視できる。たとえば、東浩紀さんをあんまり知らないでこんなこと書くのもアレですが、東さん曰くの「父になる」(美少女ゲームはプレイヤーを父にさせるジャンル ※非常な要約)ってのは、この辺に接続できるというかこの辺から接続されるというか、そう思うかな~というか。ぶっちゃけ「モテる」とか「陵辱する視線」とかでは父足り得ない。プレイヤーが勝手に思ってるだけの空想的な父である。相互承認は必要ないけれど、こちらから見て、そのように「錯視」できる仕掛けが必要である。それがエロゲ的なトラウマの扱い方、クッションの綴じ目ではないかと。トラウマの解消において、クッションの綴じ目的な象徴的秩序の構築において主人公が<父>と化しているように見えるから、それで「父となる」と言える。そのように見える(こっちから見た彼女の象徴的秩序においてそうである)といった具合。
『君が主で執事が俺で』においては、そういったところが非常に回避されています。これは『真剣で私に恋しなさい!』でもかなり近いものがありましたね。というか『まじこい』に関しては、トラウマに関係なく、落とす~支えるといった流れでの「父」的化の方が強いでしょうか。大和の父と母の関係が語られてますが、あれを極地として、そのスケールダウン版(と言ったら乱暴かもしれませんが)のような。少なくとも、トラウマをエロゲ的に扱うことによってどうこう、というのは非常に抑えられて・あるいは回避されていました(京シナリオですらも)。

この辺はこれ以前のタカヒロではどうなのか気になるので、『つよきす』以前もそのうち追ってみたいですが。ともかく。ここ(きみある)では、父になるだのマチズモだの、そのような言説は遥か彼方に消え去っている。翻すと、エロゲ的にトラウマを扱うゲームは、父になってくれないと問題が解決しないのに対し、ここでは、そんなものはない。支配や所有はない。むしろ契約上はヒロインに支配されて所有されているわけですし、さらに言えば、父の愛がない(限られている)、父に権力はあるけど、愛してはくれないという錬くんにとって、「素晴らしい主(どのシナリオでも主のことを「尊敬」「敬う」「凄い」「慕う」と賞賛している)に仕える」というのは、その再構成――父の愛の再獲得であると読むことができる。ここではむしろ父になるのではなくて、父を戴く――主に対しても、恋愛関係含みで支えているのだから、ある種の父的である面もあるでしょう。つまりめちゃくちゃアリフレタ言葉、「支えあう」というヤツです。
主を支え、そしてこの主に仕えているということが、執事を支えている(それが一番立証されたのが、森羅様シナリオでのvs親父戦というのが象徴的というか暗示的ですが)。エロゲ的にトラウマを扱わないことにより、単に父になったり所有したりするのではなく、お互いがそれぞれに生きている。故にKanon問題など起こらない、起こりうる筈がない。恋仲になれば。それぞれお互いがお互いを支えている。それは当然、「父」のように「全部」ではなくて、それぞれ生きていく上で、自分にとって必要だったり支えとしてあって欲しい部分のみを、支えている。

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