なんかいつの間にか年が明けてることにビビリつつ、折角なんで2009年にプレイしたエロゲーの感想とか雑談とか適当に書き連ねてみたいと思う。適当というか、なんか思ったままに書き綴っていこうと思うのよ。無礼講的なノリで。そしてなんか全てを喋るのに全然足りなかったので明日も続きます。たぶん。
まず今年最初にやったエロゲーは『俺つば』。
これは発売一週間後くらいだったかな、Twitterで「すごい」「名作」「早くも今年ナンバーワン」と言ってる人を何人も見かけて、おお~それじゃやってみたいなぁと思い手を出したワケです。ここで俺つばをやってなかったら、ボクが今年こんなにエロゲやることは、多分無かったかもしんないですね。エロゲにはまってたのはだいぶ昔のことで、その後は結構長い間、半卒業状態になってたんですね。そもそもこの頃は(この頃までは)アニメの方に傾倒していましたし。ボクは一点集中でハマるタイプなんで、アニメも観てエロゲもやるとか、あんま出来ない――というかそうならない人間なのです(そんなワケで、現在というかここ半年くらいは、エロゲしかやってないからアニメもラノベもさっぱりっすw)。
えーとそんなことはどうでもいいとして『俺つば』の話。これはもう間違いなく、自分の中では本年度ナンバーワンです。凄いというか、凄まじいというか。まず最初に抱いた印象は「よくこんなもの作れたなぁ」というところで、いやもうホント、よくもまあこんなに個性的なキャラを、しかも被らないように、沢山用意して物語を作れたなぁと感服したものです。ウイクエ(恐らくドラクエ)とかフリッキー5(恐らく光GENJI)とかのネタのチョイスと、その存在のさせ方も上手すぎる。やー光GENJIとかさすがに世代じゃないっすけど、なんとなくその、子供の頃の、「ブラウン管の向こうのナニカ」という存在とかさ、ドラクエごっこはやったわけじゃないけど、その子供の、ごっこ遊びとか話題を合わせるために、「共通する大きなナニカ」に多少の無理を孕んでも邁進せざるを得ないところとかさ、もう絶妙に郷愁を誘うんですよ。―――そういうのは、誰でも、何かしら、感じられると思う。だから余計にガツンと来るところでもありました。これは、絶対にそうじゃないんだけど、それでも、俺らの物語でもある。
あー、あと感想にも書きましたが、あの胡散臭さ、心的現実。「心的現実こそがその人にとっての本当の現実である」というのは、構造上覆せないでしょう。たとえそれが嘘っぱちじゃなくて真の真実・リアルな現実(←何この言葉w)であっても、結果的にはそうじゃない、と。人は自身を介してしか見れないし、知ることも出来ないのだから。我々にも、そんな飛べないけれど羽ばたくことが出来る程度の翼なら付いてるんだよというのは、この上ない希望である。
こう考えると、やっぱり現時点での極点としか思えないっすね、このゲームは。テーマについて。もっと上手く描いたゲームももっと深く描いたゲームもあるかもしれないけど、このベクトル以上の方向は、現時点では、存在しない。……やーまー、お前の読み自体が心的現実じゃね?という突っ込みも大アリなんすけどw いやでもそれでいいんだ、むしろそういうものなんだこのゲームは、『俺たちに翼がない』がどんなゲームだったか、どんなテーマなのか、それがただ単純にゲーム内で語りきられなかった(語りが足りてないのではなく、離散的であり飛び散ってしまった)が故に、みなさんの心の中で形成される『俺つば』、それこそがあなたの翼なのです―――とか返せば、なんか誤魔化せるんじゃね?(ムリです)
あー、そうそう、何処にも一度も書かなかったと思いますが、ギャグとかすげー面白いです。それも一個や二個ではなく、すげー沢山の数・ネタがあります。これで「笑ってはいけない」やったら絶対ボロ負けするぜ……!
特に狩男さんは最高すぎましたね。もちろんギャグ以外のところも。あの、2章後半での、「たまひよが馴染んだ」とお客さんに指摘された時のね、「自慢の子供たちです」っていう狩男兄さんの台詞が超好き。なにあれ格好良すぎ。多分めっちゃいい顔でそれ言ってるぜー、狩男兄さん。いやもう、ギャグ以外のところの全部含めて、狩男のような男になりたいです……!(多角的にムリだな)
えーと、プレイしたのっていつだっけ。6月くらいだったかな。んーと、特に語ることもない(えー)。というかシナリオとかぶっちゃけ、覚えてないなぁ=印象に残ってなさすぎる。一番良かったのは鈴姫だったんじゃないだろうか。あとてまーが可愛いとか。獅子ヶ崎の声さんが結構ウザイとか(笑)。
これは再プレイですね。発売日に買って即刻終わらせて、あとは(通して再プレイではなくエピソードを見る奴で)ぼちぼち再プレイしてて、で、今回3年ぶりくらいにまともに(通して)再プレイ。あ、花札はそれとは別でちょくちょくやってました。正直、花札だけで50時間くらいはプレイしてるんだぜ……!
今回の再プレイでの最大の発見は、なんといっても「飽きた。つまんねえ」がウソだったということ。別に飽きたんじゃんねえ。つまんないんじゃねえ。いや、ちょっとくらいは飽きてるかもしれないしつまんないかもしれないけれど、それだけ「勝てねえ」。いやだって終わらせたら、「地獄」とでも表現するしかないような――「地獄」以外の言葉ではどうしても表現できないような――そんなところに帰らざるを得ないんだぜ? それを、ただ。飽きたから、つまんないから程度の理由で、この手に入れた輝きを捨てて、わざわざ「地獄」に帰るか? まさかあっちの方がいいのか? もう何千年と居た「地獄」は、まだ飽きてもないしつまんなくもないと?
作中で否定されている。「飽きた。つまんねえ」がウソだってことは、作中にて少なくとも三回は否定されている。カレンによって、バゼットによって、そして自分自身によって。そう、その言葉はウソだ。ということは、飽きてもいないし、つまんなくもない――少なくとも、「あっちの方がまだいい」というほどには、飽きてもないしつまんなくもない――けれども、それでも。終わらせるためには、敢えて、そんなウソを憑かざるを得ない。そうでもしないと―――心が折れちまいそうじゃねえか。
アンリが「飽きた。つまんねえ」といってこの永遠を終わらせるように(頃と重なるように)、プレイヤーも、もういい加減ラストの方は「飽きた。つまんねえ」状態になっていて、この四日間の終わりを見たがっている――そして見る、終わらせる。
みたいな考察を死ぬほど見てきてね、いや自分も最初はそんなこと思ってたんですけどね、やっぱりそれは違うんですよ。つーかね、それはね、「プレイヤーが幸せなまま終わらせられる」自分に優しい解釈です。
本当はそんなことない。アンリは「やめなきゃ前に進めないからこそ(終わる事と続かない事は違う)」、「飽きた。つまんねえ」とウソの理由をでっち上げてまで、”終わらせる”ワケです。プレイヤーは、終わらせなきゃ前に進めないから、飽きてもつまんなくもないけどそうしている? ”アンリと同じように?” まさか。アンリとは、ただタイミングが一緒だったというだけで、それ以上もそれ以下の関係もない。勝手にプレイヤーが終わらせてるだけ。意思を持ってクリックしようが、適当にクリックしていようが変わらず。この日々を終わらせる。
……まあ、なんつーか。本当に。優しすぎたから、みんな(敢えてかどうかしらないけど)そう”読んだ”んだろうなぁ。
もしアンリとプレイヤーを同定させて考えるなら、ゲームを終わらせる意思は、決して「飽きた」でも「つまんねえ」でもない。その二つは言い訳以上にはなりえない。「終わらせる」ことによって「続かせる」こと、それでなくてはいけない。それしかありえない。
まあつまりは、一人で生きていき一人で死んでいく、つー、ごくありふれた話。俺らがアンリと同定できうるのはその志しだけであり、それ以上を勝手に持ち寄られてもね、アンリ先生苦笑する以外に術ねーんじゃねー。
やせ我慢による格好つけた他人からは分からない自己犠牲という名の自己満足は、ロックスターの専売特許、ってねえ。
妹が究極! とか(言う前評判?)の割には、なんつーか他のキャラも至高だったので驚いたゲーム。いやなんつーか萌える萌えないで言ったら、すごく萌えるんじゃないでしょうか。すごくというか、めっちゃ。魂刈り取られるね! お話はぶっちゃけフツーだけど、萌えだけで元は取れまくります。。
年末に出た完全版じゃなくて、夏に出た方ね。マリィシナリオに比べて香純シナリオが月とスッポン過ぎたので完全版は見(ケン)です。伏線の回収率とか考えればマリィがメインでしょうしね(メルクリウスなんて超重要なのにマリィ以外では回収しようがないだろうし)。
個人的には「惜しい」作品っす。設定は素晴らしい、テキストも神がかり、ストーリーも良い、キャラクターも(とりあえずは)悪くない、のだけれど……。なんつうか、エロとバイオレンスを抑えて、お話をちょっとイジッてRPGにすれば「テイルズシリーズです」って言えるくらい、(キャラが・主に主人公の奴が)真っ直ぐつうか深みがないつうか。兄を蘇らせたい螢に対する蓮の説教とかさ、「それでも自分はやりたい」と言われたらどうするんだと思うし、そもそも「そんなことすら考えていない」螢に驚きというか。
や、でも聖槍軍団は基本的にそうでもないし、なんつうかやっぱ主人公か。主人公が温過ぎてどうにもでした、個人的に。とはいえ、それでも、点数付けるなら80点くらいは付けられるくらいに良かったんですけどね。
私的神ゲー。 ストーリー?そんなもんどうだっていい! テーマ?そんなものいらねえ! 女装?YES!女装?YES!女装?YES! ……えっとつまりそういうことです。何コレ深刻に良作じゃね?
このゲームの個人的ポイントは、「その起源をどうしても消しえない」というところ。そもそも彰はどうして晶子となりルピナスに潜入することになったのか? それは病欠で出席日数が足りなくなりそうな妹の代わり(代返)であって、つまり妹の為である。そして当然ながら、妹が復帰することになったら、彰はいなくならなくては(入れ替わりを終えなくては)ならない。
はじめから目的は決まってるし、終わりも定まっているのですね。けれど作中でそれは後半まで埋没している。これがステキすぎでした。ルピナスでの生活という、そう遠くない未来に突然に訪れる不可避の終わりを知っていながら過ごす……のは、あくまでも我々プレイヤーであって、当の彰=晶子本人はそんなこと直前まで殆ど考えない(つうか、考える理由がない/というか無かった)のですが。あー、なんだろ、レビューとか感想とか書いてるから、それ見てくれりゃいいんじゃね(それを言ったら全部お終いじゃん)。
「主人公」というのはホント大事だと思うんですよねー。個人的にはヒロインよりも全然大事。その点で、本作は「ヤバイ」です。やー、女装モノなので、みんながみんなハマれるとは限りませんけど、個人的にはクリティカルすぎて死にまくりました。
しかし主人公が大事って、たまに「Fate以降そうなった」みたいな言説を拝見しますけど、ギャルゲーでいえばそれこそ「ときメモ」の頃からそうだったんですけどねーと思うんですけどねー。いやさ、「ときメモ」をある程度やった人なら、デートに誘うとか全くしないで、主人公をとにかく鍛えまくるプレイをしたこととかあると思うんですけど。つかあのゲームの肝の一つとして主人公のパラメーター・彼を鍛えるという点がありますよね。勿論攻略という意味ではなく、自己実現という意味で。「もしも自分があの境遇の高校生だったら」という一つのシミュラクルにおける投影ごっこ遊びとしての自己実現。や、あの時代だと「ごっこ」は薄いのかな? 話それますけど、よく「投影」うんちゃら聞きますけど、今の時代だと、素の「投影」じゃなくて、基本的には「ごっこ」になるんじゃないかなぁ。いやさ、自分自身を「要素」「属性」的なるものでメタ的に分割して見るという視点は、普通ある程度持っているじゃないですか。「あーこんなゲームやってる自分はむなしいなー」という、もっと素朴なところでもいいですけど。とにかくさ、ちょっと訝しいワケですよ、そういう点が。素直に投影できるほど「素直なプレイヤー」っていう存在が、前提レベルで果たして提示できうるのだろうか。そんで話戻りますけど、「みつめてナイト」なんかは、その方面もさらにグレードアップしていたと思うんですよね(他の方面も総じてグレードアップしていたけど)。逆に「ときメモ2」以降は、ちょっと変わっていくワケですが。
エロゲでいえば剣乃主人公とか、かなり重要ですよね。主人公が「透明な存在」とか「車輪(としてのヘタレ)」というのは、恐らく「萌えゲー」「鬱ゲー」的なるもののところで開花してしまったのではないでしょうか。前者はヒロイン、後者は物語に、明らかに主軸を置きまくっているところから、逆に”主人公が邪魔になった”。余計なことされると困るっていう。そういう意味では、その辺の流れが変わった時期としての「Fate以降」というのは、ある意味言いえるかもしれません。
ということで、なんか二時間書いてるのにまだ6個のゲーム分しか喋れてないってどういうことだ自分。長いか。長すぎないか。えーと、明日とかなんかその辺の後日に続きます。
俺たちに翼はない
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これは発売一週間後くらいだったかな、Twitterで「すごい」「名作」「早くも今年ナンバーワン」と言ってる人を何人も見かけて、おお~それじゃやってみたいなぁと思い手を出したワケです。ここで俺つばをやってなかったら、ボクが今年こんなにエロゲやることは、多分無かったかもしんないですね。エロゲにはまってたのはだいぶ昔のことで、その後は結構長い間、半卒業状態になってたんですね。そもそもこの頃は(この頃までは)アニメの方に傾倒していましたし。ボクは一点集中でハマるタイプなんで、アニメも観てエロゲもやるとか、あんま出来ない――というかそうならない人間なのです(そんなワケで、現在というかここ半年くらいは、エロゲしかやってないからアニメもラノベもさっぱりっすw)。
えーとそんなことはどうでもいいとして『俺つば』の話。これはもう間違いなく、自分の中では本年度ナンバーワンです。凄いというか、凄まじいというか。まず最初に抱いた印象は「よくこんなもの作れたなぁ」というところで、いやもうホント、よくもまあこんなに個性的なキャラを、しかも被らないように、沢山用意して物語を作れたなぁと感服したものです。ウイクエ(恐らくドラクエ)とかフリッキー5(恐らく光GENJI)とかのネタのチョイスと、その存在のさせ方も上手すぎる。やー光GENJIとかさすがに世代じゃないっすけど、なんとなくその、子供の頃の、「ブラウン管の向こうのナニカ」という存在とかさ、ドラクエごっこはやったわけじゃないけど、その子供の、ごっこ遊びとか話題を合わせるために、「共通する大きなナニカ」に多少の無理を孕んでも邁進せざるを得ないところとかさ、もう絶妙に郷愁を誘うんですよ。―――そういうのは、誰でも、何かしら、感じられると思う。だから余計にガツンと来るところでもありました。これは、絶対にそうじゃないんだけど、それでも、俺らの物語でもある。
あー、あと感想にも書きましたが、あの胡散臭さ、心的現実。「心的現実こそがその人にとっての本当の現実である」というのは、構造上覆せないでしょう。たとえそれが嘘っぱちじゃなくて真の真実・リアルな現実(←何この言葉w)であっても、結果的にはそうじゃない、と。人は自身を介してしか見れないし、知ることも出来ないのだから。我々にも、そんな飛べないけれど羽ばたくことが出来る程度の翼なら付いてるんだよというのは、この上ない希望である。
こう考えると、やっぱり現時点での極点としか思えないっすね、このゲームは。テーマについて。もっと上手く描いたゲームももっと深く描いたゲームもあるかもしれないけど、このベクトル以上の方向は、現時点では、存在しない。……やーまー、お前の読み自体が心的現実じゃね?という突っ込みも大アリなんすけどw いやでもそれでいいんだ、むしろそういうものなんだこのゲームは、『俺たちに翼がない』がどんなゲームだったか、どんなテーマなのか、それがただ単純にゲーム内で語りきられなかった(語りが足りてないのではなく、離散的であり飛び散ってしまった)が故に、みなさんの心の中で形成される『俺つば』、それこそがあなたの翼なのです―――とか返せば、なんか誤魔化せるんじゃね?(ムリです)
あー、そうそう、何処にも一度も書かなかったと思いますが、ギャグとかすげー面白いです。それも一個や二個ではなく、すげー沢山の数・ネタがあります。これで「笑ってはいけない」やったら絶対ボロ負けするぜ……!
特に狩男さんは最高すぎましたね。もちろんギャグ以外のところも。あの、2章後半での、「たまひよが馴染んだ」とお客さんに指摘された時のね、「自慢の子供たちです」っていう狩男兄さんの台詞が超好き。なにあれ格好良すぎ。多分めっちゃいい顔でそれ言ってるぜー、狩男兄さん。いやもう、ギャグ以外のところの全部含めて、狩男のような男になりたいです……!(多角的にムリだな)
てとてトライオン
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Fate/hollow ataraxia
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今回の再プレイでの最大の発見は、なんといっても「飽きた。つまんねえ」がウソだったということ。別に飽きたんじゃんねえ。つまんないんじゃねえ。いや、ちょっとくらいは飽きてるかもしれないしつまんないかもしれないけれど、それだけ「勝てねえ」。いやだって終わらせたら、「地獄」とでも表現するしかないような――「地獄」以外の言葉ではどうしても表現できないような――そんなところに帰らざるを得ないんだぜ? それを、ただ。飽きたから、つまんないから程度の理由で、この手に入れた輝きを捨てて、わざわざ「地獄」に帰るか? まさかあっちの方がいいのか? もう何千年と居た「地獄」は、まだ飽きてもないしつまんなくもないと?
作中で否定されている。「飽きた。つまんねえ」がウソだってことは、作中にて少なくとも三回は否定されている。カレンによって、バゼットによって、そして自分自身によって。そう、その言葉はウソだ。ということは、飽きてもいないし、つまんなくもない――少なくとも、「あっちの方がまだいい」というほどには、飽きてもないしつまんなくもない――けれども、それでも。終わらせるためには、敢えて、そんなウソを憑かざるを得ない。そうでもしないと―――心が折れちまいそうじゃねえか。
アンリが「飽きた。つまんねえ」といってこの永遠を終わらせるように(頃と重なるように)、プレイヤーも、もういい加減ラストの方は「飽きた。つまんねえ」状態になっていて、この四日間の終わりを見たがっている――そして見る、終わらせる。
みたいな考察を死ぬほど見てきてね、いや自分も最初はそんなこと思ってたんですけどね、やっぱりそれは違うんですよ。つーかね、それはね、「プレイヤーが幸せなまま終わらせられる」自分に優しい解釈です。
本当はそんなことない。アンリは「やめなきゃ前に進めないからこそ(終わる事と続かない事は違う)」、「飽きた。つまんねえ」とウソの理由をでっち上げてまで、”終わらせる”ワケです。プレイヤーは、終わらせなきゃ前に進めないから、飽きてもつまんなくもないけどそうしている? ”アンリと同じように?” まさか。アンリとは、ただタイミングが一緒だったというだけで、それ以上もそれ以下の関係もない。勝手にプレイヤーが終わらせてるだけ。意思を持ってクリックしようが、適当にクリックしていようが変わらず。この日々を終わらせる。
……まあ、なんつーか。本当に。優しすぎたから、みんな(敢えてかどうかしらないけど)そう”読んだ”んだろうなぁ。
もしアンリとプレイヤーを同定させて考えるなら、ゲームを終わらせる意思は、決して「飽きた」でも「つまんねえ」でもない。その二つは言い訳以上にはなりえない。「終わらせる」ことによって「続かせる」こと、それでなくてはいけない。それしかありえない。
まあつまりは、一人で生きていき一人で死んでいく、つー、ごくありふれた話。俺らがアンリと同定できうるのはその志しだけであり、それ以上を勝手に持ち寄られてもね、アンリ先生苦笑する以外に術ねーんじゃねー。
やせ我慢による格好つけた他人からは分からない自己犠牲という名の自己満足は、ロックスターの専売特許、ってねえ。
死神の接吻は別離の味
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Dies Irae 2009
年末に出た完全版じゃなくて、夏に出た方ね。マリィシナリオに比べて香純シナリオが月とスッポン過ぎたので完全版は見(ケン)です。伏線の回収率とか考えればマリィがメインでしょうしね(メルクリウスなんて超重要なのにマリィ以外では回収しようがないだろうし)。
個人的には「惜しい」作品っす。設定は素晴らしい、テキストも神がかり、ストーリーも良い、キャラクターも(とりあえずは)悪くない、のだけれど……。なんつうか、エロとバイオレンスを抑えて、お話をちょっとイジッてRPGにすれば「テイルズシリーズです」って言えるくらい、(キャラが・主に主人公の奴が)真っ直ぐつうか深みがないつうか。兄を蘇らせたい螢に対する蓮の説教とかさ、「それでも自分はやりたい」と言われたらどうするんだと思うし、そもそも「そんなことすら考えていない」螢に驚きというか。
や、でも聖槍軍団は基本的にそうでもないし、なんつうかやっぱ主人公か。主人公が温過ぎてどうにもでした、個人的に。とはいえ、それでも、点数付けるなら80点くらいは付けられるくらいに良かったんですけどね。
花と乙女に祝福を
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このゲームの個人的ポイントは、「その起源をどうしても消しえない」というところ。そもそも彰はどうして晶子となりルピナスに潜入することになったのか? それは病欠で出席日数が足りなくなりそうな妹の代わり(代返)であって、つまり妹の為である。そして当然ながら、妹が復帰することになったら、彰はいなくならなくては(入れ替わりを終えなくては)ならない。
はじめから目的は決まってるし、終わりも定まっているのですね。けれど作中でそれは後半まで埋没している。これがステキすぎでした。ルピナスでの生活という、そう遠くない未来に突然に訪れる不可避の終わりを知っていながら過ごす……のは、あくまでも我々プレイヤーであって、当の彰=晶子本人はそんなこと直前まで殆ど考えない(つうか、考える理由がない/というか無かった)のですが。あー、なんだろ、レビューとか感想とか書いてるから、それ見てくれりゃいいんじゃね(それを言ったら全部お終いじゃん)。
「主人公」というのはホント大事だと思うんですよねー。個人的にはヒロインよりも全然大事。その点で、本作は「ヤバイ」です。やー、女装モノなので、みんながみんなハマれるとは限りませんけど、個人的にはクリティカルすぎて死にまくりました。
しかし主人公が大事って、たまに「Fate以降そうなった」みたいな言説を拝見しますけど、ギャルゲーでいえばそれこそ「ときメモ」の頃からそうだったんですけどねーと思うんですけどねー。いやさ、「ときメモ」をある程度やった人なら、デートに誘うとか全くしないで、主人公をとにかく鍛えまくるプレイをしたこととかあると思うんですけど。つかあのゲームの肝の一つとして主人公のパラメーター・彼を鍛えるという点がありますよね。勿論攻略という意味ではなく、自己実現という意味で。「もしも自分があの境遇の高校生だったら」という一つのシミュラクルにおける投影ごっこ遊びとしての自己実現。や、あの時代だと「ごっこ」は薄いのかな? 話それますけど、よく「投影」うんちゃら聞きますけど、今の時代だと、素の「投影」じゃなくて、基本的には「ごっこ」になるんじゃないかなぁ。いやさ、自分自身を「要素」「属性」的なるものでメタ的に分割して見るという視点は、普通ある程度持っているじゃないですか。「あーこんなゲームやってる自分はむなしいなー」という、もっと素朴なところでもいいですけど。とにかくさ、ちょっと訝しいワケですよ、そういう点が。素直に投影できるほど「素直なプレイヤー」っていう存在が、前提レベルで果たして提示できうるのだろうか。そんで話戻りますけど、「みつめてナイト」なんかは、その方面もさらにグレードアップしていたと思うんですよね(他の方面も総じてグレードアップしていたけど)。逆に「ときメモ2」以降は、ちょっと変わっていくワケですが。
エロゲでいえば剣乃主人公とか、かなり重要ですよね。主人公が「透明な存在」とか「車輪(としてのヘタレ)」というのは、恐らく「萌えゲー」「鬱ゲー」的なるもののところで開花してしまったのではないでしょうか。前者はヒロイン、後者は物語に、明らかに主軸を置きまくっているところから、逆に”主人公が邪魔になった”。余計なことされると困るっていう。そういう意味では、その辺の流れが変わった時期としての「Fate以降」というのは、ある意味言いえるかもしれません。
ということで、なんか二時間書いてるのにまだ6個のゲーム分しか喋れてないってどういうことだ自分。長いか。長すぎないか。えーと、明日とかなんかその辺の後日に続きます。
(記事編集) http://nasutoko.blog83.fc2.com/blog-entry-62.html
2010/01/02 | Comment (0) | Trackback (0) | HOME | ↑ ページ先頭へ |コメントを投稿する 記事: 2009年にプレイしたエロゲ その1
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