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G線上の魔王 雑感

   ↑  2009/11/28 (土)  カテゴリー: 未分類
G線上の魔王 通常版G線上の魔王 通常版
(2008/05/29)
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G線とは、ヴァイオリンの一番太い、低音が出る線のことである。バッハの「アリア」を、そのG線だけで演奏できるようにしたそのアレンジは――

「聞いた話だと、他の線を使ったほうが安定するそうだし、実際いまCDから流れてるのも、いろんな楽器やいろんな線を使った、腐るほどあるアレンジの一つだからな」
「どうして、そんな編曲をしたんだろうね?」
「さあな、天才じゃなきゃわからんかもな。そのヴァイオリニストは他にも名曲を掘り起こしてヴァイオリン独奏曲にアレンジしてるし、信念みたいなのがあったのかもな」
「信念……?」
「なにか、一本、筋の入った男だったんじゃないか?」


以下はネタバレです。言うまでもないかもしれませんが、本作はプレイ前にネタバレ踏むと、かなり残念なことになると思いますので(と言いつつボクは多少のネタバレ踏んでしまっていたのですがw)、プレイしていない方はこの先を読まないように。





G線


「聞いた話だと、他の線を使ったほうが安定するそうだし、実際いまCDから流れてるのも、いろんな楽器やいろんな線を使った、腐るほどあるアレンジの一つだからな」
「どうして、そんな編曲をしたんだろうね?」
「さあな、天才じゃなきゃわからんかもな。そのヴァイオリニストは他にも名曲を掘り起こしてヴァイオリン独奏曲にアレンジしてるし、信念みたいなのがあったのかもな」
「信念……?」
「なにか、一本、筋の入った男だったんじゃないか?」


G線――それは上記のように、揺るがない信念の隠喩。その揺るがなさは、人を惑わす悪魔となり。揺るがせない事実の裏には、悪魔が潜み。そして――G線のためなら悪魔にでも、魔王にでもなれる。

「揺るぎない信念」と言いますが、しかしそれはどんなものなのでしょうか。どういったものなら「それ」なのでしょうか。京介は「お金」に関して、特に第一章・第二章あたりでは、口をすっぱくして語っています。曰く、
 ……おれが短い人生で唯一学んだことと言えば、金だけは絶対だということだ。 /  「他人を信用するには金しかない」 /  世の中のほとんどのことは、金で解決する。 /  「人の心はお金で買える。誰もが利益を求め、自分のことだけを考えているのだと」 
しかし本当に世の中はお金だけなのか、お金で全てが解決できるのかと問えば、当然答えは否です。第一章で早々に否定されるし、魔王の目的なんかは、いくらお金があっても(今からでは)叶わないものでもありました。お金の問題に置き換えられることも多いし、お金さえあれば諸々を全部吹き飛ばして解決できることも多いけれど、それでも、全てがお金ではない。

京介は本当にそんなふうに考えているのだろうか――ていうか、なんで京介はこういう考えになったのだろうか? という疑問が残ります。「お金が全て、人の心はお金で買える」。そう思うには、そう思うに至る必然が必要でしょう。なんで彼はそう思うようになったのか。それは勿論、そういう必然があったからです。京介と――そして母を取り巻いていた様々な問題。そもそも父が殺人を犯してしまった問題。そのところの、究極の核にあるのは、全て「お金」。お金があれば何もかもが解決というわけにはいかない、どんなに金持ちでも、殺人犯の家族では、後ろ指を指されるだろうし、いくらお金を持っていても、騙されたという事実は――騙すために娘の死に偽りの涙を流すという事実は――許せないものかもしれないでしょう。しかしながら、それでも、お金があれば、ここまで酷い状況にはならなかった。”少なくとも”、浅井権三に出会うことはなかった。そういう点ではお金が全て――お金が、一から十までその全てを担っているという意味ではなく、究極のところでは、お金で解決できるし破滅するという点で、お金が全てでした。故に、人の心もお金で買える。買える人もいるし、買える場合もある。現に「京介自身が権三にお金で買われている」。飼われている、と言葉遊びしても間違いはないでしょう。親の借金と自分に掛かった費用で、がんじがらめに縛られている。 仕事のことを思えば、学園は天国だ。 という台詞が示すとおり、この仕事自体は楽しいことでもやりたいことでもない。早くお金を貯めて、権三の支配圏から抜けて、早く母親の元に行きたい――。それ以上でも、それ以下でもない。「お金が全て、人の心はお金で買える」と京介が思っているのは、彼自身がそうだから。そういう扱いに甘んじているから。自身がそうだと、信じたいから。実際、心の底から、一片の狂いなく「お金が全て」とは思っていないでしょう。思っていないから――未だに、「一円の得にもならない」母のことを大事にしていて、母との生活を夢想する。

しかし、本当にそうなのだろうか? 「金のせい」に全部回収しているけれど、本当は違うのではないだろうか――ていうか、本当は違うということを分かっているんじゃないだろうか。本当は違うということから目を逸らしているのではないだろうか。

二億。
もたもたしていれば、借金はもっと重なっていく。
「わかりました……」
急速に、恐怖感が薄れていった。


急速に、恐怖感が薄れていった。 ここでいう「恐怖」とは、怖い怖い権三への「恐怖感」。
京介にとって、権三への恐怖というものはある。そもそも権三は、京介にとって圧倒的に強い人間だった。はじめて見たとき、そう見えた。だからこそ彼は権三に付き従いました。そこに少し、先ほどの「金が全て」に対する、疑念が残ります。金が全てで、金の力だけで権三に支配されているのではなく、暴力や恐怖の力によっても権三に支配されている――のだけれど、そのことに気づいたら”やっていけない”から、その恐怖というものを、京介は、金に”置き換えている”のではないだろうか。かつての最悪の時代の京介、そこで感じた彼の無力さは、「金」が一番の問題だったけど、そこで受けた傷は、自尊心やプライドに関するところだった。下げなくてもいい頭を下げなくてはいけないこと、排斥され這いつくばって生きていかなくてはならない、という惨めな生活。金の無さと犯罪者の家族という後ろ指から落とされた場所は、寝食に苦労するという貧困だけではなく、己自身を、その心を否定するような生活そのものだった。故に、彼は「金に支配されている」と思い込もうとしたのではないだろうか。権三の恐怖に縛られているのではなく、ただ奴への借金だけに、自分は縛られている。だから――権三に付き従う理由は金だけなのだから、自分は何も失っていない。自尊心もプライドも傷ついてはいない。決して恐怖なんかに支配されているわけではないのだから、「あの頃とは違う」。そういう思い込みがあったのではないでしょうか。その証拠に、どのシナリオでも、最終的には、借金のある権三に対し、金の問題ではない理由で反発している。
金だけで人は支配できない。それが分かっているから、権三はこのように(たとえば椿姫の章で、ただ金を与えるのではなく、「俺たちは家族だ」という一席を打ってから金を与えたように)、金以外でコントロールしている。
つまり京介は、恐怖で支配され、金でも支配されている。「金が全て」というその言葉は、自身がそれであることの裏返し。まだ、それはまだ、G線ではない。


人間


「この世には、二種類の生き物しかいない」
「人間と、家畜だ」


第二章にて、魔王は椿姫にこう云った。 「私が、お前を人間にしてやる」 
ここにおける「人間」とは何か? 椿姫の変化から察すると、それはまず「考えること」でしょう。疑問を持つことと言ってもいいかもしれません。家族は家族だから、友達は友達だからという”だけの”理由で、それ以上考えずに、それ以外疑問を抱かずに、信用し信頼していたのが、それまでの椿姫。対し魔王と出会った後の彼女は、その自分のあり方に疑問を持った――考えずに、信じるという生き方は、どうなのだろうか、と。

椿姫 「なんていうのかな、自然にわたしはいい子です、みたいな感じじゃないの……家族のためならなんでもやります、みたいな感じじゃなくて、えっと……あれ、なに言ってるんだろうね?」
慌てて、日記をどこからともなく取り出す。
京介 「いや、日記はいいよ。つまりお前も人間だってことだろ?」

考えずに、自然に「そうである」というのは、もはやそれは機械と同じでありプログラムと同じである。Aだから何も考えずに必ずAだ、Bだから自動的に必ずBになる、そんなものを人間とは呼ばない。迷い、悩み、考える、そのプロセスを敷いているか、あるいは――考えた末に、自分の意思と責任で、Aだから必ずA、Bだから絶対B、そう言えるものが人間である。家族だからと無条件で信じて尽くすのではなく、家族を見て、その上で、自分は信じたい、自分は尽くしたい、そう思ってはじめて人間なのである。
そこには信念がある。
権三の言うように、この世に人間と家畜の二種類しかいないとして、そして家畜は「金に(で)使われるもの」であるとするならば、そこに信念は存在しない――していても、”金で翻る程度の”わずかばかりのものしか存在していない。そういう意味では、「全てはお金」の問題でしょう。家畜に対しては、お金で全てが解決できるし、お金で心も買えましょう。けれど、自分で考え、自分で決め、自分で引き受ける「人間」に対しては、どうか。果たしてお金で解決するだろうか、買えるだろうか――答えはもちろん否です。椿姫しかり、花音しかり、水羽しかり、ハルしかり、魔王しかり、権三しかり。「全てがお金の問題」ではないというのは、ここで明らかでしょう。お金で動くのが家畜ならば、ひるがえれば、”お金で動かないのが人間”。では人間は何で動くか? それは考え、思い、信念――

ひとまず個別シナリオは、大なり小なり、それの変奏でした。椿姫は上記のとおり、弟(家族)をただ無心に受け入れるのではなく、よく見て、考えて、その上でそうすると決めた。
花音。彼女の母は、まったくもって自己を顧みずに、花音に「逃げ込んでいた」。そして、花音は、そのことを知ってか知らずか――いや、スケート以外のことを全て適当にスルーしているいつものように、そのことを知ろうとしないで、その重荷を背負ってきた。自分で考え、自分の意思で背負ってきたのではなく、何も考えず(あるいは背負わされてることを感付きながらも無視して)、それが重荷で傷つくということを考えないようにして、背負ってきた。だから、その重さに潰されかけたときに、そのことをやっぱり知らないままだったら(BADエンド)、その重さに潰されてしまうわけです。
そこにおける解決は、「自分から受けおう」ということ。ちゃんと、母がどういう(身勝手な)気持ちで、どういう(私利私欲な)願望で、花音に覆いかぶさっているのか、そのことを”知った上で”、母を受け入れ受けおう。それは何も見ずに受け入れてきた――受け入れるフリをして(実際には「知らない」のだから、受け入れるもクソもない)逃げてきたそれまでとは違う、信念に裏打ちされた人間の行動。
水羽。彼女は、どちらでも(水羽の章も第四章も)同じといえば同じ。何も分からず考えなくてもよかった庇護の下から抜け出す――考えることと、意思により。ただ従ってうなづいてやり過ごしていればいい場所からの跳躍。他人を分かること、姉を分かること、父親を分かること。分かること、分かろうとすることから全てははじまる。そこには人間が在る。

そこにあるのは一つの信念。信念は強い。 ”魔王”は、自らがそうであったように、信念に裏打ちされた知性の力強さを知っていた。 信念は、ありとあらゆる力をくれる。恭平がそのG線の上で魔王となったように、京介がそのG線の上で魔王となったように。

京介における信念は何か? 「お金が全て」と当初は語っていましたが、それは信念ではありませんでした(信念足りえませんでした)。何せほぼ全てのシナリオでそれを反故しているわけですし。そして反故する理由は全て、お金以外の何か――に対して。彼女のため、彼女とその家族のため、彼女と過ごすという未来のため。

「生けれども、生けれども、道は氷河なり」
「人の生に四季はなく、ただ、冬の荒野があるのみ。流れ出た血と涙は、拭わずともいずれ凍りつく」


それは言わば冬から春へと向かう心でしょう。

もっとも「そう」だった場面は、やはりここでは(ここからでは)ないかと思うのです。今まで幾度も顔が描かれながらも、決して「目」が描かれることのなかった(もちろんミスリードを誘う意味合いもあっただろうけど)京介において、はじめて「目」も描出された箇所。「目」も含めた顔の全てが、はじめてきっちりと描かれた箇所。
aa_maou01.jpg
ここは、満身創痍になりながらも、刑務所にいる父に謝りながら、仇の娘――ハルへの思いを確固としたところ。怪我してるしボロボロだし、このままでは死ぬかもしれないし、そこへ進んだら殺されるかもしれないけど、それでも、つまりそれを天秤にかけても、ハルの元へと進みたい。どんな困難でも苦境でも、過去や因縁やしがらみ、父や兄の恨み憎しみ、それら立ちはだかる全てのものに相対する覚悟を決めて。
それは信念としか言いようがなく。
故に、ボロボロになりながらも歩いていける。
四十七階へと続く長い長い階段を、肉体の限界を越えて、精神の疲弊を我慢して、一歩一歩登っていける。

さあ、進め。
虫けらのようにひねり殺された母の業を背負い、
復讐の狂気にとりつかれた兄の悲しみを胸に、
仇の娘のもとへ――。




信念は、あらゆる困難を乗り越えられるような、力の源でもある。
信念に則れば魔王にもなれる。復讐という信念を糧に、苛酷な世界を乗り越えて目的まで辿り着いた恭平。そして、恭平の残した最後の罠を、自らが犯罪者にして彼女を騙した悪人=魔王になることで(演じることで)、守りたいものを守った――つまり、信念を貫き通した京介。その重く尊い信念――G線を貫き通すには、魔王にならなくてはならないときもあるし、また、魔王にもなれてしまう。「G線の上に悪魔がいる」というハルの言葉が暗喩しているとおり、その強固さは、ハルですら人殺しに囚われる。けれども、悪だけではない、はず。魔王は最初に何と言ったか。 人々が”魔王”の罪を憎み、”魔王”という人間を軽蔑したとしても、”魔王”の信念の中の真理にはある程度共感するものがあるはずだ。 ――たとえば。ハルが、京介のことを分かってくれていて、七年後でもまだ、彼の元に春を届けてくれるように。この氷河の下に息づく信念たちは、悪だけでなく、冬だけでもなく、いつか春の息吹に変わるかもしれない。たとえばそれが、権三の死の真実のような、見る者にとってのおとぎ話のようなものであっても。そこには、人の生きる道は冬だけではない、春があるということを示唆している。


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