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2009/11/13 (金) カテゴリー: 未分類
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いまさらながら積んでたのを崩しました。ところどころ面白かったんだけど、それゆえに「惜しさ」が目立ちますね。勿体ない、もうちょい練ってれば、という。
ある意味では典型的なギャルゲー・エロゲーです。エンディング曲の歌詞に「今あなたの腕につつまれて 私生まれ変わる」という一節がありますが、まさにそのような内容。3つのシナリオ・3人のヒロインそれぞれが、大なり小なり「主人公のおかげで」、それまでとは違う自分に生まれ変わる。「主人公のおかげ」というのは、直裁に彼の行動がヒロインのトラウマや問題克服において大きな助力になったりとか、あなたがいるから頑張れる的な支えだったりとか、いろいろですが。主人公が(エンド時の・最終的な)ヒロインにとってある種欠かせないものとなっている(実存在に限らず、心的な支えとかの意味でも)。あなたの腕に包まれて私は生まれ変わったのだから、その生まれ変わった私の中で、”あなた”の存在は、覆せない根底を成すほど大きいものであるということです。
では、ひるがえって、”生まれ変われなかったら”、どうか?―――つまりヒロインが壮太くんと出会えなかったら・仲良くなれなかったらどうか? その場合は、トラウマの解消や問題の解決が行われないのではないか?ということが容易に想像できるかと思います。もちろん確実でも絶対にそうでもありませんが、別のルートに進んだら。茅羽耶はいつかシステムが維持できなくなる日までずっと三日間を繰り返し、そして消えていくのではないか。沙々羅は誰にも知られないままひっそりと巫女として生きていくのではないか。由比子のトラウマと召喚されたクモは永遠にここに残り続けるのではないか。もちろん、全然関係ない誰かが彼女たちを救うかもしれないし、システム絡みで奇跡のようなことが起きるかもしれないけれど、だけど、そういった想像は容易いでしょう。
かつて『Kanon問題』とかいうギャグみたいなのがありましてね(http://d.hatena.ne.jp/LoneStarSaloon/20090410/1239302357)。「誰かを救うと誰かが救われない」問題、言い換えると、「誰かのルートに入ると他のキャラ(主人公に選ばれなったキャラ)は不幸になるんじゃない?」問題といえるでしょう。
えーと「ギャグみたい」というのは、軽い挑発文句です。現実とは異なり、ある意味「結果が見えてる」わけですから、要するに行動の裏側が見えてるわけですから、それでいて例えば「全てを救う」みたいな選択が、ゲームの中に選択肢が無い限りできないわけですから、その点で可視性と非主体性と不可能性が生じているわけで、そういう問題系が生じうるところまでは別に当然であり挑発もしませんが、しかしながらこれの行き着くところは結局「享楽」なんじゃないかという。
こうしたらこうなる、こういう裏側がある、というのが見えているわけです。しかし望んで出来ること(=選択肢)は限られていて、裏じゃ大変な問題が起こっていても、「選択肢がないんだからどうにもできない」という越えられない壁(=非主体性)がそこに存在しているわけです。それでいながら、当然ですが、そのことは、全ルートを俯瞰で見れるプレイヤーだけが知っていて、主人公であるゲーム内の彼やヒロイン達は”知らない”わけです。これは見事に(精神分析的な意味での)享楽の構図ですよね。享楽が生まれていてもおかしくないわけです。享楽というのは、平たく言えば「自分のあずかり知らぬところにおける快楽」のことです。たとえば、ある不幸な環境に望んでもいないのになってしまって、周りから見ても自分から見ても不幸なのだけれども、”そうであるがゆえの”快楽というのがある。例としては、望まずに風邪引いて学校を休んでるけれども、昼間に家にいて見るワイドショーの愉しみとか、望まずに職を失ってしまったけれども、仕事を探しながらも空いた時間でだらだらとゲームする愉しみとか。望んでそうなったワケではなく、そしてその状態・状況は辛いんです!―――だけど、その状態・状況ゆえにある愉しみも、実はこっそりあるんです! 「大文字の他者に知られていないことが享楽の条件」というのがミレールからジジェクまで続く一般的な理解ですが、『Kanon問題』もまたそれと似たようなところがあるでしょう。ただしそこからもう一段階、異なるところへ届きます。”望んでそうしたわけではない(そうする以外に道=選択肢がなかった)”という前提条件に加え、”そうなっていることにより別の場所でどんな不都合が起こる(起こりそうか)分かる”という可視性、そして最後に、”でも主人公はそんなこと知らない(=誰かの不幸の上にこれが成り立ってるかもなんて思っていない)”。享楽的に(かつ挑発的に)読めば、Kanon問題がーとか言い出すプレイヤーは、「敢えて罪悪感に耽ることで”「罪悪感・犠牲の上に成り立っている幸福」という快楽”を享受している」なんてことがまず言えたりもする。別の世界を知らない主人公に罪悪感は存在しませんから、これは、主人公のあずかり知らぬところで、それでいてプレイヤーが主体的に選び取ったものではない=究極的には自分もあずかり知らぬところ、つまり「ふと与えられた」裏側に見え隠れする罪悪と不幸を愉しんでいる。や、これはあくまで前提ですけどね。こんなことですら、あまりにも誰も言ってなかったっぽいので。だからまあ、あくまで、Kanon問題をシステムの問題――たとえば「久弥はKanon問題を狙って組み込んでいた」というのを、それ以上踏み込まずに言い出すのはギャグなんですよ。
で、これは「それ以上の踏み込み」、もう一段階が勿論あります。「犠牲の上に成り立っている幸せは、それだけでより大きくなる」&「この幸せも、一歩間違えば何かの犠牲になっていた」。単純に幸福量だけではなく、責任とか、この状況のかけがえのなさとか、そういうのも含めて。もしも久弥が狙って組み込んでいたとしたらきっとそういう効果狙ってじゃないでしょうか。これ以上の意味は享楽に回収されてしまってもおかしくないでしょう――つか、そうでしょう。その効果がどれだけ大きいかは、そうやって享楽に耽れるという事実が、逆に立証していますね。
で、『夏空カナタ』の3人のヒロインと主人公の関わりは、そういうものを彷彿させますが、話の内容自体もそれに少し沿っていました。「何かの(何かを)犠牲」ということ。この島自体が、巫女の犠牲の上に成り立っている。茅羽耶シナリオは、それを知ってそれに助けられたからこそ、今度は自分たちが、いま犠牲になっている巫女を手助けしたい――その後を継いでもいい、というAシナリオと、そのことを終ぞ知らず犠牲は隠されたままのBシナリオ。沙々羅シナリオは、彼女の母(フミオ)が沙々羅のために犠牲になるというシナリオ――ただしフミオ自身は、そのことを望んでいたし、そのこと自体が幸せだった。由比子シナリオはまああんま関係ないんですけど(笑)。あえて言うなら、自身たちの「トラウマ隠し」の為に犠牲になった八年前の男たち(今新たにクモに捕らえられた人たち)と言えるでしょうか。そのまま目を瞑っていれば、その犠牲を見て見ないフリをしていれば、これまで通りに過ごせるけれど……、という。しかし由比子シナリオって、エロスケの感想とか見たら凄い叩かれてましたけど、全体的に見てボクはこれが一番好きだったりします。まあカードゲームは突然の超展開(というか超演出?まさか本当にデュエルとは思わなかった)で笑っちゃったけどw
とにかく、そのような形で、犠牲と不幸、どこかの誰かの救いや幸福の裏でどこかの誰かの犠牲や不幸がある、ということが描かれていて、そしてそれへの対処法としては、上に記した通り、”それぞれ”。このゲームの主人公は、よく「納得できない」「正しくはないと思います」みたいなことを言っていて、それが行動の原動力たる感情でもありましたが、まあ当然ながら、それはそれ、なんですよね。言葉は言葉なだけで、感情は感情なだけで、どこまでいっても無力。言葉は感情を生むし、感情は言葉を生む、そして言葉と感情は人を動かせる、けれども、その力は有限にして微力。望は常に叶うわけではなく、感情や言葉も常に意味を為すわけでもない。何かの犠牲の上・誰かの不幸の上を「納得できない」「正しくはないと思います」と言い、行動するだけで、たとえば沙々羅の立場や茅羽耶の状態のように、”変わることもある”。けれど、フミオの犠牲のように”変わらないこともある”。結果は「それぞれ」なのです。手の届かないところはどうしようもなくあり、けれど頑張れば届くところもやっぱりある。だからこそ――上のKanon問題のところで書いたように、裏ではここも不幸だったからこそ、裏ではこの代わりに誰かが不幸にならざるを得ないからこそ、この今がより大きくかけがえのないものである、ということです。
(記事編集) http://nasutoko.blog83.fc2.com/blog-entry-50.html
2009/11/13 | Comment (-) | HOME | ↑ ページ先頭へ |