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フェイクアズール・アーコロジー

   ↑  2010/01/09 (土)  カテゴリー: 未分類

フェイクアズール・アーコロジー 初回版フェイクアズール・アーコロジー 初回版
(2009/12/17)
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これは英雄の物語ではない。凡人の物語である。凡人たちよ、その心こそ True Azure に生きよ。

ええと、ボクはけっこう森崎亮人さんが気になってるというか好きでして、だから『フェイクアズール』を買ったわけですが、まさに本作は森崎さんらしいんじゃないかなーと。森崎さんの特徴のひとつとして上げられるものに、人の感情の動きとかにおいて記号化されたもの・記号化できるものを逐一解凍して、それを凄く細かく・丁寧に描くというところがあって。それは長所なのですが、しかし同時に、長い・冗長であるという短所になる可能性も孕んでいて、その辺『シュガスパ』とか『Fate/hollow』は、その形式の段階でかなりの部分を乗り越えられていたのですが、『フェイクアズール』では、序盤においては長所として機能するけれど、キャラクターのことをかなり理解してきた終盤においては短所として機能する――つまり冗長に感じてしまうところとかあって(いやさ、莉音シナリオの中盤~終盤の2・3話くらいは、丁寧に描かれてるけどよく考えたら「ずっと同じところぐるぐる回っている」だけであって、そのずっと同じところぐるぐるを丁寧に描かれているのであって、そりゃさすがに冗長さが生まれてしまうだろー、とか)。他にも、共通シナリオ(前半部)が神レベルなのに、やっぱり個別シナリオ(後半部)が普通人レベルだったなぁとか。いやゴメン、そういうのも含めて好きなんですが。やー、あの言葉の回し方がね、最高に好きです。なんとなく奈須きのこさんの日記の文体とかに近いんじゃないかなーと思うんですけど。……まあそんなこんな。森崎さんの過去作をやって気に入った方にはおすすめできるのではないでしょうか。

以下ネタバレです。


いつか人はこの空の下(True Azure)で生きるべきだ


こんな大事なことも気づけなかった自分を疑うね!
という一言からはじめたいくらいなのですが、しかしゲームプレイ前とか序盤はそんなこと思ってたのに以降あっさりと脳内から消えさって、ノエルシナリオまで行ってようやく思い出せたあーんど思いついた自分に自分でショッキング。

人の心こそフェイクアズール・アーコロジーである。

外側には危険がいっぱいだ。アーコロジーの外に気軽に出たら大きな傷を負うし、死ぬかもしれない。それは天原という意味での「アーコロジー」も、自分の心に用意した「アーコロジー」とでも喩えられるような防御の殻という意味でも同じ。傷つかないように、生きていけるように、生まれたときから死ぬまでずっとその殻の中で生きている。
とはいえ、殻の中にも「空」はある。もちろん、偽りの青空(Fake Azure)ではあるけれど。天原の中には、本物ではないけれど、フェイクではあるけれど、それでもそこで生きていける・飛ぶことができる空が広がっている――けれど、その空には限界も壁もあるわけで、何処までも行けるということではない。それは人の心が見る世界そのものと似ている。私達は、自分の”生きれる範囲”のものを心の中の空図としている。たとえば、自分は○○だから(学生だから・男だから・貧乏だから、など)という自分で定めた限界や壁、世界・社会は○○だから(厳しいから・弱肉強食だから・不景気だから・差別があるから、など)という自分で定めた限界や壁。その限界や壁を仮構するからこそ、つまり「そういう危険がある・そこは危険だ」と心の版図に色を塗るからこそ、私達はそこを限界・壁と見なして、そこにぶつからないように気をつけて生きていけるのです=傷つかないで・死なないで生きていけるようにするための防御機構なわけです。です、が。
その空は偽りの空である。

練児 「もう戻ることの出来ない俺の生まれ育った天原という土地に行く人が居れば伝えて欲しい」
練児 「世界はこんなにも広いと」
練児 「いつでもいい、俺みたいな強引な方法じゃなくてもいい」
練児 「どれだけ時間がかかってもいいから、いつか人はこの空の下で生きるべきだ」

外に出ることは危険である・リスクを伴う。だったら無理にそんなことしないで、このアーコロジーの中に閉じこもって、偽物の空で満足しよう――という500年に風穴を開けたのが練児さんである。それでも、外はすごいぞ、本物の空は気持ちいいぞ。危険だろうが大変だろうが、”それでも”、この素晴らしさには変えがたい。そんなことを申していたわけです。
そしてそれは、人の心も同じ。自分の心の中の限界や壁を認め、危険を出来るだけ排したアーコロジーの中で暮らしていけば、傷つくことも少なく済むだろう。でも、それでいいのだろうか? その外側には、本物の空が、何処までも続く空が広がっているのに。確かに、外はとてつもなく危険だ、それでも、外の世界は果てしなく広い、本物の空は途方もなく気持ちいい。だから――偽物の、心の中に描かれた空ではなく、いつか人は、その本物の空の下で生きるべきだ。

ノエルシナリオで思い出した・気づいたと書いたように、ノエルシナリオはまさにそのような内容(心の中のアーコロジー)だったのですが、他シナリオもその色合いは大なり小なりあって。そもそも、現時(ゲーム開始~共通シナリオ)で千尋そのものが、まさに「限界・壁」に阻まれているというものでした。空を目指したい。けれど目指せない。空を諦めたい。けれど諦めきれない。そこに現れたレティの、パッケージ裏や公式サイトに大きく書かれた、ある種本作のキャッチコピーの一つともなっているような言葉――「ここで諦める? それとも変える為に動く?」――は、あまりに捻りなく直球な言葉だけれど、それ故に指針としては最大限の力を持っている。
壁がある。限界がある。あれが出来ない、これが出来ない。あれをやってはいけないと禁じられていて、これをやったら危険だと体が訴えている。―――じゃあ、そこで諦める? けど、壁も限界も、あなたが今生きている世界も、本当は「絶対の本物」じゃなくて。それは危険だから、出来ないから、禁じられてるからと自分で定めた限界・壁(フェイクアズール)であって、「本物の空」ではない。今目に見えて生きている世界は、今居れているだけという世界(アーコロジー)であって、それは絶対の「本物としての世界」ではない。トラウマを克服し、空を飛ぶことも、制度を変更して、外に飛び出すことも、「絶対に」出来ないわけじゃない。だから―――変える為に動く?

本作には、たとえば英雄といわれる練児さんや、英雄になれず結果として悪者となってしまった大樹などという、ある意味飛びぬけた存在がいました。どう飛びぬけてたのかというと、そういう「限界・壁」が無かった――ないし、限りなく無かった・他者とは大きく異なっていた――という点においてです。制度がどうであろうが、常識がどうであろうが、周りの人間全てを置いていって裏切ってしまおうが、そのことに殆ど顧みず、「外側」に飛び出せた練児。自己の欲望や願望や目的の為に、周囲の人間や法を裏切っても、あまつさえ数万人以上を殺すことになろうとも、自らの行いを一点の曇りなくまっとうしようとした大樹。練児が英雄だったのは、その器においてでもあるし、大樹が悪者(もちろん、目論見が成功したら、後世において英雄になったかもしれませんが)だったのもまた、その器においてであるでしょう。つまり、限界や壁がなく、他人や法や常識というものもロクに顧みない=社会や世界もない・あるいは常人とはずれている。
つまり、彼らには元々、フェイクアズールもないし、アーコロジーもない。無いというか、必要が無い。そんなもの必要とせず生きていけた。あるいは、そんなものが無かったから生きていけた。
対し、壁も限界も自身が住む世界・社会もあって、それらを一個づつとっぱらって乗り越えて、大事に守りつつ折り合いつけていた千尋は何の器かというと。―――当然、器だなんて意味不明な尺度を持ち出すのですから、そして器にしろ英雄にしろ、尺度は「精神」という目に見えないものなのですから(何をもって英雄かという意味ではなく、精神的に・あるいは本質的にそうであるか・そういう属性であるかという話)、抽象的な話にしかなりえませんが、しかしそれでも、千尋を彼らと比べてみれば。自身が、たとえそうなりそうでもそうはならなかったように、英雄ではなく。また、これまたそうなりそうでもそうはならなかったように、悪者でもなく。恐らくは、一言で言い表すのなら、練児や大樹が一度たりともそうは言われなかったのに、千尋に対しては何十回も、あるいは百回以上も言われ続けた言葉、本作の頻出単語ベスト5に入るんじゃないかってくらい出てきた形容詞――「バカ」の器ではないだろうか。常人を逸脱する=気が狂うというほどではない。空を失ってしまうなら死んだ方がマシといいながら、本当に死んでしまうほどには気が狂っていない。帰還するレティを、自身の(外の)空への思いで打ち落としていながら、そのことに胸を張るほどに逸脱していない(むしろもっともらしい理由という言い訳をするくらい)。莉音も春子もあきらも無視して外や空に行ってしまうほどの周囲への無関心さはない。なんて優しいバカの器。これが練児だったら、あるいは大樹だったら、果たしてどうなっていたか?
しかしだからこそ、彼は彼女らを見捨てずに幸せに出来たわけです。そして、それでもだからこそ、壁も限界も自身の世界・社会も越えられたわけです。練児だったら、莉音の懇願も春子の希求も完全無視してぶっちぎって外空へと行ってしまうでしょう――つうか実際に3年前に行ってしまってる。彼女らを見捨て”ない”ということが出来ないし、幸せにするなんてことも(というと抽象的すぎるので、求めに応じる、程度でもよいのですが、それでも)出来ない。逸脱した英雄には、「それが出来ない」のです。たとえばこれが凡人だったら、それは出来る。もちろん、自己の能力を決定的に超えた求めに応じることは(当たり前ですが)不可能に近しいものですが、それでもたとえば、莉音の一緒にいてくれという求めや、春子のアビエイターとして決着という求めに応じることは出来る。しかし逆に、凡人だったら、今度は壁や限界、自身の世界や社会を越えられないわけです。なぜ人はアーコロジーの中でフェイクアズールを抱いて生きるかといえば、それが安全で安心でそして当然のものであるからであって、わざわざ外に出る方がおかしいのです。500年で(恐らく)たった一人しかそんな者がいなかったように。それは心の中も同じ。なぜわざわざ心の中のアーコロジーでフェイクアズールを抱いて生きるかというと、決定的な危険や不要な危険に出くわさないためであって、周囲や社会や世界と上手くやっていく為である。わざわざそこから出る方がおかしいのであって、故に普通の人間=凡人はそこから出ない。それでもそこから出て、危険だろうが何だろうが広い世界を求めるなんてのは、普通の人間じゃない英雄あるいは悪者か、普通の人間だけれど、そういった自身の希求に抗えない「バカ」かのどちらかしかいなくて、そして彼女らを幸せにして尚かつアーコロジーを出てフェイクでないトゥルーのアズールに生きられるのは、バカにしか出来ないことである。千尋においては、外空も求めていながら、彼女らの幸せすら求めているのだから(彼曰く「オトコノコ」か)、そりゃ百回くらい「バカ」と形容されてしかるべきであろう。

しかし、自分自身の限界や壁を知って、自分自身の社会や世界の在り様を知って、周囲の望みや希望をしって、それでもまだ「諦めず、変える為に動」いて、そして本当にそれを越えて、自身の限界や壁がなく、自身の社会や世界の鎖も外した「その空」に至って、それでいてかつてのフェイクアズールもアーコロジーも壊さずに連れて行けた彼は、英雄ではないが―――いや、英雄ではないからこそ、英雄には出来ないことを為し遂げたと言えるだろう。

新しい世界へと、向かって進んでいこう。
そう誓って、空を仰いだ。
その空は確かに偽物で。
けれど、俺にとってはもうそうではなく。
俺にとって、天原の空は。
――何処までも行ける、空への入り口だった。

心の中のフェイクアズールも同じく。それは限界で壁で、偽りの生きる空間だったけれど=に見えるけれど、しかしそこから、何処までも行けることが出来るんだと。久しぶりにラカン先生で喩えるなら、象徴界も想像界も、自己の中のフェイクアズールでしかないけれど(そして現実界は象徴界から遡行的に仮構されるように届きうるものではないけれども)。しかしそれは、「終わりではなく始まりなのだ」と。自分の限界とか、自分の壁とか、あるいは自分の世界とか、自分の知る限りとか、そういうのは、それが自分の最果てという「終わり」ではなく、そこから続かせるための「始まり」――続きへの入り口だったのです。
偽りの空は、そこで生きろと与えられた安寧の箱庭ではなく。一見そう見えるけれど、諦めずに変える為に動けるのなら、その意味は逆転する。そこから新たな場所へと旅立てるという、スタートラインへと。


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