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2010/05/17 (月) カテゴリー: 未分類
ようこそ、ラストパラダイスへ!
アッチむいて恋 初回版
(2010/04/30)
Windows
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ということで、なんだろ、すっごく面白いけど「えっ……」という感じも残らざるを得ないという説が私の中でこの世の春を謳歌しているのですが、要するにライターさん二人いらっしゃるんだけどあまりにも違いすぎてるよねこれ、という話であって、そして違うのは作風のみならず面白さにおいても、という話です。うぎゃー。しかしこれは二重生活の暗喩としての二重ライターなのです。ライターさんの違いが中身の違いと相同していて、ライター変わればシナリオもがらりと変わろうが雰囲気も流れも異なろうが、しかしどちらもひとつの「アチ恋」であり、どっちかだけ向いて恋(プレイ/評価)しようとする態度に対する強い批評性なのです。そう、ボクたちもまた、作中の彼がヒロインたちの二重の両面に出くわしたように(そして作中のヒロインが真恵と浩介という主人公の二重の両面に出くわしたように)、ゲーム自体が持つ二つの顔=二重の顔に面している。そこにおいて我われもまた、真恵(マエ)のように前(マエ)を向いて挑まなくてはならない。そう考えると心臓にグサリとくる威力を持ってますね! いやこのゲームは、このように(?)色々と上手いというか丁寧というか凝ってると思うんです。
とりあえず体験版はタダで出来る上に死ぬほど面白いから全員やればいいと思うよ!
あと、バッドエンド(誰ともくっつかないエンド)も、まあ20クリックくらいで終わるようなものなんですけど、何気に笑ったので気が向いたら期待せずに(期待してしまうと逆に面白くないと思う)プレイしてみるといいかと思うよ!
女装主人公と男の娘主人公の決定的な差と、相対的な所作
「女装主人公モノ」というのは、今やひとつのジャンルとして確立されているくらい「ひとつのパターン(形式)」でもあるのですが、本作は公式サイトなどでも謳っているように「二重生活」という点で他の女装主人公モノとは異なるものになっています。寮生活では女の子(女装)として、学園生活では男の子として生きていき、他のキャラクターと接していく。つまり、主人公が物語中のほとんどにおいて「ずっと女装」しているような一般的な形式と異なるということです。これがなかなかに特徴的。
本作は「女装少年」だけど「男の娘」ではないですよね。女装少年と男の娘の最大の違いは何かといえば、前者は「女装している(だけ)」であり、後者は「それ以外の(以上の)何か」であるということ。断言調で書いてしまっていますが、しかしこの点についてのみは断言してもよろしいのではないでしょうか(勿論、これ以上細かくしていく点においてはこんな簡素な予断は許されないのですが)。たとえば女装少年というのは、ボクだろうがあなただろうがあいつだろうがそいつだろうが、”女装さえすれば”なれます。女装してれば女装少年である。青年だったら女装青年で、オッサンだったら女装オッサンだろう。しかし男の娘というのは、女装しただけではなれない。それについてボクは、ざっくばらんに言えば、自身の「女の子性(=男の娘性)」が現実化しているのが男の娘であると――言い換えれば、(対象を)女の子性で微分すると現実化される表象が男の娘であると――考えてるのですが、しかしアチ恋の主人公においてはそんな面は一切といっていいくらいにありません。平たく言えば、彼(真恵)は女の子のフリをしているだけであり、しかもその動機は寮生活における必要から生じているものというだけであり、つまりぜんぜん女の子性が無いわけです。たとえば真恵は、誰も見ていないところや、正体を知っている人の前でもしっかり女の子である、なんてことは殆どしてないわけですね。話し言葉は男の子のそれだし、自分が思う自分自身というのも当然男の子のそれであった。それは浩介で居るときだと、言わずもがななくらい「さらに」ですね。浩介で居るときに、ついつい女の子言葉になったり、ついつい女の子な行動取ってしまうなんてことは殆どないのです。
つまり彼は、女装しているのは確かだけど、「どれだけそれ以上か」と言えば、首を傾げざるを得ない――男の娘との決定的な差が(断裂が)そこに存在している。女装男子というのは、女装してなきゃただの男子なわけですけど、「男の娘」というのは、女装してなくても、一度足りとて女装したことなくても、そんな気を少しも見せなくとも、「男の娘」なわけです(たとえばロイブーの彰男化計画とかがまさにそうで)。外装により男の娘化するわけではない。自らが内に持つ自身の「男の娘性」で持って男の娘になるのが「男の娘」であるのです(――が、もちろん外装というのも重要な部分です。幻想により「男の娘」だと分化される存在ですから、幻想を這わせるだけの外装を有していなければそれは大きな欠如である)。
つまり彼は男の娘ではない、男性である――が、ただの男性ではなく、女装している男性でもある、が、しかし表象としては・ないし社会性(生活)としては男性/女性(男の娘)が常に交錯し入り乱れている/入れ替わり続けている。
二重生活はこのように、どちらにも纏まりきれない宙吊り感を生み出しているのですが、さらに周りのサブキャラがそれを補填しているのが、非常に丁寧な作りで素晴らしいと思いました。つまり、主人公がガチの女装でもガチの男の娘でもないからこそ、サブキャラに「ガチ女装・ガチ男の娘=杏樹」が存在していて、主人公が女装していてもホモってわけではないからこそ、サブキャラに「ガチホモ(っぽいやつ)=慎吾」が存在している。サブキャラが主人公の代わりに「極端」を担うことによって、主人公のポジションが相対的に「男の子でもある女装少年」に収まりきれているのです。サブキャラは主人公を映す鏡である(もちろん、同じ部分/違う部分の両方を認識させ主人公のポジション/存在を理解させるという意味での鏡面)。彼らがあんなんだからこそ、主人公の位置も、どちらにも纏まりきれない宙吊りのままでも存立し続けられている。さらに言えば、(その内実は乙女的部分も多いけれど)表面においては男っぽい女性であるお鈴さん、かなりぶっ飛んだキャラである理事長というサブキャラも存在していて、多方面に至れり尽くせりなんですよ。男の娘になりすぎないように調整できる鏡が用意されてたり(たとえば杏樹に比べれば彼は全然男の娘ではない)、かといって男性の暴力性を所有しすぎないように調整できる鏡が用意されている(たとえばお鈴さんに比べれば彼の暴力性は薄い)、といった具合に。物語前半はおかしな二重生活を楽しく描きながら、物語後半は、女装(真恵)から普通(浩介)へとシフトしていく――浩介として収束していく(あるいは浩介と真恵が統合されていく)というシナリオだからこそ必要である、主人公は「浩介であり真恵である(しかし「浩介」が先立つ)」という大事な前提を、こういう極端な鏡像を用意することによっても保持できている。普通にプレイしていて今が女装してるんだか女装してないんだか分からなくなるくらいのテキスト表徴(そして真恵・浩介立ち絵の非存在)であるのが本作の主人公における「女装」の扱いなのですが、それほどに強い、女装時‐非女装時の地続き感を、テキストや物語は勿論、設定面においてもこのようにフォローしている。よく考えられてるというか、考えられすぎてるくらいマジ素晴らしいと思います。いやこのゲームのこういう設定性は熱いですよ。というかね、仕事がめっちゃ細かくてなんかすげー好きです。
以下ネタバレで個別シナリオについてかるくかんそう
たぶん、朱ちー・優由・共通の方と、かぐや・ルナ・美奈子(あと共通における彼女たちのお話)の方でライターが別だと思われるのですが、しかしボクは美奈子→ルナ→かぐちんという順番でプレイしたのでビックリしました。いや共通と全然違うじゃんという印象でw。個別に入るとギャグが無くなるのは、序盤はギャグキャラとして描かれていた=存在していた彼女たちが、ギャグキャラからギャグを取った存在キャラ=人間になったからだ!とか思ってしまってたんだけど朱ちーとかプレイしたらそんなことなかったぜ、といったお話です。つまり二重性を感じてしまうくらい結構異なる色合いを見せるのですが、それこそが二重性を標榜する本作に相応しい形式でもあるのでしょう。
ルナちーシナリオ。妹として見る・女の子として見る、という二項からのはじまりというか、その二項が生まれるところからはじまるということですね。今までは妹としてしか見ていない(アッチしか向いていない)というところから、女の子として見るというもうひとつのアッチを――もう一つの方向を生まれさせる恋愛話。過去エピソードが効いています。「向こうに上手い饅頭屋があるよ」といって引っ張っててくれる、それが新しい家族・新しい環境に向き合うことに恐怖していたルナの心をやさしく包んでくれていた( 「私、あの時のこと、ものすごく感謝してるんだよ?」「……もし、あの言葉がなかったら…」「当時の私…幼い頃の私はきっと、現実と向き合うことなんてできずに、心を閉ざしていたはずだから…」 )。視界は一面しかないのではなく、違う方向もある。ひとつの面だけを見ていると辛くてきつくて折れてしまうかもしれないけど(この現実だけを見てたら心を閉ざしていたかもしれないけど)、違う面を見ながらだと、かえって上手くいったりする(饅頭屋に行こうなんて、まるで別の方向へ向かうやさしさが、かえって現実に向き合う強さになっている)。
かぐちん。浩介「ちゃんと向き合ってくださいよ。服とも、先輩自身とも…」。浩介を遠ざけて、服を燃やしちゃった後のセリフですが、えっとそんな感じで。自分に向き合いなさい、そっち向き合いなさい、そこから恋ははじまるのです。とかなんとか。ごめんあんま書くことないかも(ぇ
そして美奈子。 「もずく、みたいな、あなた~」 という即興の恋の歌(優由が恋してるんだって言った時の反応でみんなが即興で作った歌)は意外と深いのかもしれませんね。ミーナはもずくをよく食べてまして、それは味とかも好きなんでしょうけど、ダイエットとしての意味合いも有していた。体重を減らして、新しい自分――輝いてる自分、理想的な自分……そういった自分に向かうための(つまりダイエットを成功するための)ミーナの味方がもずくなわけで、そして「恋」というのも、新しい自分――輝いてる自分、理想的な自分……そういった自分に、出くわさせてくれるものでもある(恋する女の子は輝いているとか綺麗とかよく言うよね的ニュアンスで)。ということで、ギャグとして出てきたこの即興の歌ですが、何気にミーナ自身のことを示しているのかなぁとか思いました。以上。シナリオの話は、なんかその、機会があったら! 「花火、終わっちゃうよ……?」はおしゃれすぎてキュンと来ましたね。神なんじゃないか。というか少女マンガなんじゃないか。個人的にはエロゲにおけるキュンと来た告白シーンベスト3に入ります。
優由シナリオ。ここでラブレターが繋がるのか!という衝撃。ところどころに入るアイキャッチにおいて、SD優由がラブレターを握っておりましたが、あと共通序盤で「先輩にラブレター書くぜ」と意気込んでおりましたが、それがここに繋がってくるとは! あの日から優由はずっとラブレターを書いてたのですね。もちろん実際には書いていないですけど、彼女の心情としては。どかんとぶつかるように想いを伝える――というか、どかんとぶつかりすぎて複雑骨折している(訳:直球すぎるが故に「先輩今日Hしましょー」とか言っちゃう→半ばギャグと化す)から、だから、真に想いを伝えるには、文字として、想いを言葉や身体ではなく、文章というひとつ迂回したところに込めて、込めに込めて、そして送り届ける。キュンときました。個人的にはエロゲにおけるキュンと来た告白シーンベスト5に入ります。
女装バレがかなりくだらないというか、アホらしい(と書くと言い過ぎかもしんないですけど)うっかりミスから生じてしまうんですが、てゆうか「アチ恋」における女装バレは大抵そうなのですが、だからこそ深刻にならないのが素晴らしいと思うんですよね(※除く美奈子シナリオ)。
重い・シリアスな経緯があって女装バレるのであれば、真相を知った彼女たちも、そこから紡がれる物語も、重くシリアスであって然るべきかもしれないけれど、しかし軽く・くだらないくらいの経緯でバレるのであれば、それに対する処置も必然的に「軽く」なる。優由シナリオにおいては、かなり軽くバレてしまったが故に、深刻に陥ることなく、「両方大好きだから」とあっさり纏まる(その優由の気持ち自体がちゃんとしたものですが、物語的に女装バレを引っ張って深刻にしたりはしない)。
これはつまり、相応した報いがある、という思想です。AにはAの、BにはBの報いがある。たとえば、罪が重ければその分罰も重い、軽度なミスなら起こる被害もその分軽度である、といったのと同じくらいで、軽くバレたのならばその分軽く帰結に至る。軽い帰結に至る。このバランス感覚が重要だと思うのです。つまり、朱ちーシナリオが顕著ですが、浩介は悪意や害意で女装したのではないのだから、女装がバレた後の帰結にも悪意や害意は無い。最終的に女子寮が(女子寮のみんなが)温かく迎えてくれるのはそういう観念の基ですね。悪意や害意を持っていたわけじゃないのだから、悪意や害意を持っていない報いが相応しいのである。AにはAが対応し、BにはBが対応する。その二重性はもちろん、(二重の意味で)本作の全体に通じるものであるでしょう。
あと八つの乙女さんシナリオは、ラストが、ファイナル乙女「奥義すっとぼけ」なのもいいですね、というか凄いですね。最後まで貫いてるけど、でもそこに何の問題も感じないでしょう。たとえば普通のエロゲによくあるトラウマ解消・問題解消みたいなのを何も試みてないのに、何の問題も感じない(※いや実際は女らしくなる→運命の人と出会う→結ばれるという優由の昇華が行われているのですけど)。むしろラストでそういった問題が生じているくらい。けど、だからこそ、最後を問題――メテオちゃんが抱えること――で締めてしまえているのです。なに、描かれなくたって、メテオの望みがすてきな感じに叶うのなんて明白だし、真恵の女装バレちゃったけど、なんとかなるのなんて明白じゃないですか、ここまで読んできたんだから分かるでしょ、とでも言わんばかりの、この最後! 恐れ入るほど素晴らしいですね。
それでは朱ちーのお話。 ト ラ ウ マ が 完 璧 に ギャグ! これは吹きました。まさかトラウマが完璧にギャグだったとは!しかも、ゲーム中の音楽もちゃんとギャグになってるんですよね。知らぬは(真面目なトラウマだと思っているのは)朱ちーばかりのみ……。そして、AにはAの報いがあるように、ギャグだと分かってからは、引っ張ったり深刻になったりすることはない。子供でもやらないようなギャグのようなトラウマから脱却して、ちゃんとこっち(浩介)を向くようになるのですね。朱ちゃん(あかちゃん)というあだ名はさすがで、そのまんま「あかちゃん」の隠喩でもあった。そう、真恵が前=方向としてのマエであるように、そういう隠喩的所作もまた溢れているんですよね。たとえば朱ちーシナリオでの女装バレって、ババ抜きしてたら女の子(優由)に組み伏せられて落書きが見つかる、というところからバレるのですが、ちゃんと、ババ抜き=ジョーカーというヤバイものを持たないようにするゲーム(しかも真恵が負ける)、落書き=表面に残った痕跡により、表面的に擬態しているという女装がバレる、という仕組みになっています。なんでババ抜きなのか、なんで落書きなのかに、ちゃんと理由がある(もしくは、隠喩的に機能できている)。こういうところまで手の届いた細かさがまた素晴らしいと思います。てゆうかボクはこの感想で素晴らしい言い過ぎですが、いやマジで素晴らしかったのですこのゲーム。
そしてラストは、普段と女装、浩介と真恵、本当と嘘――つまり二重生活の二重性、それが統合される――ひとつのものとして認められる、という流れでした。喩えるなら「真恵の人生だって、本物だったはずだろ!」ということです。
「俺の中で、あの寮は」自分でやったものは自分で引き受けるという、二重性に対する真摯な所作。二重的だから、どっちかが嘘でどっちかが本当(どっちかを嘘に出来てどっちかを本当にできる)、と単純には落とせない、だってどっちも本当にあったことなんだから。だから一つに統合される。ここ、みんな何かしら勘違いしてた、というのが面白いですよね。真恵が都会に帰るとか、性転換するとか、宇宙とか、そういう勘違いをしてて、だからこそみんなここまで必死になったという面もある。要するに、みんな本当のことを見てなくて、実は「アッチ」向いてたわけです。でもそのお陰で、自分たちの真恵=浩介に対する想いに気づけたし・素直になれたし、また勘違いのはじまりから決まったことでも、自分たちで引き受ける。本作を象徴するような一コマでもあり、また本作を纏めるような一コマでもあったのではないでしょうか。ちゃんとギャグでもあるし、そして温かいものでもある、という点においても。
「あの寮のみんなは」
「もう俺の、鳴海浩介の人生に、入ってしまってます」
さあそしてラスト。メテオちゃんマジ流星、ことメーたんシナリオです。いやーこれはすごい隠しシナリオでした。なんせボクらの脳内に隠されているんだから! PCをそっと落とし、目を閉じて、メーたんの御身を心に思い描く……そうすればはじまるでしょう、伝説のメテオシナリオが。そう、メテオちゃんシナリオに辿り着くには、ボクらは「アッチ」を向かなくてはならないのです。これぞまさにアッチむいて恋。お後がよろしく、ねーよ。いやもう自分にしては珍しく(むしろ初めてかも)ファンディスク欲しくなるくらいにメテオちゃんマジメテオなので、えーとファンディスクお願いします。
(記事編集) http://nasutoko.blog83.fc2.com/blog-entry-94.html
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2013/02/06 (水) 19:34 No.4
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