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なすところをしらざればなりFOR I KNOW NOT WHAT I DO 

さよならキミの声

   ↑  2009/12/18 (金)  カテゴリー: メモ
※リトルバスターズ&リトルバスターズEXのネタバレ



もともと『リトルバスターズ』というゲームの結末は、理樹と鈴を残して他のみんなは死ぬというものだったらしい。(元ソースを確認してないのにこんなこと書くのもアレですが(どこかの雑誌のインタビューに載っていたのでは))
事故に遭い瀕死の淵に立たされた恭介・ならびにリトルバスターズのみんなが、同じく事故に遭ったが恐らく生還できる理樹・鈴を、「自分たちがいなくなっても立派に生きていけるように育てよう」としてひとつの<世界>を作り、そして、それが果たされたから、<世界>は終わり、彼らはお別れをする……はずだった。そこまでが最初の結末。それが変更されてどうなったかというと、作中の通り、恭介達も助けられて、結局お別れをすることは無くなった、ということになります。ただ一人を除いて。

誰だ?
そりゃプレイヤーだ。

理樹と鈴が成長する姿を見つめていた(さらに言えばクリックして進めることにより、それを促進していた/結果論的にはプレイヤーが成長させていたと言えなくもない)。望む望まないに限らず、プレイヤーが理樹と鈴にいかに関わったかと言えば、そういう役割――「恭介の役割(だったもの)」とまったく同じといえる。終焉から振り返れば、結局のところ我々は、理樹と鈴を育て、見守り、時には自分も、彼らとの会話や彼らとの野球を楽しみ、そして最後には、彼らとお別れすることになった。これは恭介が当初思い描いていた、「自分の絵図」と同じである。

実際の結末時における、恭介とプレイヤーとの違いは、その最後の部分だけ。我々だけ”お別れされた”。

当初の麻枝准のシナリオでは、恭介たちも我々のお供になってくれる筈だったのが、スタッフの反論による修正により「全員が助かる」ようになり、プレイヤーひとり取り残されるようになった、というのは、ある種ゼロ年代エロゲのトレンドに沿っているのではないだろうか。そのトレンド=変遷に、Keyは過敏だったといえるだろう。
かつて描かれていたものは、「最も大きなこと」で、さらに「その中で全てを回収していた」。簡単にいうと、エンディング後に「その後彼らは幸せに暮らしました、めでたしめでたし」というナレーションが入っても、取り敢えずは信じられるということ。『ONE』は限りなくそうであり、『KANON』もおおむねにおいてその様なものであっただろう。あるいはもう一つの方向性として、「本当に全てが終わった」というものがある。極端な例が『AIR』で、「そして誰もいなくなった(観鈴も往人もいなくなった)」という、圧倒的な終わらせ方。少なくとも我々から見える限りにおいては、”物語がその人間に対するデウス・エクス・マキナ”であった(つまりはキャラクターと結び付きすぎていたとも言えるわけですが)。彼らの人格形成や人生の方向性のようなものが作中内で存分に語られ、あるいは新たな環境の必然性・必要性が存分に示され(つまり、「ゲームスタート時」と「エンディング時」の彼らは、性格・人格あるいは環境、もしくは悩みや決断などがまったく変化していた)、たとえばそれは現在の『リトバス』『まじこい』のような、「(トゥルーともいえる最終ルートの)EDはスタート時から一周ぐるっと回って一回り成長しただけ(で、環境などは大きくは変わっていない)」作品とは大きく異なるのではないだろうか。『同級生』的な「落とす」ことを目的とした作品は別ですが、たとえば往時の有名どころ「加奈」や「剣乃作品」や「痕」には、大なり小なりそのようなことが言えたのではないでしょうか。

少し話を逸らすと、ヒロインや主人公の「トラウマ」というのは”結果として”継続可能性を示し表していたと思う。彼がいるから/彼女がいるから解決できる・解決されたそれは、それ故に、彼/彼女からの「別れ難さ」を指し示す。あるいは、「恋愛価値向上」という意味も持ちえていただろう。すっごくどうしようもない悩みや問題が解決できる/してくれるパートナーに出会えるということ、その恋愛は決して安い・ありふれたものではないでしょう。
つまり。ED後の描かれない未来(における継続)を信用させるための装置として、そして・または、その恋愛を「運命の恋」かのように価値を高める作用として。
いや単純にさ、落とすことが目的なのでED後がどうなろうが知ったこっちゃないナンパゲー的なるものはともかく、普通の恋愛ゲーで、20時間とか話読まされた上に、「EDの一ヵ月後にこの二人は別れました」とか、「別に運命の恋でも何でもない、彼らの人生にありふれまくった「ただの恋愛」のひとつでした」なんて言われたら虚しいじゃん。
(※たとえば今年の非トラウマ型ゲームで言えば、「ましろ色」や「まじこい」なんかは、その虚しさを払拭できているという点でもの凄く評価できる。たとえばED後すぐに別れたとしても、彼らがその恋愛でかけがえのない成長を遂げたというのがよく見て取れるから(ルートにもよるけど))

故に朱鷺戸沙耶のシナリオは画竜点睛を欠きながら必要不可欠な存在、そこまでの流れ全てを補完しながら故に失逸させるものだといえるでしょう。沙耶は最早だーまえのお家芸(とボクが勝手に思ってる)である「プレイヤーとゲームの関係に対するデウス・エクス・マキナ」のだーまえ版最終系である。今までは言葉でしか語っていなかったのに、キャラクターを用いようというのだから、まあボクとしては、だーまえさん最後に粋なプレゼントしてくれるなーと嬉しがったものですが。沙耶は我々と同じくお別れした存在だが、勿論同じではない。彼女は自分からゲームを終えて、幻想に幻想以上のユメを抱かず、そして幸せに死ねたのだ。沙耶シナリオの真の価値はEDの絵における安らかな・幸せそうな寝顔=死に顔にあると言うことも出来るだろう。あれは我々の鏡面ではない。我々は自分のこめかみを銃で打ち抜いてなどいない。あれを我々の鏡面に出来る日が、いつか、来るのだろうか?


えー、で、話が逸れすぎましたが。「顔のある主人公というのは、勝手に生きている」のではないか、というのが私の思うところ。
http://d.hatena.ne.jp/ilidim/20091212/1260606563
この記事読んで思った。
『ONE』も『Kanon』も『AIR』も、終局は「ロスト・ハイウェイ」なのだ。その先に道はなく、いや当然あるのだが、それは少なくともこれまでとは別の境位の道だ。対し『リトルバスターズ』は、何もロストしていない、延々と続いていく道のたまたま一欠けらに我々が出くわしただけ。ちなみに『CLANNAD』は、本来ロストではないものを(あの作品においては死んでもロストし得ないだろう)、描き方により無理矢理ロストさせた傑物。EDにおける「その後」の一枚絵に対し、強烈な疎外感を覚えるのは難しくないだろう。『智アフ』は最初から道など走っていない。むしろ向こうがこっちの道を見つめているだけである。

で、その分類におけるリトバス的な、ロストも何も道は続いていく作品においては、主人公が確たる人間であることは必須であり(プレイヤーの(投影の為の)容れ物として透明である必要はない、むしろ逆。プレイヤーが観ていないところでも勝手に生きててくれなければ、続くハイウェイを進むことはできないのだから)、ならば顔グラフィックがわざわざ描かれない理由がコスト面以外では存在せず・寧ろ描くべきである―――まあ要するにその辺に相関関係とか見い出せるんじゃないかと思ったり。と思って最近自分がやったゲームで主人公に顔グラがあるの思い返してみたけど、なんか関係ねえっぽいなぁ。やべえ、こんなに長々と書いといてそんなオチかよ。

ちょっと前からときたま考えているのですが、実はここ10年のエロゲ(ビジュアルノベル・ADV)のトレンド的なものは、樋口泰人さんの映画評論本「映画とロックンロールにおいてアメリカと合衆国はいかに闘ったか」に書かれた「戦後~90年代のアメリカ映画史観」と妙に一致するなあ、などと思っています。アメリカ映画とエロゲで、まったく関係はないのですがw
そこで言われていたのが「物語上位からイメージ上位、そしてネットワーク上位」ということ。「物語上位」というのは、全てが物語の為に機能していたということです。これはノベル系においては、『AIR』くらいまではかなりその傾向が強かったのではないでしょうか。音楽やビジュアルもさることながら、何よりキャラクターそのものも、物語と深く結び付いていた。続く「イメージ上位」というのは、見た目重視という言葉の字面通りの意味ではなく、物語そのものはさらなる上位フレームに押し込められ、「いかに語るか」が焦点になっているという意味です。「萌え」と「燃え」はその申し子といえるでしょう。何を語るかではなく、いかに語るかというのが、そこにおける一番の焦点となっている。「萌え」においては言うまでもなくそうでしょう、ストーリーも大事だけど、それより表現のされ方のほうが大事。「燃え」においても、設定や物語は当然大事だけど、たとえば戦闘描写が上手いかどうかが重要な評価観点になったりするように、どう描かれるかも非常に大事。
そして「ネットワーク上位」というのは、さらにそれらが上のフレームに押し上げられた後。物語の終わりが「ロスト・ハイウェイ」ではなく、延々と続いていく道=我々が見ているのがその道の一部でしかない、というものであるお話。そこでは例えば人と人との繋がりだけでストーリーが回せるくらいに、それが濃密になっている。……たとえば大昔の(今でもたまにあるけど)、ヒロイン同士が殆ど顔も合わせなかったエロゲに比べれば、「リトバス」も「まじこい」も「るいとも」も「コミュ」も、随分と遠くに来たものである。これらの作品は、極端な話、主人公であるキャラクターが存在していなくても、彼らだけで物語を回せていける。それくらいに自律している。彼らも、主人公も、その物語も、プレイヤーなどいなくても(観測行為が存在していなくても)、勝手に進んでいけると容易に想像できるくらい、キャラクター達がお互いを勝手に承認し許可している。……ひるがえれば、「ロスト・ハイウェイで終わらない」ものを描くには、”そうでなくてはならなかった”と言えるかもしれない。作中の彼らが自身たちを(プレイヤー介さずとも)勝手に承認し、存在を確立できている(からこそネットワーク性と呼べるのかもしれない)―――そこでは当然ながら、プレイヤーなどいなくても、物語が終わっても、彼らはしっかりとそこに生きて、勝手に進んでいけるということが担保されている。
むしろさよならされるのは、『リトルバスターズ』の最後が示唆するように、そのネットワーク外のプレイヤーであるのだ。延々に続く道を、ずっと追い続けることは叶わない(――そしたら、それはそれで、ロスト・ハイウェイになってしまう)。

(記事編集) http://nasutoko.blog83.fc2.com/blog-entry-59.html

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