ただのメモ書き三連発。下二つはそのうちビルドアップしたい。
■
10月に買うエロゲ。『コミュ』、『幼なじみは大統領』。この二つは確定。買う、そして速攻やる。『コミュ』までになんとか『るい智』を終わらせるのが当面の目標かなぁ……と思いつつ「るい智」があまりに面白すぎて、本気で読み込みたいのでいつ終わるのか自分でも検討がつかない感じです。いやこれ本当にすごいです。久しぶりに本気で取り組みたいと思わせる作品。
あと『ましろ色シンフォニー』も買うかも。というか多分買う。『村正』は欲しかったけどスペック的に動かねえ……。どーも最近スペ要求のハードルがどんどんと上がってきているような気がします。
迷うのが『果てしなく青い以下略』なんですけど、どうしましょうか。無印は、プレイした後トラウマちっくになって以後5年間くらいエロゲから離れたというくらい、ボクにとっては鬼門だったのですが。しかしソレは内容どうこう以前に自分が若すぎた所為で、今の自分なら実は受け入れられるのではないか……みたいな、期待と不安も入り混じりっています。うーんどうかな、ムリかなー。
そんな感じ。
■アイキャッチ・メモ
エロゲにおけるアイキャッチの効果性について少し考えてみた――というか、今度考えるんだけど。まあ下書き・とっかかりということで。ぶっちゃけこのブログ自体が壮大な下書きなんですが(なんの?)
基本的には「1テンポ入れる」ものである。場面転換時の「暗転」と意味合いは変わらない。しかし「プレイヤーの目を覚ます」ような効果もある程度はあるでしょう。何せメタ的な存在ですからね。例えば、いったん舞台の幕が降りれば、ドラマの途中にCMが入れば、その虚構世界から私たち自身がいる”こちらの世界”に、いったん意識が向けられるのも然るべきところ。椅子に座って舞台を見ている、テレビの前に座っている、そんなことを意識させるものでもある。
もちろんそれはモノによるけれど――たとえば「ゲームのタイトル」を画面に出すアイキャッチなんかはどうだろう? その辺の落差がさらに激しくなるのではないだろうか?
とか思うんすよねー。これは良い点もあれば悪い点もあるでしょう。
最近ボクがプレイした中では、たとえば『俺たちに翼はない』なんかは、シャッターが降りるようにタイトルロゴ付きのアイキャッチがどんっと画面を占有することによって、一瞬だけ、ふと意識が、物語世界からゲームプレイという行為へと流れ出る。俺はこいつじゃない、これはゲームだ、というほんの僅かな意識性。回数も、表示される時間も僅かなので、そこにあるのは本当に些細な違和感。けど、本当に些細な違和感程度には、物語世界とゲームプレイとの間に「溝」があって然るべきなのだ。それは『俺つば』の内容ともの凄くあっていました。『スズノネセブン』なんかは結構な頻度で入ってきたけれど、プレイヤーの視座が、主人公たちを「見る」ようなものに近しい――それを想定できる主体がゲームの内外部に存在している(学長―大人たち、とか)なので、その「見る」という感覚には非常にあっていた。逆に『死神の接吻は別離の味』なんかは、しょっちゅうアイキャッチが――しかもタイトルいちいち喋るし――入ってきて、その度に物語世界が頓挫して、それでいて別にメタ的見地も、ここにいない楽しんでいると想定される主体(プレイヤーの座の置ける場所)もなくて、正直これはわずわらしいほどでもあった。
とまあ、メタ的な「溝」を意識させることによって、プレイヤーの立ち位置を明らかにするとか、劇としてのそれを意識させるとか、単純な場面転換・息抜き以外にも色々ありえるんじゃないかなーと。詳しくは今度考えるー。
■ファリックガール、エア批評
http://twitter.g.hatena.ne.jp/hachimasa/20090920/1253398080
「戦闘美少女の精神分析」を読んでない(斎藤環さんの提唱したファリック・ガールに明るくない)ので、あくまでエア批評ですが。だからあくまでメモ書きですがー。てゆうかボクは斎藤環さんの本、7冊くらいは読んだと思うけどファリック・ガールって言葉は一度くらいしか目にしなかった気がする。
普通に考えたら「ファリック・ガールを救済する方法」って、「お前の持ってるファルスは偽物だよ」と云う事(それを明らかにすること)に至るんじゃないだろうか。
ご存知のとおり、人は誰も「本当のファルス」というものを獲得できない。ただし、相手側が「それはファルスだ」と思うようなものならば獲得できる。それはたとえば「子から見た親」のように、(封建社会の)「臣民から見た王」のように。ゆえに「ファリック・マザー」は成立し得る。ファルスを持った母親というのは存在し得る。ファルスというのはもちろん象徴(象徴界)におけるファルスでしかなくて、受け手(相手・受信者)にとっては、その「マザー=親」という機構がそれだけでファルスを(象徴的に)所持する・というか”保証する”条件の一つを満たしている
ファリック・ガールというのは、単純に闘う少女のことではなく、綾波であろうと長門であろうと、あるいは例に挙がってたところでボクが知ってるところだとカレンや曜子ちゃんか……(例に挙がったのでまともに分かるのそんだけしかいないので、間違ってるかもしれないが)彼女たち全てに共通するのは、「トラウマの無さ(見えなさ)」と、その「超然とした」態度、である。その辺がファリック・ガールの必要条件……であるらしい(たぶん)。
しかしそれは、ファルスを持っているとは言えないのではないだろうか。というか単純に、トラウマが無いということが、「去勢されてなさ」を示しているかのようで、超然さが、「父の名に縛られていない」ことを示しているかのように見えるだけなんじゃないだろうか。この象徴的ネットワークに囚われていないかのような超然さは、彼女が私たちと違って去勢されていないからである。みたいな錯覚。
つまり、私たちと同じ様な去勢のしるしを認めることができない彼女は、私たちと違って去勢されていない、かのように見える。だからファルスを持っているかのように見える。
いやゴメン、「エア」でそこまで書くなって内容だけど。あくまでメモだからと言い訳を(戦闘美少女~は今度読む)。
その超然さ・トラウマのなさ=つまり去勢されていないことから、まるで擬製ではない「真のファルス」を持っているかのように見える。しかしそれは、象徴的に保証されていない。その超然さ・非去勢さは、彼女たちを象徴的ネットワークから半ば除外し、まるでホンモノのファルスを持っているかのようですが、しかしよくよく考えてみると、彼女たちが持っているのは「ただの超然・非去勢」であって、決して「ファルス」ではないのです。去勢されていない=ファルスを持っているということではない。喩えるなら仙人のような。秘された魔法使いの弟子のような。権力をポンと引き継いだまだ年端もいかない無垢なるお姫様のような。
我々から半歩離れ、去勢されていないだけ。彼女達すべてに当てはまる印象として「寂しさ」「孤独」という点がある――”それを我々見る者に抱かせてしまうという点が”(しかもそれが特徴であり萌えポイントでもあるのだw)――まさにそのことの証左。ファルスを持っているわけではないことの証左。
彼女達に救済をもたらすとしたら――もうぶっちゃけ、例に挙げた彼女たちの物語がそれを証明してるんすけどね――「君たちはファルスなんて持ってないよ」というところに行き着く。
だから貴女たちは、去勢されてないだけで、孤独ではないのだよ、と。
エロゲにおけるヒロインのトラウマどうこうは、こないだ「主人公がクッションの綴じ目格」(※「クッションの綴じ目」はラカン先生のアレ)と検討付けてみたんですが、いやもちろんもっと詰める必要は大アリなんですけど。「カウンセリング願望」というのはまさにその辺で、だから(そういう意味で)主人公は・プレイヤーは「父」なりうる。
ひとつ疑問に思うのは、エロゲ的文脈における「救い」というのはそこに集約されすぎているのではないかと。
その観点における物語駆動性における要請が、ループとファリックガールの関連性でもあるのかもしれない。ヒロインを救いヒロインを俺のものにする(父となる・所有する)という歪な構造がエロゲの花であり仇。何だかんだいって、みんな、そういう意味での攻略を求めたりしている。サブヒロインルートが欲しいだとか、「きみある(の森羅様シナリオ以外)」で「もう終わり?」といった感想が多いところとか。もちろん状況は刻一刻と変化し、そこにおいても変わってはきているけれど。
えーとメモだから中途半端だけど終わり。
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10月に買うエロゲ。『コミュ』、『幼なじみは大統領』。この二つは確定。買う、そして速攻やる。『コミュ』までになんとか『るい智』を終わらせるのが当面の目標かなぁ……と思いつつ「るい智」があまりに面白すぎて、本気で読み込みたいのでいつ終わるのか自分でも検討がつかない感じです。いやこれ本当にすごいです。久しぶりに本気で取り組みたいと思わせる作品。
あと『ましろ色シンフォニー』も買うかも。というか多分買う。『村正』は欲しかったけどスペック的に動かねえ……。どーも最近スペ要求のハードルがどんどんと上がってきているような気がします。
迷うのが『果てしなく青い以下略』なんですけど、どうしましょうか。無印は、プレイした後トラウマちっくになって以後5年間くらいエロゲから離れたというくらい、ボクにとっては鬼門だったのですが。しかしソレは内容どうこう以前に自分が若すぎた所為で、今の自分なら実は受け入れられるのではないか……みたいな、期待と不安も入り混じりっています。うーんどうかな、ムリかなー。
そんな感じ。
■アイキャッチ・メモ
エロゲにおけるアイキャッチの効果性について少し考えてみた――というか、今度考えるんだけど。まあ下書き・とっかかりということで。ぶっちゃけこのブログ自体が壮大な下書きなんですが(なんの?)
基本的には「1テンポ入れる」ものである。場面転換時の「暗転」と意味合いは変わらない。しかし「プレイヤーの目を覚ます」ような効果もある程度はあるでしょう。何せメタ的な存在ですからね。例えば、いったん舞台の幕が降りれば、ドラマの途中にCMが入れば、その虚構世界から私たち自身がいる”こちらの世界”に、いったん意識が向けられるのも然るべきところ。椅子に座って舞台を見ている、テレビの前に座っている、そんなことを意識させるものでもある。
もちろんそれはモノによるけれど――たとえば「ゲームのタイトル」を画面に出すアイキャッチなんかはどうだろう? その辺の落差がさらに激しくなるのではないだろうか?
とか思うんすよねー。これは良い点もあれば悪い点もあるでしょう。
最近ボクがプレイした中では、たとえば『俺たちに翼はない』なんかは、シャッターが降りるようにタイトルロゴ付きのアイキャッチがどんっと画面を占有することによって、一瞬だけ、ふと意識が、物語世界からゲームプレイという行為へと流れ出る。俺はこいつじゃない、これはゲームだ、というほんの僅かな意識性。回数も、表示される時間も僅かなので、そこにあるのは本当に些細な違和感。けど、本当に些細な違和感程度には、物語世界とゲームプレイとの間に「溝」があって然るべきなのだ。それは『俺つば』の内容ともの凄くあっていました。『スズノネセブン』なんかは結構な頻度で入ってきたけれど、プレイヤーの視座が、主人公たちを「見る」ようなものに近しい――それを想定できる主体がゲームの内外部に存在している(学長―大人たち、とか)なので、その「見る」という感覚には非常にあっていた。逆に『死神の接吻は別離の味』なんかは、しょっちゅうアイキャッチが――しかもタイトルいちいち喋るし――入ってきて、その度に物語世界が頓挫して、それでいて別にメタ的見地も、ここにいない楽しんでいると想定される主体(プレイヤーの座の置ける場所)もなくて、正直これはわずわらしいほどでもあった。
とまあ、メタ的な「溝」を意識させることによって、プレイヤーの立ち位置を明らかにするとか、劇としてのそれを意識させるとか、単純な場面転換・息抜き以外にも色々ありえるんじゃないかなーと。詳しくは今度考えるー。
■ファリックガール、エア批評
http://twitter.g.hatena.ne.jp/hachimasa/20090920/1253398080
「戦闘美少女の精神分析」を読んでない(斎藤環さんの提唱したファリック・ガールに明るくない)ので、あくまでエア批評ですが。だからあくまでメモ書きですがー。てゆうかボクは斎藤環さんの本、7冊くらいは読んだと思うけどファリック・ガールって言葉は一度くらいしか目にしなかった気がする。
普通に考えたら「ファリック・ガールを救済する方法」って、「お前の持ってるファルスは偽物だよ」と云う事(それを明らかにすること)に至るんじゃないだろうか。
ご存知のとおり、人は誰も「本当のファルス」というものを獲得できない。ただし、相手側が「それはファルスだ」と思うようなものならば獲得できる。それはたとえば「子から見た親」のように、(封建社会の)「臣民から見た王」のように。ゆえに「ファリック・マザー」は成立し得る。ファルスを持った母親というのは存在し得る。ファルスというのはもちろん象徴(象徴界)におけるファルスでしかなくて、受け手(相手・受信者)にとっては、その「マザー=親」という機構がそれだけでファルスを(象徴的に)所持する・というか”保証する”条件の一つを満たしている
ファリック・ガールというのは、単純に闘う少女のことではなく、綾波であろうと長門であろうと、あるいは例に挙がってたところでボクが知ってるところだとカレンや曜子ちゃんか……(例に挙がったのでまともに分かるのそんだけしかいないので、間違ってるかもしれないが)彼女たち全てに共通するのは、「トラウマの無さ(見えなさ)」と、その「超然とした」態度、である。その辺がファリック・ガールの必要条件……であるらしい(たぶん)。
しかしそれは、ファルスを持っているとは言えないのではないだろうか。というか単純に、トラウマが無いということが、「去勢されてなさ」を示しているかのようで、超然さが、「父の名に縛られていない」ことを示しているかのように見えるだけなんじゃないだろうか。この象徴的ネットワークに囚われていないかのような超然さは、彼女が私たちと違って去勢されていないからである。みたいな錯覚。
つまり、私たちと同じ様な去勢のしるしを認めることができない彼女は、私たちと違って去勢されていない、かのように見える。だからファルスを持っているかのように見える。
いやゴメン、「エア」でそこまで書くなって内容だけど。あくまでメモだからと言い訳を(戦闘美少女~は今度読む)。
その超然さ・トラウマのなさ=つまり去勢されていないことから、まるで擬製ではない「真のファルス」を持っているかのように見える。しかしそれは、象徴的に保証されていない。その超然さ・非去勢さは、彼女たちを象徴的ネットワークから半ば除外し、まるでホンモノのファルスを持っているかのようですが、しかしよくよく考えてみると、彼女たちが持っているのは「ただの超然・非去勢」であって、決して「ファルス」ではないのです。去勢されていない=ファルスを持っているということではない。喩えるなら仙人のような。秘された魔法使いの弟子のような。権力をポンと引き継いだまだ年端もいかない無垢なるお姫様のような。
我々から半歩離れ、去勢されていないだけ。彼女達すべてに当てはまる印象として「寂しさ」「孤独」という点がある――”それを我々見る者に抱かせてしまうという点が”(しかもそれが特徴であり萌えポイントでもあるのだw)――まさにそのことの証左。ファルスを持っているわけではないことの証左。
彼女達に救済をもたらすとしたら――もうぶっちゃけ、例に挙げた彼女たちの物語がそれを証明してるんすけどね――「君たちはファルスなんて持ってないよ」というところに行き着く。
だから貴女たちは、去勢されてないだけで、孤独ではないのだよ、と。
エロゲにおけるヒロインのトラウマどうこうは、こないだ「主人公がクッションの綴じ目格」(※「クッションの綴じ目」はラカン先生のアレ)と検討付けてみたんですが、いやもちろんもっと詰める必要は大アリなんですけど。「カウンセリング願望」というのはまさにその辺で、だから(そういう意味で)主人公は・プレイヤーは「父」なりうる。
ひとつ疑問に思うのは、エロゲ的文脈における「救い」というのはそこに集約されすぎているのではないかと。
その観点における物語駆動性における要請が、ループとファリックガールの関連性でもあるのかもしれない。ヒロインを救いヒロインを俺のものにする(父となる・所有する)という歪な構造がエロゲの花であり仇。何だかんだいって、みんな、そういう意味での攻略を求めたりしている。サブヒロインルートが欲しいだとか、「きみある(の森羅様シナリオ以外)」で「もう終わり?」といった感想が多いところとか。もちろん状況は刻一刻と変化し、そこにおいても変わってはきているけれど。
えーとメモだから中途半端だけど終わり。
(記事編集) http://nasutoko.blog83.fc2.com/blog-entry-43.html
2009/10/11 | Comment (-) | HOME | ↑ ページ先頭へ |