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WHITE ALBUM2 -introductory chapter-に関する覚え書き

   ↑  2010/04/30 (金)  カテゴリー: 未分類

WHITE ALBUM2 -introductory chapter- 初回限定版 (予約キャンペーン特典「オリジナルフィギュア」付き)WHITE ALBUM2 -introductory chapter- 初回限定版 (予約キャンペーン特典「オリジナルフィギュア」付き)
(2010/03/26)
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introductory chapter は名前通り「前半」だけなので、結論じみたことは勿論言えませんが、しかしなんだこの後半が気になる度は……! という作品でした。で、以下覚え書きを。


音と演出


音を意識した演出が凄くて、たとえばバックグラウンドの音声・SEと、通常想定されるテキストの読まれる速度をだいたいで同期させている(同期するよう心がけて作られてる)なんてことも言えるんじゃないでしょうか。例としては、序盤の授業シーンで(一番最初の授業シーンだったかな)、主人公が普通にモノローグってる間に、モブ生徒が教科書読んでいて、その音声がバックグラウンドで流れているのですが、恐らく想定されているであろう通常の速度で文章を送っていくと、その生徒が読み終わったタイミングと、先生が「はい次、うしろの人」(こちらはテキストに表示)と振るタイミングがおおよそ一致するんですよ。ボクが何言ってるのかわかんないと思いますが(上手に説明できねえw)、これには驚きました。ここがあの女のハウスねのちょっと後、普通に読み進めていると、SEのチャイムが鳴り終るとほぼ同時に「なにやってんだお前ら、4時間目はじまったぞ」というセリフが来るところとかもそうで。非常に凝ったことをやるなと感服させられました。

また、エロゲでたまにある、強制オート(盛り上がる場面やクライマックス・ラストとかで、勝手にオートになること)って、どうも「ここが泣き所ですよ・ここが盛り上がりですよ・ここが感動するとこですよ、だからこう読んでください」的な匂いがしてあんまり好きじゃないんですけど、ホワルバ2の強制オートはそうでも無かったです。というのも、音楽と合わせることが主目的だから(主目的かのように見えるから)。これは非常に素晴らしいと思いました。実際の目的が”どっちにしろ(両方だったにしろ)”、そういった意図性に回収されることなく達成されている。


丸戸キャラクターの自律性と功罪


丸戸さんのキャラクターというのは、自律しているというか、ある意味しっかりと確立されている印象です。他のゲームだったら、地雷踏んじゃうような言動とか、聞き間違いとか勘違いとかなんかは、ああ物語を回すために(書き手がわざと)そうしてるんだな、という部分が透けて見えてしまうようなことが偶にあっても、丸戸さんにはそういう作者の意図の透けのようなものが全く無い。イコール「自然」ということです(※不自然を感じさせる言動ではないということ)。たとえば『さくらさくら』なんかは、聞き間違いとかうっかりとかのオンパレードですが、「なぜ彼がそこで聞き間違えるか」の必然性が示されてないわけです。だからそこに、作者の意図が透けて見えてしまう。「なぜ」の理由が人物の中にないのだから、作劇自体に回収されてしまう。対して『WA2』は、明らかに地雷踏んじゃってるような言動でも、「こいつはそういうこと絶対に言っちゃう人間だから」という根拠が散々に示されてるから、作者の意図的なものが透けて見えない(※後景化したままでいられる)。そういうことを言っちゃったりやっちゃったりする根拠が存分に示されている――むしろそういうことを言っちゃったりやっちゃったり”しない筈がない”、くらいのレベルで。たとえば、冬馬の家に泊まったとき、春希がトラベルセットを忘れちゃって雪菜に疑われるなんて場面がありましたが、こんな「トラベルセット(大事な・疑われざるもの)を忘れる」なんてことも、非常に春希っぽい。春希はひとつのことしか目に入らないというか、”目に入ったものしか目に入らない”タイプの人間なので(※詳細は後述)、こんな危険なブツを忘れることも、「ああ、こいつらしいな」と納得できる。作劇の都合でトラベルセットを忘れたのではなく、春希の人格としてトラベルセットを忘れるのは道理だなと思わせてくれるわけです。
三角関係モノの作劇のお決まりとして、勘違い・言い間違え・聞き間違え・言い損ね・聞き損ね・何かを忘れたりするようなうっかりミスなんかがよくあり、それにより三角関係という物語を回していくことがよくあるパターンでもあるのですが、『WA2』は、それをキャラクターの人格として回収することにより、作劇の都合により振り回される恋愛ではなく、彼らが彼ら自身だから振り回されてしまう恋愛という方向に纏めている。後編がまだなので結論には早いですが、ここまでのところ、勘違いなどの典型的パターンを踏襲しながらも、そこの帰結を作劇(物語)ではなくキャラクター(人間)に持ってくることによって、また別の次元を(新しい物語を)示しているように見えます。
(――前述の『さくらさくら』なんかはまさにそのパターンですよね。主として勘違いや言い損ねや聞き間違いなどで物語が回されている。ただ『さくらさくら』に関しては、作劇のパターンは一般的ながら、モノローグを語らないという、形式での絶妙な迂回があります。『WA2』とは異なる方法で、使い古されているくらいのパターンを回避しているといえるでしょう)

http://d.hatena.ne.jp/matunami/20100330/p1
こちらの方が、
キャラごとの発言、行動、その奥にある気持ちをちゃんと考えた上で、それぞれ独立した個体として他のキャラと絡ませる
と書かれていますが、まったくもってその通りだと思います。作劇の都合による発言というのが無い(というか、作劇の都合であると”感じられない”)。たとえば、雪菜のお父さんとかプレイしていてクソウザいと思ったのですが、しかしちゃんと、この人(雪菜父)なりの論理での発言だと感じられるんですね。この人はああいう人で、ああいう論理を持っていて、こちらがウザいと思えるような発言でも、この人なりには理に適っているんだろう、と理解できる。そういうのが全キャラ分あって、つまり誰も彼も、その人なりの理に適った言動をとっているように感じられるのです(※そう感じられる根拠は、一貫して「彼自身の理に従った言動」が行われているから。人物の言動が彼の性格・性質などから外れていない(むしろ厳守されている)からこそ、あらゆる言動が作劇に回収されず、キャラ個人に回収され、結果「彼らの自律性」が高まるわけです)。それは前述したように三角関係についても同じで、というか、”そういう人間だからこそ”、三角関係になったとも言えるでしょう。春希と雪菜と冬馬がこういうシチュエーションで出会えば、何回繰り返しても、こういう過程と結末に至るのではないか、だって彼らは”ああいう”人格・性格なのだから……と思えてしまう(ように描写されている)。

で、これは他のライターさんには真似できない丸戸さんの大きな特徴・利点ではあるのですが、同時に大きな欠点になる可能性も孕んでいる。なにせ、作劇の所為での言動ではなく、「春希がゆえの言動」なのだから、その責任は全て春希にかかることになるのです……!
要するに、この主人公ムカつく!ってなっちゃったら、(少なくともその点は)もうどうしようもなくなっちゃうんじゃないかなぁと思うのです。というかボクがそうでした。春希のやつに「そうじゃない、こうしろよ」「○○を言えよ」とか思っても詮無いことすぎる。だって”こいつ(=春希)ならこうする”をずっと実行され続けている”ということが分かるように作られてる”んだから……! 春希に、ああしろ、こうしろと言っても無意味を通り越して意味ないんですよね。だって春希は、ああしたりこうしたりしない、ああしたりこうしたらそれはもう春希ではない、この作中で描かれている行動をするのが春希なんだから……。
だから、途中で「決定的に合わない」となると、もうどうしようもない。たとえば、雪菜の父さんがウザいのは、作劇上の都合ではなく雪菜父がこういう人間だからというのが分かってしまうから(そう理解できるように作られているから)、そこでのウザさの責任は作劇にではなく雪菜父に向かってしまう。責任が作劇の都合ではなく、キャラクター個人に向かう。それは物語世界内レベルでは素晴らしく面白いことなのですが、物語世界外レベルでは、歯車が狂えばどうしようもなくなっちゃうことでもあったりします。格好良い人は(彼の責任において)しっかりと格好良いのだけれど、ウザい人は(彼の責任において)しっかりとウザい。

この、丸戸さんキャラクターが持つ(彼が生み出している)自律性の長所と短所、功と罪。ひるがえれば、”ムカつけるくらいキャラクターが立っている(自律している)”という点では、それだけで既に成功でありレベルが高いのは確かなのですが……。個人的にはちょっとアレだったかなーと。でも後編はすごく気になります。”この”春希のやろうがどう変わっていくのか・変わってくれるのかが……!


トラウマを「解消しない」、心の問題を「解決しない」ということの意義


さて、春希の内面。これはどう考えても「微妙におかしい」んですよね。たとえばNG恋の理くんなんかもそうで、少しおかしい(http://nasutoko.blog83.fc2.com/blog-entry-21.html)。異常な部分がある。けれど、その程度の異常さなど現代人誰もが何かしら持っているレベルだからか、作中で論点に上がることはないのです――これはもの凄く面白いし興味深い。いわゆる「主人公のトラウマ」というやつ(※ここでいうトラウマはあくまで(主人公の)精神的な問題を十把一絡げにトラウマとラベリングしてしまうのに近い「エロゲ用語的なトラウマ」でして、実際の精神分析的な意味でのトラウマとは大なり小なり異なる)を解消しない……そもそも議題(テーマ)にすら上がらない。理くんが狂ってるということに気づいた人はどれだけいるのだろうか?全然見かけないからそんなこと言ってるボクが狂ってるのかと思ってしまいますw
それはともかく、「主人公のトラウマを解消しない(そもそも議題に上がらない)」、これは非常に特徴的だと思います。まあ実際にはトラウマではなく、主人公の「狂ってる=狂気」の部分ですが、決定的に社会生活が送れないほど酷いわけではなく、また彼ら自身がそれぞれ、その異常な部分を抱えたままどう生きるかという処世術を持っている。これはわたしたちとたいして変わらないですね。これはわたしたちとたいして変わりません。大事なことなので二回言いましたが、人間というのは大なり小なり問題を抱えています。「人間には、既に精神病と認定された者か、(実は患っているのだが診断を受けていないため)まだ精神病と認定されていない者しかいない」みたいな感じの有名な言葉があるのですが(※有名なのに誰が言ったのか・詳しくはどんな文言だったのか忘れてすみません。知ってる人だれかフォロって!)、異常な部分や狂的な部分は、誰もが大なり小なり持っているわけです。その中で、”それを抱えたままでも社会生活を送っていけるように”、誰もが色々と工夫して・努力して・注意して・折り合いをつけている。理くんも春希くんも、その点においてはまったく同じで、彼らにも「おかしいところ」はあるけれど、それを病理として作中で殊更に取り上げることはなく、彼自身が抱えるものとして扱っている。そして彼らは、それを抱えた上で社会生活を送れている――どころか、大切なものを得たり、誰かを幸せにできたりしている。
まだ『WA2』は後編が出ていないので結論には早いですが、少なくとも『NG恋』なんかでは、そこはまったく取りだたされなかった。主人公のトラウマ(エロゲ的な意味で)は、議題にも上がらず、問題として前景化することもなく、彼が抱えるものとして埋もれていった。この対処はある意味では祝言でしょう。「病理は正されなくてもいい」「問題に答えを出さなくてもいい」。エロゲでは、少なくともヒロインにおいては、「トラウマは正される(べき)」というコードを多少なりとも負っている。ヒロインの問題は(主人公によって)解決され、特に心に関する問題は(主人公によって)解決される――これは葉鍵(つか鍵)以降、再帰的に強化されてきた流れと云うことができるでしょう(※だからこそ、「そうではない」タカヒロなどが新しいのであって)。それは主人公に対しても、ヒロインにおけるソレよりは弱いとはいえ存在していて、これもONE以降、たとえばメモオフやC†CやFateやキラ☆キラやそれこそ鍵作品に代表されるように、主人公のトラウマや心の問題に対して、”何らかの決着”が示されるという流れが再帰的に強化されてきた。それは換言すると、「病理は正されなくてはならない」「問題には答えが出されなくてはならない」というコードと精神の再帰的強化でもあるでしょう。だからこそ、NG恋では正されないし、答えも出ないのです。その程度の問題や病理は、誰もが抱えている程度のものではないか。ならば・だから正す必要はない、答える必然はない。主人公のトラウマ(エロゲ的な意味で)に答えを出すというのが再強化され続け、「ある種の論理的義務」と化しているからこそ、そのトラウマ的なものに答えを出さないことに意義がある。太一のように紆余曲折を経て自分を認めないといけないわけでも、朋也のように歩き続けた果てに自分を知らないといけないわけでも、鹿之助のように人生を揺るがす大問題の末に自分自身を見つけ「大丈夫に」ならないといけないワケではない。トラウマは解消されなくてもいい。心の問題に答えを出さなくてもいい。NG恋における(エロゲ的な意味での)トラウマの扱い方は、そういう解答を述べているわけです。それを抱えたままでも、社会生活を送れるようになんとか頑張っていけば、(そんな心の問題は「問題にすらならず」)、幸せになれるんだ、と―――

そして『WA2』ではどうなるのか。心の問題というものを徹底的に後景化させ続けテーマ化を拒み続けてきたここまでのテキストを見る限り、NG恋と同じ様になるのではないかと予想しますが、はたして。

そういえば春希の内面がどうおかしいのか書いていなかったので(そこ一番大事じゃん)補足しますと、というか言うまでもないかもしれませんが、基本的に奴は象徴界と想像界の住人です。何かを決め付けているというか、自分の常識が完璧に「自分の常識」なんですよね。「自分の常識が他人にも常識だと思っている」ということではなくて(ほどではなくて)。自分が「○○は××だろ」と思うことは、他人にとっても自分のそれと近いものではないかと思っているけど、確定=(その他人にとっても)常識、というほどではない、けれど自分にとっては絶対の常識である。「クラス委員ってのはそういうものだろ?」「テストの時は一ヶ月前から勉強するものだろ?」みたいな自分の常識を当たり前だと思っていて、けれどそういう「自分の常識」が、他人にとっても当たり前=常識だと”までは”思っていなくて(春希も自分の極端な部分とか変わった部分とかは幾つか自覚していますよね)、しかし、なのに、自分にとってはそれが当たり前で常識である。疑う余地もなく。自分にとっては常識でも他人にとって常識ではないそれを、そうだと知っていながらも、春希は疑っていない(し、他人にも「これが常識」と思わせようとしない)。これは別に社会生活が出来ないほど異常ではないし、他人をむやみに傷つけてしまうほど狂ってはいない――つまり、このくらいの「おかしさ」なら、人間誰だって持っていてもおかしくないレベルのものではあるのだけど(※もちろんフィクションなので強調やデフォルメがされているだろうけど)、でも、少なくとも”その程度には”、彼はおかしい。
冬馬が楽しい、可愛いという雪菜評に対して、「悪い、俺の言ってた冬馬って、ウチのクラスの冬馬かずさって子なんだ」「本当に同一人物なのか……?」と言ってしまうように、こんなに(雪菜の言葉に対する、自分がかずさに接するときは当然のように「自分」だという事実に対する)理解が及んでいない。 冬馬の家に泊まりこみでギター練習していて、熱心にやりすぎて気づかないうちに夜を明かしてしまったときに、時間を見て「俺の腕時計が狂ってる」、外に日が差してるのを見て「どうして窓の外が明るいんだ」、と素で言ってしまうように。 「ミス峰城大付属の小木曽に対して、最初から失礼な印象を持っていた」と語るように。他人の印象・風評に惑わされず、自分で見て決めるが、”自分で見て決めたソレには簡単に惑わされる”(前提として絶対であるから)。

そんな「おかしさ」は、たとえば生きていけないほど異常ではない、社会生活を送れないほど狂ってはいない。いや、そのままだと社会で生きていけないかもしれないけど、彼は作中で散々示されるように、自分を御して社会に入り込む彼なりの処世術を見に付けている。それはある意味、ボクらと同じようなもので、それさえあれば――それだけあれば、生きていくことも、どころか幸せになることだって、叶うかもしれない。


誰にでも、色んな事情がある。
家のこと、家族のこと、友達のこと……
人と比べて自分を慰めたり、余計に落ち込んだり、足掻こうとしてかえってドツボにはまってしまったり。
そんな、誰もが持ってる「自分だけの事情」って、本人的には生きるか死ぬかの問題だと思ってても、端から見ると、実は大したことなかったりして。
作中の言葉ですが(これは恋愛にもかかってる――WA2の物語(ないし彼らの恋愛)への自己言及的なものでもあるかもですが)、これが印象的でした。これは――そもそもこのモノローグ自体が、「かずさの問題」に絡めて出てきたものですが、春希に対しても同じようになるのでしょうか。

『WHITE ALBUM2』が後編において、どのような結論をここに用意するのかは分かりません。これまでのところはNG恋と同じ様に、エロゲ的なトラウマ、心の問題のようなものは埋没していますが、そこ(心)に刃を向けるのかもしれないし、あるいはNG恋のように社会や生活や幸せの後景に収め続けるのかもしれない。どのような結論が出てくるのか分かりませんが、どちらにしろ面白そうではあります。


(記事編集) http://nasutoko.blog83.fc2.com/blog-entry-90.html

2010/04/30 | Comment (0) | Trackback (0) | HOME | ↑ ページ先頭へ |

その横顔を見つめてしまう

   ↑  2010/04/30 (金)  カテゴリー: 未分類

その横顔を見つめてしまう ~A Profile~ 完全版その横顔を見つめてしまう ~A Profile~ 完全版
(2006/03/24)
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これもまた感想書いてなかったので、少し。

というか、なんという主人公……!

非常に出来が良いんですけど、尋常じゃないほど主人公にムカつきます。が、主人公がこういう奴じゃないとそもそも「このお話」が成り立たないので、そこを否定できる筈がない。

タイトルはある意味では事後、つまり作中は「その横顔を見つめて”いない”」。そんな主人公が「その横顔を見つめる」までのお話。主人公くんは、実質「自分が思っているソレ」しか見つめていないわけです。ちゃんと見ていない。たとえば、自分が知らない――知りたくない――ソイツの一面の憶測話なんかは驚異的に拒絶するし、自分が知らないソイツの一面なんかは考えもしない。もちろんライターさんは分かりきって書かれているでしょう。美桜シナリオなんかは決定的ですね。「美桜を信じる」という選択肢を選び続けるのが正解で、主人公くんも根拠を通り越して一心不乱に美桜を信じ続けているわけですが、しかしそれは、もはや美桜を信じているんじゃなくて、「自分の中の美桜」を信じているだけじゃねーか、と。しかしその横顔をやがて見つめる立場の主人公くんに出来る最大限のことがそれなのだろう、と折り合いつけざるをえません。
自分の中だけで常に終わっている。彼女たちが「いつもと違う一面」を見せると、主人公くんが「こいつは誰なんだ」と言ってしまうほど。驚異的に見ていない。自分の中の”彼女”しか見ていない。横顔も何顔もまったく見ていない。そんな彼にヒロインたちが「私を見て」と訴えかけて、そして彼もその横顔を見つめる―――とかそんな感じ。

元は同人ゲームですが、そういう瑕疵を消し去った上で良い出来のお話を作れた後の「G線」とかと比べると、これはこれでやっぱり同人っぽいのかもしれません。

(記事編集) http://nasutoko.blog83.fc2.com/blog-entry-89.html

2010/04/30 | Comment (0) | Trackback (0) | HOME | ↑ ページ先頭へ |

アンバークォーツ

   ↑  2010/04/29 (木)  カテゴリー: 未分類

アンバークォーツ 初回版アンバークォーツ 初回版
(2009/01/23)
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感想書いてなかったので、軽く。

「尿」です。

以上です。

尿!尿! 以上です。


しかしプレイから時間がたった今の自分の記憶に一番残っているのが「尿」とはナニゴト……。以下ネタバレですが、

お話は、「象徴的な借りは必ず返さなくてはならない」とでも言った感じで。7年前の記憶にフタをする、7年前の自分を切り離す、そうやって生きてきたけれど、そうやって”生き続けることはできない”―――少なくとも、それを見据えなくては、前に進むことはできない。
しかしまあ、隠喩でも比喩でも精神世界でもなく、「本当に7年前の自分が(今の自分とは別の存在として)現実世界に出現して今の自分とバトルする」、というのがこのゲームのスタンスであり、センスでもあるのでしょう、良くも悪くも。それに代表されるように、ある意味真っ直ぐというか、直接的なんですね。たとえば、通常エロシーンにおけるエロ表現(フェチ描写)の一つでしかない「尿」だって、キャラクターの性格・アイデンティティー的なものに多少なりとも絡ませて描いている。KOTYエロゲ版で多少話題になった、あの謎センスとかもそうですね。良くも悪くも衒いがない。バトルものなのに、中二臭がまったくしないことなんかも、その辺に当てはまるでしょう。衒いがない・虚飾が無い(あるいは真っ直ぐなソレしかない)ぶん等身大だから、中二臭がしない。
この辺のストレートっぷり。これは評価が分かれるところかもしれませんが、奇を衒ってない分一本調子ではあるんだけど、逆に一点集中による「過剰」が生み出されてもいるでしょう。本来エロシーンにおいて、過剰が故にフェティズムに回収されるべき「尿」が、キャラクターに回収されている=つまり過剰ではない、なんかは象徴的でして、逆に「尿」を作品内に回収しきってしまうという過剰が存在している。ただし、回収先は全て「作品そのもの」に向かっています。だからまあ、これほどエロいのに魅力のない尿というのも珍しい話であって。この辺は面白いのですが、しかしそういったゲームなので、合う人にはすごく合うけど、合わない人には全然合わないんじゃないかなーとも思えたりします。

(記事編集) http://nasutoko.blog83.fc2.com/blog-entry-88.html

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月は東に日は西に――カラの玉座に王は立つ(その1)

   ↑  2010/03/26 (金)  カテゴリー: 未分類

月は東に日は西に ~Operation Sanctuary~ 通常版月は東に日は西に ~Operation Sanctuary~ 通常版
(2003/09/26)
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『月は東に日は西に』、ちょっと前にクリアー。オーガストのゲームをやるのは初めてだったんですが、たしかにこれは人気が出るのも頷ける良さでした。

「月は東に日は西に」というのは、字面どおりに読めば「夕暮れ」ですね。その「夕暮れ」に対し、直截的に言及している数少ない(唯一かも)本編でのセリフ。
美琴 「わたしがいた世界では、夕暮れは怖いものだったの」
直樹 「怖い?」
美琴 「次々と人が死んでいくのを、毎日見ていると……」
美琴 「わたしは、また明日太陽が見られるのかなって不安になってたっけ」
美琴 「……これが、太陽も見納めなんじゃないかって」
暗いことや悲しいこと、不安なことも、「Operation Sanctuary」――それぞれの聖域を見つけていくことで、変わっていく。そんな感じで非常に良く出来ていましたね。どのお話も、永遠の別れ(になるかも)という障壁がラストに入っていて、しかしそれに立ち向かい乗り越えるという作戦を経て、その聖域に至る――そもそも、そこに向き合う強さを持てるイマそのものが、既に、聖域である。

とかなんとか。いやすみません、久しぶりにブログ書くので文章全然書けない。

今作の共通パートはちょっと特徴的でして(といっても、2010年の今から見たらそう思える、なのかもしれませんが)。非常に場面移動・場所移動が多くて、しかも速いんですね。そしてそれに伴う選択肢も非常に多い(個別ルートに入るまでに50回くらいは選択肢があるのではないでしょうか)。つまり、「どこへ行く?」などを選択肢で選ばされて、その先には誰かしらのヒロインが居て、そこでちょっと会話を交わした後にはまたすぐ教室なりの他の場所に移り、そしてまた選択肢により場面が変わっていったりする。ここで重要なのは、その「多さ」と、1シークエンスの(時間の)「速さ」、そして言い方は悪いですが、「中身の非重要性」です。
まずは選択肢の多さと、それに伴う――いや、選択肢関係なしにもばんばん起こるのですが――場所と場面の移動。まさに「東奔西走」というキャッチフレーズどおりというか、とにかくあっちこっちに”忙しなく”動き回ります。自分のクラス、カフェテリア、園芸部、保健室、料理部、お昼はさらに屋上なんかも。で、それに対応して各ヒロインが居るわけですねー……ついで重要なのは、決して各ヒロインが単体(ひとり)とは限らないということ。カフェテリアに向かえば、茉莉が居ることが多いのは当たり前ですけど、しかし天文部関係もカフェテリアがメインだし、ちひろや唯先生や恭子先生なんかもそれなりの頻度で登場する。そしてそれが、ひとりではなく複数――つまり、茉莉とちひろ、美琴と保奈美、など複数人がそこに居たり現われたりするということ。一人しかいない場合と複数人絡む場合、割合的には五分五分に近いのではないでしょうか。それらが、選択肢無しでも起こりますが、主に選択肢アリで、主人公がそこに導かれたり(=プレイヤーが主人公をそこに導いたり)します。
で、それらのシークエンス自体は、基本的にコンパクトに纏められています。つまり「速い」ということ。数クリックで終わるってほど速いわけではありませんが、起承転結付けた話が毎回展開されるほどに長いわけではない(勿論そういうのもありますが)。基本的には、次から次へと場所を選んで(=場面を選んで)、そこでヒロインたちをちょっと見て会話して、また次の場所(場面)を選んで……という流れ。
そこで展開される話は、感動でも小話でもなく、また最初の方を抜かすと、後半までは伏線らしい伏線が殆どなく(※ネタを知らなきゃ(最初のプレイでは)気づかないくらいの薄い伏線)、つまり言葉悪いですが中身が無いくらいの、物語においてそこまで重要ではなく、ただヒロインたちと(ヒロインたちが)お喋りするだけのような、そんな中身。よくオーガストのお話に対して「眠くなる」「睡眠導入」とか云われてますが、ぶっちゃけ、物語・あらすじを見るためなら飛ばしても十分なくらいのシークエンスが多いんですね。だけど、飛ばす気になれない。そこが凄いのですが、それはまたおいおいに回すとして。

で、これって実は『To Heart』(初代)と似てると思いました。場所を選ばせる選択肢が、ゲーム内日付において毎日のように現われて(To Heartではマップ形式でしたが)、そこには対応するヒロインがいて、そこで話が展開されるけど、そこでの話の内容自体は重要ではない、重要なモノではない。むしろ重要なのはその存在である。
――あと、これは唐突ですけど、『あずまんが大王』って『To Heart』に似てませんか?
高橋:そうですね。方法論は似ていると思います。四コマってシチュエーションだけを描いているわけですよね。『To Heart』は基本的にシチュエーションの連続ですから。だから『To Heart』をやるにあたっては四コマが一番良かったと思います。アンソロジーの四コマはどれも良い感じですし。『あずまんが大王』はちょっと悔しい(笑)。あれは『To Heart』でやりたかったことでもありますから。
――『To Heart』の最良の部分はこれなのかと。
高橋:四コマが一番『To Heart』を表現しやすかったと思います。
――コンパクトに表現できているからですか?
高橋:スパッと読めるのが良いんです。『To Heart』なんて本来後を引きずるようなものじゃないんですよ。四コマくらいで、その瞬間がおもしろいものを目指していたわけですから。『To Heart』本編中のどこから読んでもおもしろい、それだけのものでしかないです。あとはキャラクターで突っ走った。まさに『あずまんが』と同じだと思いますけど。
http://www.tinami.com/x/interview/04/page6.html
『To Heart』に対して、作者さん自身が「四コママンガ的だ」と仰っておられましたが、『はにはに』の共通パートも、形は違えどまさにそのような感じ。「四コママンガ」と同じ様に、四コマで一区切りが(とりあえず)付くようなショートエピソード――いや、四コママンガと同じく、エピソードというほど物語的ではなく、引用文でも仰ってるような「シチュエーションの連続」的であって、それが大量に存在している。それへのアクセスは選択肢による移動であり、つまり場所―時間(シチュエーション=出来事)がそれにより区切られ、ゆるい署名が為されている。そのシークエンスの中身自体も、四コママンガと同じく、大半が物語的にさほど重要ではないものばかり――たとえば1個2個飛ばしてしまっても(選択肢選び損なっても)、まるで問題なく物語を理解できる。

つまり、これはこれで『To Heart』の正当後継だな、とか思うワケです。物語的重要性をさほど帯びないシークエンスを、選択制にして大量に用意し、それを参照しながら進んでいく――個別ルートへと入っていく。そして四コママンガと同じく、『To Heart』と同じく、その”物語的に重要ではない”大量のシークエンスこそが「面白い」というカタチ。なぜそれが「面白くなるのか」というと、上述の引用文でも示されているように、
 四コマくらいで、その瞬間がおもしろいものを目指していたわけですから。『To Heart』本編中のどこから読んでもおもしろい、それだけのものでしかないです。あとはキャラクターで突っ走った
キャラクターが非常に良いから。らき☆すただってけいおんだってひだまりスケッチだってそうであり、To Heartだって(はにはにと近い時期に発売されてTo Heartの形式を踏襲している)ダ・カーポだってそうである。

『はにはに』に関しては、作り手が各ヒロインの魅力をホントによく分かっているなぁという感触を受けました。だからこそ突っ走れるほどの魅力をキャラクターに与えきれたのではないだろうか。感触なんで、なんとも書きづらいのですが、だいたいどのヒロインも、最後まで初期(※最初にあらず)の印象どおりなんですね。もちろん多少のプラスアルファ・マイナスアルファは施されるし、出自とか秘めた想いみたいなのも明かされるのだけれど、そのことにより印象が決定的には変わらない。彼女たちの出自が明らかになれば、たとえば美琴の明るさに、彼女が以前に居たところでの暗さの翳を読むことができるし、たとえばちひろの消極性に、彼女が「そうなってしまった」ほどのこれまでの経験の重みを読み取ること・感じ取ることもできるけれども、そこに魅力の軸足は置かれない。……と書いてみたんですが、この辺はすげー個人差ありそうなんで何とも言えないぽいっすね。

そのようなヒロインたちを、先にも書いたように、ひとつのシークエンスに「複数人」で存在させている。ある場所に行ったらあるヒロイン”だけが”いる、というワケではなく、誰々と誰々、さらに他の誰々、といったように複数人いる(※もちろん必ずしもそうではないけど)。ヒロイン同士の関係性が存在していて、それがちゃんと踏まえられていて(※みんながみんな仲の良い友達というワケではなく、ただのクラスメイトレベルとか、知り合いレベルの関係(もちろん可変)、そんな関係性をきちんと踏まえている)、しかもちゃんと描かれている。この辺は他の『To Heart』踏襲ゲーとは少し一線を画すのではないでしょうか。こうして複数人存在させることによって、世界やネタの広がりもさることながら、彼女たちそれぞれの差異が露になり、しかも魅力が十全に描かれているわけですから、それがより強調されるわけです。プレイヤーの視線が彼女らを相対化することによって。だからキャラクターで突っ走れる。

エロゲにおける「日常」というのは、それこそ「To Heart=四コママンガ」よろしくに、ある意味日常系四コママンガにおける「日常」と相同的でないかと思うのですが、『はにはに』の共通パートはこの流れが上手く踏まえられてるのではないでしょうか。ひとつひとつのエピソードにおいては、僅かな例外を伴いつつも、ほとんどの場合において、物語重要性をあまり持たない。(物語的には)1エピソード飛ばしても問題ないし、連載1回分飛ばしても問題ない場合が多いし、あろうことか単行本を1巻読まずに2巻から読み始めても物によっては結構大丈夫だったりする。対し『はにはに』も――『To Heart』に対し高橋龍也さん自身が仰ってるのと同じく――本編中のどこから読んでも面白い、その瞬間が面白いものである、シチュエーションの連続である。たとえば本編に日付表示とかあるけど、これほとんど意味を持ってないんですよね。特定時期の定期イベント(体育祭とか)除くと――それだって細かい日付は恣意的なんだけど――何日だろうと同じじゃん、だってシークエンス自体が「今日が何日だろうと変わりないから」、という。最初期と個別と一部のシークエンスを除けば、シークエンス群はそれまでを無理に踏まえていない。もちろん、そうではない(前々に立てたフラグが重大に作用する)シークエンスもあり、そしてこの形式だからこそ、それがより際立つのですが、しかし基本的には交換可能性が高いシークエンスで出来ている(※その基本をぶち壊すからこそ、”そうではない”(=個別に向かう=恋愛的な)エピソードは、非日常性を帯び強度を持つ)。基本的には、時間・場所に強く、人物・シチュエーション・出来事に弱く、交換可能性がある。それは逆に言えば、どこから読んでも面白い・その瞬間が面白いということです。だから、ぶっちゃけ物語的にはスキップ使っても何も問題ないような話が延々と続くけれども、僕としてはとてもスキップする気にはなれなかったのです。その原動力はシチュエーション自体、またそれの連鎖に牽引されつつ、最大のものとしては当然キャラクターとなるワケです。そこが優れていれば、もはや言う事もないくらい、完璧。

(……で、こうやって書いてたら、『To Heart』系として今最も進化してるのは『シュガスパ』だよな、つうか『シュガスパ』ってそういうゲームとして読めるんだな、ってことに気づいたのですがー(※「”ここでいう”四コママンガ的」という観点からすると)。それはまた別のお話、別の進化ということで、とりあえず他のオーガスト作品も幾つか買ってあるので、のちほどプレイして、また続きを(話を広げられたらw)、ということで)

(記事編集) http://nasutoko.blog83.fc2.com/blog-entry-87.html

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