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『コミュ -黒い竜と優しい王国-』 感想・批評(2万5千字くらい)

   ↑  2009/11/05 (木)  カテゴリー: 未分類
コミュ - 黒い竜と優しい王国 -コミュ - 黒い竜と優しい王国 -
(2009/10/22)
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さて、『コミュ』です。
ネタバレなしで語りますと、殆どは、パッケージ裏とか、オープニングムービー(特に「2」の方)とか、そこから想像できる範疇を大きく越えてということはありません。そこら辺に興味を持たれた方には十分な内容になっているでしょう。それプラス『ゼロ年代の想像力』でも片手に置いとけば、まるで『コミュ』が読みつくせるくらいに、内容は手の平の上から零れません。……一見すると。
そう。だけれども、もちろん、それだけではなく。「それ以上がある」。
ここです。これが素晴らしい。
全てがおとぎ話である。それはボクらが生きる現実においても変わらない。だがしかし、だからこそ、「それでも」、そのおとぎ話にこそ意味がある。むしろ我々は”おとぎ話に生きているのだから”

さて、以下はネタバレ。2万5千文字くらいあって超・超長いですけど、それでもラストシナリオ以外は殆ど語れなかったとはどういうことか。ということで、ラストシナリオまで終わってから読まれることをご推奨いたします。





1.おとぎ話をはじめよう


もしかしたら。いや、もしかしなくても、『ゼロ年代の想像力』を持ってくれば手っ取り早いと思えるかもしれない。確かにそうだろう。ここにあるのはその延長にして実践にして実際。正しさも絶対も消え去った、ポストモダンと呼ばれる時代の価値背景において、掴みうる意味も価値も真実もすべてが砂で出来たイミテーション。そこにおける決断。たしかに『コミュ』は、その線路の延長線上にあり、踏襲している。だがそれでも、『ゼロ年代の想像力』では『コミュ』の全てには届かない。玉座にまで届いても、玉座の裏側を調べれば出てくる隠しダンジョンまでには届かない。ここからの語りの末で、その辺に、辿り着きたいと思う。この感想は、生者が物語化することによって死/死者に意味と価値を見つけるのと同じように、『コミュ』の外側から既に終わった『コミュ』に意味と価値を見つけ出す、そんなおとぎ話。


2.優しい王国


「優しい王国」とは何か。それは、全てを許容しているこの世界の異常なまでの優しさのこと。あるいは非情なまでの無関心のこと。人の世には道徳がある。法律がある。ルールがある、不文律がある、倫理がある、愛情や友情、取引や貸し借り、自分が生きる為の・自分の大事な人が生きていく為の、大小さまざまな規律と決まりごとがある。○○をしてはいけない、○○が正しい・間違っている……そのような法と論理が幾つもある。けれども、実際には、そんなことはおかまいなしだった。
法に反していることも、正しくないことも、間違っていることも、悪も、おかまいなく起こる。どんな理不尽も暴虐も悲劇も起こるし、さらにそれは、何の理由も何の因果も無くても起こる。何一つ間違いを犯したことがなくとも、誰に何の恨みすら買っていなくとも、信号無視すらしたことがなくとも、理不尽や暴虐や悲劇は襲い掛かってきうる。よくニュース番組で耳にする「何の罪も無い」被害者という語句の誤りは、罪の無い人間などいないという点ではなく、起こった理不尽や暴虐や悲劇には意味も理由もないということを分かっていない点である。罪のある者にやってくるのは「罰」で、ならば何の罪も無い者に「罰」がやってくる謂われは無いのですが、しかし理不尽も暴虐も悲劇も別に「罰」で無いのだから――意味も理由も、外側から後付で語られるおとぎ話以上でも以下でもないのだから、罪の在る無しはそこに関わりない。罪に対応するのは罰。確かに、今までの悪事や貸しを清算される形で、理不尽や暴虐や悲劇がやってくるのなら「罰」にもなろう。しかしこの優しい王国では、そんな意味や理由なしに理不尽も暴虐も悲劇もやってくる。そもそも理不尽や暴虐や悲劇自体におとぎ話以上の意味がない。「罰」ではないのだ、そこに意味も理由もない。だから罪の在る無しなど関係なく、誰にでも平等にそれらは起こりうる。そして悪意もまた、理由もなく襲ってくる――それどころか、悪意すらなく悪事が襲ってくることもある。暁人の母親のように。何の因果も咎も罪もなく、そして犯人に、彼女に対する殺意や悪意すらなく、「それでも」、なお。
だからここは何でも起こりうる、「優しい王国」。もちろん、理不尽や悪意や悲劇が因果なく降りかかるように、報いや善意や幸福も訳も分からず降りかかるだろう。何でも・誰でも、理由なしにやってくる(やってきうる)。何もかもが、誰にでも何処にでも何にでも平気で起こるし、何もかもが、誰でもかもが何処もかもが等しく無価値で無意味。
法やルールや道徳から外れたことも平気で起こるし、意味や理由や因果がないことも平気で起こる。
法やルールや道徳の世界から爪弾きにされることも、意味や理由や因果の世界からすれば支離滅裂なことも、平気で起こりうる。法やらルールやら道徳という境界で仕切られた世界から見れば異端で異常なことでも、実際の世界にそんな境界は存在しないのだから、平気で起こるし起こりうる――つまり、世界はそれらを平気で許容している。
それがこの「優しさ」の正体。何もが等しく、誰にも等しく、区別も差異もなく、在るし、起こる。

それは暁人くんが見た・見る「世界」で、他の誰もが「世界」のことをそう見るのか、そしてそれが正しいか間違ってるかは不明でしかない。


3.世界の涯て


自分が知っているものが全てではない。自分が知っている世界が絶対ではない。暁人くんは、コンビニでの事件を「最初に出会った世界の涯て」と語りました。それはつまり、”あのようなものは”、それまでの彼にはありえないくらい起こりえないことで、それまでの彼の世界には存在せず知る由もなかったということ。テレビの向こうでは、ニュースで、ドラマで、毎日のように殺人事件が起こるけれども、自分の身近で、自分の知る範囲で――自分の「世界」で、それが起こるとは到底考えていなかった。とてつもない理不尽が大した理由もなくそして意味すら持たず襲ってくるという事態。そんなことが起こりうるとは考えてもいなかった。故に、それは当時の彼の「世界の涯て」の向こう側からやって来た出来事だった。……そしてもう一つの越境者――”しにがみ”と出会い、彼の世界は変わることになる。「優しい王国」という新世界。――優しい世界だと知った夕暮れ。――柔らかい茜の色と、それよりもずっと濃い赤の色。

涯てなんていうのは、詰まるところ、自分が定めた小さな区切りの終わりを示す境界だ。
―――だから、涯てと出会えば変わらずにはいられない。

人の心の中に、「○○は(世界は)こういうものだろう」という区切りがある。そこで知りえないものは、そこに入りえないものは涯ての外側。普通に生きてる人にとって、殺人やそれに類することは、どっかにあると知りながらも、自分の世界には無い、テレビの向こうの事件事故やフィクションの中にしかない絵空事だから――それすなわち「涯ての外側」だから……それと出会えば(それと出会ってしまった暁人は)変わらずにはいられない。”しにがみ”もまたそう。殺し屋――殺し矢。そんなものもまた、世界の涯ての外側の別世界。そこに出会うと世界は変わる。さらに言えばアバターも。コミュの面子という、今まで知らなかった他人も。奈々世やロンドなど他のコミュの人間も。その力で何かを成そうとする我斎や夜子なども。魔女も。……その他人と仲良くなることも。
そうやって、小さな折衝と大きな衝突を繰り返しながら、世界は変わっていく。絵空事のような事件に出くわす大きな衝突もあれば、「世界」に対する見方や接し方がほんの少し自分とは違う他人と接触することで、自分の世界が小さく変わっていく。自分という、自分の世界という領土は、常々更新され変更され再帰化され強化され揺れて逸れて強まって弱まって――つまり変化していく。

我斎 「王国もまた、おとぎ話にすぎない。皆がそれを夢見ているという幻想の上にしか成り立たない、ガラスの城だ」

作中でも語られているように、世界自体に境界など無い。日常と非日常すら視座の違いでしかなく、常識と非常識すら居る場所と時の違いでしかない。答えとなるものはなく、絶対・真実のそれという世界像などはない。昨日の常識は明日に塗り替えられるかもしれないし、去年の自分の世界は今年の自分の世界と大きく異なっていることなんてありふれた話だ。彼が何回も何十回も語っていたように、世界は多層的で、人間はいつでも複雑系。ひとつの、絶対の、不変の真実も真理もなく、自分という――自分が知りうる――「世界」は常に非確定的なゆるさがあり、その形を幾らでも変えて、決定しきれないものである。自分の中で完結する王国だけでなく、社会という枠組みでも同じこと。この国の常識はあの国とは違うし、この場所の当たり前はあの場所とは違うし、同じ場所でも時が少し変われば大きく異なる。世界は「これ」ときっちり決まったもののない多層的な顔を有し、その全てに対応しようとする人々はどこまでも複雑系だ。
「神は死んだ」というのは、宗教的な意味での「かみさま」が死んだことではない(それだけではない)。全ての根幹であり、基盤であり、確定してくれる存在が死んでなくなったということ。それは共通観念だったり、絶対的な常識だったり、信頼への仮託だったり、社会というものの包括性だったりが担っていたが、しかしそんなものは――ポストモダンと騒がれて久しいように――とっくに実効的な効力を失っている。つまり「死んでいる」。神は死んだということは、確固たるものを定めるもの自体が、善悪を定める基準自体が、正義を規定する論理自体が、道徳の価値を意味付ける視線自体が、……全ての価値と意味を定めるモノ自体が死んだということに他ならない。
故に、世界は何でも起こりうる(神が許さなかったであろうことも、神が認めなかったであろうことも起こりうる)「優しい王国」となり、世界の――全ての境界は、唯一定めることができた神が失われた=境界を定める根拠足りえる存在がいなくなったことにより、確たるものではない、簡単に流され容易に消え去りうるおとぎ話へと変貌した。

全てが許されず、しかし全てが禁止されていない。つまり全てが等価である。その中でも無根拠に――全てが無根拠なのですが――、そのことに抗おうとするならば―――

4.「それでも」


それでも、と―――
それだけが、意味ある言葉。無意味であること、勝ち目のないことを、打ち倒されることを、何もかもを承知して。
それでも、と。
拒絶するならば――

優しい世界。優しすぎて不条理なこの王国で。
それでも、と―――
唱える呪文は1つだけだ。死を。敗北を。破滅を。諦めを。そんな全てを、許さないために。

世界は全てを許容する。法に則ってなくても、ルールや規律を破っていても、理由や因果がないことでも、どんな嫌なことでも許せないことでも、おかまいなしに起こりうる。全てが起こる。世界は全てを受け入れている。……しかし、だからといって、人もそれを受け入れなくてはならないのか? いや決してそうではないだろう。どんなことでも世界に認められている。だが、だからといって、人がそれを認めてやる必要はない――認めないからといって、必ずしも起こらない(防げる)とは限らないが。
「それでも」。
世界は全てを許容する。しかし、それでもなお、それを拒むというのなら。その言葉は、世界に対し牙を剥く呪文。全てが等しく起こりうる世界の、その”等しさ”を否定する意思。


5.暁人くんの理由について


困っている女。出来もしないことで足掻いてる女。どうにもならずに行き詰ってる女。
どれもこれもロクなもんじゃない。


それは見え透いた結末を受け入れられない子供じみた感傷か。
それとも何かをしているという実感で、何もできなかった過去を埋め合わせるための自己満足か。

差し伸べる手―――それもこれも、全ては。
何かをしているという実感で、何も出来なかった過去を埋め合わせるための、合うわけのない帳尻あわせだ。

このことがわざわざモノローグで語られ、しかも傍点で強調されたりしているように、暁人くんは自身の、「女を助ける」という趣味・理由がトラウマに由来するものだと自覚している。自分で「トラウマが自分を”そのように(女を助けるように)”動かす部分もある」と言明している(たとえばラストシナリオのオーナーとの会話時とかで明かされている)。
だがしかし。
自分で語れるトラウマは、いつ如何なる場合でも「もう一段奥」を隠し持っている。自分では語りえぬからトラウマなのだ、むしろ語れるということは、その奥側の本当に触れてはいけないものを隠す煙幕でしかない。
つまり暁人は、「自分はかつて母を助けられなかった――何も出来なかったから、だから。それが拭いきれない悔恨や後悔や怒りだからか、その帳尻合わせか、あるいはそれら全部か、細かいところはともかく、そういった理由で――動機で、どうしたって女を助けたくなってしまう」と自分で語るが、自分で語れるが故に、そこに語り尽くせない部分が隠れている。よく見れば分かる、もはや異常な彼のその指向――続きは、もう少し後でまた記しましょう。


つまり、『コミュ-黒い竜と優しい王国-』について


どうしようもなく女を助けるという、暁人くんがどうしようもなく囚われているもの。
借りは返さなければならない、受けたものは酬いなければならないという、暁人くんがどうしようもなく囚われているもの。
何故暁人はそんなことをするのか? といったら、前述のように、過去の、所謂「トラウマ」によるものだと、”彼自身が語っている”。

それは「世界にとって・あるいは一般的に」正しくもなければ正解でもなければ善でもない。少なくとも、”暁人にとっては”正しかったり正解だったり善だったりするかもしれないし、意味があったり価値があったりするかもしれないけれど、他人にとっては決してそうとは限らない。世界にとっては言わずもがな――優しい王国においては、たとえ何であろうと、意味も価値も等しく、正しさも悪も曖昧な時価としてしか存在しえない。
とりあえずそれらのことを、暁人くんの「趣味」「理屈・理由」と名付けておきましょう。

暁人くんの、その「趣味」「理屈・理由」は、まあ言うまでもないですけどもう異常なものでした。たとえばカゴメシナリオの中盤などは凄い。登場人物の全てに彼の理が否定されている(裏を返せば、作り手側は彼のそれが「異常だ」ということを認識している)。余談ですがそこにおいては、プレイヤーであるボクもそう思ってました。作中の人物殆どがそうであるように、ボクもまた暁人に賛同なんかてんで出来ない。しかし、それでも――そう、「それでも」、暁人はその「趣味・理屈・理由」を貫き通す。くだらない意地を通して周りに迷惑かけるな、実力伴わない願望はワガママでしかない、敵は殲滅すればいいじゃん、それは正義でも善でも何でもないただのアンタの趣味じゃん、――そういった、作中登場人物たちの声と、プレイヤーであるボク(ら)の声に対してまで、暁人は「それでも」と牙を剥く。誰も(我々も)賛同していない。「それでも」と願望に向かったところで、そこには何の正義も正当性もない。けれど、そんな声にさえ「それでも」と返す―――この歪なまでの……いや、もはや歪でしかない、病気のような意思と願望。

何の正義も正当もないと書きましたが、彼はそのことを十分に承知だったでしょう。己の行為を、自分の中では(趣味・理屈・理由的には)「正しい」ことと認識することはあっても、その「自分の中で」という但し書きを越えた所で、己の行為を「正しい」「正義」と称することは一度もありませんでした。それはそうですね。彼の世界――全てが等しく無価値で、全てが「世界の本質は変化」と認識してしまうくらいに移ろい行くこの優しい王国では、正しいや正義などは存在しえない。存在しきれない。今この瞬間自分にとって正しいことも、明日の自分にとってはゴミ以下のものになっているかもしれない――そんなことが当たり前にある。全ては差延し続ける。
だから正義や正当というラベリングを貼って自己肯定(自己正当化)する必要はないし、することもない(しなくても、この優しい王国では全てが等価なのだから……)。趣味と同じ領域である理由でもって領土を広め、それゆえに世界はもとより他人&プレイヤーと対立しうるけれど、「それでも」、そこを貫く。それはもはや病のように異常である。

理由も事情もわからない。ただ、こいつはとっくに決めていた。
四宮夜子は撃つことも、撃たれることも、承知の上で剣を取っている。
そんな女に、かけるべき言葉も、差し伸べる手もあるはずがない。
ない、はずが――
何かに酷く腹を立てている自分がいた。腹に溜まる感情の澱がどこから来るのか、よくわからない。

たとえば彼は、助けを求めている者を助けるのではなくて、助けたい者を助ける。相手が求めているかいないかは、行動に対し何らかの干渉を持つとしても、理由においては二の次である。もちろん、あまりに迷惑なのだとすれば、その趣味のせいで相手の何かが失われかねないとすれば、この夜子の時や接続者になった後の芳森の時のように、自重するけれども――けれども、そこに悔恨も憤りも確かに在る。助けを求めていない相手だろうと”助けたい”。相手から見れば押し付けで余計なお世話だろうし、他人から・世界から見てもそうだろうし――ともすれば、暁人自身がそう思ってるだろうけれど(だからこそ自重できるのだけど)、それでも尚、彼は”そうしたい”と思う。

全てを――自分が救いたいと思う全てを、相手の都合も世界の状況もお構いなしに救おうとする行為(救いたいとすること)、とは、自分の王国に彼女たちを無理矢理にでも包括してしまうということと同じである。言うなれば、彼女達にとって「世界の涯て」の向こう側である暁人(の世界)が侵食してくる――彼女たち自体も包括してしまう――構図。彼の趣味・理屈・理由によるこの行為は、相手側からすれば涯てからの越境でかつ涯ての向こう側に包括されることでもある。夜子が云う「五樹に似ている」部分とはそういった面でもあるでしょう。見えない領土を力と法と皆々の渇望によって支配し、自身の王国を作ろうとしたカエサルと、見えない領土を自身の趣味・理屈・理由でもって蹂躙するが如く包括する暁人。

どうしようもなく女を助けるという、暁人くんがどうしようもなく囚われているもの。
借りは返さなければならない、受けたものは酬いなければならないという、暁人くんがどうしようもなく囚われているもの。
もはや異常なまでに、暁人くんはそれに囚われている。登場人物殆どみんなに一端は否定されるくらいに。プレイヤーにウザがられるくらいに。重ね重ね言うけれど、これは異常である。
何が最も異常かというと、”自分でその事を分かっている”点が最も異常である。

機構(システム)。
借りは返す。このままで済ませるつもりはない。
どうすれば借りを返したことになるのかもわからないが。

カゴメシナリオ終盤のモノローグから。この台詞の異常なところは簡単に見つかります、「どうすれば借りを返せるのかわからない」けれども、「借りは絶対に返す」。方法は分からないけれど(方法は分からないにも関わらず)絶対に返すという意思だけは梃子でも動かないくらい揺るがないのだから、これはもう強迫観念と言ってもいいレベルの凄まじさでしょう。もはやどうしたら為せるのか分からなくても、やりたくてしょうがないし、やるしかない。彼自身が語る、「トラウマ」からのその理由。

だが、しかし。
自分で語れるトラウマは、いつ如何なる場合でも「もう一段奥」を隠し持っている。自分では語りえぬからトラウマなのだ、むしろ語れるということは、その奥側の本当に触れてはいけないものを隠す煙幕でしかない。語り尽くせぬ部分が出てくる――というか、語れるという事実が逆に、別種のものを=理由を生み出している。

理不尽に奪われた過去。その時に――そして”しにがみ”と出会ったことによって、そして報復を果たしたことによって出来上がった新たな世界。彼にとっての世界、彼における世界の認識。ここは何でも起こりうる、全てが無価値で無意味な世界、だがしかし、それでも、それゆえに、為し遂げたいことがある。復讐、報復、清算、言葉は何でもいい。借りたものは返さなくてはならないし、受けた借りは還さなくてはならない。理不尽には、暴虐には、悲劇には、それに見合った分の理不尽を、暴虐を、悲劇を。それは世界が認めていることではないが(禁止していることでもないが)、「それでも」、そうしたい。それが唯一価値の在る呪文。身体は生きていても心が死んでいるその時の暁人くんにとって、唯一見えた、この先も生きていく――蘇る方法だった。

「神は死んだ」らどうなるか。ドストエフスキー『ボボーク』を例にとり、バフチンは「神(と霊魂)が死ねば一切は許される」と説いた。が、それに対しジジェクは逆に「一切は許されない」と説いた。どちらが正確であるかといえば、より正確なのは後者であろう。神というのは(西洋的史観からは)全てを決めうるもの・絶対の法則とそれを決めうるものの隠喩であるが、それが死んだ=いないということは、「何も決められることがなくなる」ということである。
神は<父>と同じく支配することが出来る、禁止することが出来る審級だ。それがいなくなるということは、つまり「禁止がなくなる」ということである。一切は禁止されていない。神が死ねば、一切は禁止されなくなる。
だがしかし、それは許されることを意味しない。あまねく全てを決めることができる神がいなくなったら、「許すことができるものすらいなくなる」からだ。すなわち一切は許されなくなる。
だからここにおいて言う事が出来るのはただ一つ、「一切は禁止されていないが、許されてもいない」。――しかも、この言葉の最も恐ろしいところは、その一歩奥にある。神は死んでしまったのだから、本当に許してくれる存在はいなくなってしまったのだから、「一切は(おそらく)永遠に許されることがない」という点。また永遠に禁止されることもない。

それはこの「優しい王国」と同じ摂理。
神なきこの世、ポストモダンとか呼んでも別にまあ構わないだろう、そこにおいては等しく全てが無意味で等価値だ。「私は」○○に価値があると思う、などと述べることはできる。あるいは道徳上は○○に価値があるとか、経済的には○○に価値があるとか、この町においては意味があるとか、俺らにとっては意味があるとか、とか、そういうレベルまでなら幾らでも言うことができる、が、それ以上を述べることは出来ない。誰にも・何処でも・常に・絶対での、価値や意味というのは失効している。「神」という価値や意味を定めるシステムが死んでしまっているのだから。もっと現実的なレベルでは、社会、そこに対する信頼、共通観念、大きな物語、そういったレベルが後退・消失してしまっている(正しくは、それらが(それらの存在・システムが)丸見えなので、見えた上での態度を取らざるを得ないので、審級としての効力をまっとうには持ちえなくなる)。この現実もまた、優しい王国と同じく――優しい王国もまた、現実と同じく、「絶対」と呼べる確かなものが消失している。……そもそもの、上に「私は」「道徳上」「経済的」「この町」「俺ら」などと例を挙げましたが、そもそものそういう区切りすら、世界そのものが、その涯て=境界が、幻想で出来上がっているガラスの城でしかないのだから、更に、です。なんとかして付けようとするその区切りすら、恣意的な・便宜的な・あくまでそうだと思ってる・信じてる幻想に過ぎないものなのだから(そこの区切りを決める神もやっぱり死んでるんだから)、より価値も意味も霧散するか差延し続ける。

もはや正当性など二の次、正義かどうかなんて思慮の外だ――というのは、暁人くん自身も分かっている。女を助けたい、借りは返されなくてはならない、その強迫観念のような願望に、何の正義も正当もない。しかも、その願望は、あからさまに物事を上手く運ばせるものではなかったから、周りの人間殆ど全てに賛同されず、さらにプレイヤーにすら賛同されなかったりした。しかし、「それでも」、暁人はそうする。
なぜか?
単純にトラウマだから、自分がどう思っていても絶対にそうしちゃうように出来ているから? いや、そんなことはない。トラウマだからといって絶対にそうなるとは限らない。事実、先にも記したように、夜子や接続者になった後の芳森に対しては自重している。トラウマだけでは、”そうしたい”まではそれで説明がつくが、暁人が自身のトラウマから来るその症候を自覚している上で、さらに周りから反対されているにも関わらず、”それでもそうする”ことの説明にはならない

そのカゴメシナリオ中盤での、暁人くんが自身の「趣味・理由・理屈」に走りすぎて、誰からも賛同を得られなかったところ。彼はそこをどのように解決したかというと、意地でも根性でも謎の力でもなく、道徳や倫理や正義でもなく、心が通じ合うなんていうおとぎ話でもなく。普通に「他人は他人の都合で動く」という点と、「貸しと借り」という点、つまり折り合いと折衝です。紅緒は自身の意思で、その「正義」への渇望から。真雪は孤独と孤立への反発、口がさなく言えば彼女の人のよさに付け込んで。伊沢は、彼自身が「借りだ」というように、貸しと借り。そこまで来れば、お春さんは言わずもがな。
暁人の世界という暁人の王国と、他人の――○○の世界という、他人である○○の王国とは、中身がまるで異なる。人と人とは違う、別物で別人で、それのみならず、見ているものも生きている場所も異なる。世界が違う。他人の世界の論理を、自分の世界に強要されたら、どうだろうか――普通は反発するでしょう。しかしそれでも、自分の世界の論理で、他人の世界を動かしたいと思ったならば、そこは折衝して歩み寄っていくしかない。人と人とは、その世界とは、貸しと借りで成り立っていく。
たとえば。
母親を殺されるという自分が受けた「借り」が暁人を苛み、その借りを返すことで前に進め、しかしそうすることでまた、彼自身が「借り」を負ってしまったように。
過去は消せない、いつまでもついてくる、といったモノローグが度々挿入されていましたが、それはそういったことでしょう。
何かをされる度に「借り」が積み重ねられ、何かをする度に/しない度に「貸し」が積み重ねられる。そう、何かをしないということは非積極的な行動であって、それも一つの貸しなのです。真雪や紅緒を動かした論理には、それも少しあるでしょう。

過去は消しえない。過去の借りは埋積し続ける。
トラウマだけでは説明しきれない彼の理由は”そこ”にあるでしょう。
世界はいつでも多層的で、俺たちはいつでも複雑系だ。
この語句は――これと殆ど同じ様な語句は――何十回と語られます。境界無き=幻の境界しかない世界は常に多層的で、そこに生きる人間はいつでも、一つの絶対が支配してくれない複雑系に在る存在だ。なのだけれど。暁人のその「趣味・理由・理屈」は、まるで複雑系じゃあない。いつでもその趣味を通すじゃないか、まるで複雑の対義語の単純かのよう、というのが一つ。もう一つ、世界が多層的=本当の境界なく幻の境界を措定して咀嚼しているそれは、脳の見せる幻想と同じく不確定だからこそ多層的であり、人間一人一人、あらゆる単位の社会一つ一つ、場所一つ一つ、時間一瞬一瞬が、それぞれ全て同定されない=同じものではない、同じ世界ではないから「多層的」であって、それでもなお、その幾つもの世界の論理に適応するからこそ人は複雑系であるはずなのに、暁人の”それ”はまるで真逆である。どの世界であろうとどの論理であろうと、”それ”を貫き通している――貫き通したがっている。「それでも」と口にする。

なぜか――借りがあるから。

暁人の論理だと、そこは覆せない。他人から受けた借りは(たとえ受けたのが自分でなくても)返されなければ我慢ならないのだから、自分が与えてしまった貸しも、返さなければ我慢できないようでなくてはおかしい。そして、実際の行動も、そう。女を助けることを、かつて助けられなかったことの「帳尻あわせ」と喩えていましたが、まさにそのことでしょう。暁人には貸しがある。
最初の、母が死んだ時の、自身の「心が死んだ」という死の重力、そこから彼はどうやって脱したかというと、「殺した者を殺した=借りを返した」ことにより脱しました。これが、彼が生きれた理由。 生きるためには殺すしかなかった。そうしなければ死んでいた。身体ではなく心が、骸になって死に絶えた。 それをしたから、死んだ心が蘇ることが出来た、と彼自身が語っている。
ならば。だからこそ。その論理は否定できない。借りを返すという論理は否定できない。
その方法で死から脱した以上、その方法を(過去にやったそれを)否定することはできない。それを否定してしまったら、また――今度はその時の分も合わせて完璧に、死んでしまう。
だから彼は、これを続けるしかない。
ここにはどうしようもない二律背反があります。彼は、借りを返すという論理に従って殺人者を殺したのに、それにより、彼自身が間接的な殺人者となってしまった。つまり「借り」を、今度は彼が作ってしまった。かつて助けられなかった女というのは、母親だけではなく、その自殺した彼女も含まれているのかも(彼女のことなのかも)しれない。
借りを返したら貸しを作っていた。そんなことは幾らでもあるでしょう……実際、作中で、幾らでもあった。ミスJhを打倒したらかごめがナイフで(紅緒を)ブッ刺してきた。ジャック・ザ・リッパーを倒したらその親族から迂遠な復讐をされた。「借り」を返せば、そこで何か余剰が生まれてしまう。たとえばもしかしたら、本人間ではそれでイーブンになっているかもしれないけれど。しかし、人はそれでも繋がってしまっている。”相手”にはプラスマイナスゼロになる分だけの借りを返したとしても、相手に繋がった”誰か”にとっては、それは返された借りではなく、理不尽や暴虐や悲劇の類だったりする。人は「無駄に」と形容したくなるくらい繋がっている。だから、もし本当に誰かを助けるのなら、作中でも語られたように、「全てを助ける」しかなくなる。……ならば、なのだから、本当に借りを返す方法なんて、「借りだけを返して余剰を生まない方法」なんて、どこかにあるのだろうか。

この優しい王国で生きる為の方法はある。そして、それで実際に生きてきた。しかも、そうやって生きてきた以上、その生き方を今更否定することはできない。しかし、それは新たな借りを生み出すという、どうしようもなく矛盾している行為でもある。
たとえば、彼が何度か口にした「刃のようになりたかった」というのは、そういうところに掛かるでしょう。刃のような、尖った存在。迷いなく狂いなく、世界を切り裂くことができる機能的な存在。そう在れれば、後悔も困惑も矛盾もない。ただそうあるからそうあり続けられれば、どれほど楽なものか。

強い自分になりたかった。
折れず曲がらず揺らがない、
鋭く尖った刃のような。


日常と非日常という区分けそのものが、視座の違いの生むおとぎ話でしかない。
そんなことは誰よりも知っている。
それなのに。
そんなものが、心を絡めとる。いつの間にか他愛のない、おとぎ話に寄りかかっている。
ここは優しい王国だ。全てが失われると最初から決まっていると。何度も確かめてきた。納得してきた。理解してきた。
それなのに、失われる度に傷つく自分がいる。
せめて。
揺るがぬ自分でいられればいいのに。
鋭く尖った刃物のような。

「刃のようになりたかった」
――たとえば、四宮夜子は自らを刃と化そうとしていた。自身は我斎にとっての剣であり、カエサルにとっての騎士である。自身の存在はその機能であり、その機能こそが自身の存在である。”そうあろうとしていた”。生まれつきそうなのでは当然なく、そして一つの残余なくそう在り切れていなかったことは、テキストから推測できたでしょう。 剣になろうとしたのか、剣であることに逃げ込んだのか。 など。――たとえば、夜子の暁人に対する口癖が「うるさい。あっちいけ」なことは、その辺から読み解くことができる。お前の言は私を惑わす(かもしれない)、お前の行動は私を惑わす(かもしれない)、私は剣として騎士として、ただそれだけの存在としていたいだけなのだから、会話も、接触も、私には不要だ。”そんなことをしたら、万が一、その在り方に惑ってしまうかもしれないじゃないか”――だからこその、「うるさい。あっちいけ」。
――たとえばロンド・ロンドも、またそう。復讐を果たす、そのただ一つの目的の為に、ありとあらゆるものを捨て去ってまで、消し去ってまで、道にあるものを何もかも顧みずにそうあろうとしていた――たとえば刃のような在りかた。彼女の口癖が「私はロンド・ロンドよ」であるところも、その辺から読み解けるでしょう。これは勿論自己紹介ではない。ロンド・ロンドというものの在り方――ロンド・ロンドはこう在るべきだというのが彼女の中で決まっていて、そして「自分はそう在りたい(自分が思うロンド・ロンドで在りたい)」と思っているからこそ、そしてそれを実践しているからこそ、わざわざ、端から見れば意味分からない阿呆のような宣言をする――したくなる、しないわけにはいかなくなる。私はこうなのだ、「ロンド・ロンドであるのだ」、と、他者と自身に”言い聞かせている”。

小さい頃から傍若無人、折れず曲がらず朽ちることなく、ただ一本の刃のようにしか生きられない。
そいつは、今も昔も、とても綺麗だった。
強い自分になりたかった。何にも負けないくらい。
カゴメのような――

「刃のようになりたかった」。折れず曲がらず朽ちることがない。その鋭利さは、当たり前のように自分の世界も他人の世界も切り裂いていく。そこに咎も理由も必要ない――なにせ刃なのだから、刃が切り裂くということに、罪も道理も必要なわけがない。ただ、その「在り方」による機能。そんな風に、ひとつの迷い無く生きられる強い存在に、なりたかった。
なりたかった、ということは、今はそうなれていないということと、今はそうなりたいような状態・状況であるということを意味します。つまりは、彼の抱える背反・矛盾を、知ってか知らずか自覚していた。単一機能に生きられれば、ただ「借りを返す存在」としてあり続けられれば、そのことによって新たに生じる借りなどは、気にもせずにいられるのに。

だから、もはや周りから賛同されなくても、プレイヤーから賛同されなくても、まるで病気のような執着だろうとも、それを貫くこと以外に暁人くんの道はなかった。借りは返されなければならないということ。”それ”を否定したら自分が蘇ったことも否定することになる=死ぬ。女を助けなければならないということ。”それ”を貫かなければ借りがいつまで経っても返せない=前者の論理に照らし合わせれば、その不履行は暁人にとって死に至る矛盾を生み出す。


「決断」というのは何も適当に生み出されるワケではありません。世界は多層的で、俺たちはいつでも複雑系だ。自身の否定できえぬ過去が、その積み重ねが、そうせざるを得ない「決断」を生み出している。信じる寄る辺など二の次、承認も二の次――こういったところでも、最初に記した『ゼロ年代の想像力』との違い、ゼロ想では届かないところが見えてくる。「決断」に至る道程は、自身の信じるものでも、他者からの承認でも、説明しきれない。「優しい王国」の原理上、あらゆる承認は真の承認足り得ない。代理としても心許ないくらいに、柔いものでしかない。全てのものが、発泡スチロールのシヴァ神であり、同時に真のシヴァ神でもある(つまり全てのものがイミテーションと本当を共有し瞬時にそれを交錯しあうものである(神がいない以上、”認められることもない”けれど、”認められないこともない”のだから)。発砲スチロールのシヴァ神と、真のシヴァ神があるのではない。全てのものに、発泡スチロールのシヴァ神性と真のシヴァ神性が内包されていて、ある視座からは真実でありながらも別のある視座からは偽物であるように、それらが共存し瞬時に交錯しているのです)。
だからこそ、不確定で不実な世界での決断は、承認や自身の信じるものだけでは語れない。それらですらイミテーション性を持ち、そして何より、”皆そんなことは分かっているのだから”。そうである以上、そこにおける態度は二段階に屈折する。分かっていて”あえて”そうするということの奥には、では”何故あえてなのか”というもう一つ裏側の理由が存在するように。もちろん暁人くんも分かりきっている――だから「優しい王国」などと口に出来る。
そこにおける決断の一要素は、過去からの積み重ねである。この暁人くんのように、Aという決断をしなくては過去の己を「決定的に」否定することになってしまうから、だから、Aという決断をせざるを得ない――なんていう理路は幾らでもある。そこで選択を間違えたら自分が過去から殺されてしまう。

暁人 「こいつは、カゴメは――俺が守る。
カゴメが支払うべき借りがあるなら、俺が片付ける」

そこにおいて暁人くんが下した決断が、これだ。もはやこのまま進んでもより詰まっていくし、しかし戻ったら死んでしまう。その状況で下した決断が、さらなる速度で進むこと。他人の貸しまでも自分が負って、全てを包括してしまおうとする決断。

自身の「趣味・理由・理屈」という重力にどうしようもなく囚われてきた男が、さながらスティングのように斥力場でもって自身の借りを反発してきた女の借りを、さながらバビロンのように重力でもって、それごと捕らえようとする。

人と人との繋がりなどは、突き詰めればおとぎ話でしかない。他人の借りを自分が代わりに負うなんて、突き詰めれば不可能だ。否、そもそも「借り」という概念だって、おとぎ話と同じく幻想上の観念でしかありえない。だが、それでも、そういったおとぎ話が、生きる糧になっている。

優しい王国には、救いもなければ、希望もない。だから誰もがおとぎ話を必要とする。世界の涯てを目指す勇者や、悪い魔王の物語。時には勇気を、知恵を、あるいは慰めを。

日常――
それはおとぎ話だ。優しい王国は理不尽で、不条理で、曖昧で、平等だ。平穏は確率的な宝物でしかない。
けれど。そんな儚いおとぎ話が、心のどこかは支えている。


暁人 「アヤヤは神様とか、信じてるのか?」
アヤヤ 「会ったことないので分かりませんけど、居るんじゃないかなーと思ってます。だって、世の中にはイイことだってありますから!」
アヤヤ 「ちょっぴりイイコトがあれば、また明日もイイコトがあるかもしれないって信じられるから、また明日もがんばろうって思えるのかなーっと……」


人はおとぎ話を必要とする。誰だって、何かを支えとする。色々な形のものを。

おとぎ話というのは、それはもう言葉通り、架空のモノと言って差し支えないでしょう。より正確に述べるなら、その人が勝手に思っているだけのものと云うべきでしょうか。世界に境界はなく、善悪も価値も意味もなく、全てのものは時間と場所と視座で幾らでも移り変わっていく。その中で、「何かを信じる」というのは、おとぎ話に他ならない。何かを「正義」と信じることは出来るけど、何かが本当に――あらゆる場所で・時間で・視座で――「正義」であることなんて、まずありえないくらい。同様に、幾らでも、「正義」の代わりに何かを当て嵌めれば、どんなものにもそう言う事が出来る。全ては未確定で同定され得ない、自分がYESと言っても、他人が、過去の・未来の人が、過去の・未来の自分が、それにYESというかは定かではない。
―――極端な話、すべては。
自分ひとりが信じている、あるいはたまたま皆が信じている、おとぎ話に過ぎない。
けれど、だからといって無駄なワケではない。意味が無いワケでもない。それを信じているから、明日へと歩んでいくことが出来る。生きていくことが出来る。

所詮はおとぎ話、本当の真実ではない。
だけど。
優しい王国の摂理上、実は「おとぎ話」でないことなんて、一つもない

作中で語られていたように、国の境界なんてものもそう、貨幣もそう、法律も道徳もそう。あらゆる境界は、そうあると便利であるから便宜的に付けられ、そしてみんながそうだと信じている(最低でも、信じているフリをしている)からこそ維持できている幻の境界でしかない。そうであると便利であり、そうであると流れがスムーズで、そうであると皆が助かる。だからそういう制度・ルール・不文律があり、それを皆が信じているフリをして利用している以上でも以下でもない。マルクスの商品の物神化とまったく同じ。本当にそうであるのか、真実の価値や意味がそうであるのかなど関係ない。ただ「そうである」というおとぎ話を”みなで信じて(信じるフリをして)支えてる”のが、「現実」なのです。(余談だけど、繰莉ちゃん先輩の「天才とは、1パーセントのひらめきと99パーセントのネコちゃんである!」という真理を論理的に読みますと、そのネコとは「猫をかぶる」におけるにゃんこちゃんではないかと推測されます。所詮天才などというのは幻想で、その内実は何を持ってしても満たされません=証明し切れません。故に、それを作るひらめきさえあれば、猫を被る如き擬装で隠蔽し、凡才・秀才の涯ての向こうの天才などという幻想を構築することが可能であるということです。天才の内実など無いのだから、幻想さえあればそこに手が届きましょう。)
たとえばここも『ゼロ年代の想像力』で届かないところです。あの本では「日常」「現実」などというワードを虚構と対置するように使っているし、日常に帰れや現実を見ろ的なことを多少なりとも言っていますが、しかし根本的なところを忘れている。そもそも現実とか日常って何なのか? という疑問。
現実や日常、それすらも確固としたものではない。明日には仕事失うかもしれないし、明日には病気や事故にあうかもしれないし、明日には友人関係が崩壊しているかもしれないし、明日にはすべてが変わっているかもしれない。目に見えるもの、目の前、自分が生きているフィールド(実際の場所のフィールド・心のフィールド共に)をおいて「現実」と言えるのだろうか? かつてはそれで言えたのかもしれない。けれど、すべてが何の意味も理由もなくてもあっけなく変わり、どんな理不尽も不条理も突然に襲い掛かってきうる、ありとあらゆるものが曖昧で不確定でしかない(確定できる存在は死んでいる)この「優しい王国」において、それで事足りるのだろうか? 目に見えるもの、目の前、自分が生きてるフィールドは、今日この瞬間はこのカタチであるけれど、それは今日この瞬間”たまたま”そういう境界=涯てが示されているだけであって、明日には簡単に崩れ去ってしまうかもしれない。
あらゆる安定と停滞がないこの優しい王国では、地に足つけて歩いていきたくても、そもそも足をつける大地が、不確定でうねっている。今日の続きの明日、明日の続きの明後日が、今と同じ境界を有しているとは限らない――限らなすぎる。それなのに、目に見えるもの、目の前、自分の生きているフィールドを「現実」「日常」と言うのは、それはそれで一つの「おとぎ話」ではないだろうか?

この問題意識は、同じく2009年に発売された『俺たちに翼はない』とも同じである。そういったものが最近になって相次ぐのは、そういったものを延々と無視し続けてきた――「現実に帰れ」などと謳いながら、「現実とは何か」を無視し続けてきたからでしょう(もちろん、所謂ポストモダンとも関わるけれど)。
「現実に帰れ」と云うが、そもそも現実って何なのだ? たとえば二十年前なら、せめてエヴァンゲリオンの頃なら、まだ「大文字の現実」ともいえるものを思い浮かべられただろう。就職して、結婚して、子供育てて、家を建てて――など。大きな物語とでも言われるような、ロールモデルとしての現実、大文字の現実だ。しかし今や、そんなものはない。現実と言われて何を思い浮かべる? 何が現実なのか? そういうモデルはあるのか? 結婚して家建ててなんて「現実」というほど身近にあるものじゃない、かなりお高いものではないか。かといって馬車馬のように社畜とか呼ばれるほどに働く、それだって卑下しすぎだ。じゃあ果たして、「現実」とは何だ? 現実に帰れ、現実を生きろと云われても、何すればいいの? それって何なの?
現実などというものは本当に確固で動かしがたいものではなく――そもそも大文字で「現実」と書けるようなものはなく、かといって「幾らでも自由に変えられる」ワケではないけれど、「翼がないこともない」程度に翼はある=羽ばたくことはできる。俺つばにおいては、ラストに鷹志が、心的現実にて過去を再構成することで、新たな生を歩めるようになった(=いわば、「回せ回せ、チャンネル回せ」「世界なんて、おまえらみんなたちの心の中にあるチャンネルをひねれば、いくらでも変わってしまうものなんだぜ」の実践ともいえる)。そもそも「現実」自体が――少なくとも人間の知れるそれは、「本当」ではない。ありとあらゆる出来事は、記憶と印象で、幾らでも歪曲され、目に見えるものも、認識と感情で、幾らでも歪曲される。もしもイデア的な意味での「現実」があるとしても、”誰一人”そこには届かない。だから――少なくとも――人が生きる現実というのは、そんなものではない。心の中に在るチャンネルと、大差ないくらい曖昧なものである。そこをぶっちぎって「飛ぶこと」は出来ないけれど、せめてメルヘンを唄うように、「羽ばたくこと」なら出来る筈だ。

現実も、日常も、「真の・本当の」それなんかは無い――もしあっても届かない。目の前にあるのが現実だ、生きているここが現実だ、といっても、それすら・その考え方自体が、曖昧に胡乱に消え去るおとぎ話と変わりない(等価だ)。

カゴメ 「暁人。世界というのは所詮、脳の見る幻想だ」
カゴメ 「人間という装置は世界を直視できない。五感の情報を脳で処理した、その物語を信じることが出来るだけだ」


所詮はおとぎ話、本当の真実ではない。
だけど。
それが力をくれる。勇気をくれる。”そのこと自体は”幻ではない。
現実そのものがおとぎ話と変わらないように。すべてのものがこの優しい王国の中では無意味で等価なのだから、どんな真実もおとぎ話もまた無意味で等価だ。
ただし自分にとってはそうではない。おとぎ話はおとぎ話で……そこに届かないことは変わりない、いくら空に手を伸ばしても届かないことには変わりない、「それでも」、その存在は生きていく力になる。

この優しい世界で、たったひとつ意味のある、本当の魔法。
つまらない意地とやせ我慢で出来た魔法。敗れても、打ちひしがれても、倒れても、失っても。
それでも、と。
ハッピーエンドを目指して、おとぎ話をはじめよう。

このまま進んでも、先に向かっても、何にもならないかもしれないし、何の意味もないかもしれない。幸せにも届かなければ願いも叶わないかもしれない。ハッピーエンドなんて、おとぎ話でしかない幻想かもしれない。それでも、生きている以上、生きていくしかないんだから、「おとぎ話のハッピーエンド」でも、そこに向かって、それを希望に歩んでいく……そんなおとぎ話が、この現実を生きていく力になる。ハッピーエンドに届くことは、永遠にないかもしれないけれど。

それでも。

人と人とは分かち難く繋がれている。自分のやることは何処かの誰かに繋がってしまう。どこかの誰かがやることはここに居る自分に繋がってしまう。だから、どんなおとぎ話でも、そこに繋がるかもしれない。たとえば”しにがみ”と出会って知った、優しい王国であるという「おとぎ話」が、暁人をまず支えたように。

芳森 「色々あるけど……いいこと少ないけど、でも、まだ諦めるには早いなって思うよ」
芳森 「だって、生きてれば、いい風が吹くことだってあるから」
芳森 「世の中悪いことばかりで、どうしようもなくて、どうにもならなくて、逃げようもなくて、ほんと、ロクでもないけど、それでもさ……」
芳森 「たまに、気は利かないけど頭の悪い馬鹿とかが居て……それで、困ってるヤツのこととか、ほんのちょっとだけでも助けてたりすると……」
芳森 「自分も、もうちょっと頑張ってもいいかなって……、そんな気、するから」

たとえば、芳森。暁人の、また紅緒やアヤヤなどの、彼女を助けた人たちのその行動が、芳森にとって、ここから先を生きていくための力となっている。そんな、些細なくらいの、おとぎ話が。
自分一人の世界というのは、そこで完結する。しかし、人と人とはもう無駄なくらいに繋がっていて、ちょっと手を伸ばせばすぐに自分の世界の涯ての向こう側=他人の世界に触れれるかもしれない。それは良いことばかりとは限らないけれど、その涯ての向こう側のおとぎ話が、自分を助けてくれるかもしれない。

世界や現実というのは絶対ではない。今見ている、世界や現実というのも、おとぎ話と同じ程度の理由付けしか存在しない。貨幣や法律や道徳と同じ。そうと決まっている・そうと信じているからこそ効力を持つものであり、どんな場所でも・どんな時代でも「絶対にそう」というものではない。その移ろい往く境界線は、もはやおとぎ話と同じ境位である。だから――ならば、自分が今生きている、今目の前にある「現実」も、おとぎ話と同じである。明日になれば全てが変わっているかもしれない。見方を変えるだけで全てが変わるかもしれない。世の中悪いことばかりだと思っていても、ちょっとイイコトがあれば、それを信じて生きていける=さっきまでとは違った世界になるかもしれない。ワケの分からない不幸が襲ってきた時に、世界の全てに意味も理由も無いのだと知れば、その不幸で死にかけた心もまた別の一歩を踏み出せるかもしれない=その世界で死んでいても、別の世界なら生きていける。世の全てはおとぎ話と同じ。ならば、いくらでも変えることも変わることもできる。自分の世界には限界はあっても、外には数え切れないくらい多くの世界が広がっているのだから、そこには何かがあるかもしれないし、そこに触れれば、変わっていけるかもしれない。
外には、さらに外がある。その外にも外がある。
世界の涯ての向こう側には、さらなる世界の涯てがあって、その向こう側にもまた、さらなる世界の涯てがある……それが延々と続いていく。他人という単位、社会という単位、ありとあらゆる単位の涯ての向こうに、さらなる別世界がある、それが延々と続く。

生きるということ、それ自体が既におとぎ話である。
「死に意味なんてない」という言葉と同じ様に、「生きることにも意味なんてない」。そもそもこの王国に、意味なんてどこにもない。”本当の”意味なんてない。あるとしたら、死者の意味を生者が物語化することによって生み出すように、主観で作り上げる「おとぎ話」でしかない。優しい王国では、すべてに意味がなく、すべてが等価だ。見い出す意味も探し出す理由も、すべては後付で作られた「おとぎ話」に相違ない。
現実なんてものはおとぎ話で、生きるということもまたおとぎ話である。
だから、それを目指して、おとぎ話のようなハッピーエンドや目標を目指して、届かない空に手を伸ばして、「それでも」と叫ぶこと、それだけが意味のある呪文。自分自身を定める、自分自身にしか意味のない、ちっぽけな一歩の歩み。その行為は分かち難く繋がれた人々の関係に則り、何処かの誰かに繋がっていく。世界の涯ての向こうには世界の涯てがあり、自分はどこまででも涯てを目指し続けられる。そこに意味も理由も、究極的には無い。けれども、「それでも」と唱え、おとぎ話を続けていく限りは、人は生きていくことができる。

それでも、と――。
そうやって、行くのだ。
今日のために。
いつか来る明日のために。
その向こうにある、何かのために。
私たちの、小さなおとぎ話を信じながら。
ここは優しい王国で。
奇跡はなく、魔法はなく。
誰もが独りだ。
それでも、伸ばした手は、きっとどこかに届くから。
だから、私は今夜も呪文をとなえる。
「さあ、おとぎ話をはじめよう」


蛇足


そしてもう一つのポイント、たった一つの詐術、僅かにあるメタ的な態度が、それを迂回させることによって、まるで本当の真実であるおとぎ話に仕立て上げている。たとえばラストシナリオ終盤、学校に行ったときに、何故かいきなり挿入される説明バージョンSD真雪の像と、変な妄想去れとそれを認識できている主人公とか。密シナリオ終盤、暁人が撃たれた直後に、何故かコミュメンバーみんなが暗闇に出てきて語ってくるという、おとぎ話の境位に閉じ込めるような胡散臭さとか。あるいはアヤヤシナリオで、茶番な四天王と茶番なギャルゲーメソッド恋愛攻略を実践するというその態度(それでいて恋愛の成立自体はそのメソッド関係無しなのだ)。分かってて、かつ「やる」という、これらの態度が、おとぎ話を真性の生き方に変えている。
たとえるなら、アヤヤシナリオにおいて、「暁人は「女の子を『か弱い存在』に押し込めたがってる」」という分析を彼女たちはしながらも、それ自体を作戦にしてしまうという豪快な外しです。正中を掴んでいながらも敢えて迂回させるというこの詐術。
全てが正しいかどうか分からない、全ては発泡スチロールのシヴァ神でもあるということは、裏を返せば、”「全ては正しいかどうか分からない」というその主張すらも正しいかどうか分からない/その主張すらも発泡スチロールのシヴァ神である(かもしれない)”ということです。あらゆるものが間違っていなくとも正しくはない優しい王国においては、そうであるが故に、直截な、真っ直ぐなそれは誰にも受け入れられない。少なくとも登場人物である彼らには、もしかするとプレイヤーにも。しかしだからこそ、ここで迂遠な回避がある。敢えて分かってやってるよということで、おとぎ話と非=おとぎ話の境界もまた曖昧なまま保持し続けている。このメタ的な態度を含むことによる不確定性を残す迂回した態度。
つまり、本当に手が届かないと分かりきったおとぎ話なんてものは、誰も手を伸ばさないのです。慰めにはなるし、ちょっとは後押ししてくれるし、暇潰しにはなるだろうけど。本当に手が届かない場所にあるものは、誰も憧れないし、目指さない。だから――手が届くようでいながら、それでいて「おとぎ話」であるものこそ、そこに手を伸ばし生きていけるようなおとぎ話である。だから――このような回避が意味を持つ。たとえば『アクセプター』の物語なんかもそれに近いところがありますね、迂回の仕方が。あるいはカゴメシナリオ終盤の、みんなでイズァローンで楽しく飲んだところの(一枚絵)CGが、敢えてデフォルメSDキャラ絵だったこと。
01a_01.jpg
それなんかも、そういう点で意味を持つでしょう。みんなが仲良くするなんておとぎ話だからデフォルメ絵だ、という意味ではなく、みんなが仲良くするなんてまるでおとぎ話のようで耐えられないから、せめて絵だけはおとぎ話にしてバランスを取っている、そういった意味。

本当に手が届かないと分かりきったおとぎ話なんてものは、誰も手を伸ばさない。だから、手を伸ばせば届くかもと思える程度のおとぎ話に、手を伸ばす。それが生きていく糧になる。たとえば、ハッピーエンドを望むこととか。そんなもの、この世界にはないかもしれないけど、でも、あるかもと信じられる程度には、ありそうなおとぎ話だ。だから、それを目指すという糧をもってして、生きていける。この先も、おとぎ話を続けていける。

(記事編集) http://nasutoko.blog83.fc2.com/blog-entry-48.html

2009/11/05 | Comment (-) | HOME | ↑ ページ先頭へ |
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