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某ビーツ!其の七迄の雑感的なるもの

   ↑  2010/05/15 (土)  カテゴリー: 未分類
さあて、某ビーツの話ですよ某ビーツ。「某」とか言ってるこの表記はもちろん検/索/避/け的な意味でね! 我われは検索こそを避けなくてはならないのです。東方においては弾幕が会話でありコミュニケーションであるみたいなことを福嶋亮太さんあたりが仰ってたような気がするけど(すげえうろ覚え)、それと同じ様に、ネット世界においてはその覇者であるグーグル先生の検索という横断権能に対し如何なる処置をとるか、という点が我われに問われているのです。検索という審級=弾幕といかに戦うか。弾幕を避けきって未来へ届かせるように、われわれも検索を避けきって未来へ届かせねばならない。そんなことを思うわけです。まあ全部嘘ですけど。
それはさておき、いずれにせよ、神秘性というものは考えられなければならない。検索を避けぬいて隠すという先に神秘性が宿るわけです。隠して隠れて隠されぬいた先の神秘性を利用してはじめて勝利に至れる。かつてドイツの学者さんが、神に辿り着く為の絶対条件としてパンツ脱ぐことを提唱されていましたが、真の神ではなく偽の機械神を欲している我われは故に逆の方策を採用すべきなのです。憎悪の空から何もこねーよ!が現実なのだ。そこで「あれ、もしかして憎悪足りないとか?」なんて方向に進んじゃったら、真の神に辿り着けるかもしんないけど道中辛すぎて死ぬのだ。神を召喚するに満ち足りるほどの憎悪で空を埋める――真に憎悪の空足らんとするならば、必然それだけの憎悪に出会わなければならず、そんなの死ぬほど大変だろあとめんどくせえ、という話である。しかもそれ実現しても大抵の場合はお決まりのように神は来ないわけデスシー。ならば我われは偽神を欲する。そしてその方策はただひとつ。秘密主義による偽の神秘性だ、というわけなのです。まあ全部嘘ですけど。
いい加減話を戻そうか。まあいずれにせよ隠すとか見えなくするとか重要なわけです。ぶっちゃければヤツに読ませるテキストは1バイトもねえ!というだけの話なんですけど、そいつを神秘のベールで包むのが我われの仕事なわけで。考えてみれば、ボクたちはほら、たとえば木曜洋画劇場をつければ波止場で怪しい男たちがアタッシュケースに入った例のブツを取引している場面だったり、日曜洋画劇場をつければ港町で怪しい男たちがアタッシュケースに入った例のブツを取引している場面だったりする世代なわけです。アタッシュケースというベールに包まれることによって、ただのブツが、神秘的な色合いを帯びれるわけです。あれも所謂マクガフィンみたいなものですね。マクガフィンというのは、まあ覇王ググル先生にでも聞いてくださいというところですが、しかしよくマクガフィンとは「どうでもいいもの」と説明されるけど、本当にどうでもいいというわけではない。というか、「どうでもいいということが知れてしまったらいけない」。よくジジェクが対象aとしてのマクガフィン、という物言いをしますが、つまりそういうことですね。対象aとは幻想(を投影する)カーテンである。別にブツの中身が大金だろうが伝説の宝石だろうが国家機密だろうが開発中の新兵器だろうが、なんでも構わないわけで、極端な話そんなたいそうなものじゃなくてお菓子とかおもちゃとかでも構わないわけです。が、お菓子とかおもちゃとかそういうものだと知ってしまっていたら、それはマクガフィンになりえないわけで(お菓子やおもちゃを巡って争ったらコメディだ)、そしてどうでもいい=なんでもいいものなんですけど、どうでもいい=なんでもいいということが知れてもマクガフィンになりえないわけです(どうでもいい=なんでもいいものを巡って争ったらB級だ)。つまり、その正体は何でもいいんですけど、けれど大切なものである・重要なものである、という幻想を確信持って抱ける、そういう対象がマクガフィンなわけです。これは朱鷺戸沙耶せんせーにおける「秘宝」も同じですよね。沙耶シナリオにおける秘宝もまた、ある種のマクガフィンである。生物兵器でもタイムマシンでも、あるいは他の何かかんけーない物事でも、秘宝の正体は何でもよかったんだけど、”追い求めるだけのものである”必然がそこには必要であった。別に何でもいい、ってものを必死に追い求めるとか物語とかまあ普通に考えて奇手だよね、というのはドクサ的にまあそーだね感が溢れるであろう。しかし逆に、何でもいいと思えるくらいに正体が定かならず、そして正体が重要ではないのがマクガフィンであり、対象aなわけです。むしろ定かってしまってはそうはならない。なにか――”そのもの以上のなにか”である(抱ける)必要がある。まあ沙耶ちんの話は置いときましょう。というかボクは油断すると沙耶ちんの話しかしない。いやむしろ沙耶ちんの話だけしてようか。まあ嘘ですけど。それはともかく、YURIっぺにおける、あるいはエービーにおける「神」という存在も、今のところは、たとえば沙耶における秘宝と同様、対象aとしてのマクガフィンとして扱われていることに異論はあるまい――――
ということで、あのバンドやったり野球やったり麻婆豆腐食ったり釣りしたりするアニメのお話ですよ!いやーしかし一つのアニメ内で、バンドやって野球やって麻婆豆腐食って釣りして、あとなんか銃をバンバン撃ったり剣をじゃきじゃきハンドソニックしたり、催眠術だったり麦藁帽子だったりする、こんな盛りだくさんなアニメはかつてあったでしょうか。いや無い。惜しむらくは盛りだくさん性が――というか物語の(展開の)スピードが、まるで位相に存在する点でしょうか。毎週のように「ゲームでやったほうがいい」という感想を拝見するように、たしかにゲームでやった方が映えるような脚本であり、それは咎であるかもしんないすけど、いくらゲームっぽい脚本だとはいえ、動く映像としてのアニメを見た直後に「ゲームでやったほうがいい(しかもアクションとかFPSとかじゃない、紙芝居と揶揄されるノベルゲーム!)」なんて言われてしまうような映像であることも咎であるんでしょう。たとえばコードギアスなんかはもっと超速ですけど、コンテ演出面も超速にすることによってバランスを取れていたわけですが(早くて多いカット切り替え、さらにアップの多用とかね!押井守が近景・中景・後景の使い分けを、それぞれ物語においてどこに比重が置かれているか・どこにより物語が動いているか――たとえば近景はキャラクターが・後景は世界、社会などが、といった具合――に喩えていて、それは随分大胆な発言に思えたけど、しかし少なくともベクトルとしては正しい分析であり、あまつさえ速度とカットの量によってはその重要度は増すのである、まさにギアスのように)、そういう面での統合が図られてたりすれば、もっと良かったんじゃないのとか思う。まあどうでもいいけどな!だーまえ信者としては、「全肯定」がまず先立っていて、ダメとか文句とかも全肯定の後に続いているんですよ。あーだから信徒的にはそんな評価みたいなものはどうでもいいんだよ。岸監督はタイトルにエンジェルってつく作品が鬼門なんだぜ……!で終わらせときゃいい、それだけの話。……いちいちこんなどうでもいいこと書くのは、自分にとって自明で書くまでもないどうでもいいことでも、書かなきゃ伝わらないらしいから(だから、どうでもいいと前置きしておかなきゃやってらんないわけだ)。メンドクサイよね、弾幕!
えっと……、なんだっけ。鼓動ちゃんマジ鼓動!でおなじみの某ビーツの話か。今回に関していえば、記憶を取り戻したOTONASIが、第1話と同じ様に――というか「同じ」を狙って作ってるんだろうけど、まあそういうやり直しの契機じみたものが存在している。ゲームだったら2周目って感じだよね!会長代理軍に敗れたOTONASIだが、2周目では生前の記憶を持ったままはじまることになる。第1話の再現のような屋上→作戦発表……なのだが、第1話のときはその後、何も分からないまま天使を撃ってしまい、故にそのまま、音無と天使は敵対関係の中に仮投機された。そのことに対し音無は「もし俺に記憶があったら……。最初にバカな質問をしなければ……。この世界で俺は、お前の味方でいたかもな」(第6話)と語っていて、じゃあ記憶あったらどうなのよ?、というのが今回の再現で示されるわけです。橋で銃を撃ってしまったように、今回もまた橋みたいなところでみんなに「こいつがマイスウィート天使ちゃんだ」と紹介するわけですしね。丁度クールの半分消化して、丁度一周ぐるっと廻って戻ってきたみたいな感じでございましょう。
記憶を取り戻し責任を取り戻すことによって動くことが出来た。というわけでもないが(記憶がないときの音無の人生だって、本物だったはずだ!→抱擁→号泣)、少なくとも「天使よ。撃っちゃったけど音無くんを許しなさい。彼はその為すところを知らざればなり」みたいな状況からは脱却できたわけで、そんで名前も知ったわけで、天使ちゃんとお互い名前交換して「下の名前を呼んで。恋人付きあいのはじめはそれだけでいいの」って話ですよね多分。なんか適当に書きすぎてんだろおめーとお思いかもしれませんが、イエス適当に書いてます。ドイツの教授の言に従えば、適当さの先が逆説的に神を召喚するのです。逆説的に差異と反復ですね。まあそのー、たまには適当に書きたいんですよボクも。あーめんどくせー(精神言語だだ漏れ)。
とりあえずまぁ、まだまだ答えや結論には遠すぎるっつーお話です。某ビーツは現時点ではよくわかんねえ。「神」が対象aとしてのマクガフィンなのか、といえば、少なくともYURIっぺにとってはまあだいたいそんなものである、ように見受けられる。こんな人生なんて許せないから神へ復讐するわけであり、そこにおいて神様が、キリスト方面のなにかでもイスラム方面のなにかでもギリシャ神話やケルトや八百万方面のなにかでも、YURIっぺ的には別になんでもいいわけです。「復讐さえ出来れば」。受けた理不尽のお返しが出来るだけの対象が神であり、要するに彼女の運命みたいなのを決めたヤツがいればそいつが神であり、そいつに復讐できるならば、そいつ自体が何者であるかは問われないわけです(だからまあ、たとえば、この世界が死後じゃなくて電脳世界とかだとしても(そういう事実が判明しても)、其の点においてやることは変わらないでしょう)。しかしそれは、彼女の独言を信用した場合にのみ立ち上がる解答であり、つまり、音無も岩沢さんも、語られる過去は、「自分が何で死んだか」であり故にどんな「死にきれない」が在るのかなのに対し、ゆりっぺさんはそうではない。過去の辛いことは語られても、何で死んだかは語られないし、何で死にきれないのかも語られない。まあ語られた「その過去」が、ほぼまんまでそっちの理由にも接続されるのかもしんないですけど。いずれにせよ、神さまは現時点では、まるで沙耶っちの秘宝のような扱いであり(正しくはそれ以下、実在――というか、いちおう「在る」ということが、エビでは保証されていない)、その上、実際に神さまを追い求めるのに執念燃やしてるのってYURIっぺだけみたいに見えるつうか、神に対する姿勢としてなんか周囲と(前略)っぺさんと温度差を感じさせるものでもあるから――たとえば、今回のBパート、みんなで天使を手伝って釣り上げて、NPCにご飯振舞って、という彼ら・彼女ら・そしてこの世界への「適応」を、ゆりっぺだけは参加しない=拒んでいるわけです。MS(モンスタストリム)を釣り上げようとする天使ちゃんを音無が「抱きついて」助け、その音無になんか恭介みたいな声の人が抱きついて、それに他の戦線メンバーもどんどん続いていって、つまり”音無を介して”みんなが天使ちゃんと繋がり彼女を助けるわけですが、ゆりっぺは”当然”のようにそこに参加しない。ちなみにユイも抱きついて助けるという参加はしてないけど、いちおう声を上げて応援したり文句言うというように、音で参加している(バンドだけにな!)。ゆりっぺさんはそれすらも無いわけです。そしてその後の食糧配給場面でも、当然のようにゆりっぺさんは居ないわけです。天使と一緒に、NPCと一緒に、つまりこの世界に適応し参加していく所業を、ゆりっぺさんは拒んでいる。しかもそれだけでなく、拒んだ果てに、ひとりで、今度こそ神の御遣いかもーな天使Bとバトってるのですから、その温度差は言わずもがな。――だからそのー、なんとも判別付かなくて、なんとも難しいよね。神は、一方(ゆり)では対象aとしてのマクガフィン的であり、もう一方(他の人)では浮遊するシニフィアン的である。

えーと要するに、真相解明編をまとうぜ!って話です。ぶっちゃけ毎週そうだけどね!   神への復讐、その最前線/希望を胸に生れ落ちる生命。彼女はそれを見送り続けた/   「死にきれない」、つまり未練や悔いや思い残し、「これがあたしの人生なんだ」と生きてく意味とか生まれてきた意味とか、つまり死にきれなさを超越するもの。それらがいちおう、中心のようなものだと思うんだけど、しかし、真相がわからないからこそ、これらをどこまで額面通りに受け取っていいのかもわからない。
というのがね、逆説的に優れてるんじゃないかと思います。真っ向から人生を語る(テーマは人生賛歌!)というのを回避できている。そんなものを真っ向から語られてたら、さすがにクサかったりでやっていけないかもしれないけど、このように、真相を分からなくすることにより、キャラクターの過去や見つけた人生の意味の「本当の意味」を宙吊りさせることが出来ており、それが逆説的に、やがて来る強度の潜在となっている。未だ未分化的であり、意味づけで回収できないように・位置づけを拒み続けているように、それは”存在しているのに現実化されておらず”、”見えているのに潜在的であり続けられている”のです。
これはまあ、一つの肝でしょう。真相を隠すというのが作劇的な所作だけだとしても、しかしそうしてしまっている以上、何かしらの意味は生じている。ようすると、プラグマティックには、真相解明されたときに一気にばーん!と来るのでしょうが、それまでは「これ何なのだろう」の段階に潜在させておくことが出来、それがばーん!ってなったときの強度に繋がるという話なんですが、しかし「そのためにこうしている/結果としてそうなる」という構造・構成そのものが、そのものに回収しきれない過剰を生んでいる。それが……そのうちの一つが、つまりこういう点であり、それが果たしていかなる意味を持てる/持つのかは……真相次第、だよねー!

というわけで真相編が楽しみなんですが、ぶっちゃけ毎回ごとの期待をぜんぶ真相解明=最終回に延期しまくって積もり積もってキャリーオーバーがとんでもないことになっているので、つまりアレだよね、期待しすぎかもね自分、という話ではありますが、現状宙吊り分のタメがあるので、ラストはスパッと斬れてくれるでしょう、と期待して。真相解明は劇場で、だとしてもボクは見に行くよ!

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