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なすところをしらざればなりFOR I KNOW NOT WHAT I DO 

月は東に日は西に――カラの玉座に王は立つ(その1)

   ↑  2010/03/26 (金)  カテゴリー: 未分類

月は東に日は西に ~Operation Sanctuary~ 通常版月は東に日は西に ~Operation Sanctuary~ 通常版
(2003/09/26)
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『月は東に日は西に』、ちょっと前にクリアー。オーガストのゲームをやるのは初めてだったんですが、たしかにこれは人気が出るのも頷ける良さでした。

「月は東に日は西に」というのは、字面どおりに読めば「夕暮れ」ですね。その「夕暮れ」に対し、直截的に言及している数少ない(唯一かも)本編でのセリフ。
美琴 「わたしがいた世界では、夕暮れは怖いものだったの」
直樹 「怖い?」
美琴 「次々と人が死んでいくのを、毎日見ていると……」
美琴 「わたしは、また明日太陽が見られるのかなって不安になってたっけ」
美琴 「……これが、太陽も見納めなんじゃないかって」
暗いことや悲しいこと、不安なことも、「Operation Sanctuary」――それぞれの聖域を見つけていくことで、変わっていく。そんな感じで非常に良く出来ていましたね。どのお話も、永遠の別れ(になるかも)という障壁がラストに入っていて、しかしそれに立ち向かい乗り越えるという作戦を経て、その聖域に至る――そもそも、そこに向き合う強さを持てるイマそのものが、既に、聖域である。

とかなんとか。いやすみません、久しぶりにブログ書くので文章全然書けない。

今作の共通パートはちょっと特徴的でして(といっても、2010年の今から見たらそう思える、なのかもしれませんが)。非常に場面移動・場所移動が多くて、しかも速いんですね。そしてそれに伴う選択肢も非常に多い(個別ルートに入るまでに50回くらいは選択肢があるのではないでしょうか)。つまり、「どこへ行く?」などを選択肢で選ばされて、その先には誰かしらのヒロインが居て、そこでちょっと会話を交わした後にはまたすぐ教室なりの他の場所に移り、そしてまた選択肢により場面が変わっていったりする。ここで重要なのは、その「多さ」と、1シークエンスの(時間の)「速さ」、そして言い方は悪いですが、「中身の非重要性」です。
まずは選択肢の多さと、それに伴う――いや、選択肢関係なしにもばんばん起こるのですが――場所と場面の移動。まさに「東奔西走」というキャッチフレーズどおりというか、とにかくあっちこっちに”忙しなく”動き回ります。自分のクラス、カフェテリア、園芸部、保健室、料理部、お昼はさらに屋上なんかも。で、それに対応して各ヒロインが居るわけですねー……ついで重要なのは、決して各ヒロインが単体(ひとり)とは限らないということ。カフェテリアに向かえば、茉莉が居ることが多いのは当たり前ですけど、しかし天文部関係もカフェテリアがメインだし、ちひろや唯先生や恭子先生なんかもそれなりの頻度で登場する。そしてそれが、ひとりではなく複数――つまり、茉莉とちひろ、美琴と保奈美、など複数人がそこに居たり現われたりするということ。一人しかいない場合と複数人絡む場合、割合的には五分五分に近いのではないでしょうか。それらが、選択肢無しでも起こりますが、主に選択肢アリで、主人公がそこに導かれたり(=プレイヤーが主人公をそこに導いたり)します。
で、それらのシークエンス自体は、基本的にコンパクトに纏められています。つまり「速い」ということ。数クリックで終わるってほど速いわけではありませんが、起承転結付けた話が毎回展開されるほどに長いわけではない(勿論そういうのもありますが)。基本的には、次から次へと場所を選んで(=場面を選んで)、そこでヒロインたちをちょっと見て会話して、また次の場所(場面)を選んで……という流れ。
そこで展開される話は、感動でも小話でもなく、また最初の方を抜かすと、後半までは伏線らしい伏線が殆どなく(※ネタを知らなきゃ(最初のプレイでは)気づかないくらいの薄い伏線)、つまり言葉悪いですが中身が無いくらいの、物語においてそこまで重要ではなく、ただヒロインたちと(ヒロインたちが)お喋りするだけのような、そんな中身。よくオーガストのお話に対して「眠くなる」「睡眠導入」とか云われてますが、ぶっちゃけ、物語・あらすじを見るためなら飛ばしても十分なくらいのシークエンスが多いんですね。だけど、飛ばす気になれない。そこが凄いのですが、それはまたおいおいに回すとして。

で、これって実は『To Heart』(初代)と似てると思いました。場所を選ばせる選択肢が、ゲーム内日付において毎日のように現われて(To Heartではマップ形式でしたが)、そこには対応するヒロインがいて、そこで話が展開されるけど、そこでの話の内容自体は重要ではない、重要なモノではない。むしろ重要なのはその存在である。
――あと、これは唐突ですけど、『あずまんが大王』って『To Heart』に似てませんか?
高橋:そうですね。方法論は似ていると思います。四コマってシチュエーションだけを描いているわけですよね。『To Heart』は基本的にシチュエーションの連続ですから。だから『To Heart』をやるにあたっては四コマが一番良かったと思います。アンソロジーの四コマはどれも良い感じですし。『あずまんが大王』はちょっと悔しい(笑)。あれは『To Heart』でやりたかったことでもありますから。
――『To Heart』の最良の部分はこれなのかと。
高橋:四コマが一番『To Heart』を表現しやすかったと思います。
――コンパクトに表現できているからですか?
高橋:スパッと読めるのが良いんです。『To Heart』なんて本来後を引きずるようなものじゃないんですよ。四コマくらいで、その瞬間がおもしろいものを目指していたわけですから。『To Heart』本編中のどこから読んでもおもしろい、それだけのものでしかないです。あとはキャラクターで突っ走った。まさに『あずまんが』と同じだと思いますけど。
http://www.tinami.com/x/interview/04/page6.html
『To Heart』に対して、作者さん自身が「四コママンガ的だ」と仰っておられましたが、『はにはに』の共通パートも、形は違えどまさにそのような感じ。「四コママンガ」と同じ様に、四コマで一区切りが(とりあえず)付くようなショートエピソード――いや、四コママンガと同じく、エピソードというほど物語的ではなく、引用文でも仰ってるような「シチュエーションの連続」的であって、それが大量に存在している。それへのアクセスは選択肢による移動であり、つまり場所―時間(シチュエーション=出来事)がそれにより区切られ、ゆるい署名が為されている。そのシークエンスの中身自体も、四コママンガと同じく、大半が物語的にさほど重要ではないものばかり――たとえば1個2個飛ばしてしまっても(選択肢選び損なっても)、まるで問題なく物語を理解できる。

つまり、これはこれで『To Heart』の正当後継だな、とか思うワケです。物語的重要性をさほど帯びないシークエンスを、選択制にして大量に用意し、それを参照しながら進んでいく――個別ルートへと入っていく。そして四コママンガと同じく、『To Heart』と同じく、その”物語的に重要ではない”大量のシークエンスこそが「面白い」というカタチ。なぜそれが「面白くなるのか」というと、上述の引用文でも示されているように、
 四コマくらいで、その瞬間がおもしろいものを目指していたわけですから。『To Heart』本編中のどこから読んでもおもしろい、それだけのものでしかないです。あとはキャラクターで突っ走った
キャラクターが非常に良いから。らき☆すただってけいおんだってひだまりスケッチだってそうであり、To Heartだって(はにはにと近い時期に発売されてTo Heartの形式を踏襲している)ダ・カーポだってそうである。

『はにはに』に関しては、作り手が各ヒロインの魅力をホントによく分かっているなぁという感触を受けました。だからこそ突っ走れるほどの魅力をキャラクターに与えきれたのではないだろうか。感触なんで、なんとも書きづらいのですが、だいたいどのヒロインも、最後まで初期(※最初にあらず)の印象どおりなんですね。もちろん多少のプラスアルファ・マイナスアルファは施されるし、出自とか秘めた想いみたいなのも明かされるのだけれど、そのことにより印象が決定的には変わらない。彼女たちの出自が明らかになれば、たとえば美琴の明るさに、彼女が以前に居たところでの暗さの翳を読むことができるし、たとえばちひろの消極性に、彼女が「そうなってしまった」ほどのこれまでの経験の重みを読み取ること・感じ取ることもできるけれども、そこに魅力の軸足は置かれない。……と書いてみたんですが、この辺はすげー個人差ありそうなんで何とも言えないぽいっすね。

そのようなヒロインたちを、先にも書いたように、ひとつのシークエンスに「複数人」で存在させている。ある場所に行ったらあるヒロイン”だけが”いる、というワケではなく、誰々と誰々、さらに他の誰々、といったように複数人いる(※もちろん必ずしもそうではないけど)。ヒロイン同士の関係性が存在していて、それがちゃんと踏まえられていて(※みんながみんな仲の良い友達というワケではなく、ただのクラスメイトレベルとか、知り合いレベルの関係(もちろん可変)、そんな関係性をきちんと踏まえている)、しかもちゃんと描かれている。この辺は他の『To Heart』踏襲ゲーとは少し一線を画すのではないでしょうか。こうして複数人存在させることによって、世界やネタの広がりもさることながら、彼女たちそれぞれの差異が露になり、しかも魅力が十全に描かれているわけですから、それがより強調されるわけです。プレイヤーの視線が彼女らを相対化することによって。だからキャラクターで突っ走れる。

エロゲにおける「日常」というのは、それこそ「To Heart=四コママンガ」よろしくに、ある意味日常系四コママンガにおける「日常」と相同的でないかと思うのですが、『はにはに』の共通パートはこの流れが上手く踏まえられてるのではないでしょうか。ひとつひとつのエピソードにおいては、僅かな例外を伴いつつも、ほとんどの場合において、物語重要性をあまり持たない。(物語的には)1エピソード飛ばしても問題ないし、連載1回分飛ばしても問題ない場合が多いし、あろうことか単行本を1巻読まずに2巻から読み始めても物によっては結構大丈夫だったりする。対し『はにはに』も――『To Heart』に対し高橋龍也さん自身が仰ってるのと同じく――本編中のどこから読んでも面白い、その瞬間が面白いものである、シチュエーションの連続である。たとえば本編に日付表示とかあるけど、これほとんど意味を持ってないんですよね。特定時期の定期イベント(体育祭とか)除くと――それだって細かい日付は恣意的なんだけど――何日だろうと同じじゃん、だってシークエンス自体が「今日が何日だろうと変わりないから」、という。最初期と個別と一部のシークエンスを除けば、シークエンス群はそれまでを無理に踏まえていない。もちろん、そうではない(前々に立てたフラグが重大に作用する)シークエンスもあり、そしてこの形式だからこそ、それがより際立つのですが、しかし基本的には交換可能性が高いシークエンスで出来ている(※その基本をぶち壊すからこそ、”そうではない”(=個別に向かう=恋愛的な)エピソードは、非日常性を帯び強度を持つ)。基本的には、時間・場所に強く、人物・シチュエーション・出来事に弱く、交換可能性がある。それは逆に言えば、どこから読んでも面白い・その瞬間が面白いということです。だから、ぶっちゃけ物語的にはスキップ使っても何も問題ないような話が延々と続くけれども、僕としてはとてもスキップする気にはなれなかったのです。その原動力はシチュエーション自体、またそれの連鎖に牽引されつつ、最大のものとしては当然キャラクターとなるワケです。そこが優れていれば、もはや言う事もないくらい、完璧。

(……で、こうやって書いてたら、『To Heart』系として今最も進化してるのは『シュガスパ』だよな、つうか『シュガスパ』ってそういうゲームとして読めるんだな、ってことに気づいたのですがー(※「”ここでいう”四コママンガ的」という観点からすると)。それはまた別のお話、別の進化ということで、とりあえず他のオーガスト作品も幾つか買ってあるので、のちほどプレイして、また続きを(話を広げられたらw)、ということで)

(記事編集) http://nasutoko.blog83.fc2.com/blog-entry-87.html

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