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2009/12/05 (土) カテゴリー: 未分類
『世界観は壊さない』『アフターストーリーを綴る』そのふたつを両方やらなくっちゃあならないてのがファンディスクの辛いところだな。
お前いまさら気づいたのかよ、と言われてしまいそうですが、今更気づきました。いや、なんかテキストが妙に『Fate/hollow』っぽいなぁと思って調べてみたら、本作のメインライター森崎さんはズバリ『Fate/hollow』のライターの一人でもありました。そう考えてみると、本作と『Fate/hollow』を比べてみるのも面白いかもしれませんね。これは謂わば「繰り返す四日間」のような「不思議」さが剥奪された『Fate/hollow』と喩えることもできて、そうである故にエピソードは離れ小島になってしまった。しかし『シュガスパ』である以上はそうせざるを得ないとも言えます。『Fate/hollow』のように、周回とフラグ管理で、エピソード/シナリオの現出を行った方が面白そうではありますが(少なくともミニゲームで稼いでそのポイントでエピソードを見るよりは面白そうである)、全てのエピソードが単線形であるのがシュガスパの特徴でもあるので、『Fate/hollow』的なカタチにしてしまったら、それはもうシュガスパではないだろうと。以前シュガスパ本編レビューの時に書きましたが、あのゲームにおけるプレイヤーの選択というのは、主人公の行動を選択しているのではなく、「誰ルートに向かうか」「いつ告白するか/告白を受け入れるか」のような方向性くらいしか選択できなくて、主人公は矛盾の起きない限り全てのエピソードを既に経験済みで/経験することになり、そこからプレイヤーが見れるものを選択しているといえます(和真からしてみればプレイヤーが「記憶喪失状態」であるとも喩えられる)。「エピソードが話を創りだしている」ように見えますが、実際は、「見える限りにおいてのエピソードが話を創りだしているかのように見える」――いやまあ、プレイヤーからすれば、どっちも同じなのですが。いずれにせよ、「周回」や「メタ」で、エピソードが「あったのになかった・なかったけどあった」ことになってしまうのは『シュガスパ』にあらずで、「IF」という要素においてのみ、エピソードが「あった」になるのがシュガスパなのです。だからこそ、綾弥ねえや倫ちゃん先生シナリオの冒頭には「もしもの話」と断りが入るし、他にもエピソードで見れる藍衣シナリオ(二回目の告白をしなかったやつ)とかにも「IF」と、冒頭に断りが入るわけです。全てのエピソードは基本的に「あり」、IFというもしもにおいてのみ分岐しうる。
シュガスパの世界観を壊さないという点においては、これほど上手くこなせているものもないでしょう。単純にストーリーを見せるだけでは、もはやシュガスパではない。メタや周回でエピソードが「あったけどなかった・なかったけどあった」になってしまうのもまた、シュガスパではない。故にこの形式。それで面白いかったかどうかはまた別の話になるんですけど、少なくともこれは『シュガスパ』である。
本編のレビューで、
そういう意味で、本作はおそろしく『シュガスパ』なのですが、しかしそれ故に、いかんともしがたく。面白いといえば面白いんだけど、あまりに消化不良。上記のように「エピソードが発掘されたもの(既に過去のもの)」と明らかにされているの分(そこがシュガスパ本編との最大の差)、虚しさが増してしまっている。文化祭エピソードを除く全エピソードは、「それだけで終わり」なもの、つまり先が何も無い=収束点が無くそれだけで終わるものなので、本編のシュガスパにおける各エピソードと比べてみれば明白でしょう、「SSPP」のそれはあまりにも虚しいただの「記憶」である。そういう点から、発掘される記憶でもなく、それにより日常が仮構されるわけでもない「スピンアウト」に至っては、内容以前の形式時点で大きな負債を負っている。本編と異なり、記憶ということが明らかにされている上に、収束点が何処にも無い――それ自体が収束点である。もちろん綾弥ねえと倫ちゃん先生シナリオは、単独で完全に(シュガスパ本編からもほぼ完全に)独立しているので、それ自体が収束点で何も問題はなく『シュガスパ』であるのですが。
『シュガスパ』であるからこそ、それでいて後日談(とIFの話)であるからこそ、こうするしかなく、しかし、そのお陰で、『シュガスパ』であること・その世界観は、シナリオレベルにおいても・システムからプレイヤーが感じ取るレベルにおいても、全く崩されることがなかった。そこに価値を見い出しても、いいんじゃないだろうか。
そもそもシュガスパでファンディスクを作るという発想が間違いだったのではないかと思ってしまうほど。だってシュガスパですからね、普通にストーリー(ノベルADV)にしちゃったら、それはもうシュガスパではないわけで。単純にストーリーがあるのではなく、「あのシステムにおいて」という大前提が必須なのがシュガスパですから、それはもう大変なわけです。その点、本作は絶妙にして微妙だったといえるでしょう。シュガスパでありながら話を見せる、というのを、なんとかかんとかやりくりしている。……そう、絶妙にして微妙なように、決して手放しで褒められるわけでも凄く面白いわけでもないのですが、与えられた条件下で出来る限りのことを為している(いや「これ以上」つったら、まるっきりシュガスパ本編と同じにしてしまうか、少なくともスケールはシュガスパ本編同等にしてしまわざるを得ないんじゃないかなぁと思うのですが)。
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お前いまさら気づいたのかよ、と言われてしまいそうですが、今更気づきました。いや、なんかテキストが妙に『Fate/hollow』っぽいなぁと思って調べてみたら、本作のメインライター森崎さんはズバリ『Fate/hollow』のライターの一人でもありました。そう考えてみると、本作と『Fate/hollow』を比べてみるのも面白いかもしれませんね。これは謂わば「繰り返す四日間」のような「不思議」さが剥奪された『Fate/hollow』と喩えることもできて、そうである故にエピソードは離れ小島になってしまった。しかし『シュガスパ』である以上はそうせざるを得ないとも言えます。『Fate/hollow』のように、周回とフラグ管理で、エピソード/シナリオの現出を行った方が面白そうではありますが(少なくともミニゲームで稼いでそのポイントでエピソードを見るよりは面白そうである)、全てのエピソードが単線形であるのがシュガスパの特徴でもあるので、『Fate/hollow』的なカタチにしてしまったら、それはもうシュガスパではないだろうと。以前シュガスパ本編レビューの時に書きましたが、あのゲームにおけるプレイヤーの選択というのは、主人公の行動を選択しているのではなく、「誰ルートに向かうか」「いつ告白するか/告白を受け入れるか」のような方向性くらいしか選択できなくて、主人公は矛盾の起きない限り全てのエピソードを既に経験済みで/経験することになり、そこからプレイヤーが見れるものを選択しているといえます(和真からしてみればプレイヤーが「記憶喪失状態」であるとも喩えられる)。「エピソードが話を創りだしている」ように見えますが、実際は、「見える限りにおいてのエピソードが話を創りだしているかのように見える」――いやまあ、プレイヤーからすれば、どっちも同じなのですが。いずれにせよ、「周回」や「メタ」で、エピソードが「あったのになかった・なかったけどあった」ことになってしまうのは『シュガスパ』にあらずで、「IF」という要素においてのみ、エピソードが「あった」になるのがシュガスパなのです。だからこそ、綾弥ねえや倫ちゃん先生シナリオの冒頭には「もしもの話」と断りが入るし、他にもエピソードで見れる藍衣シナリオ(二回目の告白をしなかったやつ)とかにも「IF」と、冒頭に断りが入るわけです。全てのエピソードは基本的に「あり」、IFというもしもにおいてのみ分岐しうる。
シュガスパの世界観を壊さないという点においては、これほど上手くこなせているものもないでしょう。単純にストーリーを見せるだけでは、もはやシュガスパではない。メタや周回でエピソードが「あったけどなかった・なかったけどあった」になってしまうのもまた、シュガスパではない。故にこの形式。それで面白いかったかどうかはまた別の話になるんですけど、少なくともこれは『シュガスパ』である。
本編のレビューで、
と書きましたが、それに照らし合わせれば、「シュガスパPP」における「エピソード」の扱いは正に”発掘”でしょう。全て「あったこと」「IF(もしも)においてあったこと」であり、それは一歩づつ近づいていって見れるのではなく、稼いだポイントでもって、埋まっているものを”掘り出して”見ることができる。既に和真が経験している(IFで経験している)ことを発掘して、見ている。父が考古学者、フィールドワーク、発掘。……これは(Everything Niceを前提に)プレイヤーが和真を導くもの=考古学者、フィールドワーク=MAP上を巡る、発掘=エピソード(アイテムリスト)集め、と、ちょっと苦しいかもだけど言えなくもない。ただし、「プレイヤーと和真を逆」にした方も言える。プレイヤーが”覚えていない”和真の体験を、MAP上を何度も何度も巡って、エピソードを発掘しまくって、ようやくそこに辿り着こうという試み。「プレイヤーと和真」「和真とプレイヤー」……単純に両方かもしれない。
そういう意味で、本作はおそろしく『シュガスパ』なのですが、しかしそれ故に、いかんともしがたく。面白いといえば面白いんだけど、あまりに消化不良。上記のように「エピソードが発掘されたもの(既に過去のもの)」と明らかにされているの分(そこがシュガスパ本編との最大の差)、虚しさが増してしまっている。文化祭エピソードを除く全エピソードは、「それだけで終わり」なもの、つまり先が何も無い=収束点が無くそれだけで終わるものなので、本編のシュガスパにおける各エピソードと比べてみれば明白でしょう、「SSPP」のそれはあまりにも虚しいただの「記憶」である。そういう点から、発掘される記憶でもなく、それにより日常が仮構されるわけでもない「スピンアウト」に至っては、内容以前の形式時点で大きな負債を負っている。本編と異なり、記憶ということが明らかにされている上に、収束点が何処にも無い――それ自体が収束点である。もちろん綾弥ねえと倫ちゃん先生シナリオは、単独で完全に(シュガスパ本編からもほぼ完全に)独立しているので、それ自体が収束点で何も問題はなく『シュガスパ』であるのですが。
『シュガスパ』であるからこそ、それでいて後日談(とIFの話)であるからこそ、こうするしかなく、しかし、そのお陰で、『シュガスパ』であること・その世界観は、シナリオレベルにおいても・システムからプレイヤーが感じ取るレベルにおいても、全く崩されることがなかった。そこに価値を見い出しても、いいんじゃないだろうか。
(記事編集) http://nasutoko.blog83.fc2.com/blog-entry-54.html
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