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『俺たちに翼はない』 感想・批評(3万字くらい)

   ↑  2009/12/12 (土)  カテゴリー: 未分類
以前別の場所で書いたことある文章の移植。個別シナリオについては相変らず手が回ってませんが、いつかなんとかしたいところです(笑)。

俺たちに翼はない -Limited Edition-俺たちに翼はない -Limited Edition-
(2009/01/30)
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超長いですので、500字でネタバレ無しで纏めると以下な感じ。


嘗て世紀の最後の年に舞い降り世紀に幕を引いていったエロゲは、プレイヤーを置き去りにして独りで幸せになり消えていった。終にこのような言葉を残して。「あなたには、あなたの幸せを。その翼に、宿しますように」。彼女たちの幸せは彼女たちのもので、私は私の幸せを宿さなければならない。成程然りだ。しかしこの文面に我々は困惑を覚えざるを得なかった。だってそんなこと言われても、「俺たちに翼なんてない」んだから。翼がない俺たちは、その幸せを、果たして、何処に宿せばいいんだろ? 翼がない俺たちに、幸せというのは、手が届くものなのか? ――否である。九年の時を経て、我々はようやくそれを手に入れた。幸せは状態でもなく感情でもなく認識でもなく、そして翼も、肉体でもなく精神でもなく形而上でもなく、”ただ私にある”という詐術だということを。幸せは最高の詐術の元にあり、最高の詐術は幸せを生む。私達は翼なく、地上を歩く他に術がないが、それでも翼が必要なのだ。飛べない翼に意味はある。たとえ叶わなくても手に入らなくても、たとえ叶わないし手に入らないと知っていても、夢や愛や幸福に希望を抱かなければ生きてはいけないように。翼なき私達は地に足つけて歩いていく他ない生き物だが、それでも、地に足つけて歩いていくのに、私達は翼を必要とするのだ。その程度の翼は、俺たち、誰もが持つことができる。


飛べなくても翼が必要なのです、私達には。叶わない夢や希望でも意味があるように、飛べない翼にも意味がある。……サブキャラも含め、ある意味全員そうであったと言えるかもしれません(最もなのがカルラとかーくんでしょう)。そんなことをさらっと気軽に提示した「おれつば」は、個人的には2009年のベストゲームでした。

ということで、以下ネタバレ。





最初に


blockquote要素の引用と、斜体文 での引用が入り混じってますが、閲覧性を考えただけで深い意味はありません。基本的に、タカシはタカシ、ヨージはヨージ、統合後は鷹志で記してますが、細かいところは文脈読んで気合でなんとかしてください(ぉ



はたして、『俺たちに翼はない』とは、一体なんだったのか。
一言で申しませば、「俺たちに翼がないこともないんじゃないか」。牧師さんの言葉でもありますが、このゲームを一言で言えばまさにそうだと、わたしは思っております。
翼がない人間はどう生きていくの? 翼ないのに飛ぼうとするの? 飛ぶふりするの?――そいつは適わにーでしょう。それは彼ら・彼女らが、明白に示している。
世界というのはわたしたちの認識によりできあがる。解釈と申し上げた方がよいでしょうか。他人にとってはともかく――つまり万人共通では無いのですが、”わたしにとっての世界”は、わたしの認識が、解釈が作り上げている。伽楼羅にとっての「グレタガルド」としてのこの世界、翔の「目に見えるものをちょっと誇張して」描き上げる常人には理解不可能な絵、などは典型的でしょう。他にも、タカシにとってのグレタガルド、明日香にとっての弟、京にとっての審級……そして、ヨージくん。世界は、わたし自身の認識により、わたしにとっては、その姿を変える。
しかし上で挙げたような例は、言うまでもなく「無茶」を孕んでいます。だってねぇ、グレタガルドなんか無いしー、翔の目に見えるものは共有できないしー、弟は本当はいないしー。細かいところは後々、各章考察のところで見ていくとしまして。早い話。世界と向き合うにあたり、彼らは何かを心の中で作って(あるいは、自動的に作られて)、それを通して見ているのですが、勝手なそれらには、無茶がある。翼が無いのに翼を捏造して、逃げよう、飛ぼうとしたところで、その模造品では、失墜するのは目に見えている――実際に、してしまっているわけです。
翼のない人間はどう生きるか? となると、それはもう答えはひとつしかないのですね。「地に足付けて」生きる、と。しかしそれでは耐えられないことがいっぱいある。そして本当に耐えられなかった彼ら・彼女らは、翼を捏造してしまうことになった。つまり、生きてくために、世界を自分が作った嘘の目を通して見るようになってしまった。あるいは、自分の目が、防御機構として嘘のように歪んでしまった。「地に足付けて」――幻想・妄想抜きで、世界と向き合うことができなかった。幻想・妄想で自分を守った。
しかしそれは、幻想・妄想ですから、<現実>に根を張っていない、根拠を持たない虚飾の翼ですから、とてつもなく脆いですし、そしてなにより、実際に<現実>と触れ合う際に何の実用的な役には立たない。たとえば、タカシくんを見ればすらりと分かるでしょう。自分を守るという意味で、逃避・防衛的な意味では役に立つけれども、実際的な現実には何の効力も持っていないのです。

でも、実は俺たちにも翼はあるんじゃねえの?っていうのがこのお話。
飛ぶことはできなくても、羽ばたくことくらいはできるんじゃないの?っていうのがこのお話。

「知ってるかい。世界なんて、おまえらみんなたちの心の中にあるチャンネルをひねれば、いくらでも変わってしまうものなんだぜ」
「世界は金色に包まれているのだ――」
「それでも羽ばたくことくらいはできるんじゃないか」


つまり、そういうこと。あなたがわたしの××である、だから世界は輝いている――。

<現実>と接続した、<現実>と接触する際でも崩れない虚飾の翼。俺たちの翼はそこに在る、俺たちにも実は翼はある。それでもやはり飛べはしないし、逃げることは叶わない。でも、それがあれば、例えばあのシナリオやそのシナリオが十全に語ったように、世界は輝いて見える。例えばこのシナリオやそっちのシナリオが十全に語ったように、前を向いて歩いていける。その翼は、飛ぶことも逃げることも叶わないけれど。それがあれば、飛ばずに逃げずに、地に足付けて生きていける。


たとえばこれは、そんなメルヘン。


序:Re


「現実」というものにわたしたちはどう向き合うか?
『俺たちに翼はない』という作品に対するわたしの理解は、そういうものであります。
「現実」――「世界」と置き換えても良いでしょう、見えるものや聞こえたものなどが、知ったことや理解したことなどが、はては推察したことや意識したことなどが、まぁーそれぞれそれなりの重度と境位を持って、わたしたちの「現実」「世界」を作り出していますが、それが『絶対ではない』のは、説明するまでもなく皆さんお分かりですよね。 わたしにはアレがコウ見えるけど、彼にはアレがソウ見えてるかもしれない。 他人も(自分と)全てが同じように見えているとは限らない、というのは、五感を介した知覚面のみならず、その先の感情面でも当然そうでしょう。 人はそれぞれ、同じものを見ても別の理解(認識)をする、あるいはしうる。
例えばここにパソコンが一台あるとして、エロゲ大好きなA君から見たらそれはエロゲができる機械という認識(意味)を強く持つし、ネット大好きなB君から見たらインターネットできる機械という認識(意味)を強く持つし、仕事でしかパソコンに触らないC君から見たら仕事の道具としての認識(意味)を強く持つし、どこかの未開拓部族の方に見せたら何かワケ分からん鉄の箱という認識(意味)を強く持つでしょうし、猫に見せたら食い物でも生き物でもないただのモノという認識(意味)を強く持つのではないでしょうか。いや猫と話したことないから実際のところはわかりませんが。ただ、ともかく、ありとあらゆるものは人によって千変万化な認識を生み意味を持つというのは明らかでしょう。それは突き詰めると――このパソコンに対する認識の違いのようなものを、全ての認識対象において、幾遍も万遍も重ねていくと、すなわち「現実」「世界」に対する認識(意味)の個々人の違いに繋がっていきます。人はそれぞれ、同じものを他人とは別のものに見ているかもしれなくて、そもそもの見る対象(物自体みたいな)それ自体とも違ったものに見ているかもしれない。
そのような、「現実」「世界」の個々人による違い。
いうなれば、主観が世界を作り出す。わたしの認識――解釈が、”わたし自身にとっての”、この世界を作り出している。認識してないものは存在しない、ではなく、ただカオスとして在る世界が、認識(解釈)されることによってはじめてわたしにとっての生きた世界となりうる(認識していないものは認識していないものとして存在する)。「わたしにとっての世界」における――という、認識・意味・価値が、そこではじめて生まれるというわけです。 ただこれには、ひとつ付き纏う問題が……というか、肝がございます。個々人が主観で世界を認識するとして、そもそもその”主観”とは何なのか。そこを突き詰めた先の話をしたいのです。――いわば、”なぜわたしの主観はこのようなカタチなのか”。
わたしの主観を、何が作り出しているのか。たとえば、「世界が輝いて見えている」として、その”わたしの主観”は、一体何が作り出しているのか、何に依拠してそれがあるのか……。

さて、「私」の解釈が「世界」を決めるというのは、ひとつの隘路に嵌ってしまう危険性を孕んでいます。てゆうか、奈落の底で閉塞していた鷹志が、ある種まんまでそうですが。「私」の恣意的な願望による解釈も、その恣意性を上手に隠蔽すれば真実の「世界」として、それに近い「騙す力」を持って彼の前に顕現する。解釈により世界の価値を構造するにあたり、このような落とし穴が存在しうるのです。それをいかに跳躍するか――さて、「ボロメオの結び目」とかいう概念を参照してみましょう。
<もの>としての隣人が意味しているのは、私の同類、私の鏡像としての隣人の背後には、解消不可能な<他者性>という、「飼い慣らす」ことのできない怪物的な<もの>という計り知れない深遠が常に潜んでいる、ということ。――『全体主義 観念の(誤)使用について』(スラヴォイ・ジジェク)
つまり他者が<現実的なもの>であるからこそ、遂行的なものや象徴的なものの関与に頼る必要がある、ということです。他者ってホントは理解不能で付き合い不可能でそれに向き合うとかちょうヤッベーからさ、なんか置き換えたり先入観持ったりしなきゃ無理ッスよ、という話。その<他者><もの>を「現実」「世界」に置き換えると、この場合(『俺つば』で援用する場合)グッとくるでしょう。
わたしたちが見ている他者の背後には、飼いならすことのできない接触不可能な<他者>が潜んでいる。普段他人と接する時は、「この人はこういう人だ」みたいに、自分の中で何らかの位置づけをして(つまり象徴的な場所を与えた上で)いるでしょうけど、実はそれって、正当性・正確性を担保するような根拠が何も無いわけですね。「わたしが思う○○さん」――これは「その人のタイプ」みたいな、大雑把な括りだけではなく、性格・資質・好きな食べ物からよく見るテレビ番組、怒りっぽいとかしょっちゅう笑うとか、こういうこと言うと嫌がるとかああいうこと言うと照れるとか、もうとにかく細かい部分まで、わたしたちはその他者を「認識」しているわけですけど、それはこれまでの会話や行動、記憶や情報などから自分が「解釈して」生み出してしまった、わたしの中の○○さんであって、その裏にある、本当の――<現実的なもの>としての○○さんと、ぴたり同定するとは限らない、つうか同定する確率はもの凄く低いと言わざるを得ないでしょう。しかしそれでも尚、現実的な他者に向き合い、その上円滑にコミュニケーションを執るなどというのは事実上「不可能」であるからこそ、「ボロメオの結び目」――遂行的なものや象徴的なものが、他者と接する際に必要となるのです。
これは「現実」「世界」に対しても言えるわけで、本当に、素で、客観として、虚心坦懐無色透明で「現実」に接することなんて、人間できないでしょう。てゆうか、これが、ここでいう『主観』と呼ばれてるものというわけです。「現実」に接するものに何かしら象徴的な位置を与え、想像的な関与を孕ませる。
知覚なり、感情なりに、なにかしらのバイパスが(無意識に)かかっている。人が他人に接するときもそうだし、人が現実に接する時もそう。世界が輝いて見えないのであれば、その人はそういうふうに世界を見ているだけであり、世界が輝いて見えるなら、その人はそういうふうに世界を見ているだけ。もちろん「見る」だけじゃなく、「理解」「感情」「意味」――つまり「解釈」、その辺も含めて。わたしたちが、世界を見る際に、理解する際に、そこに何かの感情を抱く際に、”自分というものを通して”いるのは、否定しようがないでしょう。
ただし、単純に、主観、自分という目のみを通して世界に接すると、奈落に落ちた鷹志くんのように、自分を騙す世界というのも構築することができてしまう。精神的充足を願い、つまり精神的欲望に則った世界を作り出し、肉体的充足は自分が作りだした奴らにまかせて、そこに篭ることができる。それを打破するのが、「ボロメオの結び目」。<現実>(<現実的なもの>)に繋がる、遂行的なものや象徴的なもの、という構造。
ここでは主観なるものが、現実を根拠として成立している。
つまり、世界が輝いて見えるためのフィルターを己の中に構築するのですが、それだけでなく、それが「自分の外」に繋がっている。そこを根拠に、世界が輝いている。
世界の価値は私たちの解釈の内にあるということ。

捨てるのは「夢ラジオ・夢テレビ」であり、自分が勝手に作り出した幻想(暗いところで一人で寂しくないように(暇しないように?)おれが作った――みたいなことを述べちょりましたね)を捨てろということであり、”それだけ”。妄想、幻想、それ自体を全部捨てる必要はない――てゆうか人間、それは適わないんすよ。わたしたちは常に世界をダイレクトに受け取っているのではない、自分というフィルターを通して受け取っている。あるいは。主観があり、はじめて世界が出来上がる。
そこには何かの妄想や、幻想が、ちょっとは絡んでるわけですね。たとえば、あの人のキャラはどうだーとか、ここは縁起がどうだーとか。その存在自体は否定しえない。否定しようがない。でも、自分が勝手に作り、何の根拠も無くて――<現実>に繋がる根拠が無くて、かつその根拠の無いことに目を瞑り、騙され続けるような主観は、否定される。そこで見ているのはもはや世界ではない。たとえ輝いて見えてても、いかなる<現実>にも繋がらないそれは世界とは言い難い。
『俺つば』は、幻想や妄想を否定しているのではなくて、わたしたちは常に、少なくとも、何かしらの、妄想や幻想的な自分というフィルターを通して世界に接していて、その妄想や幻想は否定しえないけれど、そうじゃない、ただの逃避・回避みたいなものは捨てろというか、要するに「甘ったれるな」と言ってる、そんな感じだと思うのです。言い換えるなら。「現実」を、お前の妄想や幻想の仲間に――その輪の中にちゃんと入れてやれ、と。


さて、個別シナリオについての話は、またそのうちの機会(いつになるのか超・不明)に回すとしまして、今回はラストシナリオについてを記していきたいと思います。(※ここまでに書いた文は個別シナリオに繋がる話もあるので、最終的に話が繋がってなかったり放置されたりする問題意識もありますがw。今回はヨージくん~ぱね田編だけ。次回というかそのうちに続きます)


羽田ヨージ:羽田鷹志


はたして世界とは何か? 現実というものは何か? それは、わたしたちの心の持ちようで変わりうるものなのではないだろうか?

カケルくんはこう語ります。
翔「知ってる? 視覚情報ってのは脳細胞から電気信号になって大脳へ達するんだよ。だから、おまえらが鏡の前に立てば、各自でそれぞれ違う姿が見えるんだろうけど――」
鷹志「な、なんだいきなり」
鷹志「うん? 要はアレか。俺たちが知る俺たちそれぞれの顔や姿は、俺たちの脳味噌が勝手に錯覚しているだけって言いたいのか?」
羽田鷹志、千歳鷲介、成田隼人、伊丹伽楼羅。それぞれの姿は、このモニターに写される画面の上では、それぞれに異なっていて、そして恐らく、彼ら自身も、実際に自分の姿を”それとして”認識しているでしょう――隼人編での和馬の台詞 「おまえら各自で、てめえのツラどんな風にイメージしてっか知らねーけどさ、外から見りゃ羽田も成田もフツーにおんなじ顔だぜ? まあ、声とか喋り方はだいぶ違ってっけど」 、おそらくこれが、彼らの自己認識に最も近いのではないでしょうか。他人にはそう見えないけど、自分には自分が、そう見える。ただ伽楼羅はともかく、鷲介や隼人は、たとえば渡来さんと出くわした時の反応などからも、「他人にはみんな同じ(羽田=千歳=成田)に見える」ということをある程度自覚していると思われます。
他人にはそう見えないけれど、わたしにはそう見える。
ヨージのところでも同じ様なものがありましたね。『真実の鏡』。
古いかがみがバラバラにおっこちて、でもそのうらには、あたらしいかがみがあった。
そこにうつってんのは、子どものおれじゃなかった。

ヨージは自分自身を子どもと認識していて、しかも彼には視覚的に「そう見えていた」。
(このシーン、少し憶測が入りますが、テキストの描写やCGの描写などを鑑みるに、本当はそこに実際の鏡自体すら存在していないかもと考えることもできます。――鏡と聞いて首をかしげるような、どこにあるのといったニュアンスの小鳩の反応、 かがみってゆってんのに、小ばとはフシギそうにあっちこっちキョロキョロした ――もしそうだとするならば、これは多分、小鳩には見えていない、ヨージにだけ見える鏡、つまり実際には存在しない、ヨージのためだけの彼の心の中に捏造された鏡面でしょう。自己像を心のスケールに合わせて(心的において)健全に保つための、自己同定のための、客観性のフリをした主観的な偽りの鏡なのかもしれません。つまり、ハナから嘘の鏡面を用意しておけば、本当の鏡面に触れることすらなくて安心・安全ということ。)というかまあ、そうじゃなくて、実際に鏡があった(割れたのはヨージにとってだけですけど)としても、話は変わらないのですが。
それが嘘だと知ったら――信頼に足る小鳩の言葉で否定され、その鏡面が偽りだと知ったら――鏡の幻を自分自身で信じきれなくなったら――虚飾の鏡は崩れ、偽らない真実の鏡が姿を現す。

世界は、自分の見たいように見れる。というと、少し語弊があるかもしれない。ただ、世界の見方は、幾通りにもある、ありうる。
もう少し噛み砕くと、世界やら現実やらは、それをどう見ても、本物・真実と呼べるようなもの(イデアでも物自体でも現実界でもいいだろう、それがもしあるとして)を、見ることは叶わない。何かしらの主観を通してしか見れない。羽田鷹志、千歳鷲介、成田隼人、伊丹伽楼羅。彼らほど――彼らの主観ほど極端でなくても、それはわたしたちにとっても同じ。
なるほど真実は見えない。本物や本当と呼ばれるような世界や現実に触れ得ない。わたしたちが知る世界は、わたしたちが生きる現実は、わたし自身にとってのものだ。どこまでいっても。差は極僅かでも、極大でも。完全に同着することはまずありえない。
だけどこれって、本当はもの凄い利点なんじゃないだろうか。
そこにはさ、あらゆる困難や苦難も乗り越えられる可能性も秘められてるんじゃないかな。
アレができない、コレがない、ソレが程遠い、「だからムリ」「だから自分には叶わない」。そういう隘路を、抜け出すことができるんじゃないだろうか。そういう塞ぎこみたくなる認識を、飛び越えることができるんじゃないだろうか。
たとえば。
悪意も。不人気も。敵だらけも。誰かをやっつけてやりたいと思う気持ちも。心的現実で母を殺していたことも。
それが今の自分の認識という真実でない鏡に写されたものだと知れば、別の鏡で、別の認識で、別の思いで、その奈落に逃げたくなるようなそれらを、あるいはグレタガルドに逃げ込みたくなるようなあれらを、飛び越えることができるのではないだろうか。
鷹志「ねー、コンドルさん。おれ、こんどは逃げないで上手く生きられっかな」
DJコンドル「知ってるかい。世界なんて、おまえらみんなたちの心の中にあるチャンネルをひねれば、いくらでも変わってしまうものなんだぜ」
主観化し尽くされるものはない。どのような主観も決して真の意味での正しさに辿り着けないという前提におかれている。どのような主観の果てにも、曖昧さと決定不可能性は確固として残り続ける。わたしの主観は、正しくない可能性を孕み続ける。
ならばだ。ならば。この主観が正しくないというならば、別の主観にジャンプすることもできるのではないか?
チャンネルを回すように。
まったくありえないものは妄想になる。譫妄になる。そこで見ているのはもはや世界ではない世界、現実ではない現実。夢テレビや夢ラジオと大差の無いようなもの。そんなことは、翼がある者にしかできない。でも、翼がない人間にだって、羽ばたくことくらいはできる。
翼がなくたって、少しくらいは。
わたしの主観が、わたしを飛び越えることができる。
誰かが言ってたろ、チャンネル変えれば世界も変わるって。
タカシの空は、厳しい寒さに慣れてしまったくすんだ白だった。
隼人の空は、まばゆい輝きを覆い隠してくれる群青だ。
そんなふうに空の色が心のチャンネルで設定できるのだとしたら、そうだとしたら、俺たちの空はラブとピースとハッピーに満ちた華々しい薔薇色だ。

心に薔薇色のコンタクトレンズを被せた新しい俺。薔薇色の世界を生きる俺。ラビアンローズ俺。
羽田鷹志(統合編)は、そういうお話でもある。言葉を換えれば。おっかながって引きこもっていた兄ちゃんが、妹のため、そして妹が応援してくれるから、頑張って外に出て、逃げないで、俺の世界を薔薇色にして、新しい生を生きる。そういったお話。


さて、「薔薇色」ってのは何だ。薔薇色の青春。なんかすげー楽しそうな感じとか輝いてる感じとかウキウキしちゃう感じだというのは伝わりますが、具体的には。
鷹志のこの言葉が、具体的に何なのかを一番言い表しているでしょう。
鷹志「なあ渡来明日香、おまえの世界は何色だ?」
明日香「んーそうねー、羽田君じゃないのに気安く話しかけるな色かな」
鷹志「ははは、そうか! 俺は友達百人できるかな色だ! いやはや、生きてるって素晴らしいなあ!」
「友達百人できるかな色」。
友達が欲しーんです。楽しい世界が欲しーんです。どうやったら手に入るか。世界を楽しくしちまえばいい。みんなと友達になろうとしちまえばいい。コンタクトレンズを被せろ、チャンネル廻せ。認識を変えれば世界が変わる、ということは、今とは別の世界が、もっと素晴らしい世界が、薔薇色の空が、すぐ隣に口を開けて待っているかもしれないということ。
少し前に引用した文章。あれはこのように続きます。
鷹志「ねー、コンドルさん。おれ、こんどは逃げないで上手く生きられっかな」
DJコンドル「知ってるかい。世界なんて、おまえらみんなたちの心の中にあるチャンネルをひねれば、いくらでも変わってしまうものなんだぜ」
鷹志「新しいせかいも夢テレビとか夢ゲームみたいなトコだったらいいな」
DJコンドル「廻せ廻せ、チャンネル廻せ!」
鷹志「みんながやさーしくて、おれが人気もので、ヤなこと全ぜんないーくて、まいんちずっとおもっしぇートコだったらいいな」
DJコンドル「廻せ廻せ、どっかにあるさ!」
妄想でも、願望でも、譫妄でもなく。そうなるように努力して、そうなるように動いて、そうできるような人間になれば。その心の中で、世界はそういう風に色を変える。認識を変えてしまえばいい。それは妄想でも譫妄でもない。象徴化されたものの、存在そのものを、配置そのものを変えてしまえばいい。自分自身の、象徴的な位置を動かしてしまえばいい。それは幻でも夢でもなく、自身にとっての『現実/世界』となる。現実/世界は変えられる。手の届かない「本物の」それは不変的であっても、薔薇色に生きる俺が薔薇色に見れば、俺の知る現実/世界は姿を大きく変える。たとえば、ほら―― なんだか子供のころに戻ったみたいで、目に映るものすべてが新鮮かつ驚きの対象だ。ああもう、なんだかむずむずしてきた。子供のころみたいに、この新鮮な驚き、世界に自分がいるという歓び、いま止めどなく溢れる感情、それらすべてを大きな声と体全体で表現したい。うおおお、生きてるって素晴らしいィィィー! 統合二日目、ただ通学路を歩いてるそんな事柄だけでも、これほど、世界を素晴らしく感じ取ることができる。現実/世界は不変でも、俺の中で、現実/世界が素晴らしいものへと変化している。 「空の色は君次第だから」 という、その鷹志の言葉通りに。


過去のヨージにはそれが出来なかった。というか無かった。どうしようもが、無かった。
このやろう……どいつもこいつも……なんでおれン家ばっかいじめんだよ……!
どこのだれだよ! おれたち、いじめんのは!
俺は俺の大事なものを傷付けようとする悪意に憤りを覚えた。
誰かをやっつけてやりたいと思う気持ち。
(ヨージの目からするところの)自分の身に降りかかる、不幸・不運。なんで恵まれてないの?なんで疎まれるの?なんで悪霊くんの?なんで田畑の兄ちゃん怖えの?なんでおれン家にばっかやなことおこんの?なんでみんながやさーしくて、おれが人気もので、ヤなこと全ぜんないーくて、まいんちずっとおもっしぇートコから、ここはこんなに遠いの?
何でか分かんない。誰が悪いのか分からない。けど、とにかく、自分に降りかかる、不幸・不運。良くないこと。悪いこと。気分悪いこと。体が悪いこと。口で罵られたり。手でぶたれたり。その対象は、自分だったり、小鳩だったり。でもそれは誰がやってんだろ。おかあさんじゃない。「悪霊」は、おかあさんじゃない。悪いほうのおかあさん。でも、なんでそんなもんがいんだよ。だれがそんなことやらせてんだよ。だれのせいだよ。どこの誰だよ。俺の大事なものを傷付けようとする、この「悪意」。
誰かをやっつけてやりたいと思う気持ち。対象は、誰でもない。「誰か」というのは、特定の「誰か」ではない。「どこのだれだよ」の、「だれ」。おれたちをいじめる、この悪意そのもの。

そんなものに対し、この僅か小さい子供で、どう戦えというのだろう。この世界を、この空を、ラブとピースとハッピーに満ちた空にどうやったら見えるというのか。――それこそまさに「どうしようもない」。しかもヨージには、それでもまだやらなきゃならないことがあったから、さらに「どうしようも」なくなった。 俺はここから逃げてしまいたかった。だけどどうしても大事なものを守りたかった。 この悪意からただ逃げるだけじゃダメで、そんなわけにはいかなくて、大事なものを、一番大事なものを――小鳩を、どうしても守りたくて、でも逃げてしまいたくて、でも守りたくて、でも逃げたくて、だから――さきほどの引用文の直後、 狂っちゃおう、気楽に。俺はモウロウとした意識の中で、それはいい考えだなあと思った 「気楽に」、狂っちゃうことを選んだ。気楽になれる。気楽になるために。気楽になりたいから。狂っちゃおう。


周りは「悪意」という名の敵だらけだった。そこから逃げた。大事なものを守れる手はずを整えて。狂って、気楽になる。気楽に、狂う。そして彼曰くの ヒミツき地 こと、奈落に引きこもった。
 奈落の底で、羽田鷹志はひたすらに遊び続けている。彼を楽しませるもの、望んだものしか存在しない世界。鷹志はそこから一生離れたくないと願っていた。
 (「邂逅~バーサス羽田鷹志~」のあらすじ文より)

ここはらくちんな世界。ヤなことはまったくない。
夢テレビが映しているのは、みんなが羽田ヨージを絶賛する世界。みんなが羽田ヨージのこと大好き。ここでなら、話し合わせるためにウイングクエストやって、必死に攻略して、コブリン役でもいいからごっこ遊びに加わって、とか――そんなことしなくても人気者。 世界の誰もがオレを好きィ! 矢印みんなオレに来るゥ!(「武士は食わねど鷹☆ヨージ 第一話:図工の王子様」より) まったくもって。クラスの中心で、みんなの中心で、ヤなことはなくて、楽しいことだけが続く。みんながやさーしくて、おれが人気もので、ヤなこと全ぜんないーくて、まいんちずっとおもっしぇートコ。

ヨージはそこから、出たくなかった。
ヨージ「ヤぁだってば。おれ、こっちのがたのしーんだも。表のせかいなんか、ぜってー行かねえよっ」
ヨージが「ここから出たくない」「外はヤなことばっか」「奈落帰りたい」と述べる文章は、引用しきれないほどありますよね。おまえもうどんだけ外が嫌で奈落がいいんだと言いたいくらい。どんだけっつうか、そんだけです。そんだけ奈落のがいいんですよ、外が嫌なんですよ、このひと。
(ガルーダにぶたれて)
ほら。ほうら。やっぱりじゃんか。
だからひとりのがいいんだ。だからおれは、ひとりのがぜってーいいって、いつも言ってるんだ。

いくらバカなおれでも、あそこで夢テレビ見て偽モンの人げんと遊んでるだけなら、だーれもションボリさせないですむじゃんか。おれもションボリしないですむじゃんか。
小ばとは妹だから大好きだけど、そんでもおれ、やっぱ本モンの人間はめんどくさいや。
本モンの人間はめんどくさい。向こうは暴力ふるってくるし、こっちも、願ってなくても暴力ふるってたり、相手をがっかりさせたりしてしまう。本物の人間と触れ合うということは、常に、裏側に、いや表側に、そういう可能性を孕ませるということ。いやもはや蓋然性といえる。他者性が持つ圧倒的蓋然性のひとつとしての暴力性。必ず裏側に潜んでいる<現実的なもの>としての脅威の他者。誰かに、誰かを、傷付けたり傷付けられたりしないで、関係を――本モンの人間と関係を、結べるのか。それらは、蓋然的に付随してくるんじゃないか。


でもそれだけじゃない。その他者性には、暴力性のほかに――他者だからこそ、自分で作って、ひとりで全役やってた夢テレビでは叶わないような、楽しさがある。自分一人では知りえなかったもの。自分一人では届かなかったもの。
夢テレビよか楽しーかもねー。
小鳩とキャッキャウフフしてたときの一コマ。ものすっごくぶっきらぼうに言っちゃえばエッチ楽しいな、性欲最高!みたいな話かもしんないですけど(笑)、でもね、重要なのは、「楽しみを見つけた」ってこと。この外の世界での、他人との触れ合いのなかでも、楽しみを見つけられる、楽しいと感じられる、そこに楽しさがある。しかもそれは、<現実的なもの>としての他者性の中にしか存在しない(象徴限界としての現実界の享楽=余剰快楽である)ところの身体的接触なので、グレタガルドにそれは存在しない(「偽物」としてなら存在しうるけれども)。 ヨージは短い期間の間に、現世に楽しみを見い出していた(「救いの風~表に出よう~」のあらすじ文より)。 自分の思いどおりにならない外の世界にも、楽しさはあって、しかも夢テレビ――自分の思い通りになる虚構、伽楼羅曰く 「都合のよい追憶と妄想ばかりを縫合した、非生産的なまやかし」 ――あの夢テレビよりも、楽しいものがそこにある。楽しいものを、そこに「見い出せる」。
DJコンドル「RN一番目クン、君はもう奈落に戻ってこないのかい?」
ヨージ「んー、わかんない。だってさだってさ、上のせかいも、さいきんは意外とおもっしぇーみたいでさ。まあ、夢テレビとかもおもっしぇーんだけど、やっぱ本モンのほうが――」
戻った直截的な理由はふたつ。
外が面白いから。面白さ、楽しさを見い出せるから――そういう世界だと知ったから、そういう世界に見れると気付いたから。そして小鳩がいるから。待ってるから。待たせてるから。待たせてることに、気付いたから。
あいつはホークとかイーグルとかファルコンじゃなくて、ずっとおれんコトまってたのに。
そんなのに、またおれ逃げてきちった。また小ばとんコトほっぽってきちった。
楽しいことは外にある。小鳩にある。会いたい小鳩は外にいる。待たせている小鳩は外にいる。
だから、外にいける。
楽しさはそこにある。楽しさはそこに見つけられる。既に担保されている。小鳩がいるから外にいける。小鳩がいるから立ち向かえる。この時点では「お兄ちゃんパワー」と言っていたそれ。それは後にも示されていました。
(かつて住んでた場所に、過去を辿りに戻るとき)
鷹志「でも俺のことだからまたすぐに逃げだすかもしれないじゃん」
小鳩「なんですって」
鷹志「だから引きこもってた俺が外に出たいと思えたきっかけっていうか」
小鳩「うん?」
鷹志「小鳩が応援してくれるなら、頑張れそうな気がする」



さて、話が長くなりましたが、ごめんまだまだ続くぜ。


「友達!」

タカシの残務処理における「クラスに友達を作る」を見た時の反応です。フォント大にして「友達」。そうそう、友達が欲しーんですよ。夢テレビなんてまさにそうでしょ。クラスメイトみんなが「ヨージ!ヨージ!」、森羅万象が「ヨージ!ヨージ!」。俺が愛されて、俺が人気者で、俺に友達がたくさんいる世界。ある意味夢テレビと同じ、楽しく嬉しい世界を作り出そう(認識できるように象徴化しよう)ってんのなら、友達は不可欠。上にも書いたように、<他者>に楽しさが見い出せるんだから、夢テレビじゃない、本モンの人間の友達がなお欲しい。つうか元々、友達が欲しい。てゆうか彼自身が独白していますね。 「友達!」。なんだ、タカシもいいこと言うじゃないか。俺の中の5分の4は、友情というものに飢えていた。 飢えていた。
たとえば、かつてのヨージは。必死こいてウイクエやって、みんなに置いてかれないように、みんなに混じろうとしていた。欲しいから。友達欲しいから。楽しい世界のがいいから。でも叶わなかった。
鷹志「あの当時、男子のあいだじゃあれがすっげえ流行っててさ。あれやってないやつは、どこのクループにも入れてもらえなかったんだ」
俺はただでさえ、忌まれ、疎まれ、弾かれるガキだったから、なおさらに必死だった。

家庭環境、力関係、……もはや何となくと呼べるくらいの、必然的な悪意ではない、何となくと呼べるレベルから生じる悪意。子供ってそういうもんですよね。子供の残酷さってのは、象徴的な位置があまりにもころっと変わる癖に、あまりにもそれに支配されているという残酷さ。あいつは○○だから××していい、というのが、簡単に遂行レベルに引きあがってしまう。
家庭環境やらなにやらで、忌まれ、疎まれ、弾かれるガキだったヨージは、それゆえに、みんなの仲間に加わるため、友達になるため、必死だった。
「他人の顔色を窺って、媚びて恐れて相手を立てて、そうやって辛うじて輪の中に自分の居場所を確保したとしても――」「――それでも些細な失敗や不運が起これば、すぐに天秤は引っくりかえる」
隼人のところで挙げた言葉。まさにヨージのことじゃないか。決して無条件に慕われるわけでも親しまれるわけでも無かった、むしろ疎まれる対象だった彼は、ゲームをやり込んでやり込んで彼らに溶け込もうと必死に媚びて、喧嘩の強い相手に恐れながらも愛想を浮かべて、そうやって辛うじて輪の中に自分の居場所を確保したけれど――彫刻刀、たったひとつの失敗と不運、それだけで、必死こいて入った輪から放り出されてしまった。
孤独なエピソードはいくらでもある。そして、孤独だという事が色濃く分かるエピソードが、その前にある。呼んでるのに誰も来ない――むしろそれ以前の、無視されてるレベルだった小鳩の誕生会。いつ呼ばれてもいいように準備していたのに、誰にも呼ばれなかった現実―― 「一応いつ呼ばれてもいいように、ウイクエとウイクエごっこの練習だけは欠かさなかったんだけどなあ。でもいくら待っても誘いが来ないんだもん。そりゃ勝手に一人四役とかやるしかねーっつうの」 。これらが明らかにするのは、自分の立場。自分では孤独ではない、仲間に入れる、友達かもと思っていた/期待していた・希望は持っていた(からこそ、人を招こうとしてたし、待っていた)のに、事実は、まったくそんなことなかった。彼は孤独だし、仲間じゃねーし、友達でもなかった。孤独で、仲間もいなければ、友達もいなかった。でも、それを期待していたということは、期待して練習し続けていたということは、待っていたということは、翻れば――呼んで欲しかった、仲間に入れて欲しかった、友達が、欲しかった。

でも叶わなかった――どうしようもなかった。世界は楽しくない。現実は楽しくない。悪意がある。理不尽なくらいに。友達はない。理不尽なほどに。逃げてしまいたかった。でも、大事なものを守りたかった。けれど、逃げたかった。それでも、大事なものを守りたかった。それを叶えるにはどうするか。全部叶えるにはどうするか。もうひとつしかない。すべてを成し遂げる方法はひとつだけ。狂っちゃおう、気楽に――。
どうしようもなかった。
でも、だからこそ、やり直せるかもしれないんじゃないだろうか。
世界は認識だ。主観だ。わたしのなかに象徴的に全てがある、ならば、ヨージは、もう、どうしようもなくなってしまったけど、理不尽なくらいの悪意と理不尽なほどの孤独に浸されているのが、彼の中の世界/現実だったけど。それは絶対の真実じゃなくて、彼のひとつの主観だ。あの世界/現実を彼はああ見ていたからこそ、彼の中であの世界/現実はああだったのだ(不定形な「悪意」の存在こそが、まさにそうだろう)。ならば。ならばこそ、それを飛び越えられるのではないだろうか。自分の主観を自分で飛び越えられるのではないだろうか。俺たちに翼はない。捏造することは叶わない、まがい物の翼じゃイカロスになる、けれど、地に這いはいつくばるだけが脳じゃない、飛べなくても、「羽ばたくこと」くらいはできるのではないだろうか?

世界は変わる。いや、世界自体は変わらない。だが、わたしが世界を変えてみれば、世界はわたしの中で変わる――というか、変えていける。わたしが変わるから、世界が変わる。思い込みじゃない。「そう、それだ」じゃない。<現実>に繋がる、遂行的なものや象徴的なものを変えていく。変えていくように、自分自身も変えていく。そこでは主観なるものが、現実を根拠として成立している。世界が、空が、薔薇色に見えるためのフィルターを己の中に構築するのですが、それだけでなく、それが「自分の外」に繋がっている。そこを根拠に、世界が、空が、薔薇色に見える。妄想でも妄信でもない、れっきとした、現実に在る世界/現実だ。
そいつは可能か? 可能なはずだ。今の羽田鷹志ならば。
牧師「なあ、がんばれよおまえたち。みんなで力を合わせて過去を乗りこえろ」
牧師「空を見ながら羽ばたいていけ」

逃げようと誰かが言う一方で、逃げるなと誰かが言っている。
思いだすなと誰かが警告する一方で、勇気を出せと誰かが言っている。
勇気を出せ。現実から逃げだすな。俺たちが付いてる。俺たちは無敵だ。
いまなら俺たちは飛びだせる。
昨日までの奈落も、今日からの俺たちならひとっ飛びだ。
牧師「ひとは一人では生きられない。そう考えれば、つねに兄弟や妹と一緒にいるきみは心強いじゃないか」
俺や俺が俺を支えていた。
そうして俺は、昨日の現実を受け入れることができた。

俺が俺や俺の力により認識の隘路を跳躍する。ひとつの主観ではダメになりそうなものも、別の主観の俺の力により跳躍する。彼の中に5人分のクオリアが同時にあるような状態、ということが述べられていましたが、それは裏を返すと、たとえば、タカシのクオリアだけだったら絶対逃げてたであろう「悪意」との出会いも、彼の中の、別のクオリアの力で、逃げないで向かっていくことができる。どれか一つだけが答えではない。どれもが正解で、どれもが正解じゃない。ならばそれは、逆に、無限の可能性がそこに秘められているということじゃないのか? Aで勝てなければ、Bで立ち向かえばいい。Cが苦手なものは、Dで克服できる。
ならば乗り越えられるはずだ。いくらでも。たとえば、かつてのヨージはその可能性すら失ってしまった――認識の隘路に嵌っていたけれど、今ならば、いくでも薔薇色に見ることができる。いや、見るどころじゃない、世界を薔薇色にすることができる。
上記引用文の直後に、こう綴られる。
俺が変われば世界も変わる。

そうなのだ。俺の生きる世界は、俺の生きる世界でしかない。つまり、昨日の俺が生きる世界は、昨日の俺が生きてた世界でしかない。今日の俺の生きる世界とイコールではない。それは、変えることができる。俺が変われば世界も変わる。昨日までの奈落も飛び越えることができる。
空の色は君次第。別の認識を持てば、変えられる。それは不変だけど、不変じゃないのだから。

それが、鷹志の廻したチャンネル。あるいは、そこに辿り着く方法。
鷹志「みんながやさーしくて、おれが人気もので、ヤなこと全ぜんないーくて、まいんちずっとおもっしぇートコだったらいいな」
その世界を作り出す。友達百人作っちまう。かつて叶わなくて、しかたなく夢テレビで虚位に叶えていたそれを、今度こそは、現実で叶えようと。夢でしか手に入らなかったその幸せ――友達を、今度は本モンで手に入れる。
友達。
そう、だからこれ、攻略はないんですよ。こいつら友達だから。俺の中の5分の4が渇望した友達だから、攻略なんてないんです。ほとんど接点のない山科にも、 「友達が辛ければ心配するだろフツー」 、同じくちょっとした知り合いだけである鳴にも、 「友達なんだからこれくらい、別に普通だと思うぞ」 、統合後彼女たちと一回目・二回目に会った時点で既に、こう、友達。「友達百人できるかな色」。友達として接する――あるいは、友達の方に、象徴的位置がシフトする。友達として接しているから、あんなに外面構築しまくる渡来さんですら素の表情を見せまくりなのです。YFBのやつらに妙な感慨覚えるわけです。ハリューとお互いに口元をにやりと引きつらせるわけです。友達。そいつは鷹志にとっては、そう、森里君に電話したときのモノローグ―― 「森里君だ!」 俺の中の一部分に、ぱあっと春の陽光が射し、その暖かさはたちまち氷を溶かすように、全体へ広がった。(最初の電話時) このような、強靭さを持つ。全てを溶かすような最もな暖かみ。
まさにその点で、クロスオーバー、あの写真などは、友情の結晶化されたイメージのようなものなのです。撮り手として、この集団に繋がっている。登校時に妙に色んな奴の組み合わせが見れる――というか、「見る」のも、そう。そういう位置だからそういう現象に注視が働く。ガード下の舌戦にはコーダイン・京まで加わるし、さらにはカケルくんが、多分ハリューも、そしてなによりカルラが欲しがっていた、子供が友達同士でやるような遊び(鬼ごっこ)まで成し遂げる。
みんながいて、そこにちゃんと自分もいれる、楽しい世界。
何よりも渇望していたもの。あの異常に盛り上がる鷹志くんの様子―― 異常なくらい……わくわくする…… やばい。最近少しでも楽しそうなことを見つけると、落ち着かなくなる。 が、その渇望っぷりを、逆説的に証明しているでしょう。
まるで夢テレビのような楽しい世界。
そいつを本モンで手に入れる。それが羽田鷹志の「薔薇色」の世界、薔薇色の現実。ここからの羽田鷹志。
これは俺たちの物語。
俺たちに翼はないこともないんじゃないかなあ、っていう物語だぞ。




羽田鷹志:Re



しかしさあ、どう思います、これ、ねえ?
いやね、この読みはね、ここから記す読みはね、もしかしたら穿ってると思われるかもしれません。そいつは深読みしすぎとか思われるかもしれません。僕も最初はえーこれねーだろとか思ったよ。でもねえ、何度読んでもねえ、疑念が残るんですよ。「本当にそうなの?」、と。100%確信して「本当にそう」とは思えないんです。とてもじゃない。この味は嘘をついてる味な気がするんです。これこそ認識、これこそ心的現実なんじゃないか。
でも、ですね。むしろ、ですね。だから、ですね、僕は思うわけです。ここに疑念が残るからこそ、本当にそうだとは思い切れないからこそ、言うなればこれこそが、「ないこともない翼」なんじゃないかなあと。


埼玉にて。過去を巡る旅。
過去が判明するシーン。過去と向き合う場面。トラウマと対峙するとき。それを乗り越える、ここ。
結果的には、乗り越えてる。結果的には、向き合ってる。しかしこの乗り越え方、向き合い方は、真実とはとうてい思えない――というか、これこそ、その「ないこともない翼」ではないだろうか。「ある」わけではない。でも、「ない」ことも、ない。
たとえば、もっとも象徴的なのは、この、自分が何をやったのか思い出したシーン。
鷹志「ううっ……俺が、俺が大好きなお母さんを!」
小鳩「お兄ちゃん!」
鷹志「ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさあい!」
心からの懺悔だった。
だけど赦してもらおうとは思わなかった。当たり前だ。赦してくれるひとはもういないのだから。
そうだ。俺は赦されたかった。
だから自らを断罪した。
消せない十字架を背負った俺に、この素晴らしい世界からの追放を宣言した。
奈落行きの終身刑を科して、二度と陽の目を見るなと命じた。
そして小鳩を守るために別の自分を残していった。
思い出してしまった。

なるほど全部思い出したか、と言うのはカンタン。でもここなんか、違和感覚えないでしょうか?

つじつまが合わない。道理に適わない――いや、不自然に道理に適ってる。つまり、胡散臭い。プレイヤーにすら気づかせないくらいさらっと流しているけれど――いや寧ろだからこそ、ここに見える詐術が加速しているのだけれど――よくよく見ると、何か、いや大きな、違和感を孕んでいる。

「この素晴らしい世界からの追放」。統合後の鷹志くんはこの世界のこと大好きっぽかったですけど、ヨージくんって、「この世界が素晴らしい」なんて思ってましたっけ。思ってないよね、殆ど。 あのころの俺は、学校が大嫌いだったんだ。 で、 なんでおれン家ばっかいじめんだよ……! どこのだれだよ! おれたち、いじめんのは! と、世界(自身の世界)を取り巻く不定形の悪意にやられまくってませんでしたっけ。この世界のことを素晴らしいなんて思っていましたっけ、このひと。そう思ってないテキストは死ぬほどありますけど、そう思っているテキストなんて、どこにありましたっけ。
「そうだ。俺は赦されたかった」。「そうだ」? 本当に「そう」なの? たしかに赦されたい気持ちはあるだろうけど、その一言に、彼の心情を要約できるほどの赦されたい気持ち? ちょっと疑念が残りませんか。ここでの「そうだ」は、なんか、まるで、タカシくんの口癖「そう、それだ」を思い出させる。
「自らを断罪した」。そうでしたっけ。狂っちゃおう気楽にじゃなかったっけ。罪の意識でしたっけ。「狂っちゃおう気楽に」と罪の意識は、どこまで相関するの?
「奈落行きの終身刑を科して、二度と陽の目を見るなと命じた」。あれ、「嫌なことがあって」逃げてきたんじゃなかったでしたっけ。 「おれ、あのころ表のせかいヤんなっちゃって、ならく行きたかったんだけど」 。少なくとも、後ろめたさなんて微塵も残っていませんでしたよね。俺はあの素晴らしい世界に生きている資格がないんだ、だから奈落にいるんだ――そんな感じの思考は、”ひとつとして”ありませんでしたよね。 「おれ、こっちのがたのしーんだも。表のせかいなんか、ぜってー行かねえよっ」 、表のせかいより奈落の方が全然楽しくてそっちに行きたくないから、スーパーガンバルモードでフンばっていたんじゃなかったっけ、このひと。

自分への罰として奈落行きを命じた。そんないいものだっただろうか。単純にそういう意味だっただろうか。そういう意味が含まれていたとしても、「逃避」という意味もまた含まれていたんじゃないか。むしろメインは、本質はそっちじゃなかったかだろうか。てゆうか、上記引用文、「思い出してしまった」の直後に続く文章が、ソッコーで「逃避」の要素を証明しています。
鷹志「う、ううっ……うううう……」
鷹志「もう……もうやだ……おれ、かえる……」
鷹志「ならくかえって……夢テレビみて……やなことぜんぶ忘れるんだ」

ならく行きって罪でも罰でもなく、やなことから逃げることじゃねえのか。ヤなことがあったから、奈落行ったんじゃなかったのか。 俺はここから逃げてしまいたかった。だけどどうしても大事なものを守りたかった。 。だから、「狂っちゃおう、気楽に」を、 それはいい考えだなあ と受け入れたんじゃなかったのか。そして夢テレビを見て、ヤなことを忘れる――しかも、各種テキスト( ヤなことはすぐに忘れたいから、いつもみたく夢テレビを見ることにした。 / とりあえず夢ラジオでも聞いてヤなこと全部忘れようと思った。 / 難しいこと考えたくないから夢テレビでも見て誤魔化したいなあと思う気持ち。 / ……ああ、困ったなあ、困ったから夢テレビでも見てえなあ…… )が立証するように、それはヨージにとって習慣化されるほど、恒常的に――そういうふうに、奈落で過ごしてきたんじゃなかったのか。

赦されたかった。自分への罰。その要素があるとしても――たとえもしそれがはじまりだとしても、彼にとっての奈落は、その言葉で回収しきれるものではないのではないんじゃないだろうか?
奈落行きは逃避でもあったし、奈落の底でヨージは彼なりに楽しんで暮らしていた。自分を傷付ける敵はいないし、悪意に出くわすこともないし、ヤなことは忘れられる。彼にとっての楽園、彼曰くのヒミツき地じゃなかったか。
ここでの、彼の、過去の解釈。俺は赦されないことをした、だから、その罪として、素晴らしいこの世界を捨てて、誰もいない場所に閉じ込められる罰を自分に科したんだ――という、ここでの、彼の、過去の解釈。
その要素はあるのかもしれないし、それがそもそものはじまりかもしれないけど、でも、違和感が残る。ヨージはあそこで怠情な安息に寝転んでいたではないか。外よりこっちの方がいいと云っていたではないか。

つまり、この彼の解釈ってさ、一言でいうなら「美化してね?」ということ。

残るのは「こいつ美化してね?」という疑念。このひと、そこまで「赦されたい」「この素晴らしい世界」「罰」そんなこと、思っていたでしょうか? ―――寧ろ、「その逆」にしか見えない。
ただし、「美化」。それではおそらく、半分正解で、半分不正解。それじゃ足りない。これは美化じゃなくて、きっと象徴化なのではないだろうか。【心的現実】。本当はそんなことなかったのに、”あった”と思い込む――というか、それ以上。思い込みを通り越して、彼の中では本当にあった=こころ的には現実の出来事になっているもの、それを指し示す。たとえば彼が母親を殺したと思い込んでいたのは、まさに心的現実においてである。
さらに上記引用シーンの続き。
小鳩が俺を支えて歩きだす。俺は帰りたかったけど、でも抗えない。
妹のそばにいてやらなきゃならない。彼女がそう望むなら、俺は十字架を折ってでも叶えてやる必要がある。
だってそれは母の遺言だから。

なんかありもしない母の遺言まで出てきちゃったよ! 母はたしかに小鳩を守れといったが、しかしそれは遺言ではなかったはずだ。なのにそれが遺言のポジションを取る。それはつまり、その発言を遺言と取るのは嘘だというよりも、それが遺言として解釈し直されたということ。彼の解釈の世界の中で、彼が母の荷を背負い小鳩と共に世界で生きていくために、象徴的な秩序が構築されていく様を表している。
この一連は、美化じゃ足りないし嘘じゃ程遠い。彼の中”では”そうなのだ。そうして、彼自身が作り直される。
そう思い込むことで、そう解釈することで。世界を/現実を作り直す。主観で。わたしの中のわたしと分化されたもの(象徴界)を、再配置する。解釈しなおす。それは、新しいわたしにとっての妄想でも譫妄でもない本物と繋がっている世界/現実を作り出すこととイコールであり、また、新しいわたし自身をはじめることともイコールではないだろうか。この一連のシーンタイトルは『自分探し』。自分で、自分を構築化していくこの過程、心的現実で新たに象徴的秩序を構築し直す――生まれ変わる――この過程は、まさに『自分探し』、新しい自分を探し、創りだしているのではないだろうか。


もしかしたら本当はそうなのかもしれない。本当にそうじゃないのかもしれない。上に挙げたのは、正しいかもしれないし正しくないのかもしれない。疑って読めばそう読めるし、疑わなければそうは読めない。しかし、どちらでも構わない。真実がどちらか、よりも、こういう可能性が存在しているということが大事である。どちらにしろ同じ。つまり、多義的にすぎる。どちらでも可能であるというのは、ある意味、それだけでおかしいのです。そしてそれだけで、強い力を持つ。
過去を巡る旅。
ここにはそもそも、ありとあらゆるところに、様々なタイミングで、色々なものが、含まれています。解釈と理解と、現実と真実。心的現実と新聞記事。歯切れの悪い小鳩。回想で描写されるものと、回想されないで描写されるもの。
ここには、疑念が残りすぎる。つまり、多義的でありすぎる。
たとえば妙に歯切れの悪い小鳩の反応はどうなのだろう。
小鳩「えっ」
小鳩「…………」
小鳩「そうなんだ……」
鷹志「知ってるくせに。いいよ、ちょっとずつ思い出してきた」
小鳩はやけに黙っていたり、知らないフリをしていたりする。それは兄に対し気を遣ってるように思えるけど、でも、本当にそうなのだろうか。ここでの小鳩は「思い出して欲しい」という気持ちと、「でもそれで潰れちゃったらヤダ」という気持ちが入り混じっているから、当然、気を遣う。この歯切れの悪さはそういう点からと言えるけど、でも、どうなのだろう。そういう点からのものだと言い切れるのだろうか。小鳩が本当に知らないこと(現実には無かった事、けれど、鷹志の中では現実にあったこと=心的現実)を鷹志が言ってるから「知らない」、という可能性もあるんじゃないだろうか。――もちろん、それも言い切れないのだけど。つまりどちらとも言い切れない。多義性。

たとえば、鷹志が、自分が母を刺し殺したと思っていたけれど、本当はそうではない、服毒自殺だった――というのが明らかになるところにも、”わざわざ”、多義性が取られている。そこまでは過去を語るとき、田畑の兄ちゃんのことも、母を刺す直前までも、独居房に入れられたときも、鷹志自身が「よく覚えていない」と明言していた事柄すら、ほとんど『回想』という形で語られていたのに、なぜかここだけは『回想』が消失して、「新聞記事」という伝聞形式で伝えられている。
新聞記事が伝えるのは一つの事実ですが、しかしそれが必ずしも真実とは限らない。検死結果、警察発表、状況証拠、取材から導かれた答えで、その回答が真実であるとは限らない。また鷹志の「自分が殺した」という記憶も、曖昧で不明瞭なまま彼の中に残された事実なだけ、つまり心的現実なだけであり、それが真実であるとは限らない。どちらも。『回想』として語られる真実とは、程遠い、真実的な事実でしかない。ここでは、「真の真実」なるものは明らかにされていない。実際に鷹志が、「自分がやってない」という記憶を”思い出せなかった”(心的現実化出来なかった)からこそ、ここら辺のテキストには微妙な歯切れの悪さが残っているでしょう。

ここで明らかになるのは――このような重要なところだけ”わざわざ”回想を使わなかったことにより明らかになるのは――、「真の真実」なるものがそれほど重要ではないということ。そのようなものは後景化している。

俺が変われば世界も変わる。空の色は自分次第。世界なんて、おまえらみんなたちの心の中にあるチャンネルをひねれば、いくらでも変わってしまうものなんだぜ。

「真の真実」なるものは重要ではない。世界の真の姿も、現実の真の姿も、重要ではない。いや、というか、そんなものには届かない。あることはあっても、ありえないと同じくらい遠い存在。つうか無いのかもしれない。超越論的仮構なのかもしれない。どちらにしろ、届かないし、そしてなによりも、彼らが、あるいは私たちが生きている世界/現実は、「真の世界/現実」ではない。そんなものには届かないし、重要ではないのだ。彼らが私たちが生きる場所はそこではない、彼らのわたしたちの『世界/現実』だ。

自分の世界/現実は自分が作る。象徴的なものをいじれば、世界/現実も変わる。新たな秩序を作ってやる。ここ(過去への旅から先)で示されているのは、そういうことではないだろうか。認識としての世界を紡いでいく。過去は解釈されていき、自分の中で、新たな場所に収まっていく。奈落に行ったことは上述のように解釈しなおされ、牧師さんは 牧師さん。俺たちの心の師。強くて優しいおじいさん と解釈しなおされる(たしかにそうなのだが、この時点まではそう解釈はしていなかった。この時点で”そうなった(象徴的に配置され直した)”といえる)。牧師さんに対する、 そういえばあんたの話はちょっと面倒くさかったけど、あとになってくればどれも心に沁みる言葉ばかりだ という台詞が、この一連の行為を端的に表しているともいえるでしょう。あとになって――つまり今になって、はじめて、そう解釈されるようになった。自分の中での配置が、そう解釈できるものに変わった。そう見える世界が、構築された。

一言でいえば「NEW自分」です。NEW羽田鷹志。新たな鷹志。この過去を巡る旅で、象徴的秩序を作り直し、そこに参入することによって、これまでとは違う新たな「羽田鷹志」となった。
だからその後に、「小鳩との関係を見つめなおす」必要があったわけですね。小鳩との関係を見つめ直すとか言い出した理由はあえて言うならそれ。
広い世界を見て、小鳩との関係を見つめなおすこと。
と言ってますが、実際はそんなでも無いという点で、これはまさに「そう手続きする必要があった」だけの、象徴的儀式です。「広い世界」っていうほど広い世界を別に見てないですよね。期間も、語られる限りの内実からも、あまりそうは思えないし、そして何よりも、”中身がろくに語られなかった”(ダイジェストどころかショートカット)ことにより、あまりにもそうではなくなっている。換言すれば。物語内において、「広い世界を見る」という行為、その中身が、あまりにもどうでもいいものとして扱われている。
しかしここまで記したことを鑑みれば、そんなことどうでもいいのです。本当に広い世界を見るかはどうかはどうでもよくて、これはただ単に、「儀式的に」必要だっただけのこと。NEW自分、NEW羽田鷹志だから、今までと違えなくてはならない。新たな象徴的位置の獲得の為に、一回まっさらにしなければならない――ただそれだけのことです。
新たな自分として生きてくために、新たな自分として小鳩との関係を築くために、たとえば 「もしかして俺たちは、頼れる存在がお互いしかいなかったから、それを恋と錯覚しているのかも」 こういう位置を払拭するために。ゼロから作り直すという行為が必要だった。つまり、彼にとっての小鳩――彼の世界/現実における小鳩を、それまでとは違うものに確固としてするための、儀式。


NEW羽田鷹志。新たな羽田鷹志。過去を巡る旅で得たのは、象徴的秩序を作り直し、そこに参入することによって、これまでとは違う新たな「羽田鷹志」となったこと。だからこそ、一度ゼロから小鳩とやり直す儀式を通過する必要があった。
新たな自分。それはまただからこそ、全てが「真実」である必要はなかった。「真実の世界」も「真実の現実」も、そんなもの、彼らが/俺らが生きる世界、現実に、何の関係もない。俺らが生きてるのは自分自身でしかないし、鷹志が生きてるのは鷹志自身でしかない。本当かどうかなんて追い求めてどうしようというのだ。そんなものはまやかしでしかない。どこまで行っても辿り着けるわけがない。本当のフリをした何かでしかない。本当になど辿り着けない。
<現実的なもの>に直接触れるのが耐えられないから遂行的なものや象徴的なものに頼るのではなく、<現実的なもの>に直接触れるのが叶わないから、遂行的なものや象徴的なものに頼っているのです。つまり、我々は、<現実的なもの>になど生きていないということ。

しかしだからこそ、そこには無限の可能性が秘められている。俺が変われば世界も変わる。空の色は自分次第。世界なんて、おまえらみんなたちの心の中にあるチャンネルをひねれば、いくらでも変わってしまうもの。
世界/現実は作り出せる。というか、作り出したものしか、実質的にはない。好き勝手にそれはできない、まやかしの世界/現実という妄想・妄信は破綻するしかない、グレタガルドは何処にもない。飛ぶことはできない。いくら主観で世界を変えようとも、昨日までの奈落を常に飛び越えられるとは限らない。しかしそれでも、羽ばたくことくらいはできるんじゃないか。
主観は。ヨージのように、絶望や失意で溢れてしまうかもしれない。タカシのように、虚無に満たされてしまうかもしれない。鷲介のように、疲れ果ててしまうかもしれない。隼人のように、意味も理由も失ってしまうかもしれない。伽楼羅のように、依拠しすぎて、八方塞になるかもしれない。
しかしそれとて、ひとつの主観でしかない。それは「真の真実」ではない。そして「真の真実」は無い、届かない、そこを生きられない。
ならば、変えられるのではないだろうか。チャンネルを廻すように、コンタクトレンズを付けるように、世界の色を変えるフィルターのように、羽ばたくように。
わたしの世界/現実はわたしが作れる。わたしが歩く大地はわたしが認識することで作られている。わたしが作っている。まったくの嘘は作れなくても、自分の眼は、解釈は、確固として存在し続けられる。大地から飛び立つような世界/現実は作れなくても、羽田鷹志のように、羽ばたくことくらいはできるんじゃないだろうか――。
「それでも羽ばたくことくらいは出来るんじゃないか。きっとおまえたち全員の力を合わせれば、この地上でも楽しく生きられるさ。なあ、おまえたち――」
「俺たちに、翼はないこともないらしいぞ」



末文:「本当に」現実に帰る



よくある「現実に帰れ」。一見すると俺つばもそんな感じですが、少し色合いが異なります。というか、さらに先を行っている、その答えを出している。そもそも誰もが忘れていた――言いっ放しで放置していた問に答えている。
「現実に帰れ」と云うが、そもそも現実って何だ? ――この誰も答えなかった問に、答えている。たとえば二十年前なら、せめてエヴァンゲリオンの頃なら、まだ「大文字の現実」ともいえるものを思い浮かべられただろう。就職して、結婚して、子供育てて、家を建てて――など。大きな物語とでも言われるような、ロールモデルとしての現実、大文字の現実だ。しかし今や、そんなものはない。現実と言われて何を思い浮かべる? 何が現実なのか? そういうモデルはあるのか? 結婚して家建ててなんて「現実」というほど身近にあるものじゃない、かなりお高いものではないか。かといって馬車馬のように社畜とか呼ばれるほどに働く、それだって卑下しすぎだ。じゃあ果たして、「現実」とは何だ? 現実に帰れ、現実を生きろと云われても、それって何なのだ?

「現実」とは、自分が生きる現実に他ならない。自分が踏みしめている大地のことでしかない。「真のもの」はないし、「モデル(届く見本)」すらも無いのだから、それでしかない。私の世界/現実は、私が認識する、私にとっての世界/現実である。それをこの、「真のもの」を捨てている態度が語っている。最後の鷹志シナリオだけではない、この4人全てのシナリオの存在そのものが、そういう理路に置かれている。
DJコンドル「えー、ここまで実際おまえらみんなたちに何通りかの並行世界を観察してもらってきたわけですが」
DJコンドル「じゃ最後にね、まー、もうひとつの可能性を覗いてもらっちゃったりなんかしてね。ほら、あの、あるでしょ。覚えてるかな。もしあのときなら風が吹いてたら? ってね」
DJコンドル「正解はない、どれもが正解だ、おまえの正解はおまえが決めろ。だがまだ決めるな、まだ残ってる、まだ可能性は全部じゃない。いざ行け終の子、いざ行け監査官、いざ行けおまえらみんなたち。ぷるっきゃおう――」

全ては等価で、全ては可能性。全ては「僕ら(彼ら)が君に(僕に)語るのは、たとえばそんなメルヘン」で、全ては「それは”きっと”どこにでもある」お話。
どれもが現実で、どれもが現実じゃない。どれもが世界で、どれもが世界じゃない。
どれもが、世界/現実に”なりえる”お話
そう、なりえるのです。真のものがないから。帰るべき現実など何処にもない、真の現実など何処にもない、でも、正解はおまえが決めることができる――現実は自分が決めることができる。
真の現実など届かない、あるいは存在していない。わたしの現実はわたしが決める。帰るべき現実など自分で構築する。しかし”翼がないから”、飛ぶようなそれは無理だ。グレタガルドだろうがミヤコガルドだろうが弟くんだろうが奈落だろうが。現実から遠く離れた、地に足がついていない、つまり”飛ぶような”それは、必ず失墜する――あるいは、逸失する。それはもはや現実ではない現実だから。だから、翼のない俺たちは、地に足をつけて生きていかねばならない。
でもだからって、地に――現実に、這いつくばらなきゃならないわけじゃあない。この現実を見るのは自分だ。この大地を見るのは自分だ。この現実を生きるのは自分だ。この大地を歩くのは自分だ。飛ぶことは叶わなくても、その主観の力で、少しくらい羽ばたくことは可能なはずだ。
帰るべき現実は、硬質の、絶対の、真実のそれではない。ヨージくんや、あるいはタカシくん、もしくはカルラのように、その認識の隘路に嵌りこむ必要性もない。それはきっと変えられる。世界は・現実は、たとえばこの羽田鷹志のように構築される。ならば。大地から飛び立てなくても、羽ばたくことくらいは可能な筈だ。
つまるところ。私達は、たとえ叶わないと知っていても、夢や希望を持っていなければ生きていけないように。飛べない――飛んでも失墜するだけだから、飛んではいけないということを百も承知でも、翼がなければ、地に足つけて歩いていくこともできない生き物なのだ。
俺たちに翼はない、が――羽ばたくことができるくらいの翼は、きっと付いている。


(記事編集) http://nasutoko.blog83.fc2.com/blog-entry-56.html

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 |  2015/04/27 (月) 16:24 No.6

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