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なすところをしらざればなりFOR I KNOW NOT WHAT I DO 

さくらさくら 雑感

   ↑  2009/10/09 (金)  カテゴリー: 未分類
さくらさくら 初回版さくらさくら 初回版
(2009/06/26)
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正直なところ、あんま書くことがないというか、ボク自身の感想は
http://www11.big.or.jp/~kkk/pico/?date=20090818#p01
http://erogamescape.dyndns.org/~ap2/ero/toukei_kaiseki/memo.php?game=9834&uid=2431
このお二方と似たような感じ。本当に序盤どうなってるんだ。そしてあの乳オバサンのUZAさどうなってるんだ。あと物語の3割ぐらいが主人公なりヒロインなりが言いたいこと・言うべきことを言わない・言えない/聞くべきこと・聞きたいことを聞かない・聞けないで駆動するってどうなってるんだ。茶太先生の「わん・つー・わん・つー……」に心救われてましたというか、本作のビジュアルデザイン最高すぎじゃね? あと菜々子先生は最高すぎ(断言)。

印象としてはラブコメ漫画でした。えーと、『めぞん一刻』っぽいとかよく聞くのですが、『めぞん一刻』読んだことないので……つーかラブコメ漫画自体、ジャンプに載ってるのちょっと読んだことある程度の人間なのでなんともいえないのですが。たとえば、このままの内容(もちろんエロシーン抜かして)でも、ジャンプのいちご100%枠で連載されててもおかしくないんだけど。あまりにもおかしくないんだけど。あまりにもおかしくない故に、齟齬る。

エロシーン以外は殆ど完全にモノローグを排除している=台詞しかないのが、最大ともいえるひとつの特徴。主人公自身の内面が語られない、主人公が”思う”他のキャラクターの内面が語られない、主人公が他のキャラクターをどう思っているのかが語られない、主人公が思った他のキャラクターが主人公のことをどう思っているのかが語られない……もちろんそれらは「モノローグ以外で」、つまり台詞となったり、あるいは立ち絵の微妙な変化や、声・演技の微妙なニュアンス・間、そしてお話の流れ・構成という形をして語られる(プレイヤーがそこから想像する)ことになるのですが、これがなかなか面白く、そして同時にやっかい。
良く言えば丁寧というもの。プレイすれば分かるように、本作は、モノローグの欠如を埋めるべく、立ち絵による演技と、声のニュアンス、そして何より「無言」が、非常に強調されています。ここまで無言の間――三点リーダーを意識的に使った作品は少ないでしょう。僅かな「間」に、どう思っているか・どう受け止めたかが、標されている。ただしそれは、悪く言えば冗長でもある。漫画や小説と比した際のエロゲというメディアの限界として上げられるひとつに、「読み飛ばしの難儀さ」を上げることができます。たとえば漫画なら、自分が「一目見て分かるところ」を、文字通り一目だけ見て飛ばすことができます。小説も似ていて、情景描写のどうでもいいところとか、「読むまでもなく分かるところ」は、二・三行を一目で(一行くらいの速読で)飛ばすことができる。しかしエロゲは――テキストウインドウタイプのそれ(たとえばFateみたいなフォーマットは別になりますが)は、瞬間視的に必要なところだけ見て読み飛ばすことができない。つまり、分かっていても読まなくてはならない――あるいは、スキップ・エンター連打で、かなり無理して飛ばすことになる。
ここまで(一歩間違えば冗長なくらいまで)丁寧にする必要はあったのか? と問えば、間違いなく「ある」。この丁寧さが本作の駆軸でもある。漫画と違って「絵が動的でない(動的限界が低い)」分の溝を埋める全てが、そこにある。だからこの表現に、まったく過剰を感じないでしょう。けれど逆に、全てがそこにあるから、冗長にはなりえる。

「プレイヤーが主人公のモノローグ・内言・その心を「覗くこと」ができる」という、エロゲにおいて通常あるこの契約を破棄した本作はどうなるか。嫉妬・三角関係を描くという点においてはそれは恐ろしく正解でしょう。心の内を見る契約が失効しているこの地では、私たちも、他の登場人物と同じく、推理と推測で彼の心の内を計り知るしかない。そこにおいては、フラフラ・優柔不断・うざい……そのような主人公に対する嫌悪も、確定せずに・同一化せずに浮遊しうる。私たちとてどこまでいっても、「直樹くらいにしか徹のことが分からない」という不透明化のフィルターが、嫉妬・三角関係を描くという点においては、完全に良好に機能している――嫉妬・三角関係を描く場合に起こりうるその軋轢(主人公への嫌悪)を、心の内を見せない・不確定にすることにより、上手くリスクヘッジしている。
さらにプレイヤーが「勘違い」で、彼のことを低く見積もったりすれば、その分だけプレイヤーに「負債」を負わせることもできる。ボクは菜々子先生個別に入ったあたりが超楽しかったのですが、その理由がこれ。ちょっと低く見積もっていた徹が、ボクが「思うよりも」な奴だっただ――勘違いしてしまった――だけに、もうボクは彼に何も言えなくなった(負い目を背負った)。その辺は非常に面白かったですね。ただ裏返しもあって、「このような行動を取るにはそのような理由がある」というのは、それら次第では、「そのような理由があっても取る行動はその程度か」という失意と失墜――つまり過剰もありうる。いやホントあの乳おばさんとか。

あとあれかー。二章か。タイトルに「不毛な三角関係」と銘打たれている時点で、我々にとっても不毛になってしまったかの境地。一応あった重み(↓)が沈殿してしまっていた。
一章は「母」をキーワードとして微妙に絡めていて、たとえば「母の絵」に感銘を受けたという動機の美術部入部(&学校選択)、そしてその絵を描いたのはさくらだということ、母の支配下によるミラクル学園への勧誘、寮「母」であり徹の母と親しい菜々子先生、母の元に菜々子先生の気持ちを慮って帰るということ――そして三章において、母の存在は後退する。桜は入学の季節であり卒業の季節――はじまりであり終わりであるのならば、一章のさくらと三章のさくら、その二つでもって、徹は自身の母に対しひとつの終わりとはじまりを通過したと言えるでしょう。

結局『さくらさくら』はどうだったかというと、ボクとしては最初にリンク貼ったところさんと同じ様に、素晴らしいのに素晴らしくない、という感想。出来る限りの全てを出来る限りの戦力でもってすれば空に届くワケでは無い。はじめから空に届かないのであれば、最高と最善を尽くしても届かないし、残るのは最高と最善という積み重なった素材の素晴らしさだけであり、総体として素晴らしくはありえなかった。素晴らしいのは確かで、全力が尽くされているだろうということも恐らく確かで、色んな可能性が認められるのも確かで、あるけれど。

あと菜々子先生が素晴らしい、というか素晴らしすぎるのも確かであり、つーかもうぶっちゃけそれだけでいいと思うんだ―――

(記事編集) http://nasutoko.blog83.fc2.com/blog-entry-42.html

2009/10/09 | Comment (-) | HOME | ↑ ページ先頭へ |