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つよきす 雑感

   ↑  2009/11/21 (土)  カテゴリー: 未分類
つよきすつよきす

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『まじこい』『きみある』と遡って、つよきすまでクリア。

で、これはまじこいの時もきみあるの時も書いたのですが、やっぱりよくある普通のシナリオゲーと違って、ヒロインのトラウマをエロゲ的に扱うということがほぼありませんでしたね。

「エロゲ的にトラウマを扱う」というのは、『「主人公に解決されるものとして」ヒロインのトラウマを扱う』、ということです。恐らくONEやKanonあたりから大きく顕在化されたと思われる、その「ヒロインのトラウマへの対処法としての主人公」。主人公くんが彼女のトラウマを解決することによって・あるいは主人公がいるということでトラウマを抑えたりできるようになるということによって、ヒロインの「問題解決」が計られて、結果的に、ヒロインにとって主人公は無くてはならない存在になる、といった具合の、ある種のテンプレート。
こういったものがない。
決して「トラウマがない」というワケではありません。「皆それぞれ色んなものを背負ってるんだな」といった台詞が作中で二回ほどありましたが、その通り、みんなそれぞれ色々と問題やトラウマと呼べるようなものを背負っている。けれど――だけど、そこに普通のエロゲ(泣き系エロゲ)のような解決を見い出していない。

祈センセイシナリオなんかは最も特徴的でしょうか。「つよきす」の中では最も重いトラウマ・問題ですが、シナリオにおいて、それを根本的に解決するようなことは図られていません。子供の頃に妹と生き別れたのがトラウマの原因ならば、妹が見つかったり、妹の霊的なものが語りかけてきたり、当時の隠されていた新事実が発覚したりして、そのトラウマを解決させる……たとえば泣きゲー的な解法だったら、多分そんな感じになるのではないでしょうか。少し話は逸れますが、何故泣きゲーでいわゆる「奇跡」のようなものがよく見受けられるかというと、まさにそういったところなのかもしれません。いわゆる「重い」トラウマというのは、今となっては本当にどうしようもないものだからこそ「重い」のであって、それが解決されるには、上に挙げた例(例外的に発見されるとか、霊的なものの登場とか、隠された過去の露見とか)のように、まともな・まっとうな手法ではない――つまり「奇跡」のようなものでないと、解決されない。要するに、泣きゲーのヒロインが抱えているトラウマはあまりに重くて、それを時間を掛けて徐々に和らげたり手懐けたりするのではなく、短期間で解決させようと思ったら、「奇跡」のようなものに頼らざるを得ない――とか。
しかし祈センセイシナリオで用いられた解法は、ただ「なんとなく」の距離感で付き合っていく、というものでした。祈センセイのトラウマは払拭されたか? 過去に縛られることは無いか? と問えば、答えは勿論ノーです。過去が消え去ることもなく、囚われなくなることもなく、祈センセイ自体は殆ど変わっていない。
しかも「それはそれ」で良しとされているわけですね。 でも案外、ひたすらベタつくよりも、こういう方が長い人生いっしょにやっていけるかもしれない しかもこの方が長続きするかも、とまで述べられている。

よく考えると『つよきす』のプロット・ストーリーって、超人的なところと変人的なところを現実のレベルに置き換えてみると、全てのスケールを現実的なレベルにしてみると、意外なほど「現実にありえる」お話だと思うんですよ。なんか途轍もない事件が起きたり途方もない不幸に見舞われたりとてもじゃないトラウマを抱えていたりして、それを主人公が解決・解消したりケアしたりする――そんな話に比べると、非常に現実的ではないでしょうか。たとえば主人公の行動に、結構「下心」が混ざりまくってるところとか特徴的です。椰子シナリオで、居場所をなくしてフラフラしている椰子に声をかけたのは、勿論心配や不安もありましたが、他の男に引っかかる前に自分が、という下心的なものも、そこには混入されていました。乙女さんシナリオなんかは、ある意味下心が物語を引っ張る要点のひとつにもなるワケですし、カニシナリオなんかは気づいたらバカップルになるわけですし、そういうところが入り混じっているのが面白いですね。言うなれば、一点の曇りなく「ヒロインのために」みたいな、ある種偽善めいた滅私さが無い。椰子を救うのは決して「救いたい」と思ったからだけではなく、ちゃんと下心もあるし計算もしている。『まじこい』の話なんですが、主人公の大和くんが、クリスとまだ付き合う前に、「クリスともっと仲良くなりたい。びびってちゃダメだ、川神魂だ!」みたいな台詞がありまして、これにはちょっと自分びっくりしました。おいおい、川神魂ってそんなところにも使うのかよ、と。そして同時に、そう言うということは、自分の下心も十分自覚しているのか、と。そういう意味で、より現実的といいますか。単純に「ヒロインのためだけに」動いて、それで彼女のトラウマや問題が払拭されて、それで二人は幸せに暮らしましためでたしめでたし――ではなく、下心が混じっていたり、あるいは『きみある』の森羅さまシナリオがそうだったように、別に主人公が彼女を救おうと思ってそうしたのではなく、結果的に彼女が勝手に救われたり、そもそも問題自体が解決しなくてはどうしようもならないことではないので、別にそんなことどうでもよかったりする。
幾つかのシナリオで、エピローグで「数年後」と、その後の「彼女たち」が語られているように。
そこでは実際、問題が解決されていないわけですね。たとえばカニシナリオのエピローグでは、椰子は実家の花屋を継いでいる。よっぴーや祈センセイや姫たちも、それぞれ、レオと深い関係にはならなかった人生を歩んでいることでしょう。しかし、だからなんだというのだ。「みんなそれぞれ色々と背負っている」のは当たり前で、それでも生きていくのは当たり前、ということを描く。だから「現実的」だと思うのです。
トラウマの解消=ハッピーエンドではない。それこそまさにお話、フィクション、非現実的でしょう。現実の世界では、そのようなものは、長い時間をもって解決される。祈センセイシナリオは、それに対して地に足つけて普通に付き合っていくという形でしょうか。そんななか、よっぴーシナリオは、それをシナリオ内で行い尽くしたものと言えるでしょう。「他人を信じられない」というよっぴーに根気よく付き合って、少なくともそこだけは、少しくらいは、解消した。しかしそれ故に、内容は重いですよね。悪く言えばくどいとかウザイというか。鬱々としたものが澱のように積もっていく様が、粛々と描かれている。そこに無邪気な明るさは無い。こんな描き方は、ある意味現実的だよなぁ、と思うのです(というか、泣きゲー的なものへのアンチテーゼ的にも読めるんじゃないでしょうか。読まないけど)。


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よっぴーの立ち絵は恐ろしく衝撃的でした。いや、これスゲー怖くないですか? いや、これプレイした人みんなそう思ったと勝手に思ってるんですけど。この、どこを見ているのか分からないような眼。開かれたような瞳孔。作られたような無表情。やー、スゲー怖いんですけど、でも別に最初は怖くも何ともなかったんですよね。ちょっと変というか、何か違和感みたいなのはありましたけど、当初はこの立ち絵について、特に深い印象は持っていなかったです。けれどもよっぴーシナリオ後は、この立ち絵が怖い怖い。感情を消して観察しているなぁというのが見て取れる。この奥にある深い理由――どうしてこんな表情をしているのかの理由を知っている。
それだけで印象は変わるんですね。知っているだけで。たとえば祈センセイの過去の出来事を知っていると、彼女の印象が、ただの適当でだらしない先生から、ひとつ違ったモノになるし、スバルの家庭事情とかカニへの思いを知っていると、レオの部屋での他愛ないやり取りにも、それまでとは違った印象を抱けるようになる。「みんな色々と背負っている」の「色々」を少しでも知れば、みんなの、見える限りの、表面であるところすら、それまでとは異なって見れるようになる。その道理は、ある意味まんま「ツンデレ」なんですけど(笑)。知っていれば認識は変わる。自分の中でのその人(の、その言動)が、何に基づいているのか知っていれば、それが意味するところも変わってくる。――けれど変わるのはそこだけで、知っているからといってどうにか出来るかといえばそれは話が別だし、そもそも向こうが「どうにかして欲しいと思っているか」どうかも、話が別。

しかし『つよきす』、ウルトラ楽しかったですねー。ギャグとかキャラクターとかは当然楽しいにきまってますが、お話にも心地よい楽しさがありました。『まじこい』の川神学院の教え、川神魂、そういったものとも共通する、ある種「熱いもの」が根底に流れているんですよね。

平蔵 「だがこれでいいんだ。このぶつかり合い……”勝負”を学んでもらわねばな」
平蔵 「儂は、勝ちに貪欲な生徒を育成したい」
平蔵 「人間は戦い続けなければいけないのだ。戦いをやめた時、その瞳は輝きを失ってしまうからな」


意外なほどにシビアな流儀。館長の教育方針もそうだし、乙女さんがたまに言う教訓じみた言葉もそう。モブキャラですら「この世はサバイバル」とか言ってましたね。真剣に頑張ってたら、真剣に頑張った分に見合う結果が得られるかどうかは分からないけれど、適当にぐで~っと過ごしていたら適当にぐで~とした分の結果しか得られない。かといって殊更にそれを強調するわけでもありません。ある種「当たり前のもの」となっていました。たとえば、実はみんなそれぞれの夢に向かって努力していたりするんだけど、そのことはあんまり語られなかったりするし、そもそも、話に出てこなかったりする。カニが実はゲーム作りたくてパソコンを……フカヒレがギターを……なんて、椰子シナリオをやらなかったら、知ることすらできなかった。
レオの「熱くなる」「熱血モード」というのが、全てのシナリオで大なり小なり入っていましたが、それはそういうところでもあるでしょう。努力しなければ、頑張らなければ、熱くならなければ、乗り越えられないものとか、失ってしまう・手に入らないものとか、辿り着かないものとかもあるわけで。

「自分の力で道を切り開く」、みたいに言い換えることもできるでしょう。

努力が道を切り開いたり、あるいは直接にそうでなかったりしても、どこかで何かの役に立つかもしれない(たとえば『きみある』上杉姉弟の芸とか、『まじこい』ワン子のそれまでの修行とか)。そういう面が、タカヒロさんは常に強いのではないでしょうか。
極端な話ですが、タカヒロのヒロインたちは、主人公と上手くいかなくても、それぞれ勝手に生きていけるわけで、そして、それはそれで幸福を掴んでいるかもしれないわけです。この気前のいい軽さは、非情に現実的ではないでしょうか。ボクはそこが気に入っています。問題やトラウマを抱えていても、生きている以上、人間生きていける。頑張れば報われる、とは限らない、けれど頑張ったことは、何かしらの役には立つだろう。世界の何処からでも、地続きで、タカヒロの世界と同じくらいの世界への道は伸びている――そう感じさせるくらいに、この人の作品は希望に満ち溢れていると思うのです。




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